孤影のグルメ   作:蛸足のスルメ

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02話『森の里、料理長ガルムの魔猪肉の森スパイス焼き丼』

巨大な魔猪が膝を折った。ぐらりと傾ぐ巨躯。傷だらけの前脚が、ぬかるんだ地面を掻く。それでも倒れまいと、血走った両眼がノイを睨み据える。

 

だが、もう終わりだ。

 

ノイは大きく跳んだ。疲れ切った両脚に鞭打ち、泥と血にまみれた大剣を逆手に構える。狙うは一点──眉間。鱗のような装甲が最も薄い箇所だ。

 

(これで……)

 

大剣が唸りを上げて振り下ろされる。刃は狙い違わず魔猪の脳天を貫き、耳をつんざく断末魔が森中に響き渡った。

どしゃあ──と、今度こそ巨体が横倒しになった。大地が震え、枝葉がばさばさと降り注ぐ。鳥たちが一斉に飛び立ち、森は騒然としたあと、しんと静まり返った。

 

「ふぅー……」

 

ノイは魔猪の頭部に片膝をついたまま、深いため息をついた。全身が痛い。左の脇腹は猪の牙にかすられ、肉が見えている。右肩は何度も地面に叩きつけられ、感覚が麻痺していた。三日三晩だ。この巨大な魔物を追い、追い詰め、傷つけ、そしてついに仕留めるまで、三日三晩もかかったのだ。

 

大剣を引き抜き、よろよろと立ち上がる。視界がかすみ、足元がふらつく。ここで倒れたら、さすがの孤影のノイも笑い話では済まない。

 

「……やっと、終わったか」

 

ぽつりとつぶやいて、彼は深く息を吸い込んだ。森の匂い。土と、血と、汗と。それから微かに、どこかで咲く花の甘い香り。

魔猪は動かない。完全なる死だ。森の里を長年脅かしてきた厄災は、ついに沈黙したのである。

ノイは魔猪の巨体を背に、里への帰路を歩き出した。一歩、また一歩。重い足を引きずりながら。

 

---

 

里の門が見えたとき、ノイは思わず立ち止まった。

門の前に、人があふれていた。老人も、子供も、男も女も。みな一様に不安そうな顔で、森の方角を見つめている。

誰かが叫んだ。

 

「帰ってきたぞ!」

 

「孤影の冒険者さまが!」

 

「魔猪は? あの猪はどうなった?」

 

ノイはただ、ゆっくりとうなずいた。それだけで十分だった。里中にどよめきが走り、次の瞬間には歓声が沸き起こった。

 

「やった! やったんだ!」

「ありがとう、ありがとうございます!」

「もう畑を荒らされないぞ!」

「子供たちが森で遊べる!」

 

人々がノイに駆け寄る。老いた女が彼の手を握り、涙を流さんばかりに頭を下げた。若い男が興奮して飛び跳ねている。子供たちがきゃっきゃとはしゃぎながら、ノイの周りをぐるぐる回った。

 

(傷に響く音量だ……)

 

心の中でつぶやきつつも、ノイは決して不快ではなかった。むしろ、久しぶりに感じる人の温もりが、疲れ切った体に心地よく染みた。とはいえ──

 

「あの、ノイ殿」

 

人混みをかき分けて、里長らしき老人が進み出てきた。白いあごひげをたくわえ、深い皺の刻まれた顔。しかし目は爛々と輝いている。

 

「よくぞご無事で。約束の報酬を渡したい。こちらへ」

 

里長に導かれ、ノイは集会所らしき大きな建物へと入った。中は広々としており、天井からは乾燥させた薬草や獣の毛皮が吊るされている。奥の部屋に通され、里長は重そうな革袋を取り出した。

 

「約束の額だ。それと、これは私からの礼だ」

 

革袋の上に、小さな宝石が二つ、とんとんと置かれた。森で稀に採れる琥珀だという。ギルドで換金すれば、かなりの額になるだろう。

 

「ありがたく」

 

ノイは短く答え、革袋を受け取った。ずしりと重い。悪くない報酬だ。

しかし、今の彼には報酬のありがたみを噛みしめる余裕すらなかった。体中が泥と血と汗で固まり、三日ぶりのまともな食事で腹はぺちゃんこだ。

 

「あの……」

 

ノイは気恥ずかしさをこらえて口を開いた。

 

「それより、体を洗う場所と……何か、食い物をくれませんか」

 

里長は一瞬きょとんとした顔をして、それから豪快に笑った。

 

---

 

里長の家の裏手に、大きな湯舟があった。森の温泉を引き込んだ石造りの湯殿で、里一番の自慢だという。脱衣所には手拭いと着替えの簡素な布衣まで用意されており、ノイは久方ぶりの湯に全身を沈めた。

 

「…………」

 

じわじわと、熱い湯が疲れを溶かしていく。

泥がほどけ、血が流れ、こびりついた汗がさらりと消える。脇腹の傷は応急の軟膏を塗ったからか、湯に滲みてもさほど痛まない。むしろ、じんわりと患部が温められて心地よかった。

 

(風呂ってのは……いいもんだな)

 

一人旅の冒険者は、基本的に川や泉で済ませることが多い。たっぷりの湯に浸かるなど、贅沢の極みだ。ノイは目を閉じ、湯に肩までつかった。

 

三日前を思い出す。

ギルドの掲示板に貼られていた依頼書──『森の里より緊急討伐依頼:巨大魔猪の目撃情報あり。至急、腕利き求む』。報酬は破格だったが、内容も破格だった。魔猪は森の生態系を狂わせるほどの巨体で、殺戮と破壊を繰り返し、里の猟師では手に負えないという。

 

(なんで俺がこんなのを受けたんだったか……)

 

いや、理由はわかっている。単純な話だ。ここ最近、大きなクエストがなくて手持ち無沙汰だったのだ。危険は承知の上。むしろ、危険だからこそ燃える。

それに、とノイは目を開けて天井を見上げた。

 

(里の食いもんは、美味いからな)

 

絶品通りだけが美食の地ではない。田舎の里には里の、そこでしか食べられない土地の味というものがある。森で採れる山菜や川魚、猟師が仕留めた新鮮な獣肉──そういった素朴な味こそ、ノイの密かな楽しみだった。

ぷちぷちと、湯の中で指の腹がふやけてきた。

 

いい加減、上がらねば。

 

---

 

湯から上がり、布衣に着替えて湯殿を出ると、外はもう夕暮れに染まっていた。森の木々の間から差し込む光が、里の屋根をオレンジ色に照らしている。

 

香ばしい匂いが漂ってきた。

 

(これは……)

 

ノイの腹が、ぐう、と鳴った。今度ばかりは自分でもはっきり聞こえるほどの音量で、彼は気まずそうに辺りを見回した。幸い、誰もいない。

 

匂いの元を辿ると、集会所の前に長机がいくつも並べられ、里の女たちが忙しそうに立ち働いている。どうやら急ごしらえの宴の準備らしい。たいまつが焚かれ、料理の湯気が立ちのぼる。

 

「おお、ノイ殿! いい湯加減じゃったかや?」

 

里長が手招きしている。隣には、腕まくりをした大柄な男が立っていた。年の頃は四十前後だろうか。無精ひげに、太い腕。エプロンには無数の染みと焦げ跡。

 

「こちら、里一番の料理人、ガルムだ」

「どうも」

 

ノイが会釈すると、ガルムはにこりと笑った。

 

「さっき仕留めた魔猪の肉、少し分けてもらったんですよ。新鮮なうちに調理しないと硬くなっちまいますからね」

「手が早いな」

 

本心からの感想だった。魔猪を倒してまだ一時間も経っていないはずだ。なのに、もう料理ができている。

 

「我々もあの魔猪のせいで、ろくに猟や収穫もできず、食糧難でしたからねえ」

 

ガルムは目を細めて、まな板の上の肉塊を見下ろした。

 

「今日はお祭りですよ。さあさあ、冷めないうちにどうぞ」

 

彼が差し出したのは、巨大な器だった。

 

---

 

木をくりぬいて作られた、両手で抱えるほどの丼。その中に、ふっくらと炊かれた米が山と盛られている。米は深森米という、この里の特産だ。粒が大きく、噛むほどに甘みが増すという。

 

そして、その上を覆い尽くすように鎮座する、魔猪のぶつ切り肉。

 

肉はこんがりと焼かれ、表面に美しい焼き色がついている。香ばしい油がてらてらと光り、そこに森で採れる野性のスパイスがたっぷりとまぶされていた。

 

何より、その香り。バジルに似た清涼感と、山椒にも似たぴりりとした刺激。それから、焚き火の煙でじっくり燻されたような、深いスモーキーな風味。肉汁とスパイスが米の蒸気と混ざり合い、湯気のひとつひとつから立ちのぼる。

 

(そうそう、こう来なくっちゃ)

 

ノイは内心、小躍りしていた。もちろん顔には出さない。相変わらずの無表情だ。しかし、心臓はどくどくと高鳴っている。

 

彼は長机の端、ほかの住民から少し離れた場所に腰を下ろした。騒がしいのは苦手だ。でも、この丼だけは誰にも邪魔されたくない。

 

さあ、いただこう。

 

まずは箸を取る。里の箸は竹を削った素朴なものだ。米をひとくち、そっとすくって口に運ぶ。

 

「お……っ」

 

深森米の甘みがふわりと広がった。粒立ちのよい米は、噛むたびにもちもちとした弾力を返してくる。ただの白米なのに、これだけで一杯いける。否、ここは我慢だ。

 

本命は肉である。

 

ノイはぶつ切り肉の一片を箸でつまみ上げた。ずしりと重い。厚みは指二本分ほどもあるか。焼き目のついた表面には、粗く砕かれたスパイスがくっついている。

 

口を開け、がぶり。

 

「……、」

 

まず感じたのは、肉の弾力だ。歯を立てた瞬間、ぎゅむ、と押し返してくる。しかし噛み切れないなんてことはない。次の瞬間には、ぶちんと繊維が切れ、溢れ出した肉汁が口中にほとばしる。

 

(アリだな。この肉は……)

 

魔猪は巨大な魔物だ。普通、巨体の肉は硬くて大味になりがちだ。ところがこの肉は、野生の獣特有の力強い歯ごたえがありながら、しっかりと火が通って驚くほど柔らかい。きっと、新鮮なうちに処理したのが効いているのだろう。

 

そして、脂だ。

 

魔猪の脂は白く、甘い。口の中でとろりと溶け、舌の上にまろやかなコクを広げる。この脂と、スパイスの辛みが絶妙に絡み合う。山椒系の爽やかな痺れが、脂のしつこさをさらりと流し、すっきりとした後味を残す。そこにバジル系の香草がふわりと香って、森の空気ごと食べているような錯覚を起こさせるのだ。

 

ノイは無言で、しかし猛烈な速度で箸を動かした。

 

肉を噛み、米をかき込む。肉汁の絡んだ米粒が、これまた美味い。スパイスが米に移り、米の甘みが肉の塩気を引き立てる。噛んでいるうちに、全てが渾然一体となって、口の中はちょっとした幸福の坩堝だ。

 

三日ぶりのまともな固形物。三日前は携帯食料の干し肉と堅パンだった。二日前は川で魚を捕って丸焼きにしたが、塩もない。昨日に至っては、魔猪を追うのに必死で何も食べていない。

 

その状態で、この丼である。

 

「…………はあ」

 

気がつくと、ノイは小さくため息をついていた。それは疲れのため息ではなく、深い深い満足の吐息だ。

 

噛むたびに、体が喜んでいる。空っぽだった胃袋に、温かい米と肉が落ちていく。染み渡るようだ。細胞のひとつひとつが、三日分の飢えを癒やされていく。

 

ふと、ノイは思い出した。昔、師匠が言っていた言葉を。

 

『良い飯はな、腹だけじゃなく魂も満たすんだ』

 

若い頃は意味がわからなかった。腹が膨れればそれでいいだろう、と。しかし今ならわかる。本当に美味いものを食べたとき、心の底から湧き上がる喜び。それは魂が満たされる感覚なのだ。

 

---

 

「どうです、口に合いますか?」

 

いつの間にか、ガルムが隣に立っていた。手にはおたまを持ち、エプロンには新たなソースの染みが増えている。

 

「あぁ……その……」

 

言葉が上手く出てこない。ノイはこくりとうなずいた。それで十分伝わったようで、ガルムは満足げに笑った。

 

「それはよかった。魔猪の肉はクセが強いから、スパイスでごまかさないとと思ってね」

「いや、違うな」

「へ?」

 

ノイは箸を置いて、ゆっくりと言った。

 

「スパイスだけの味じゃない。肉の味がちゃんとある。脂の甘みも、肉の弾力もちゃんとしてる。美味いよ、これは」

 

ガルムは目を丸くした。それから、破顔一笑する。

 

「あんた、わかってるねえ!」

 

ばしん、とノイの背中を叩く。傷がちょっと痛んだが、悪い気はしなかった。

 

「料理人冥利に尽きるよ。素材の味を生かす──それが一番難しいし、一番大事なことだ。スパイスはあくまで引き立て役。主役は、この肉だ」

 

ガルムは丼を指さした。

 

「魔猪はな、森のあらゆるもんを食って育つ。ドングリにキノコ、山菜、時には薬草まで。だから肉に深みがあるんだ。ただの獣肉とは違う」

「なるほど……」

 

ノイは納得した。この複雑な旨味の層は、そういうことか。

 

「おかわり、ありますからね」

 

ガルムが鍋を指す。そこにはまだたっぷりと肉が残っている。

ノイは丼の中を見下ろした。いつのまにか、米も肉もきれいに完食している。信じられない速度だった。まだ腹は満たされていない。いや、むしろ今の一杯で胃が目を覚まし、もっと寄越せと唸っている。

 

「あ……じゃあ、もう一杯ください」

(里に悪いかな……)

 

そう思いながらも、ノイの口は自然に動いていた。ガルムは嬉しそうに鍋から肉をすくい上げ、丼にこんもりと盛りつける。今度は米の量もさっきより多い。サービスだという。

 

「遠慮するな。あの魔猪を仕留めてくれたんだ。食い扶持くらい、いくらでも出すさ」

 

二杯目は、落ち着いて味わった。

さっきは空腹のあまり、ほぼ無心でかき込んでしまった。今度はちゃんと、香りから、見た目から、食感から、すべてを噛みしめる。

肉の断面から滲む透明な肉汁。それを米に絡めて食べる。スパイスの粒が舌の上でぴりぴりと踊る。深森米のもちもちとした食感が、肉の弾力と響き合う。口の中のオーケストラだ。

 

隣では、宴の準備が着々と進んでいた。

 

子どもたちが薪を運び、女たちが汁物の鍋をかき混ぜ、男たちが酒樽を運び出している。たいまつに火が灯り、あたりは徐々に祭りの空気に包まれていく。

だがノイは、その喧騒から少し離れた場所で、ただ黙々と丼に向き合っていた。

 

---

 

二杯目を平らげたとき、さすがに腹は満ちた。

どんぶりを置き、ふう、と息をつく。三日ぶりの満腹は、体の隅々に染み渡るようだ。傷の痛みすら和らいでいる気がする。

 

(美味かった……)

 

心からそう思った。危険なクエストを終えた後の食事は、いつだって格別だ。だが今回は、格別の中でも格別だった。自分が倒した魔物の肉を、倒したその日のうちに、最高の料理人が調理してくれる。これ以上の贅沢があるだろうか。

 

遠くで太鼓の音が響き始めた。どうやら宴の始まりだ。たいまつの炎がゆらゆらと揺れ、人々の影が長く伸びる。

 

「ノイ殿!」

 

里長が手を振っている。

 

「主役がいなくてどうされる? さあ、こっちへ来なされ、酒もありますぞ!」

 

ノイは立ち上がった。が、里長のほうへは歩かない。

 

「ノイ殿、行かれてしまうのか?」

「……騒がしいのは苦手なんだ、あと…酒も」

 

これは本当だ。孤影のノイと呼ばれる所以でもある。彼は一人が好きで、酒宴の類にはほとんど顔を出さない。

 

「それに」

 

ノイは微かに口元を歪めた。これは、笑ったのだ。

 

「食べ過ぎても、腹に悪いからな」

 

里長は一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間には豪快に笑い飛ばした。

 

「そうかそうか! いやすまん! じゃがせめて、これは持っていかれよ」

 

差し出されたのは、小さな包みだった。開くと、中には焼き菓子が数個。非常食に、ということらしい。

 

「ありがたく」

 

ノイは包みを受け取り、背を向けた。

 

---

 

里を出るとき、背後から祭りの喧騒が追いかけてきた。太鼓の音。笑い声。子どもたちの歓声。それから、魔猪の肉を焼く煙の匂い。

 

振り返らずに歩く。

 

夜の森は静かだ。月明かりが枝の隙間から差し込み、道をほの白く照らしている。時折、風が葉を揺らし、さわさわとささやく。

腹は満ち、体は清められ、報酬は十分だ。これで王都まで戻れば、しばらくはゆっくりできる。次のクエストを探すのは、少し休んでからにしよう。

 

(それにしても……)

 

ノイは歩きながら、無意識に口元を押さえた。

 

(魔猪の丼、美味かったなあ)

 

もう食べられないのに、舌がまだ味を覚えている。あの弾力。あの脂。あのスパイス。それらが三位一体となって、三日間の疲労を根こそぎ持っていった。

 

またいつか、食えるだろうか。

 

いや、魔猪はそうそう現れるものじゃない。これは一期一会の味だ。だからこそ、かけがえがない。

 

(一期一会の味、か)

 

ノイは小さく笑った。今度はちゃんと、誰に見られるでもなく、本当に笑った。

冒険者稼業は危険と隣り合わせだ。明日、命を落とすかもしれない。でも、こんな美味い飯が待っていると思うと、なんだか明日も頑張れるような気がする。

 

それが、孤影のノイの密かな原動力だった。

 

「……さて」

 

彼は月を見上げ、大きく伸びをした。

 

「次は何を食おうか」

 

答えはまだない。でも、考えるだけで楽しい。

祭りの喧騒が、遠くに小さくなっていく。やがて風の音だけが残り、ノイの足音だけが夜の森に響いた。

 

一人の冒険者は、今日も自分の足で歩いていく。

 

腹に美味い飯を抱えて。

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