BIOHAZARD ASHES TO ASHES 作:しお林檎
暗澹たる海で
重く湿った風が夜の海を吹き抜けていく。か細い月明かりに照らされ遮るもののない暗闇の世界は、不気味なほどに静まり返っていた。
――その静寂を、重厚感のあるモーターの駆動音が切り裂く。
白波を立てて夜の海を駆けるのは、一隻の小型モーターボートだった。
太平洋西部、バンダ海。
目的地を目指し、漆黒の水面を進むボートの搭乗員は――たった一人だけ。
カチャ、と小気味良い金属音が鳴る。モーターの音にかき消されながらもたしかに鳴るその音は、搭乗員の男が立てているもののようだ。本来は相乗り用に誂えられたものであろう。座席の一つに置かれたランタンが男の手元を鈍く照らす。
スライドを仕込み、一度力強く引く。確かな手応え。
『――レオン、聞こえる?』
右耳のインカムから、滑り込んできたのは女性の声。たった一人でボートを駆り、この東南アジアの海を往く男を補佐するオペレーターのようだ。
「ああ、こっちの感度は良好だ。問題ない。……そっちはどうだ。現場で銃を振り回すよりは、冷房の効いた部屋でパソコンとにらめっこする方がまだマシだろう」
『ふふ、悪くはないわ。……心配しないで、みっちり訓練してきたから。レオンの方こそ、くれぐれも新米オペレーターを放って先走らないでね』
「……フッ、善処するよ。ナビゲートは任せる。頼んだぞ、シェリー」
インカム越しの声に男――レオンから、つい笑みが零れる。
かのラクーン事件の時にはあんなに小さかった少女が、今ではすっかり立派なエージェントだ。今回はオペレーターではあるものの、そんなことは関係ない。むしろ数々の死線を潜り抜けてきた彼女がオペレーターであれば、レオンにとっては百人力も同然だ。
徐にポケットから携帯端末を取り出し、バックライトが眩しい液晶画面に目を落とす。画面にはバンダ海周辺の電子地図。即ち、レオンの現在地と目的地までの距離が表示されていた。
『それじゃ、今回の
「匿名の、ね……。ずいぶん親切な情報提供者がいたもんだ」
『最初は悪質な悪戯と思われたけど、組織の調査班が裏ルートの兵器売買及び流通経路のラインを洗った結果、とある宗教団体の名前が出てきたの』
携帯端末の画面が切り替わる。シェリーから送られてきたであろう資料を映し出すその画面に、レオンは素早く目を通す。
『――【灰の揺り籠】。十年ほど前に設立されたと思われる新興宗教団体』
「その教団とやらがテロ計画を?」
『ええ。数週間前、教団が裏ルートで大量の武器と数種類のB.O.W.のサンプルデータを買い漁っている動きが確認されたわ』
なるほど、とレオンは独り言つ。かのリークとやらは残念ながらただの悪戯では済まなかったようだ。
『上層部はリークの信憑性が非常に高いものであると判断。そこで私たちにお鉢が回ってきた、というわけね』
「教団ってのはどこもかしこもテロを起こすのがお気に入りらしい」
はぁ、とレオンの口からは思わずため息が零れる。脳裏に蘇るのは、かつて寄生体プラーガを用いて暗躍したカルト教団「ロス・イルミナドス教」との戦い。スペインの寒村を丸ごと一つ敵にする形で大立ち回りを繰り広げた記憶が苦々しく思い起こされる。
カルト宗教はこりごりだ。克明に浮かんだ記憶を脳の片隅に無理矢理追いやり、重苦しい湿り気と僅かに熱気を帯びた海風を思い切り吸い込む。
『本題はここから。今回の任務は、教団の本拠地への潜入及び捜査。地図にマークしているポイントが今回の目的地よ』
資料を映し出していた画面をスライドすれば、再度周辺地図が画面に映し出される。赤い丸が点滅するそこが、今回の任務の目的地。【灰の揺り籠】の本拠地とされる孤島だ。
『島の西端から内部に潜入し、教団のテロ計画の決定的な証拠となる資料を探して。島内では信者たちが生活しているはず。そのうえさらにB.O.W.が放たれている可能性が高いわ。くれぐれも注意して進んでね』
「了解。……揺り籠とやらの居心地を、俺が直々に確かめてやる」
『ふふ、軽口を叩く余裕があるなら安心ね。――では、健闘を。通信終了』
プチリ、と静かな電子音が鳴り、インカムが沈黙する。
携帯端末から顔を上げ、水平線の先を見やる。相変わらずの真っ暗闇でほとんど何も見えないが、月明かりが水平線の彼方に位置するそれの輪郭を幽かに映し出す。
目的地は近い。今一度全身の装備を確認する。
ホルダーに収まった愛銃の感触、コンバットナイフの重み。いつもと変わらない相棒たちの存在を確かめると、レオンは座席に置かれたランタンへと手を伸ばした。
――カチリ、と小さな音が響く。
男の手元を、そしてボートを幽かに照らしていた光が掻き消えた。
光を失ったボートは、低く唸るエンジン音とともに漆黒の闇へと溶け込んでいく。
ただ一人のエージェントを乗せて、死の島へと這い寄るように進んでいった。