砕氷のアンカー、あるいは熱病の抱擁   作:エスカド

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44話:偽りの仮面、あるいは月光の亡霊

◆◆◇◇◆◆

1. 偽りの貌(かお)、あるいは深層の境界線

 

 スバル・ステーション、第99廃棄区画。

 そこは、華やかな商業区やジャンク屋が犇めく下層区とも異なる、ステーションの「真の闇」を担う場所だった。管理局の監視の目は届かず、一般の何でも屋すらも簡単には寄り付かない。単に非合法な物資を売り捌くような犯罪者ではなく、国家や大企業の暗部、あるいは血生臭い暗殺に関わる者たちのテリトリー。

 

 その薄暗い通路を、一人の少女が音もなく歩いていた。

 

 彼女の姿に、普段の金髪のロングポニーテールはどこにもない。そこにあるのは、月の光を反射したかのような銀のウェーブヘアーと、感情の失せた冷徹な銀色の瞳。

 これ一つで民間用の小型船が丸ごと一隻買えてしまうほどの価値を持ち、一般のルートでは逆立ちしても入手できない最高機密のデバイス――『光屈折型・生体偽装スキン』。それが、シュティアの姿を完全に、かつてのコードネームである『メイル・ノア』へと変貌させていた。

 

 メイルは無言のまま、脳内に叩き込んだ端末の暗号を照合する。

 錆びついた気密扉の前に立ち、隠しパネルに特殊な電子認証を通すと、重々しい金属音が響き、扉がゆっくりと左右に割れた。

 

◆◆◇◇◆◆

2. 亡霊の部屋、あるいは不自由な契約

 

 足を踏み入れた室内は、ステーションの廃墟には不釣り合いなほど、整然としながらもあまりにも無骨な空間だった。

 余計な装飾は一切ない。剥き出しのコンクリートと軍用規格の電子モニター、そして部屋の中央には、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばした一人の壮年の男性が、冷たい笑みを浮かべて立っていた。

 その仕立ての良い軍服風のジャケットと、数々の死線を潜り抜けてきたであろう隻眼の鋭い光が、彼がただの悪党ではないことを物語っている。

 

「――久々だな、メイル・ノア。それとも……」

 

 男は低く、ひび割れた声で紡いだ。

 

「シュティア・メイス、と言えばいいか?」

 

 その瞬間、メイルの身体が、一瞬だけ硬直した。

 その瞳に鋭さと憎悪が宿る。

 

「……次その口からその名前を出したら、あなたの首と体はさよならを言うでしょう」

 

 メイルの声は、地を這うように冷たかった。普段のシュティアからは想像もつかない、感情を完全に削ぎ落とした、文字通りの「凶器」としての声。

 

 だが、その脅迫に対しても、男は動じることなく愉しげに笑みを深めただけだった。

 

「いい眼だ。だが忘れるな、メイル。我々の協力者であった君が『新たな生活』を手に入れる為の条件として――我々に、どんな仕事でも一度だけ引き受けてもらう、そう条件を付けたはずだな?」

 

 男はメイルの返事を待たず、卓上のホログラムを起動した。

 青白い光が、ある極秘の計画書を空間に描き出す。

 

「今が、その時だ。メイル・ノア。君の平穏の代償を、支払ってもらう」

 

 差し出された「仕事」の書類を前に、メイルの銀色の瞳が、昏い光を放ちながら静かに沈んでいった。

 

◆◆◇◇◆◆

3. 月影の出航、あるいは矛盾する因果

 

 スバル・ステーションの表層から遥か遠く、公的な記録には決して残らない秘密ドック。

 薄暗いドックのドーム内で、一隻の銀色の高速突撃艦が静かに目覚めようとしていた。

 

 船の名は『ルナ・ガイスト(月光の亡霊)』。

 かつてメイル・ノアが、姉と再会するまでの間に乗っていた愛機。二度と乗るつもりはなかった。レデアと共にシルバーアンカーを、あの温かい何でも屋の日常を始めると決めたあの日、この船のキーは心の奥底に封印したはずだった。

 

 だが、「もしもの時」が来ることを、彼女は予感していた。

 だからこそ、レデアには決して悟られないよう、細心の注意を払いながら、自身の傍を離れずに済むよう遠隔の自律ボットを用いて、定期的なメンテナンスと隠蔽工作だけは欠かさずに行ってきたのだ。

 

(……こんな形で、このシートに再び座ることになるなんてね)

 

 銀色の瞳を不気味に発光させ、メイルは計器類をチェックしていく。生体偽装スキンによって完全に「メイル・ノア」へと戻った彼女の脳裏に、先ほどあの隻眼の男から言い渡された「仕事」の内容が思い起こされる。

 

◆◆◇◇◆◆

4. 亡霊の回想、あるいは繰り返される惨劇

 

「メイル、君への依頼は『アルニラム重工』の令嬢――ルミエ・アルニラムの誘拐だ。……生死は問わん」

 

 男の口から吐き出されたその名前に、メイルは何も言わなかった。ただ、感情を完全に削ぎ落とした氷の視線を、ゆっくりと男へ向ける。

 

 男は冷酷な笑みを絶やさないまま、話を続けた。

「現在の我々のクライアントが彼女の誘拐を依頼した。だが……間もなく救出されたようだ。ギルドに所属する、二組の何でも屋によってな」

 

 メイルは、やはり何も答えない。

 だが、察するには十分だった。先日のあの救出任務。カノアたちの『アクア・イグニッション』と、自分たちの『シルバーアンカー』が成し遂げた、令嬢救出。あれこそが、かつての組織に「メイル・ノアがスバル・ステーションに潜伏している」という事実を突き止める決定打となってしまったのだ。

 自分がレデアを守ろうと戦った結果が、巡り巡ってこの過去の鎖を呼び寄せてしまった。なんという皮肉だろうか。

 

「……何故、再度誘拐を?」

 メイルの低い声が、無骨な部屋に響く。

「それに、生死を問わないとは? 彼女は交渉のカードだったはず」

 

 その問いに、男は無造作に肩をすくめてみせた。

「クライアントの考えることなど、こちらの知るところではない。一度目の失敗で、アルニラム重工との『交渉』をする気が失せたのかもしれん。あるいは――」

 

「『アルニラム重工』への当てつけ、それとも、復讐……」

 メイルが冷たく言葉を継ぐ。男はそれには明確に反応しなかったが、その一瞬の沈黙が、彼女の予感が概ね当たっていることを証明していた。一度、自分たちの手で救い出した無垢な少女を、今度は自分の手で、生殺しも含めて闇に葬れというのだ。

 

「それでは、頼んだぞ。メイル・ノア。君の『一回限りの義務』、確実に果たしてもらう」

 

◆◆◇◇◆◆

5. 暗黒の葛藤、あるいは揺らぐ凶器

 

 回想は終わり、ルナ・ガイストのリア・エネルギーが静かだが強い音を響かせて完全起動する。

 ハッチが開き、くすんだ銀色の船体がスバル・ステーションの影から、静かに宇宙の深淵へと滑り出していった。

 

 自分たちが命懸けで救出した、あの怯えていた少女、ルミエ・アルニラムを、今度は自分が誘拐し、そして最悪の場合はその命を奪う。

 あまりにも理不尽で、あまりにも残酷な因果の巡り合わせ。

 

(……以前の……私なら、きっと、何も迷わなかったはずなのに)

 

 操縦桿を握るメイルの指先が、微かに、本当に微かに震えていた。

 かつての彼女なら、そこに感情は無かった、関係の無いことだったのだ。

 だが、今の彼女の心には、小さくて、温かくて、世界で一番大好きな「お姉ちゃん」の存在がある。人の温もりを知ってしまった凶器は、もはやかつてのように冷徹に引き金を引くことができなくなっていた。

 

 ルナ・ガイストのフロントモニターに、ルミエの乗る移動船の予測進路が映し出される。

 メイル・ノアとしての義務を果たすのか、それともシュティア・メイスとしての心を突き通すのか。月の亡霊は、自らが背負う暗黒の運命へと向かって、加速していった。

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