魔法科世界の術式蒐集者   作:パラレル・ゲーマー

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第7話 剣道部の呼び出しと、有志同盟の影

 一高の空気が、ここ数日で明確に変わり始めている。

 

 朝の通学路、あるいは休み時間の廊下を歩いているだけで、周囲からひそひそと交わされる微細なノイズが、僕の鼓膜を絶えず刺激していた。

 

「ねえ、聞いた? あの1年の二科生、本当に風紀委員の腕章をつけてるらしいわよ」

 

「服部副会長との模擬戦で勝ったって噂、本当なのか?」

 

「いくらなんでもあり得ないだろ。ウィードが一科生のトップ層に勝つなんて。何か裏があるんじゃないのか?」

 

「でも、剣術部の桐原先輩の魔法も無力化したって話だぜ……」

 

 一科生たちの間には、戸惑いと、自分たちの特権的な地位を揺るがされかねないという不快感、そして得体の知れない存在に対する警戒心が蔓延していた。

 

 一方で、僕たちと同じ二科生たちの間では、全く別の感情が渦巻いている。

 

「二科生でも、風紀委員になれるんだな」

 

「司波って、一体何者なんだ? 実技試験じゃ目立たなかったって聞いたけど」

 

「一科生を圧倒したってのが本当なら、痛快だよな」

 

 驚愕、称賛、そして、自分たちが虐げられている現状を打破してくれるかもしれないという、淡く無責任な期待。

 

 僕は教室の自分の席に座りながら、そんな周囲の反応を内心で冷静に分析していた。

 

 お兄様の知名度が、極めて順調に、いや想定以上の速度で鰻登りになっている。

 

 それはつまり、この第一高校という舞台において、彼を中心とした『原作イベントの磁場』が急激に強まっていることを意味していた。

 

 主人公が注目を集めれば集めるほど、必然的にトラブルが舞い込み、物語は加速する。

 

 それに伴って、魔法的な衝突が起きる頻度も増えるだろう。

 

 僕の《万象術式目録》にとっては、魔法式の収穫効率が飛躍的に上がる最高のボーナスタイムの到来だ。

 

 だが、同時に危険度も指数関数的に跳ね上がる。

 

 風紀委員の周囲はただでさえ弾着観測地域のようなものなのに、これだけヘイトと期待を集めてしまえば、どんな火の粉が飛んでくるか分かったものではない。

 

 友人枠、そして観測者枠。

 

 安全圏から美味しいところだけをいただくつもりだった僕のポジションは、思った以上に命懸けの危険職になりつつあるのではないか。

 

 そんなことを考えていた朝のホームルーム前。

 

 登校してきた達也が自分の席に鞄を置こうとした時、僕は彼の机の上に、見慣れない一枚のメモ用紙が置かれているのに気づいた。

 

 達也は表情を一切変えることなく、その二つ折りになったメモを手に取り、開いた。

 

 僕の位置からはその文面がはっきりと見えた。

 

『風紀委員ごっこは楽しいか? ウィードの分際で調子に乗るな。一科生の前に立つ資格はお前にはない』

 

 典型的な、そして反吐が出るほど陳腐な嫌がらせのメッセージだった。

 

 文字は手書きではなく、わざわざ端末のプリンターで出力された無機質なフォントだ。

 

 筆跡から足がつくのを恐れたのだろう。

 

 陰湿極まりない。

 

 達也は、メモの内容を読み取った後も、眉一つ動かさなかった。

 

 彼にとって、このような安い挑発は、路傍の石ころ以下の価値しかないのだろう。

 

 感情を動かすリソースすらもったいないとばかりに、メモを無造作に丸めようとした。

 

 だが、周囲の反応は違った。

 

「……おい、なんだよこれ」

 

 隣の席のレオが、丸められる前の文面を運悪く目ざとく見つけ、低く唸るような声を上げた。

 

 彼の太い腕の筋肉が、怒りでピクリと跳ねる。

 

「正面から文句を言う度胸もねえくせに、コソコソとこんな陰湿な真似しやがって。どこのどいつだ、こんなふざけたもん置いたのは!」

 

 レオが教室全体を睨みつけるように声を荒らげると、周囲の生徒たちがビクッと肩を揺らした。

 

「レオ、落ち着きなさいよ。こんなの、相手にするだけ時間の無駄よ」

 

 エリカが腕を組み、冷ややかな視線をメモに向けながら吐き捨てる。

 

「大方、風紀委員の腕章をもらえなかった一科生の僻みか、達也くんの活躍が気に入らない取り巻きの仕業でしょうね。本当に、こういうことだけは知恵が回るんだから」

 

 エリカの言葉には、強い不快感が滲み出ていた。

 

 そして、最も恐ろしい反応を示したのは、当然ながら深雪だった。

 

「…………」

 

 彼女の顔には、いつものような完璧で淑女的な微笑みが張り付いていた。

 

 だが、その笑顔のまま、彼女の周囲の空間から急激に『熱』が奪われていくのを、僕は肌で感じ取った。

 

 比喩ではない。

 

 物理的な温度低下だ。

 

 彼女の内奥で渦巻く、兄を愚弄されたことに対する絶対零度の怒りが、無意識のうちに強力な冷却魔法の事象改変を引き起こしかけているのだ。

 

 さらに、僕の隣にいる美月が、顔面を蒼白にして小さく震え始めた。

 

 霊子放射光過敏症である彼女の『水晶眼』には、深雪から漏れ出すどす黒く冷たいプシオン(霊子)の奔流が、直視に堪えないほどの眩しさと圧力を持って映っているに違いない。

 

 深雪さん、ストップ。

 

 ストップ・ザ・フリーズ。

 

 僕は内心で必死に叫んだ。

 

 そのメモは、あなたが手を下して燃やすか凍らせるかする価値すらない、ただの紙屑だ。

 

 ここであなたがキレて教室を氷河期に沈めたら、お兄様の立場が余計に面倒なことになる。

 

 でも、その怒る気持ちは、痛いほどよく分かった。

 

 なぜなら、僕自身の中にも、明確な『腹立たしさ』が湧き上がっていたからだ。

 

 僕は司波達也という存在を、この世界における最高級の魔法式教材として、そして人型理不尽のバグキャラとして深く尊敬している。

 

 だが、数日間同じ時間を過ごし、言葉を交わしてきた今、それ以前の感情が僕の中に芽生え始めているのを自覚していた。

 

 彼は、僕の友人だ。

 

 自称「友人枠」から始まった関係とはいえ、彼は僕の変な言葉遊びに付き合い、忠告を与えてくれる。

 

 友人が、顔の見えない卑怯者から陰湿な嫌がらせを受けている。

 

 それは、純粋に、そして強烈に『不快』だった。

 

 僕は無言のまま席を立ち、達也の手から丸められかけていたメモをすっと抜き取った。

 

 僕の思考が、無意識に最も効率的な『処分方法』を構築し始める。

 

 いける。

 

 僕のライブラリにある『表面制御』で紙の摩擦を極限まで高め、『微細振動』で分子結合を緩ませたところに、『燃焼補助』の変数を極小出力で叩き込む。

 

 そうすれば、炎を上げることも煙を出すこともなく、この忌まわしい紙切れを一瞬にして炭の粉末に還元し、さらに『空気振動制御』で吹き飛ばして、この世から完全に存在を抹消できる。

 

 服部副会長から観測した制圧用の変数を応用すれば、紙の繊維一本すら残さない完全消去が可能だ。

 

 CADに手を伸ばしかけ──僕はギリギリのところで理性のブレーキを踏み抜いた。

 

 駄目だ。

 

 危ない。

 

 危なすぎる。

 

 昨日、あれほど「新しい魔法式の即時応用はしない」「お兄様の前では自重する」と固く誓ったばかりではないか。

 

 ここで僕が、謎の超絶技巧を駆使してメモを灰燼に帰してみせたら、達也の疑惑は確信に変わり、僕は放課後に第3の演習室に連行されて尋問を受ける羽目になる。

 

 僕は大きく深呼吸をして、CADから手を離した。

 

 そして、その丸めたメモ用紙を、ごく普通に、一切の魔法を使うことなく、教室の隅にあるゴミ箱に向かって放り投げた。

 

 ポイッ、という間の抜けた音を立てて、紙屑はゴミ箱の底に収まった。

 

 よし。

 

 普通に捨てた。

 

 物理的な腕力のみを使用した、完全なるアナログ処理。

 

 これが最も安全で、最も平和的な魔法である。

 

 我慢できた。

 

 偉いぞ僕。

 

 今日は絶対に、魔法を使わない無害な生徒として生き抜いてみせる。

 

「……何をしているんだ、水瀬」

 

 達也が、少しだけ不思議そうな目で僕を見ていた。

 

「ゴミの分別と処分だよ。教室の美化は生徒の義務だからね」

 

「俺が捨てるつもりだったんだが」

 

「司波くんがわざわざ手を煩わせるような代物じゃない。あんなものに触れたら、君の洗練されたサイオンが穢れる気がしてね」

 

 僕が真顔で答えると、達也は短く息を吐いた。

 

「……水瀬。お前、本当にあのメモの内容を気にしていないのか?」

 

「司波くんこそ。本当に何も感じていないの?」

 

 僕が問い返すと、達也は凪いだ瞳のまま答えた。

 

「気にする理由が、論理的に存在しない。相手の素性も分からない匿名の紙切れ一枚で、俺の任務や生活に実害が生じるわけではないからな」

 

「君のそういう、徹底的に感情を排した合理的なところは素晴らしいと思うよ。でもね」

 

 僕は、彼の目を見つめ返して言った。

 

「そういう反応は、本人にとっては最適解でも、周囲で見ている人間の胃には著しく悪いんだよ」

 

「……俺が気にしていないのだから、水瀬が気にする必要はないだろう」

 

「僕は友人枠だからね。友人の机にゴミが置かれていたら、多少は気にして不快になる権利があるはずだ」

 

 僕の言葉に、達也の目がわずかに見開かれた。

 

 ほんのコンマ数秒の反応。

 

 だが、彼が僕を単なる「魔法式に執着する奇人」から、「友人として自分を気遣う一人の人間」として再評価した瞬間だったように思えた。

 

「……そうか。なら、その権利の行使は自由だが、余計な行動は起こすなよ。事態を複雑にしたくはない」

 

「善処するよ」

 

「君のその返事は、これまでの統計上、著しく信用しづらい」

 

「ひどい言われようだ。僕はいつだって安全第一で動いているのに」

 

 僕が肩をすくめると、横で聞いていたエリカが呆れ顔で突っ込んできた。

 

「安全第一の人間は、昨日あんなタイミングでポスター台を魔法で止めたりしないわよ。自覚がないのが一番タチ悪いのよね」

 

 エリカの言う通りかもしれないと内心で反省しつつ、僕は席に戻った。

 

 深雪の放っていた冷気も、僕がメモを物理的に処理したことで毒気を抜かれたのか、いつの間にか収まっていた。

 

 美月もホッと胸を撫で下ろしている。

 

 とりあえず、朝の小さな火種は消し止めることができた。

 

 だが、本当の火種は、昼休みにやってきた。

 

 昼休みのチャイムが鳴り、生徒たちが昼食のために移動を始めようとした時。

 

 1年E組の教室の入り口に、一人の女子生徒が姿を現した。

 

「失礼します」

 

 凛とした、よく通る声。

 

 そこに立っていたのは、長い髪を後ろで束ねた上級生、壬生紗耶香だった。

 

 彼女は少しだけ緊張した面持ちで教室を見回し、やがて達也の姿を見つけると、真っ直ぐに歩み寄ってきた。

 

「司波達也さん。突然申し訳ありません。少し、お時間をいただけませんか?」

 

 教室がにわかにざわめいた。

 

 上級生、しかも美人として名の知れた剣道部の壬生紗耶香が、1年の二科生である達也を直接訪ねてきたのだ。

 

 周囲の生徒たちが、好奇の目を向けるのも無理はない。

 

 僕は自分の席で、内心の警報を鳴らしていた。

 

 来た。

 

 壬生紗耶香の呼び出しイベント。

 

 原作の流れが、また一段、確実に進もうとしている。

 

 彼女が達也に接触したということは、あの忌まわしい『有志同盟』、そしてその裏に潜む組織の影が、いよいよ一高の表面に滲み出してきたということだ。

 

 達也は立ち上がり、丁寧に応じた。

 

「構いませんが、どこか場所を変えますか?」

 

「はい。ここでは少し、お話ししづらいので……」

 

 壬生先輩がそう言って踵を返そうとした時、彼女の視線が、達也の少し後ろに座っていた僕に向けられた。

 

「あ……あの、水瀬さんも」

 

「……はい?」

 

 突然名前を呼ばれ、僕は素で間の抜けた声を出してしまった。

 

「水瀬さんも……もしよければ、少しだけ、ご一緒していただけませんか?」

 

 壬生先輩の言葉に、今度は僕の脳内が完全にフリーズした。

 

 え。

 

 僕も? 

 

 なんで? 

 

 原作にない同席イベント発生!? 

 

 危険だ。

 

 これは著しく危険な兆候だ。

 

 主要キャラクターの密談に、ただのモブである僕が巻き込まれるなど、生存戦略の観点から言えば最悪の手だ。

 

 だが、理由はすぐに思い当たった。

 

 昨日の放課後だ。

 

 僕が彼女の剣道部の演武を見て、「姿勢制御が美しい」「崩れないための良い魔法式だ」と褒めたこと。

 

 あの時の僕の言葉が、彼女の中に、僕に対する奇妙な好印象と信頼感のようなものを残してしまったのだ。

 

 戸惑う僕を見て、達也が視線を向けてきた。

 

「どうする、水瀬」

 

「……」

 

 僕は脳内で猛烈な速度でシミュレーションを回した。

 

 ここで断れば、不自然だ。

 

 壬生先輩から直接頼まれているのに、わざわざ拒否する理由がない。

 

 それに、正直に言うと……これから彼女が達也に何を語るのか、その肉声を聞いておきたいという強烈な好奇心があった。

 

 原作のテキストではなく、今、この世界で生きている彼女が、どんな感情を抱えて動いているのかを、観測者として見届けたかった。

 

「……僕で邪魔にならないのであれば、同席します」

 

 僕が立ち上がると、達也は特に拒否することもなく、ただ短く頷いた。

 

 僕たちは壬生先輩の案内に従い、教室を出て移動した。

 

 連れてこられたのは、校舎裏を少し歩いた先にある、剣道部の練習場の裏手だった。

 

 昼休みということもあり、人通りは全くない。

 

 遠くから、部員たちが自主練をしているのか、竹刀の打ち合う乾いた音が微かに聞こえてくる。

 

 彼女の所属する場所の近く。

 

 無意識のうちに、ホームグラウンドの空気が残る場所を選んだのだろう。

 

 壬生先輩が立ち止まり、達也と向かい合う。

 

 僕は、二人の会話の邪魔にならないよう、数メートル離れた壁際に背中を預けて立った。

 

「……水瀬、お前はなぜそんなに離れるんだ」

 

「僕は壁だからね。今は空気であり、ここが剣道場の近くだから、立てかけられた竹刀くらいの気持ちでいるよ」

 

「全く意味が分からないが……まあ、好きにしろ」

 

 達也が呆れたように言い捨てた後、壬生先輩が口を開いた。

 

「司波さん。昨日は、剣術部との揉め事を止めていただいて、本当にありがとうございました」

 

 まずは、昨日の礼からだった。

 

 彼女の態度は真摯で、深く頭を下げる。

 

「仕事をしたまでです。気になさらないでください」

 

「……それでも、感謝しています。それで、今日お呼びしたのは……」

 

 壬生先輩は一度言葉を切り、真っ直ぐに達也の目を見た。

 

「司波さん。もしよければ、私たちの剣道部に入部しませんか?」

 

 勧誘だった。

 

 これも原作通りの流れだ。

 

 彼女は、達也の実力と、昨日の出来事で二科生である彼が一科生を圧倒した姿に、強烈な希望を見出したのだ。

 

 しかし、達也の返答は、予想通り極めて淡白なものだった。

 

「申し訳ありませんが、そのお誘いはお受けできません」

 

「……理由は、お聞きしても?」

 

「風紀委員としての職務がありますし、そもそも、俺は部活動というものに時間を割く予定がありません。剣道そのものへの興味も薄いので」

 

 一切の感情を交えず、ただ合理的な事実だけを並べた断りの言葉。

 

 壬生先輩の顔に、わずかな落胆の色が浮かんだ。

 

 彼女もある程度は予想していたのだろうが、それでも直接断られたショックは隠しきれないようだった。

 

 まあ、そうなるよね。

 

 僕は壁に寄りかかりながら内心で頷いた。

 

 お兄様が剣道部に入って青春の汗を流し始めたら、原作のストーリーラインどころか、校内のパワーバランスが物理的・魔法的に完全に崩壊してしまう。

 

 そもそも、この人はそういう熱血スポーツ的なコミュニティに属するメンタリティを持ち合わせていない。

 

「……そうですか。無理を言って申し訳ありません」

 

 壬生先輩は小さく息を吐き、少し俯いた。

 

 だが、彼女が今日達也を呼び出した『本題』は、勧誘を断られたここからだった。

 

「司波さんは……この第一高校の現状を、どう思われますか?」

 

「現状、ですか」

 

「はい。一科生と二科生の、あまりにも不平等な扱いの違いについてです」

 

 壬生先輩の声に、静かだが確かな『熱』が混じり始めた。

 

「剣術部のように、一科生が中心の部は、生徒会からも予算の面でも優遇されています。一方で、私たち剣道部は二科生にも広く門戸を開いているがゆえに、実戦的ではない、古臭いと見下されている。昨日の桐原くんのような生徒が、ただ魔法を少し上手く扱えるという事実だけで、私たちを公然と馬鹿にする」

 

 彼女の言葉には、日々の部活動や学園生活の中で積み重なってきた、澱のような不満と怒りが込められていた。

 

「私たちは、同じ学校の生徒です。なのに、エンブレムの有無だけで、人格まで否定されるような空気が蔓延している。……私は、それが悔しいんです」

 

 壬生先輩は、達也に向かって一歩踏み出した。

 

「昨日、あなたが風紀委員として一科生を止めたのを見て、私は希望を感じました。二科生であっても、一科生に対抗できる力がある。この理不尽な現状を変えられるかもしれないと」

 

「……俺はただ、校則違反を処理しただけです。現状を変える意図などありません」

 

「それでも! あなたのような人が声を上げれば、何かが変わるかもしれないんです」

 

 彼女の瞳が、悲痛なほどの真剣さで達也を射抜く。

 

「この学校には、現状の差別を変えようと本気で行動している人たちがいます。一科生と二科生の壁をなくし、本当の意味での平等を勝ち取ろうとしている人たちが」

 

「……」

 

「『有志同盟』という集まりです。司波さん、あなたにも、私たちの活動に賛同していただきたいんです」

 

 有志同盟。

 

 その名前が出た瞬間、僕の心臓が警鐘を打ち鳴らした。

 

 来た。

 

 有志同盟。

 

 そして、その裏で糸を引く反魔法主義組織『ブランシュ』。

 

 ここから先は、ただの高校生による学内不満のガス抜きでは済まなくなる。

 

 大人が、それもテロリストの手先が、生徒たちの純粋な怒りを利用して、この学校を内側から崩壊させようとする陰謀の領域だ。

 

 僕は黙って壁に寄りかかったまま、壬生先輩の立ち姿を観察した。

 

 昨日の演武で見た彼女の剣道。

 

 あの時の彼女の『姿勢制御』の魔法式は、美しく、一点の曇りもなく安定していた。

 

 だが、今はどうだろう。

 

 彼女の物理的な立ち姿は背筋が伸びて綺麗だが、僕の目には、彼女の身体を覆うプシオン(霊子)の波長が、わずかに、しかし確実に揺らいでいるのが見えた。

 

 魔法式が揺れているのではない。

 

 彼女の心の軸が、激しい怒りと、何かにすがりたいという焦燥感によって、危険な方向へと傾いているのだ。

 

 達也は、壬生先輩の熱のこもった主張に対しても、全く表情を崩さなかった。

 

「……現状のシステムに不満があることは理解しました。ですが、先輩たちは、具体的に何を変えたいのですか?」

 

「え……?」

 

「一科生と二科生の区別をなくすと言いますが、それはどういう状態を指すのですか? 現実問題として、実技の指導を行える教師の数には限りがある。魔法技能に差がある以上、カリキュラムを完全に統一することは不可能です。感情論で『平等』を叫んでも、学校という組織の制度は動かせません」

 

 冷徹なまでに合理的な指摘。

 

 正論という名の刃で、壬生先輩の感情的な主張を切り捨てていく。

 

 壬生先輩は、痛いところを突かれたように言葉を詰まらせた。

 

「それは……これから、皆で話し合って、具体的な要求を学校側に……」

 

「要求をまとめる前に行動を起こせば、それはただの暴動と見なされます。俺は、そのような無計画な活動に賛同するつもりはありません」

 

 達也はきっぱりと言い切った。

 

 彼の役割はこれだ。

 

 原作通り、情に流されず、事態の本質を的確に突くこと。

 

 ここまではいい。

 

 お兄様のターンは終わった。

 

 だが、僕はどうしても、このまま黙って見過ごすことができなかった。

 

 心が揺れ、純粋な怒りを利用されようとしている壬生先輩を、ただの観測対象として見捨ててしまうのは、僕の人間性が許さなかったのだ。

 

「……壬生先輩の怒りは、痛いほどよく分かります」

 

 静寂に包まれた空間に、僕の声が響いた。

 

 壬生先輩が、ハッとしてこちらを振り向く。

 

 達也も、わずかに目を細めて僕を見た。

 

「実際、この学校の空気はかなり歪んでいると僕も思います。能力の差でクラスが分かれるのは仕方ないにしても、二科生だからといって、人格まで下に見られたり、蔑称で呼ばれたりする謂れはない。理不尽に対する怒りは、極めて真っ当な感情です」

 

 僕が静かに語りかけると、壬生先輩の強張っていた表情が、わずかに和らいだ。

 

「水瀬さん……」

 

「でもね、先輩」

 

 僕は壁から背中を離し、ゆっくりと彼女に近づいた。

 

「怒りそのものが正しいことと、その怒りを向ける先が正しいことは、全く別の問題なんです」

 

「……どういうことですか?」

 

「先輩たちが所属している『有志同盟』。その人たちは、本当に先輩たち生徒自身の利益だけを考えて動いているんでしょうか」

 

 僕の言葉に、壬生先輩が息を呑む。

 

「何を変えたいのか。誰がその変革の『道筋』を用意しているのか。その根本的な部分が曖昧なままだと、純粋で正しい怒りほど、裏で糸を引く悪意ある誰かに簡単に『利用』されます。正義感に駆られている時ほど、足元の落とし穴には気づきにくいものです」

 

 言ってしまった。

 

 原作知識があるからこその、少し先を見越しすぎた忠告。

 

 しまった、やりすぎたかもしれない。

 

 ただの二科生が口にするには、あまりにも政治的で、裏の事情を察しすぎた台詞だ。

 

 壬生先輩は完全に固まり、信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。

 

 彼女の中にある、差別への怒り。

 

 剣道部としての誇り。

 

 桐原先輩たちへの反発。

 

 達也への過剰な期待。

 

 そして、有志同盟という存在への希望。

 

 それらが複雑に絡み合い、僕の言葉によってさらに大きく揺さぶられているのが分かった。

 

「……利用される、なんて。そんなこと、誰も……」

 

 壬生先輩の反論は弱々しかった。

 

 彼女自身、どこかで同盟のやり方に違和感を感じていたのかもしれない。

 

「……考えてみてください。先輩の演武は、ブレのない美しい軸を持っていた。ご自身の心の軸も、他人の甘い言葉でブレさせない方がいいと、僕は思います」

 

 これ以上踏み込むのは危険だ。

 

 僕は言葉を打ち切り、再び一歩下がった。

 

 壬生先輩は、何かを言いかけようとして口を開いたが、結局言葉にならず、深く俯いた。

 

「……考えてみます。司波さん、水瀬さん、お時間を取らせて申し訳ありませんでした」

 

 彼女はそう言い残し、重い足取りでその場を去っていった。

 

 去り際、彼女は僕の方を一度だけ振り返った。

 

「水瀬さん。あなたは本当に変わっていますけど……私のことを、ただの剣道部員としてではなく、ちゃんと見てくれた気がします」

 

「……魔法式としても、ちゃんと見ていましたよ。素晴らしい姿勢制御でした」

 

「……ふふっ、そうでしたね」

 

 彼女は少しだけ笑みを浮かべたが、その笑顔には深い影が落ちていた。

 

 止めきれていない。

 

 彼女はまだ、危うい場所へ向かおうとしている。

 

 物語のうねりは、僕のちょっとした忠告程度で止まるほど、ヤワなものではなかった。

 

 壬生先輩の姿が見えなくなった後。

 

 静まり返った校舎裏で、達也がゆっくりと僕の方へ向き直った。

 

「……水瀬」

 

「何かな、司波くん」

 

 僕は内心の冷や汗を悟られないよう、極めて平坦な声で返事をした。

 

「君は、今の話をどこまで知っている?」

 

 来た。

 

 魔法式のコピー疑惑とは別方向からの、鋭すぎる尋問。

 

 まずい。

 

 僕の原作知識による先読みが、完全に怪しまれている。

 

「知っているわけじゃないよ。ただの一般論だ。怒りを組織化し、美しいスローガンを掲げる言葉には、たいてい誰か別の意図が混じっている。歴史の教科書に載っているような革命や紛争のパターンを当てはめただけさ」

 

「……単なる推測にしては、有志同盟という組織の危険性に対する反応が、異常に早かった」

 

 達也の瞳が、僕の思考の裏側まで透かして見ようとしている。

 

「僕は観測者だからね。事象の裏にある因果関係を読み解くのは得意なんだよ」

 

「……便利な言葉だな、それは」

 

「最近、自分でも本当にそう思うよ」

 

 僕は努めて軽い調子で肩をすくめた。

 

 達也はそれ以上、僕を追及しなかった。

 

 だが、彼の中の疑念が晴れたわけではないことは明白だった。

 

 ◆

 

 司波達也 視点

 

 俺は、水瀬悠という少女の異常性について、認識を改めざるを得なかった。

 

 魔法式を異常な解像度で認識し、即座に応用する能力。

 

 それだけでも十分に規格外だが、今日の彼女の言動は、別のベクトルでの異常性を示していた。

 

 学内不満の背後に潜む『有志同盟』という組織。

 

 壬生先輩の話を聞いた直後、水瀬は即座にその背後にある「外部の悪意」や「利用される危険性」を察知し、警告を発した。

 

 単なる推測力が高いだけなのか。

 

 それとも、この先何が起きるのかを、まるで『あらかじめ知っている』かのように事態の流れを読んでいるのか。

 

 魔法式だけでなく、事象の因果関係そのものを俯瞰する目。

 

 水瀬悠。

 

 彼女が抱えている秘密は、俺が想定していたよりも遥かに深く、広い領域に及んでいるのかもしれない。

 

 ◆

 

 水瀬悠 視点

 

 教室に戻ると、エリカ、レオ、美月の三人が待ち構えていた。

 

「で、水瀬。あの美人の先輩と何の話だったのよ。達也くんへの愛の告白でも手伝わされた?」

 

 エリカがニヤニヤしながら尋ねてくる。

 

 僕は少し考えてから答えた。

 

「剣道部への勧誘と、学校の空気についての話だよ」

 

「空気?」

 

 レオが首を傾げる。

 

「一科生と二科生の壁のことさ。壬生先輩は、今のこの不平等な扱いを、かなり重く受け止めているみたいだった」

 

 僕の言葉に、エリカの顔からからかいの色が消え、真面目な表情になった。

 

「まあ、あの先輩なら分かる気がするわね。剣道部って二科生も多そうだし、風当たりも強いんでしょ」

 

 美月が、不安そうに両手を胸の前で組んだ。

 

「……何か、大きな揉め事が起きたりするんでしょうか」

 

 僕は、美月の不安を煽りたくなくて、答えに迷った。

 

「……何も起きないといいね」

 

 僕の口から出たその言葉は、自分でも驚くほど重く、空虚に響いた。

 

 夜。

 

 自室のベッドに座り、僕は精神領域のライブラリにアクセスした。

 

 今日、新しい魔法式の収穫はない。

 

 魔法を使わない無害な生徒を演じきったのだから当然だ。

 

 でも、僕は今日、魔法式よりも重要なものを観測した。

 

 壬生先輩の悲痛な怒り。

 

 学内に漂い始めた、有志同盟という組織のきな臭い匂い。

 

 そして、原作イベントが、僕のすぐ目の前で重い音を立てて動き始める気配。

 

 僕は原作を知っている。

 

 これから先、有志同盟による放送室占拠が起きることを。

 

 そして、その後の公開討論会を経て、ブランシュという反魔法組織の襲撃へ繋がっていくことを。

 

 だが、僕がこの世界に存在し、彼女に声をかけた時点で、僕の知る『原作』は、ほんのわずかだが確実にズレを生じている。

 

 壬生先輩が僕を呼び出しの場に同席させたこと。

 

 僕が彼女に、余計な警告を与えてしまったこと。

 

 そして、達也が僕の先読み能力を明確に疑い始めていること。

 

 その全てが、これからの未来にどんなバタフライエフェクトを引き起こすのか、僕には分からない。

 

 それでも、一つだけ確かなことがある。

 

 有志同盟は、もう動き始めている。

 

 事件は必ず起きる。

 

 僕は、壁際の安全な観測者を自称しておきながら。

 

 気がつけば、ほんの少しずつ、僕自身の意思で、観測対象である彼らの人生に手を伸ばし始めていた。




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