「よし、今日も足音がデカい。やり直しだ」
鬱蒼とした緑が広がる未知の森。
その中央に位置する小さな開けた空間に、一人の少年の声が硬質に響いた。
少年の名はアベル。
年齢は十歳。一見すると、どこにでもいるような、しかし少し怜悧なサファイアブルーの瞳を持った、整った顔立ちの少年だ。
アベルは地面に転がした、拳大の歪な小石を睨みつけていた。
その手には、自分の背丈よりも二回りほど長い、頑丈な樫の木から削り出された一本の「棒(スタッフ)」が握られている。
アベルは深く息を吸い、吐き出しながら、音もなく身体を滑らせた。
一歩。肉眼では捉えきれないほどの鋭い踏み込み。しかし、足元の枯れ葉やつちを踏みしめる音は、驚くほどに小さい。いや、ほとんど無音に近い。
パシッ――!
激しい風切り音の直後、乾いた衝撃音が森の静寂を破った。アベルの放った棒の先端が、寸分の狂いもなく小石の重心を穿ったのだ。小石は凄まじい弾道で一直線に飛び、十メートルほど先にある大樹の幹に深くめり込んだ。
「……ふぅ。悪くはない。けど、キルアの『暗歩』には程遠いな。あいつは歩行どころか、全力疾走でも完全に無音だからな」
アベルは手にした棒を器用に指先で回し、慣れた動作で背中に背負った。特製のホルダーにカチリと収まる。
アベルがこの世界に生まれ落ち、そして「前世の記憶」を完全に思い出したのは、今から数年前のことだった。
高熱を出して寝込んだ夜、濁流のように脳内に流れ込んできたのは、文明の発達した平和な国――日本という場所で生きていた記憶。そして、自分が貪るように読んでいた大人気漫画『HUNTER×HUNTER』の、緻密にして残酷な世界設定のすべてだった。
記憶が融和したその日、アベルは布団の中でガタガタと震えた。
歓喜ではない。圧倒的な「恐怖」と「絶望」だった。
ここがどういう世界か、彼は嫌というほど知っている。
大自然の秘境には人知を超えた魔獣が跋扈し、街に出れば人命をゴミのように扱う大量殺人鬼が平然と笑っている。幻影旅団、ヒソカ、イルミ、キメラアント、果ては国家規模の陰謀や、未知の災厄が待つ暗黒大陸。
一般人の命の価値など、この世界では風前の灯火に等しい。ただ普通に生きているだけで、何かの「ついで」のように理不尽に殺される――そんな修羅の国だ。
(冗談じゃねえ。せっかく二度目の人生を貰ったんだ。誰かの気まぐれや、巻き込まれ事故で犬死にすることだけは絶対に御免だ)
アベルは日本の一般人としての倫理観を持っていたが、同時に非常に現実的で、執着心の強い男だった。恐怖のどん底に落とされた後、彼の胸に湧き上がってきたのは、燃えるような生存本能、そして――どうせ生きるなら、この理不尽で、最高に刺激的な世界を死ぬまで遊び尽くしてやる、という傲慢なほどの野心だった。
「世界を楽しむ。そのためには、誰にも脅かされないだけの圧倒的な『力』が必要だ」
アベルが修行を始めたのは、それが理由だった。
幸いにして、この世界の人間は、前世の地球人とは根本的な肉体ポテンシャルが違っていた。
遺伝子レベルでの限界値が異常に高いのだ。原作のキルアが良い例だ。念能力を覚える前、十二歳の時点で、暗殺の修行を受けていたとはいえ、数トンもあるゾルディック家の「試しの門」を自力でこじ開けている。
(なら、俺にだってできるはずだ。前世の高度な解剖学や、効率的なトレーニング理論、そして各種格闘技のイメージ。これらをこの世界の肉体に流し込めば、効率は何倍にもなる)
アベルはまず、徹底的な肉体改造から始めた。
毎日の長距離ランニング、限界を超えた筋力トレーニング、自重を用いた体幹のインナーマッスル強化。さらに、前世で嗜んでいた古流武術の歩法や身体操作を、この世界の「バケモノ染みた肉体」に進化させていった。
戦闘スタイルとして選んだのは、「棒術」と「素手格闘」のハイブリッドだ。
なぜ棒なのか。それは、日常において最も「手加減」がしやすく、間合いをコントロールしやすいからだ。
アベルの目的は世界を楽しむことであり、むやみに敵を作ることではない。普段は長い棒を使って敵を寄せ付けず、無力化する。
しかし、ひとたびその棒を手放し、間合いの内側に踏み込んだ時――それはアベルが「本気」になり、前世の総合格闘技や古流の暗殺拳をベースにした、容赦のないインファイトで敵を撲殺する瞬間を意味していた。
「身体の仕上がりは……うん、順調そのものだ。ここいらのチンピラや、並のプロハンターの卵なら、素手でも一蹴できる自信はある」
アベルは自分の細くも引き締まった腕を見つめ、小さく息を吐いた。
だが、と彼は大樹の根元にどっかりと腰を下ろし、表情を引き締める。
「ここから先は、肉体の訓練だけじゃ絶対に届かない領域だ。『あの壁』を越えなきゃ、ヒソカや旅団の連中には、赤ん坊同然にひねり潰される」
そう。この世界における絶対的な強者の証明。
生命エネルギーの体現――『念能力』の獲得である。