BIOHAZARD ASHES TO ASHES 作:しお林檎
蠢く違和
不気味なほどに鋭利な岩肌が、闇の奥からぬっと姿を現した。
速度を落としたボートの底が、ざざ、と砂礫を噛む。太平洋の荒波に揉まれてきた船体が、ようやくその動きを止めた。
島の西端――切り立った崖に挟まれた、ひっそりとした入り江。
レオンはうねる波に合わせて揺れる船体の上で微動だにせず、タイミングを計っていた。そして次の瞬間、引き波のタイミングを見極めると、吸い付くような身軽さで濡れた浜辺へと飛び降りる。
防寒と防刃を兼ねたタクティカルジャケットが、夜風に小さく衣擦れの音を立てた。
周囲の警戒を怠らないまま、レオンは耳元のインカムに軽く指先を触れる。
「――シェリー。西の入り江に上陸した」
『了解。入り江から真っ直ぐ東に進んだところに、古い寺院跡があるはず。まずはそこを目指してちょうだい』
了解、と短く返答し、インカムから指先を離す。
レオンは一度振り返り、先ほど乗り上げたばかりのボートを移動させる。入り江の中でも比較的死角になっているであろう岩陰へと船体を引き込み、備え付けのアンカーを砂礫の奥へと深く突き刺した。ロープの張りを微調整し、船体が波にさらわれないことを確認して、ようやく準備は整った。
カチリ、と小気味良い音を鳴らし、フラッシュライトを点けた。真っ暗闇で見えなかった世界が、ライトに照らされようやくその正体を現す。
入り江の周囲は切り立った崖と鬱蒼と茂る密林で構成されていたようだ。携帯端末の地図と眼前に広がる密林を数度見比べ、進むべき方向を脳内の地図に書き記す。
東の寺院跡。次なる目的地は決まった。
レオンはライトを持つ手とは反対の手でホルダーから愛銃を抜き取る。
「……最高のバカンスになりそうだな」
ぼそりと呟き軽く肩を竦めてみせる。誰に届くでもなく呟かれたそれは、風に流されて掻き消えた。
次の瞬間、レオンの表情はプロのエージェントらしい警戒を露わにしたものへと変化する。いつ何が来ようと対応できるよう銃口を上に向け、吸い込まれるように黒い密林へと足を踏み入れた。
密林を突き進むこと数十分。行く手を阻むように絡み合っていた木々の隙間から、ついに目的の建物が姿を現す。
ライトの白い光に照らし出されたのは、経年劣化で黒ずみ、あちこちが崩れ落ちた不気味な石造りの建築物の数々――シェリーの言っていた古い寺院跡だった。
「ずいぶん放置されているみたいだな。教団なんて名乗ってる割には、あまり信心深くはない連中だ」
人の気配は感じられない。シェリーからの情報では島内には信者たちが生活しているとのことであったが、今のところそれらしい気配も、生活の痕跡も皆無であった。
レオンは周囲を警戒しながら、所々崩れ瓦礫が積み重なっている建物の中へと慎重に足を踏み入れる。
床には砕けた石片や木片が散乱し、長い年月にわたって放置されていたことが手に取るように分かる状態だ。一歩踏み出すごとに舞い上がる塵や埃が鬱陶しい。咳き込まないようライトを持つ手で軽く口元を覆う。
そうして手探りで探索をしていたレオンの視界に、ふと焦げ茶色の物体が映り込んだ。
足が折れ斜めに傾いた木製の机の上。ライトを当てたそこに置かれていたのは、埃を被った厚手の本が一冊。
徐に手に取ったそれを観察してみる。すると不思議なことに、本は埃こそ被っていたものの、その状態はこの場にある他の家具や調度品と比較して良好そのものであることが分かった。表紙に刻まれた何かの紋様はこびり付いた汚れのせいで読み取れなかったが、その汚れ以外には傷一つついていない。
レオンは表紙を捲る。カバーの状態の良さとは対照的に、中身はほとんどのページが汚れていて文字が消えていた。辛うじて読めたのは、表紙から数ページ捲った先のたった一節のみ。
『神は苦しむ者を憐れみ、その苦しみを取り除かれる。』
「……ご立派な
そう独り言ちた後、レオンは本を元あった机の上へと戻した。
他に手がかりになりそうなものは見受けられない。別の建物を探索すべきだと思考を切り替えたレオンは、一度踵を返し瓦礫を踏み越えながら建物の外へと出た。
相変わらず人の気配らしきものは周囲には存在していない。
しかしだからといって、無人だと楽観視することは到底できない。ここへ至るまでの道中、肌にまとわりついていた違和感がレオンの思考に影を差す。
鬱蒼とした密林を突き進んでいる最中、鼻腔をくすぐった鉄錆のような生臭さ。そして、ライトの光が一瞬だけ捉えた、木の幹にべっとりと付着したどす黒い手形――。
幾度も死線を潜り抜けてきた歴戦のエージェントとしての勘が、降り積もった違和感を気のせいとして処理することを許さない。
――間違いなく、この島には『何か』がいる。
レオンは銃を握る手に力を込め、寺院の奥へと視線を走らせた。
「シェリー、寺院跡に到着した。今のところ周囲に人気はなさそうだ」
『それは好都合ね。今のうちに色々調べてみましょう』
「そう思ってさっき軽く調べてみたんだが、立派な聖典が落ちていたくらいで目ぼしいものはなかった……だが、ここへ来るまでの道中妙なものを見た」
『妙なもの?』
「ああ。鉄錆の臭いと、それから――」
報告を続けようと口を開いていたレオンだが、不意に一点を凝視し動きを止める。
『レオン?……レオン、どうしたの?』
不自然に途切れた声を訝しんだシェリーが、インカム越しにレオンを呼びかける。しかし、レオンからの応答はない。
――ズ、ズズ。
寺院の崩れかけた礼拝堂、その奥の暗闇から、微かな異音が鼓膜を叩いた。何か重たいものを引きずるような、石と砂利が擦れ合うような音。耳を澄ませば聞こえてくる、まるで獣のような荒々しい呼吸音。
おそらくまだ向こうはこちらに気付いていない。そう判断したレオンは小さく息を吐き出すと、シェリーへの応答の代わりにインカムのスイッチを指先でそっと切り、通信を一時遮断した。プツッ、と軽い音を立て、シェリーの声が聞こえなくなる。
ライトの光量を最小限まで絞り、愛銃を構え直す。
気配を押し殺した足取りで、レオンは音の発生源である礼拝堂の奥の部屋へと歩みを進めた。
経年劣化と海風で腐食した木の扉が、僅かに開いている。
その隙間から内部へとライトの細い光条を滑り込ませ、レオンはそっと部屋の中を覗き込んだ。
「――!」
光の先に浮かび上がった輪郭に、レオンの眉が鋭く跳ね上がる。
まず目に飛び込んできたのは、人のそれを大きくかけ離れた、2mはゆうに超えるであろう巨躯。灰色の襤褸布を身にまとった
銃口を正面に向けながらライトを動かす。眼前の化け物の顔があるであろう場所を照らせば、その異様な姿がより一層はっきりと映し出される。
襤褸布のフードでその顔の全てを見ることは叶わない。だがそれでも、隙間から覗く土気色の肌や鋭くも不揃いに生えた牙、そして絶えず滂沱の如く流れゆく血の涙。それらの特徴の全てが示すのは、ただ一つの事実。
――怪物だ。
レオンが思わず息を呑んだ、その瞬間だった。
一心不乱に肉を貪っていた巨躯が、ぴたりと動きを止める。
かと思いきや、びき、ぼき、と何かが擦れて砕けるような音を立てながら、
――目が、合った。
フードの暗がりから覗く白く濁った一対の瞳が、ライトの光線を突き抜けてレオンの瞳を真っ向から射抜く。
血塗れの唇が耳元まで裂けるように大きく開かれた瞬間、レオンは一も二もなく引き金を引いた。