アベルには師匠がいない。
ゴンやキルアにおけるウイング、あるいはビスケのような、正しい道筋を教えてくれる導き手は、この辺境の地には存在しなかった。
通常、念を習得するには、心源流などの門を叩き、長い時間をかけて精孔(オーラが宿る身体の穴)を少しずつ開いていくか、あるいは既に念を使える者から「洗礼」と呼ばれるオーラによる攻撃を受け、強制的に精孔をこじ開けられる必要がある。
しかし、後者の「洗礼」は極めて危険だ。
悪意あるオーラを受ければ、最悪の場合、肉体が破壊されて死に至るか、一生モノの障害を負う。
「でも、俺には『原作知識』がある。これが何よりの教科書だ」
アベルは静かに目を閉じ、あぐらをかいた姿勢で精神を統一していく。
脳裏に再生されるのは、天空闘技場編でウイングがゴンたちに語った、念の裏の基本――『燃(ねん)』の概念だ。
点(てん):心を一つに集中し、自己を見つめ、目標を定める。
舌(ぜつ):その思いを言葉にし、あるいは心の中で強く念じる。
錬(れん):その意志を高め、オーラを練り上げる。
発(はつ):それを実際の行動、能力として出力する。
これは一般人を騙すための建前(精神論)のようでありながら、実は念の本質に深く関わっている。
すべての生物は、自覚していないだけで、常に微量の生命エネルギー――「オーラ」を全身から垂れ流している。蛇口が壊れた水道のように、ポタポタと、あるいはサラサラと、貴重な生命力が空気中に霧散しているのだ。
(イメージしろ。俺の肉体は、精緻に作られたフラスコだ。その中に、満々と満ち足りた極彩色の液体――俺の生命力が蓄えられている)
アベルは自身の呼吸を極限まで深く、静かにしていった。
吸う息が細胞の隅々まで酸素を届け、吐く息が体内の不純物を吐き出す。
精神の雑音が消えていく。風の音も、虫の声も、すべてが遠のき、自身の心臓の鼓動だけがドクン、ドクンと大きく脳内に響き渡る。
(皮膚の表面。無数に存在する、目に見えないほど小さな穴――精孔。そこから、俺の命が外に逃げ出そうとしているのを感じる。……捉えた)
驚くべきことに、アベルはウイングに教わったわけでもないのに、自身の肉体を巡るオーラの「流れ」を、その超天才的なセンスによって感覚的に感知し始めていた。
前世の記憶を持ち、かつこの世界の「数百万人に一人」という規格外の才能を持って生まれたアベル。彼の感受性は、すでに一般の格闘家の限界を遥かに超越していたのだ。
(逃がさない。溢れ出ようとするオーラを、肉体の表面で押し留めるんだ。薄い、しかし絶対に破れない膜を作るイメージ。身体の周りに、オーラの衣服を纏うように……!)
「――ッ!!」
アベルの全身の毛穴が、一斉に逆立つような錯覚が走った。
ドワッ、とアベルの身体から、目に見えない強烈な熱気が噴き出す。それは陽炎のように、あるいは激しく燃え盛る漆黒の炎(実際には無色透明だが、密度の高さゆえに空気を歪ませる)のように、アベルの肉体を包み込んだ。
精孔が、アベルの強靭な意志の力によって、自力で「開いた」のだ。
「ぐ、あ……っ!」
強烈な疲労感と、身体が内側から急速に軽くなっていく感覚が同時にアベルを襲う。
油断すれば、この溢れ出たオーラは一瞬で霧散し、アベルは極度の脱水症状か過労によって気絶するだろう。
一度に大量のオーラを失えば、そのまま死に至ることもある。それが自力覚醒の恐ろしさだ。
しかし、アベルの精神は冷静沈着だった。原作知識という「答え」を知っている強みが、ここで爆発する。
(慌てるな。これが『纏(てん)』の習得チャンスだ。流れるオーラを、自分の意志で、身体の輪郭に沿って優しく包み込め。引き戻すんじゃない、表面で循環させるんだ……!)
アベルは必死にイメージを具現化しようと、全神経を集中させた。
暴れ馬のように荒々しく噴き出していたオーラが、アベルのコントロールによって、徐々にその速度を落としていく。
激しい炎だったものが、滑らかな絹のドレスのようになり、やがて――ピタリと、アベルの皮膚から数センチメートルのところで、完璧に静止した。
「……はぁ、はぁ、……できた、のか?」
アベルはゆっくりと目を開けた。
自身の両手を見る。そこには、うっすらとした半透明の、しかし光り輝くようなオーラの膜が、均一な厚みで留まっていた。
身体が驚くほど軽い。まるで、自分の肉体が世界と一体化したかのような、全能感に満ちた心地よい温かさが全身を包み込んでいる。
「自力での『纏』……成功だ」
アベルの唇が、自然と不敵な弧を描いた。
師匠による強制的な開孔ではなく、自身のイメージ力と圧倒的な才能だけで精孔を開き、オーラを制御下に置いたのだ。
もしこの光景を、ハンター協会の重鎮や、心源流のビスケたちが見ていれば、驚愕のあまり絶句したに違いない。
ゴンやキルアでさえ、ウイングという最高の指導者がいて、かつ「洗礼」というショートカットを使ってなお、数週間の修行を要したのだ。
それを、たった一人で、十歳の少年が成し遂げてしまった。
「よし……! でも、まだ喜ぶのは早い。これがスタートラインだ」
アベルは立ち上がり、背中の棒を引き抜いた。
『纏』をした状態で、棒を構える。オーラが肉体を強化しているため、普段よりも棒が軽く、まるで自分の手足の延長であるかのようにしっくりと馴染む。
「次は、このオーラをさらに高める『練』。そして、完全に気配を断つ『絶』。これらをマスターして、ようやくハンター試験に安全に臨む最低限の資格が得られる」
アベルのサファイアブルーの瞳に、確かな熱が灯っていた。
恐怖していたはずの世界。
しかし、一歩ずつその世界の「法則」を自分のものにしていく感覚は、前世では決して味わえなかった、魂が震えるほどの快感だった。
正直、最初のハンター試験では念が無くてもいいとは思いますが、ヒソカなど何が使える人物も混じっているので安全の為に主人公も念を覚えて行きます