孤影のグルメ   作:蛸足のスルメ

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01話『王都メルグス、軽食屋ドーンスターのオムレツ』

ぽつり、ぽつり、と。

 

石畳に落ちた雨粒が乾かぬうちに、次の一滴が染みを作る。

 

王都メルグスの北門をくぐったとき、ノイ・ロゴーは空を見上げて小さく息を吐いた。曇天。まあ、悪くない。ドラゴン族の里から一週間も旅をした身としては、たとえ雨でも王都の空気は格別だ。

 

「戻ったか」

 

つぶやいて、肩の力を抜く。

 

すれ違う人々がちらりと彼を見ては、そそくさと目を逸らす。無理もない。黒ずくめの外套に、肩越しの大剣。腰には無数の小袋と、使い込まれた皮の手袋。そして何より、三日月のような傷が走る左の頬。

 

一目で只者ではないとわかる風貌だ。

 

「あれ、孤影のノイじゃないか」

 

「しっ、声がでかい」

 

ひそひそ話も聞こえているが、気にしない。気にしたところでどうにもならない。ノイはただ、歩く。大通りを避け、裏通りへ。さらに路地を二度曲がり、石段を下りて、また上る。

 

王都に十年住んでいても迷いそうな細道を、彼は迷いなく進む。やがて、ふわりと香ばしい匂いが鼻をかすめた。焼ける油。香辛料。煮込みの深い香り。

 

絶品通りだ。

 

---

 

通りに一歩踏み入れたとたん、ノイの頬がほんの少しだけ緩んだ。誰も見ていないから、いいだろう。

 

絶品通りは、メルグスでも指折りの飲食店街である。高級料理亭から屋台まで、とにかく美味いものだけが生き残る。値段も味も店構えも玉石混交。それがいい。

 

屋台の串焼き屋が威勢よく声を張り、向かいの老夫婦が営む汁物屋は黙々と鍋をかき混ぜている。三階建ての高級亭からは竪琴の音色がもれて、通りを歩くだけで腹が鳴る。

 

ぐう、と実際に鳴った。

 

ノイは無表情のまま腹を押さえる。腹の虫というやつは正直だ。一週間ぶりのまともな飯、とくれば鳴くなと言う方が無理か。

 

さて、と彼は足を止めた。

 

(今日は何を食うか)

 

クエスト帰りの恒例、自分へのご褒美だ。危ない橋を渡ってきたあとだからこそ、美味いものを腹いっぱい詰め込みたい。

 

しかし今日は、いつもと違った。

 

---

 

脳裏に浮かぶのは、白く巨大なフォルム。

 

ドラゴンの卵。

 

「はあ……」

 

思わずため息が出る。一週間である。一週間も、あの卵と共に過ごした。荷車に乗せ、賊に狙われぬよう夜通し見張り、坂道では落とさぬよう汗だくで支え、川を渡るときは流されぬよう必死にロープを張った。

 

なにせ、ドラゴン族の里で「これを都まで届けてほしい」と手渡されたときの衝撃ときたら。

 

「た、たまご……?」

 

ノイはその場で三度、自分の耳を疑った。依頼書には『里からの運搬依頼』としか書かれていなかった。まさか運ぶ対象が、自分の身長の半分ほどもある巨大な卵だとは。

 

紅色の鱗を持つ老ドラゴンは、しわがれた声で言ったものだ。

 

「無精卵じゃ。孵らぬ卵は、いずれ腐る。だが貴族どもはこれを珍重する。料理にしてな」

 

料理。

 

そう、あの卵は食材だったのだ。貴族たちがこぞって欲しがる希少な食材。無精卵だから孵らない、つまり食べても罪悪感がない。しかも一個で百人前は取れるという。

 

「……どんな料理なんだろうな」

 

ノイは絶品通りを歩きながら、ひとりごちた。

 

巨大なオムレツ。想像してみる。黄金色に輝く、分厚くふわふわの卵。フォークを入れたとたん、じゅわっと溶け出す半熟の内側。塩と胡椒だけのシンプルな味付けで、バターの香りが鼻を抜ける。あれは間違いなく美味い。

 

いや、プリンという線もある。あの巨大な卵の中身をすべて使い、大きな型に流し込んで蒸す。カラメルソースをたっぷりかけて、冷やして固める。スプーンを入れるとぷるんと震えて、口に入れたらとろける甘さ。貴族の晩餐会に出したら拍手喝采だろう。

 

スクランブルエッグはどうだ。ふわとろに仕上げたやつを、焼きたてのパンにのせて。あるいは厚切りベーコンと一緒に、朝の食卓で。

 

だめだ、とノイは頭を振った。

 

考えれば考えるほど、卵が食べたい。

 

卵料理なら、やっぱり高級店より庶民的な店だろう。貴族向けの手の込んだ料理じゃなくて、日常の味。ふらりと入って、気取らず食べられる。

 

そう思いながら通りを歩いていると、ふと目に留まった看板があった。

 

『軽食屋 ドーンスター』

 

木造りの小さな店で、窓からはオレンジ色の灯りがもれている。入口の黒板には、今日のおすすめが白墨で走り書きしてあった。その一番上に――

 

「……オムレツ」

 

文字を目で追ったノイは、無言で扉を押していた。

 

からん、と小気味よい鐘の音。

 

---

 

「いらっしゃい!」

 

店内はこぢんまりしていた。カウンターが六席、あとは四人がけのテーブルが二つ。壁には色あせたメニュー表が貼られ、天井近くの梁には乾燥ハーブが吊るしてある。

 

カウンターの奥で、白いエプロンをかけた初老の女将が顔を上げた。丸い顔に、くしゃっとした笑い皺。この店の空気そのもののような人だ。

 

「おや、あんた」

 

女将はノイを見て、ぱちぱちと瞬きした。

 

「孤影のノイじゃないか。久しぶりだねえ。またクエスト帰りかい?」

 

「……覚えられてたか」

 

「そりゃあね。三年前からちょくちょく来てくれるんだもの。いつもカウンターの隅で、無言でぱくぱく食べて、金だけ置いて帰るんだから、忘れようったって忘れられないよ」

 

ノイは微かに口元を歪めた。笑ったのか、照れたのか、自分でもよくわからない。

 

「今日は何にする?」

 

「オムレツ」

 

即答だった。女将は一瞬きょとんとして、それから「はいよ!」と威勢よく返した。どうやら卵料理を出す店で当たりだったらしい。

 

カウンターの隅、いつもの席に腰を下ろす。外套を脱ぎ、大剣を壁に立てかける。肩が軽くなった。

 

じゅうっ。

 

厨房から、油の跳ねる小気味よい音。続いて、卵がフライパンに流し込まれるとろりとした気配。バターの香りがふわりと広がる。

 

ノイは目を閉じた。

 

この瞬間が、何よりも好きだった。クエストが終わって、命のやり取りから解放されて、ただ美味いものが出てくるのを待つ時間。戦闘でもなければ交渉でもない、完全に受け身の幸福。

 

「お待ちどうさま」

 

目の前に置かれた皿。

 

黄金色の楕円が、湯気を立てている。表面はつやつやと輝き、ほんのり焦げ目のついた部分が香ばしい。付け合わせは、彩りのミニトマトと、ほくほくのポテト。パンもひと切れ。

 

ノイはフォークを手に取った。

 

オムレツの中央に、そっと切れ目を入れる。

 

とろり。

 

半熟の卵がゆっくりと流れ出し、湯気がふわりと立ちのぼる。フォークですくい、口に運ぶ。

 

「……っ」

 

ふわふわだ。外側のしっかり焼けた部分の香ばしさと、内側のとろけるような舌触り。塩加減が絶妙で、バターのコクがじんわりと広がる。

 

噛む、というより、溶ける。

 

卵が、卵の味がする。余計なものが入っていない。ただ卵とバターと塩。それだけなのに、こんなに奥深い。

 

(やっぱり卵はいいな)

 

心の中でつぶやきながら、二口、三口と続ける。止まらない。ポテトをかじり、トマトを囓り、パンで卵をすくう。一週間ぶりのちゃんとした食事が、体の隅々に染み渡っていく。

 

---

 

「どうだい、美味いか?」

 

女将がカウンター越しに声をかけてきた。手は動かしたまま、次の料理の仕込みをしている。

 

「……ああ」

 

「今日のは特に自信作だよ。朝採れの新鮮な卵でね。黄身が濃いだろう?」

 

そういえば、色が濃い。黄身のオレンジが強い。こんな卵は滅多にない。

 

「どこ産だ」

 

「東の養鶏場さ。最近、餌にこだわり始めたんだと。香草を混ぜてるらしいよ」

 

ノイは小さくうなずき、最後の一口を口に運んだ。名残惜しい。が、仕方ない。美味いものは、いつか終わる。

 

「ごちそうさま」

 

空になった皿を眺めながら、彼はしばし余韻に浸った。

 

卵料理には、不思議な力がある。食べるとほっとする。子供の頃、母親が作ってくれた記憶がそうさせるのか。単に栄養価が高いせいか。理由はわからないけれど、とにかく卵は心に優しい。

 

「あのさあ」

 

女将が急に声をひそめた。

 

「あんた、今回のクエストって、もしかしてドラゴンの卵かい?」

 

ノイのフォークが、かちりと止まった。

 

「……なんで」

 

「さっきギルドの連中が来てね。ドラゴンの卵を運んだ冒険者がいるって噂してたんだよ。一週間がかりで、しかもたった一人で運んだって」

 

女将は目を丸くした。

 

「あんたのことだろうと思ったよ。なんせ孤影のノイだもの」

 

ノイは曖昧にうなずいた。あまり話すことではない。依頼の詳細は本来、門外不出だ。

 

「でもね」

 

女将はにこりと笑った。

 

「あんたがうちのオムレツを食べて、ちょっと嬉しそうな顔をしたってことは、よっぽど卵に思い入れがあったんだろうね。一週間も運んだんだもの、愛着も湧くさ」

 

図星だった。

 

ノイは照れ隠しに水を飲んだが、耳の先がほんのり赤くなっているのを、女将は見逃さなかった。でも、なにも言わない。そういう人だ。

 

「今度は何の気分だい?」

 

「……プリン」

 

「あいよ。食後の甘いものだね」

 

女将が冷蔵室から取り出したプリンは、つやつやのカラメルソースがかかった、小ぶりながら完全な形のものだった。スプーンを入れると、ぷるんと震える。口に含むと、とろりと甘く溶けて、卵の風味がふわりと残る。

 

オムレツとはまた違う、卵の顔。

 

ノイは目を細めた。

 

---

 

会計を済ませ、店を出る。外はもうすっかり夕暮れで、絶品通りは夜の部へと移り変わりつつあった。ランタンに火が灯り、酒場からは陽気な笑い声がもれる。

 

ノイは背筋を伸ばした。腹は満ち、心も満ちている。

 

(クエストの後は、やっぱりこれだ)

 

一人で歩き、一人で食べる。誰にも気を遣わず、ただ自分のためだけの時間。

 

孤影のノイと呼ばれても、彼は気にしない。むしろ、この時間があるからこそ、また危険なクエストに挑めるのだ。

 

「……次は、スクランブルエッグも頼んでみるか」

 

ぽつりとつぶやいて、ノイは夜の王都へと歩き出した。

 

曇天はいつのまにか晴れて、西の空がうっすらと朱に染まっている。

 

明日もまた、冒険は続く。でも今だけは、ただのノイ・ロゴーとして、卵の余韻に浸るのも悪くない。

 

腹の奥から、満足げなため息がひとつ、もれた。

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