砕氷のアンカー、あるいは熱病の抱擁   作:エスカド

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19話:抱擁と計算機、あるいは逆転の視線

 ◆◆◇◇◆◆

 

 1.数字の迷宮と、柔らかな拘束

 

「……ふむ。やはり、計算が合いません」

 旧式作業船『シルバーアンカー』の狭いリビング。レデア・メイスは、ホログラム端末に表示された家計簿を睨みつけ、眉を寄せていた。

 宙に浮かぶ数字の羅列は彼女に容赦しなかった。先日、コメットセンターで購入した「多機能型ハイパワー溶断レーザー」の支払い、燃料代、ドックの使用料。それらを差し引くと、残った数字はあまりに心許ない。

 

「お姉ちゃん、さっきからずっとその数字と睨めっこしてるね。可愛いなぁ。眉間に皺を寄せたお姉ちゃんも、銀河で一番の芸術品だよ」

 背後から、甘い声が降ってくる。シュティアは、姉の真剣な悩みなどどこ吹く風で、淹れたてのハーブティーをテーブルに置いた。

 

「……遊んでいるわけではありません。せっかく高性能なレーザーを導入したのですから、それに見合うだけの高性能なスキャナーや、補助動力ユニットも新調したいなと思ったのですが……」

 レデアは小さく溜息をつき、指先でホログラムを弾いた。

「さすがに、今の残高では厳しいですね。少し、贅沢が過ぎました」

 

「なーんだ、そんなこと? お金なんて、私が良い感じに稼いでくるから大丈夫だよ。それよりもさ」

 シュティアは、悪戯っぽく瞳を輝かせた。

「お姉ちゃん、ちょっと失礼」

 

「あ……」

 レデアが反応するより早く、視界がふわりと浮き上がった。シュティアが、まるでお気に入りのクッションでも扱うかのような手慣れた動作で、姉の小さな体を抱え上げたのだ。

 そのまま、シュティアは自分がレデアの座っていた椅子に腰を下ろす。そして、当然のような顔をして、自分の膝の上にレデアを座らせ直した。

 

 レデアは、特に驚くことも、暴れることもなかった。

 かつては「な、何を!」と赤面して抗議した時期もあったが、今やこの「膝上への強制移動」は、彼女たちにとっての日常茶飯事——いわば定例行事のようなものだ。

 

「……もう、またですか」

 レデアは淡々と、けれど少しだけ困ったように呟き、シュティアの胸に背中を預けた。

 シュティアの長い腕が、レデアの細い腰をしっかりと、けれど壊れ物を扱うように優しく包み込む。背中から伝わるシュティアの体温と、首筋を掠める吐息。15歳のレデアに対し、24歳のシュティア。

 抱きしめられると、レデアはシュティアの腕の中に収まってしまう。

 

「いいじゃない。こうしていると、お姉ちゃんの心音も匂いも独占できて、私の作業効率が三〇〇パーセントくらい上がるんだよ?」

「これでは私の作業効率が下がります。動きにくいです、シュティア。端末を操作させてください」

「えー、お姉ちゃんの手は、今は私の腕を撫でるために使ってほしいな」

「……却下です」

 レデアは「はぁ」と一つ溜息をつきつつも、妹の腕を振り払うことはせず、そのままの姿勢でホログラム端末を空中に固定し直した。

「動きにくいのは確かですが……。このまま、今日受けられる仕事を探します」

「はーい。じゃあ私はお姉ちゃんを応援するのに全力出すね!」

 

 ◆◆◇◇◆◆

 2. 逆転の街角

 

 スバル・ステーションの商業区。人混みを歩きながら、レデアは隣のシュティアを見上げた。

 シュティアは、レデアの右手を自分の両手で包み込むように握り、機嫌よさそうに振っている。まるで、迷子にならないよう気をつけている保護者のようだ。

 

「いいよね、お姉ちゃん! たまにはこうしてデート気分でお仕事探し。あ、あそこのアイスクリーム屋さん、お姉ちゃんに似合いそうな新作が出てたよ。帰りに寄る?」

「仕事が先です。それに、私はレディなのでアイスなんて……」

「そんなこと言わずにー、お姉ちゃんが食べる姿を見せてくれるなら、私が次のお仕事倍に働くよ!」

 

 そんなやり取りをしながらギルド本部へ向かっていると、不意に、派手な作業着を着た大柄な男が二人の前で足を止めた。

「おやおや、珍しい。そちらの仲良し姉妹、ちょっといいかな?」

 

 男は、にこやかな笑みを浮かべて、まずはシュティアを、次いでレデアを見た。

「いやあ、実に微笑ましいね。そちらの『お姉さん』は、随分と美人さんだ。落ち着いた雰囲気があって、仕事もできそうだ」

 男の視線は、背が高く、落ち着いた笑みを浮かべているシュティアに固定されていた。

 そして、レデアの方を見て目を細める。

「で、こちらの『妹さん』も、お人形でみたいに可愛いじゃないか。お姉さんにしっかり甘えてる姿、見てるこっちまで和むよ。良かったら、うちの鉱山で受付のバイトでもどうだい? 看板娘になってくれたら、ボーナス出すよ!」

 

 その言葉を聞いたシュティアが一瞬止まったかに見えた。

 

「あら、お目が高いですね。……そうなんです、私のかわいい妹なんです」

 シュティアは、淡く優しい笑みを浮かべて答えた。

 レデアの肩を引き寄せ、頬をすり寄せる。

「あまりに可愛いので、一秒も目を離せないんですよ。だからバイトのお誘いは嬉しいのですが、この子を私の視界から外すわけにはいかないんです」

 

 男は「ははは、なるほど! そりゃあ目が離せないのも納得だ」と上機嫌で笑い、二人に手を振って去っていった。

 

「…………」

 レデアは無言で、自分を抱きしめるシュティアの腕を見つめた。

 これまで何度繰り返されてきたかわからない、外見的な「姉妹逆転」の勘違い。レデア自身、自分の外見が幼いことは理解しているし、いちいち目くじらを立てるほど子供でもない。

 

「……シュティア。また適当なことを言って」

「えー? 適当じゃないよ。お姉ちゃんが可愛いのは宇宙の真理だし」

「そうではなく……。本来、お姉さんは私、なのですが。訂正もしないのですね」

 

 レデアが少しだけ唇を尖らせて言うと、シュティアは歩みを止め、レデアの正面に回った。

 そして、かがみ込んでレデアと視線を合わせ、屈託のない、それでいて底知れないほど深い愛の籠もった笑みを浮かべた。

 

「そんなの関係ないよ、お姉ちゃん」

「関係ない?」

「うん。周りがどう見てても、誰がどう言っても、私にとっては関係ない。私の中では、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから、世界がそれをどう分類しようと、私たちの間にある絆は変わらないんだよ」

 

 シュティアの言葉には、迷いがなかった。

 それは傲慢なまでの断定。しかし、レデアを何よりも肯定する言葉。

 レデアは、銀色のまつ毛を伏せ、小さく「……そうですか」とだけ答えた。

 反論する言葉が見つからなかったわけではない。ただ、シュティアの瞳があまりに真っ直ぐで、その「ニコニコ」とした表情の裏にある執着の深さが、今のレデアには心地よくさえ感じられたのだ。

 

「……じゃあ、お姉ちゃんとして命じます。次の交差点を右です。ギルドの支部に着くまでに、もうそのニヤニヤした顔は元に戻しなさい」

「はいはーい! お姉ちゃんの命令なら喜んで!」

 

 ◆◆◇◇◆◆

 3. 誇りと、小さなお返し

 

 ギルドの掲示板で見つけた依頼は、新調した溶断レーザーのテストにはうってつけの「高硬度小惑星の精密サンプリング」だった。

 書類手続きを終え、二人はシルバーアンカーへの帰路につく。

 

「……ふふ。やっぱり、お姉ちゃんは仕事を選ぶ時の目が鋭いね。あの依頼、他の人が敬遠してたのは、精度の要求が厳しすぎるからでしょう? でも、お姉ちゃんの操舵なら余裕だもんね」

「シュティアのアンカーによる固定が前提です。協力してください」

「もちろんだよ! お姉ちゃんのためなら、太陽だってアンカーで引き留めてみせるよ」

 

 ステーションの喧騒の中、二人の足音が重なる。

 先ほどのように「姉妹」を間違われる視線は、その後も何度かあった。だが、レデアはもうそれを気に留めることはなかった。

 

 ステーションの出入り口付近にある、例のアイスクリーム屋の前を通る。

「……シュティア」

「ん? なに、お姉ちゃん」

「……一つ。予算に含めます。買いなさい」

 

 レデアがぶっきらぼうに指差したのは、シュティアがさっき勧めていた新作のアイスだった。

 シュティアは一瞬驚いたように目を見開き、次の瞬間、今日一番の輝きで顔をほころばせた。

 

「お姉ちゃん……! 私のために!? もしかして、さっきの『お姉ちゃんはお姉ちゃん』ってセリフ、そんなに嬉しかった!?」

「……違います。仕事が決まった、景気付けです」

「あー! 照れてる! お姉ちゃんが照れてるよ! 可愛い! あーんしてあげようか!? それとも私が食べるのを一口あげる!?」

「……早く買ってください。置いていきますよ」

 

 足早に歩き出すレデアの後ろ姿。

 その後ろを、幸せを絵に描いたような顔で追いかける、背の高い自称「妹」。

 琥珀色の人工光に照らされた二人の影は、どちらが姉でどちらが妹かなどという些細な区別を超えて、分かちがたく一つの家族として、ステーションの闇の中へと消えていった。

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