「埠頭にはこの国の籍がなく、素行の悪い者も多い。だがその中の誰が、という確証はないんだ」
あるのはただ、疑いだけ。
しかしそれがディーンを解放してくれない。
疑いを抱いた全てを刺々しい視線で見てしまう。
叶うのならば、妻と同じ目に。
思いが形になる前に、何度かき消したことかわからない。
「悪いのは私だ」
ディーンはそんな自分が嫌いだった。
疑わしいというだけの人を憎んでしまう前に、全てから距離を置いた。
「妻が一人になるのを良しとしてしまった私だ。教会に行くという言葉を信じて軽く考えた私が悪かったんだ」
わかりやすい言葉もない、ただ心に留まっていた感情を吐き出しただけの行為。
おおよそ子供へ向ける言葉ではないが、しかしビリーは退屈そうな顔をするでもなくディーンの傍で聞いていた。
「がんばったのですね」
やがて話し終えたディーンに向かってかけられた言葉は、余計な装飾を削ぎ落とされた、ひどくこざっぱりとした感想だった。
「貴方は優しい人だ、ディーン。身近な、それも奥方を亡くされて動揺しない者はいない。全く関係のない者にその苛立ちをぶつけたって、事情を知る者は同情を込めて貴方を見るばかりでしょう。なのに、自分が悪いと内側に封じ込めるなんて」
「関係のない者に危害を加えれば、それは悪だ、ビリー」
「それはどうでしょう?」
ぽつり。
投げかけられた疑問に、ディーンは眉をひそめて隣へと視線を向けた。
「例えば、女神エリス」
子供は、ディーンの方を向いてはいなかった。
自身に向けた問答のような問いかけは、どこかに見本文でもあるかのようにつらつらと言葉が重ねられている。
「かの神は勇者を導き、魔王を倒させたと言います。しかしそこまでの道のり、勇者も無傷とはいかなかったでしょう。むしろ途中で死んでもおかしくなかった任務を成し遂げ、生還したからこそ、勇者は称えられたのです。
そんな苦難を与えた女神エリスは、悪ですか?」
「そんなわけはない」
なにを言うのだと、ディーンはぎょっと目を剥いた。
おおよそ勇者に憧れを抱き、親元を離れて観光まで行った子供の言うことには思えない。
それとも、憧れだからこそその存在に苦難を与えた女神エリスが嫌いなのだろうか。
「女神様は、勇者を偉業へとお導きになったのだよ。彼ならできるとわかっていたから、あえて苦難の道を進ませたのだ」
「わかっていたから。では、女神エリスは、全ての人間の行動を見守っておられるということになりますね」
ディーンは子供がどういう意図で発言しているのかわからない。
故に、真意を読み取ろうと会話を続けた。
「人を正しき道へと導くのが女神エリス。ならば、善い行いの者には褒美を与え、悪しき行いの者には罰を与える。それは当然の摂理では?」
「……経典に女神がそのようなことをするとは、載っていない」
「勇者の話も載っていませんよ」
反論は、できなかった。
この数日何度も話題に出た物語だ。
純粋な憧れを抱く幼子に対して噤んだ口を、今更開くことはできない。
「良い子には聖人からプレゼントがもらえる。悪い子には怖い魔物がやってくる。絵本を開いて聞かせてくれたことは、全て嘘ですか?」
「そんな、ことは」
「それなら人々の心には、多少の差はあれどあるはずですよ。『あいつは悪いことをしたから罰が当たったのだ』と、人の不幸を当然のこととする気持ちが」