砕氷のアンカー、あるいは熱病の抱擁   作:エスカド

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28話:色褪せた頁、あるいは膝上の冒険譚

◆◆◇◇◆◆

1. 新たな同居人、あるいは最弱のライバル

 

「……完璧です。このフォルム、この弾力。まさにあの時の再現と言えます」

 シルバーアンカー、レデア・メイスの寝室。

 主であるレデアは、ベッドの真ん中に鎮座した「それ」を、心底満足そうに眺めていた。

 

 それは、先日保護した原生生物、ポムを模した実物大のぬいぐるみだった。ステーションの雑貨店で見つけた瞬間、レデアは珍しく即決で購入したのだ。

 彼女は小さな手でぬいぐるみの橙色の毛並みを整えると、自身もベッドに腰を下ろし、幸せそうに頬を寄せた。

 

「ふふ……。シュティア、見てください。この質感、本物に近いですよ」

「う、うん。……本当だね、お姉ちゃん。とっても可愛いよ。……お姉ちゃんが喜んでいる姿を見るのが、私の宇宙で一番の幸せ……かな……」

 

 シュティアは、扉の影からレデアの様子を見守りつつ、引き攣った笑みを浮かべていた。内側では、凄まじい嵐が吹き荒れている。

 

(……な、なにあの綿の塊……! 私がいない間に、お姉ちゃんの聖域(ベッド)のど真ん中を占拠するなんて! 私というものありながら!)

 

「シュティア? 何か不穏な独り言が聞こえましたが」

「えっ!? ななな、なんでもないよ! ただ、私もぬいぐるみみたいにふわふわになれるよって言おうとしただけで! ほら、今のパジャマは起毛素材だから、お姉ちゃんが抱きしめてくれたら、その毛玉よりもずっと快適なはずだよ!」

 

 シュティアは、必死に自分の腕をレデアに差し出した。

「お断りします。……どうせ、私が寝入ったら、隙を見て撮影を始めるのでしょう? 知っていますよ、先日のロボット掃除機の反省を忘れたのですか」

「うぐっ……」

 

 ジト目で射抜かれ、シュティアは言葉を失った。レデアは呆れたように溜息をつくと、ポムのぬいぐるみを優しく撫で直した。

「……大人しくしていなさい。私はこれから、昨日の航行データの微調整に行ってきます」

 

◆◆◇◇◆◆

2. 黄金の滝、あるいは古い英雄

 

 一時間後。データの調整を終えたレデアがリビングに戻ると、そこには意外な光景があった。

 大きなソファに、シュティアが仰向けになって寝そべっている。

 

 彼女の長い金髪はソファの端から床に向かって、まるで黄金の滝のようにさらさらと垂れ下がっていた。人工光を反射して輝くその髪と、物憂げに本を掲げる妹の横顔。レデアは思わず、その場に立ち止まった。

 

(……本当に綺麗です。シュティアは黙っていれば、きっと銀河一の美貌だというのに)

 自分の小さな体格とは対照的な、モデルのように洗練された妹の姿に、ほんの少しの羨望を覚える。だが、それ以上にレデアの目を引いたのは、シュティアが手に持っている「物」だった。

 

「シュティア。……その本、紙媒体ですよね? 珍しい」

 今や情報は全てホログラム、古臭くても電光掲示板だ。物理的な紙を綴じた本など、博物館か一部の資産家のコレクションでしかお目にかかれない。

 

「あ、お姉ちゃん。おかえりなさい」

 シュティアは本を掲げたまま、穏やかな笑みを向けた。

「うん、そうなの。ずっと前に手に入れたのを、荷物整理してたら見つけてね。なんだか懐かしくなって、読み返してたんだ」

 

「なんの本ですか? あなたが本を買うなんて、知りませんでした。それは何の本ですか?」

 レデアは興味を惹かれ、ソファの側まで歩み寄った。古い紙特有の、少し甘くて乾いた匂いが鼻をくすぐる。

 

「……伝記だよ。それも、ずっと昔の、かつての地球であったっていう冒険譚」

 シュティアは、どこか遠くを見るような目で、表紙を愛おしそうに撫でた。

「暗黒の海……今の宇宙よりずっと狭い海を、帆を張った木の船で、未知を求めて突き進む英雄たちの話。私はこの本に勇気をもらったことがあるんだよね」

 

 その声音には、懐かしさと彼女の強さの両方が感じられた。

 

「……勇気、ですか」

「うん。行き先が分からなくなっても諦めない、強く自分を持つ、そういう勇気」

 

◆◆◇◇◆◆

3. 膝上の特等席、あるいは至福のページ

 

「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に読む?」

 シュティアは、バネのように体を起こし、ソファの上に座り直した。そして、自分の膝をぽんぽんと叩く。

「私の膝の上にどうぞ。特等席だよ」

 

「……また、そうやってすぐに……」

 レデアは呆れた顔をしたが、シュティアの穏やかな仕草に解されていく感覚を覚えた。

 

「……たまには、良いでしょう」

 レデアは、少しだけぎこちない動きで、シュティアの膝の上に腰を下ろした。

 シュティアの体温が、背中を通じて伝わってくる。

 

「……っ、…………。やっぱり、近すぎます」

「いいの、お姉ちゃん。動かないで。……さあ、ここからだよ」

 

 シュティアは、レデアの小さな体を包み込むように腕を回し、二人の間に本を開いた。

 黄ばんだ紙に、黒いインク。デジタルフォントとは違う、どこか不器用で温かみのある活字が並んでいる。

 

「……あ、本当だ。指先でページを捲る感覚、新鮮ですね」

「でしょ? 自分の手で物語を進める感じがするんだ」

 

 シュティアは、ゆっくりとした動作でページを捲る。二人の間に流れるのは、エンジンの微かな振動と、紙が擦れる小さな音だけ。レデアは、シュティアの腕の中にすっぽりと収まりながら、文字を追った。

 そこには、荒れ狂う嵐の海、水平線の彼方に光る希望、そして仲間たちとの誓いが綴られていた。

 

 シュティアは、レデアの銀髪に顎を乗せ、満足そうに瞳を細めている。

「……お姉ちゃん。あのぬいぐるみも可愛いけど……。こうして、私の腕の中にいてくれるお姉ちゃんが、やっぱり私にとっての『冒険の果て』なんだよ」

 

「…………。また余計なことを。集中して読ませてください」

 レデアはぶっきらぼうに答えたが、その顔は、本の文字に隠れて見えないほど赤くなっていた。

 

 紙の本が語る、古き英雄たちの冒険。

 

 シュティアの長い指先が、次のページを捲る。シルバーアンカーのリビングは、宇宙の喧騒を忘れさせる、静かな読書室へと変わっていた。

 

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