ぽつり、ぽつり、と。
石畳に落ちた雨粒が乾かぬうちに、次の一滴が染みを作る。
王都メルグスの北門をくぐったとき、ノイ・ロゴーは空を見上げて小さく息を吐いた。曇天。まあ、悪くない。ドラゴン族の里から一週間も旅をした身としては、たとえ雨でも王都の空気は格別だ。
「戻ったか」
つぶやいて、肩の力を抜く。
すれ違う人々がちらりと彼を見ては、そそくさと目を逸らす。無理もない。黒ずくめの外套に、肩越しの大剣。腰には無数の小袋と、使い込まれた皮の手袋。そして何より、三日月のような傷が走る左の頬。
一目で只者ではないとわかる風貌だ。
「あれ、孤影のノイじゃないか」
「しっ、声がでかい」
ひそひそ話も聞こえているが、気にしない。気にしたところでどうにもならない。ノイはただ、歩く。大通りを避け、裏通りへ。さらに路地を二度曲がり、石段を下りて、また上る。
王都に十年住んでいても迷いそうな細道を、彼は迷いなく進む。やがて、ふわりと香ばしい匂いが鼻をかすめた。焼ける油。香辛料。煮込みの深い香り。
絶品通りだ。
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通りに一歩踏み入れたとたん、ノイの頬がほんの少しだけ緩んだ。誰も見ていないから、いいだろう。
絶品通りは、メルグスでも指折りの飲食店街である。高級料理亭から屋台まで、とにかく美味いものだけが生き残る。値段も味も店構えも玉石混交。それがいい。
屋台の串焼き屋が威勢よく声を張り、向かいの老夫婦が営む汁物屋は黙々と鍋をかき混ぜている。三階建ての高級亭からは竪琴の音色がもれて、通りを歩くだけで腹が鳴る。
ぐう、と実際に鳴った。
ノイは無表情のまま腹を押さえる。腹の虫というやつは正直だ。一週間ぶりのまともな飯、とくれば鳴くなと言う方が無理か。
さて、と彼は足を止めた。
(今日は何を食うか)
クエスト帰りの恒例、自分へのご褒美だ。危ない橋を渡ってきたあとだからこそ、美味いものを腹いっぱい詰め込みたい。
しかし今日は、いつもと違った。
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脳裏に浮かぶのは、白く巨大なフォルム。
ドラゴンの卵。
「はあ……」
思わずため息が出る。一週間である。一週間も、あの卵と共に過ごした。荷車に乗せ、賊に狙われぬよう夜通し見張り、坂道では落とさぬよう汗だくで支え、川を渡るときは流されぬよう必死にロープを張った。
なにせ、ドラゴン族の里で「これを都まで届けてほしい」と手渡されたときの衝撃ときたら。
「た、たまご……?」
ノイはその場で三度、自分の耳を疑った。依頼書には『里からの運搬依頼』としか書かれていなかった。まさか運ぶ対象が、自分の身長の半分ほどもある巨大な卵だとは。
紅色の鱗を持つ老ドラゴンは、しわがれた声で言ったものだ。
「無精卵じゃ。孵らぬ卵は、いずれ腐る。だが貴族どもはこれを珍重する。料理にしてな」
料理。
そう、あの卵は食材だったのだ。貴族たちがこぞって欲しがる希少な食材。無精卵だから孵らない、つまり食べても罪悪感がない。しかも一個で百人前は取れるという。
「……どんな料理なんだろうな」
ノイは絶品通りを歩きながら、ひとりごちた。
巨大なオムレツ。想像してみる。黄金色に輝く、分厚くふわふわの卵。フォークを入れたとたん、じゅわっと溶け出す半熟の内側。塩と胡椒だけのシンプルな味付けで、バターの香りが鼻を抜ける。あれは間違いなく美味い。
いや、プリンという線もある。あの巨大な卵の中身をすべて使い、大きな型に流し込んで蒸す。カラメルソースをたっぷりかけて、冷やして固める。スプーンを入れるとぷるんと震えて、口に入れたらとろける甘さ。貴族の晩餐会に出したら拍手喝采だろう。
スクランブルエッグはどうだ。ふわとろに仕上げたやつを、焼きたてのパンにのせて。あるいは厚切りベーコンと一緒に、朝の食卓で。
だめだ、とノイは頭を振った。
考えれば考えるほど、卵が食べたい。
卵料理なら、やっぱり高級店より庶民的な店だろう。貴族向けの手の込んだ料理じゃなくて、日常の味。ふらりと入って、気取らず食べられる。
そう思いながら通りを歩いていると、ふと目に留まった看板があった。
『軽食屋 ドーンスター』
木造りの小さな店で、窓からはオレンジ色の灯りがもれている。入口の黒板には、今日のおすすめが白墨で走り書きしてあった。その一番上に――
「……オムレツ」
文字を目で追ったノイは、無言で扉を押していた。
からん、と小気味よい鐘の音。
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「いらっしゃい!」
店内はこぢんまりしていた。カウンターが六席、あとは四人がけのテーブルが二つ。壁には色あせたメニュー表が貼られ、天井近くの梁には乾燥ハーブが吊るしてある。
カウンターの奥で、白いエプロンをかけた初老の女将が顔を上げた。丸い顔に、くしゃっとした笑い皺。この店の空気そのもののような人だ。
「おや、あんた」
女将はノイを見て、ぱちぱちと瞬きした。
「孤影のノイじゃないか。久しぶりだねえ。またクエスト帰りかい?」
「……覚えられてたか」
「そりゃあね。三年前からちょくちょく来てくれるんだもの。いつもカウンターの隅で、無言でぱくぱく食べて、金だけ置いて帰るんだから、忘れようったって忘れられないよ」
ノイは微かに口元を歪めた。笑ったのか、照れたのか、自分でもよくわからない。
「今日は何にする?」
「オムレツ」
即答だった。女将は一瞬きょとんとして、それから「はいよ!」と威勢よく返した。どうやら卵料理を出す店で当たりだったらしい。
カウンターの隅、いつもの席に腰を下ろす。外套を脱ぎ、大剣を壁に立てかける。肩が軽くなった。
じゅうっ。
厨房から、油の跳ねる小気味よい音。続いて、卵がフライパンに流し込まれるとろりとした気配。バターの香りがふわりと広がる。
ノイは目を閉じた。
この瞬間が、何よりも好きだった。クエストが終わって、命のやり取りから解放されて、ただ美味いものが出てくるのを待つ時間。戦闘でもなければ交渉でもない、完全に受け身の幸福。
「お待ちどうさま」
目の前に置かれた皿。
黄金色の楕円が、湯気を立てている。表面はつやつやと輝き、ほんのり焦げ目のついた部分が香ばしい。付け合わせは、彩りのミニトマトと、ほくほくのポテト。パンもひと切れ。
ノイはフォークを手に取った。
オムレツの中央に、そっと切れ目を入れる。
とろり。
半熟の卵がゆっくりと流れ出し、湯気がふわりと立ちのぼる。フォークですくい、口に運ぶ。
「……っ」
ふわふわだ。外側のしっかり焼けた部分の香ばしさと、内側のとろけるような舌触り。塩加減が絶妙で、バターのコクがじんわりと広がる。
噛む、というより、溶ける。
卵が、卵の味がする。余計なものが入っていない。ただ卵とバターと塩。それだけなのに、こんなに奥深い。
(やっぱり卵はいいな)
心の中でつぶやきながら、二口、三口と続ける。止まらない。ポテトをかじり、トマトを囓り、パンで卵をすくう。一週間ぶりのちゃんとした食事が、体の隅々に染み渡っていく。
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「どうだい、美味いか?」
女将がカウンター越しに声をかけてきた。手は動かしたまま、次の料理の仕込みをしている。
「……ああ」
「今日のは特に自信作だよ。朝採れの新鮮な卵でね。黄身が濃いだろう?」
そういえば、色が濃い。黄身のオレンジが強い。こんな卵は滅多にない。
「どこ産だ」
「東の養鶏場さ。最近、餌にこだわり始めたんだと。香草を混ぜてるらしいよ」
ノイは小さくうなずき、最後の一口を口に運んだ。名残惜しい。が、仕方ない。美味いものは、いつか終わる。
「ごちそうさま」
空になった皿を眺めながら、彼はしばし余韻に浸った。
卵料理には、不思議な力がある。食べるとほっとする。子供の頃、母親が作ってくれた記憶がそうさせるのか。単に栄養価が高いせいか。理由はわからないけれど、とにかく卵は心に優しい。
「あのさあ」
女将が急に声をひそめた。
「あんた、今回のクエストって、もしかしてドラゴンの卵かい?」
ノイのフォークが、かちりと止まった。
「……なんで」
「さっきギルドの連中が来てね。ドラゴンの卵を運んだ冒険者がいるって噂してたんだよ。一週間がかりで、しかもたった一人で運んだって」
女将は目を丸くした。
「あんたのことだろうと思ったよ。なんせ孤影のノイだもの」
ノイは曖昧にうなずいた。あまり話すことではない。依頼の詳細は本来、門外不出だ。
「でもね」
女将はにこりと笑った。
「あんたがうちのオムレツを食べて、ちょっと嬉しそうな顔をしたってことは、よっぽど卵に思い入れがあったんだろうね。一週間も運んだんだもの、愛着も湧くさ」
図星だった。
ノイは照れ隠しに水を飲んだが、耳の先がほんのり赤くなっているのを、女将は見逃さなかった。でも、なにも言わない。そういう人だ。
「今度は何の気分だい?」
「……プリン」
「あいよ。食後の甘いものだね」
女将が冷蔵室から取り出したプリンは、つやつやのカラメルソースがかかった、小ぶりながら完全な形のものだった。スプーンを入れると、ぷるんと震える。口に含むと、とろりと甘く溶けて、卵の風味がふわりと残る。
オムレツとはまた違う、卵の顔。
ノイは目を細めた。
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会計を済ませ、店を出る。外はもうすっかり夕暮れで、絶品通りは夜の部へと移り変わりつつあった。ランタンに火が灯り、酒場からは陽気な笑い声がもれる。
ノイは背筋を伸ばした。腹は満ち、心も満ちている。
(クエストの後は、やっぱりこれだ)
一人で歩き、一人で食べる。誰にも気を遣わず、ただ自分のためだけの時間。
孤影のノイと呼ばれても、彼は気にしない。むしろ、この時間があるからこそ、また危険なクエストに挑めるのだ。
「……次は、スクランブルエッグも頼んでみるか」
ぽつりとつぶやいて、ノイは夜の王都へと歩き出した。
曇天はいつのまにか晴れて、西の空がうっすらと朱に染まっている。
明日もまた、冒険は続く。でも今だけは、ただのノイ・ロゴーとして、卵の余韻に浸るのも悪くない。
腹の奥から、満足げなため息がひとつ、もれた。