「あぁっ」
掴んでいた手の力が緩んだのを好機と見たのか、修道女が隙間を縫って逃げ出そうとした。
咄嗟に捕まえる。
今度はその細い首に直接手がかかった。
「お、お許しを……、どうか見逃してください……!」
薔薇色に染まっていた頬はもはや見る影もなく、恐怖一色に染まった修道女はガタガタと震えるばかり。
その姿に対し、ディーンは優越感や愉悦のようなものは感じなかった。
「私の妻は、命乞いをしたのだろうか」
あるのは、ただ虚しさばかり。
「貴方はそれを聞き入れたか?」
薄い皮膚に、指がめり込む。
「駄目ですよ、ディーンさん」
儚い命が、一つ散ろうとした瞬間だった。
声が掛かった。
この数日で聞き慣れた、幼い声。
まさかと反射的に視線を向ければ、そこには予想通りの姿があった。
黒髪に、青い海の色。
ビリーだ。
「どうしてここに」
路地裏の入り口に立つビリーは、陽の光に髪艶を輝かせながら微笑む。
「それはね、ディーン。ここが僕の土地だからですよ」
だいそれた台詞だが、少年に虚勢を張っている様子はない。
それでディーンは気づいた。
彼、正確には彼の父の正体に。
「イェルズリー辺境伯」
辺境伯。
他国と接する領土を治める、国で最も重要な領地経営を任された貴族である。
軍事面や外交に関して、特に優れた者でなければ務まらない。
特にイェルズリー家は魔国に接する領土を治める立場だ。
その領地には、もちろんハーライルも含まれている。
「また会っちゃいましたね。ここでの雑事を終わらせたら、グロウベルに帰ってこようと思ったのに」
国の中でも端の方に位置するグロウベルに、ビリーの親が余裕ができたからとすぐに訪れることのできた理由もわかった。
グロウベルとハーライルは、馬車を飛ばせばすぐの距離だ。
「雑事、というのは、冒険者達への奉仕活動のことかい」
「教会の方たちが行うものとは少し違いますけどね。父上が急に忙しそうになってしまったので、手伝うことにしました」
「えらいね」
ビリーは照れたように微笑んだ。
しかし、穏やかな光景もそこまでだ。
ディーンは目の光を取り戻せないまま、ビリーへ語りかける。
「それならば、お手伝いに戻りなさい。ここには面白いことはなにもないよ」
ディーンの手から、細い首はなくなっていた。
修道女は隙をついて逃げてしまったのだ。
早く追いかけなければ。
逸る気持ちで歩き出そうとしたディーンであったが、その歩みは再び掛けられた声で止まる。
「駄目だと言ったでしょう、ディーン」