魔国との国境沿いにある町、イェルズリー。
現在は停戦中であるとはいえ、監視塔や巡回兵による国境の警備は未だ物々しい。
そんな監視塔の一つと一体化した大きな建物があった。
イェルズリー辺境伯の住む屋敷だ。
洗練されたデザインでありながら、使用されている素材や技術は全て籠城戦となっても通用する頑丈さ。
当然ながら内部には武器や食料が保管されており、いつでも訓練ができるようしっかりとした広さの訓練場も完備されている。
まさしく武人として名を挙げた軍事貴族にふさわしい住居であった。
訓練場の片隅で、蜘蛛がひっそりと巣を作る。
美しい幾何学模様を覗き込むようにして、監視するその先。
廊下を歩く、ビリーの姿があった。
そのすぐ後ろには、父親役の男も。
ビリーに追従するように歩く彼の顔には、辺境伯という立ち位置にしては随分と困惑した表情が浮かんでいた。
「納得のいっていない顔だね」
振り向かないまま、明らかに自分へ呼びかけられた声に、男は頭を下げる。
「推測しようなどと無礼千万であることは承知の上で述べさせて頂きます。魔王様のお考えは、私めの理解を超えておられる」
今度は、魔王呼びに対して苦言を呈されることはなかった。
部外者のいる学校内ではなく、自分の根城ともいえる館の中だからだろう。
ビリーは振り返り、男の疑問を予想してみせる。
「今回の標的、回復術師のディーン司祭。彼への作戦は成功したのか、そしてそもそもの目標はなんだったのか。そんなところかな?」
「魔王様が勇者を強化せぬよう、パーティーの候補となりうる人材を無力化して回っている、ということは分かっているのですが」
ディーンは強力な回復術師だ。
信心を忘れず鍛錬も怠らない彼の回復術は、敵に回れば恐ろしい脅威と化すだろう。
密偵からの情報では、自ら回復術の研究も行なっているとあった。
妻の死によって無気力になっていた彼は回復し、むしろ今は熱心に仕事に打ち込んでいるといえる。
これは作戦成功と言えるのか? と言いたげな男の視線に、ビリーは目を細めて笑った。
「お前は愚かだね」
「至らぬ己を恥じ入るばかりです」
「そうやって反省したふりをしていれば済む、と思っているところが特に愚かだ」
男の切れ長の目に、わずかながら力がこもる。
表情の変化が見えているだろうに、ビリーは男を見上げながら言葉を続ける。
「自分の立場になって考えてみなよ。お前は戦士だろう? ディーンのような優秀な回復術士が味方にいたら、どう思う?」
「それは、心強いです」
「では、その回復術士が相手によって回復しなかったり、むしろ悪化させたりしたら?」
「信用できませんね。後方に下がらせるか、回復対象の基準を聞いて対策を考えます」
「基準が、彼の中にしか存在しないものだとすれば?」
男は、言葉に詰まった。
そういった類のユニークタイプでもない限り、人の心を完全に読むことは不可能だ。
ましてや相手が前衛の土台を担う回復術士となれば、どれだけ優秀であろうとも任せられる任務はない。
しかしそれは、ビリーの言うとおり、基準がディーンの中にしか存在しなかった場合の話だ。
「彼は、エリス教の教えに基づいた信念により正義を執行しているようにも見えます」
「絶対的な正義というものはないんだよ。あったとしても、それを個人が振りかざした時点でただの凶器だ」
そしてそれを、彼自身も自覚している。