孤影のグルメ   作:蛸足のスルメ

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03話『ヒューガ山脈、オーガの里バンザドの鬼山羊乳粥』

「ねえノイ、護衛って荷馬車も引くもんなの?」

「……引かない」

「じゃあ、なんで引いてるの?」

「それを聞きたいのはこっちだ……」

 

ヒューガ山脈の九合目、天空へと続くかと思われるほどの急勾配を、ノイ・ロゴーは荷馬車を引きながら答えた。黒ずくめの外套は脱いで腰に巻き、大剣は荷台に括りつけてある。額には汗が光り、息は白く弾む。

荷台の上で、女商人シッカラがけらけらと笑った。

 

「だってさあ、ノイくらい力があれば馬一頭ぶんは浮くかなって」

「俺の仕事は護衛だ。運搬じゃない」

「細かいなあ。同じでしょ、運ぶって点じゃ」

「全然ちがう」

 

ノイは無表情のまま、しかし内心では深くため息をついていた。

 

この女には昔から振り回されてばかりだ。ギルドで初めて会ったのは五年前。まだ駆け出しだったノイに「護衛を頼みたい」と声をかけてきたのがシッカラだった。以来、妙に気に入られ、こうして時おり依頼を持ち込まれる。

 

「それにしても、よくこんな道を切り拓いたな」

 

ノイは顔を上げ、山道を見渡した。

 

普通の山道ではない。人間ふたりが余裕で並んで歩けるほどの幅があり、要所には石段が刻まれ、急な斜面には手すり代わりの太い縄が渡してある。亜人族──ここではオーガ族が、何世代もかけて整備した道だ。

 

標高はとうに雲を越え、眼下には白い海が広がっている。雲海の切れ間から、遥か下方の森や川がのぞいた。

 

「絶景かな、絶景かなあ!」

 

シッカラは荷台の上で大の字になり、両手を広げた。年は二十代半ば、ノイより少し年下だろうか。商売のために各地を渡り歩く女商人らしく、浅黒い肌と利発そうな黒い瞳が特徴だ。何より、その図太さが最大の特徴だった。

 

「俺は絶景どころじゃないんだが」

「えー、ノイの怪力なら平気でしょ。ドラゴンの卵を一人で運んだって聞いたよ?」

「……なんで知ってる」

「情報は商人の命だからね。ほら、もう少しで里に着くって。がんばって!」

 

ノイは黙って歩を進めた。

 

護衛の依頼と言われて飛んで来てみれば、ヒューガ山脈の尾根歩きだ。魔物や山賊の類はたしかに出没するが、今日は不思議なくらいに静かだった。おかげでノイは護衛ではなく、ひたすら荷馬車を引く役目である。

 

(はあ……絶品通りで美味いもん食いたい)

 

心の中でつぶやく。最近、山岳クエストが多い気がする。それはそれで構わないのだが、いかんせん、まともな食事から遠ざかる。

 

「ねえ、考えてること当ててあげようか?」

「……やめろ」

「どうせご飯のことでしょ。ノイってば、戦ってるとき以外は食べ物のことしか考えてないんだから」

 

図星だった。ノイは黙々と足を動かす。

 

「まあ安心してよ。バンザドの里には美味しいものがあるからさ」

「……オーガの里だぞ」

「オーガだって料理するでしょ。失礼な男だなあ」

 

シッカラはそう言うと、また空を見上げて、鼻歌を歌い始めた。

 

---

 

さらに一時間ほど登ったところで、突然、視界が開けた。

 

「着いた!」

 

シッカラの声に顔を上げる。

 

ヒューガ山脈の中腹。山の腹を豪快にえぐり、平らに造成された広大な平地。そこに無数の石造りの家々が立ち並び、煙突からは幾筋もの煙が立ちのぼっている。中心部には大きな広場があり、その周囲に市場や集会所らしき建物が配置されていた。

 

オーガ族の里、バンザドである。

 

「おーい、シッカラの姐さんだ!」

「また来たのか!」

「後ろの小さいのはなんだ?」

 

入り口で警備に立っていたオーガ族の男たちが、豪快な声を上げた。人間の倍近い体高。岩のような筋肉。灰色がかった肌に、額から生える短い角。声は太く、地響きのようだ。

 

小さいの、と呼ばれてノイはうっすら眉を動かした。185センチの長身で小さいと言われるのは初めてだ。だがオーガ族相手では仕方ない。

 

「この男は孤影のノイ。私の護衛よ。有名な冒険者なんだから、失礼のないようにね」

 

シッカラは荷台からひらりと飛び降りた。

 

取引はすぐに始まった。

 

里の集会所で、シッカラはオーガ族の長たちと向かい合った。彼女が広げたのは、王都で開発されたばかりの耐寒性の野菜の種子と、精密な金具類、裁縫道具一式だ。オーガ族の大きな手には合わぬ細工を、あらかじめ持ち手を太く改良しているあたり、シッカラの商売人としての手腕が光る。

 

「これはありがたい。高地でも育つ野菜の種は貴重だ」

「そのかわり──わかってるでしょ?」

「もちろんだ。魔鉱石の原石と、この近辺のダンジョン情報だ」

 

長のひとりが、ずしりと重い木箱を机に置いた。蓋を開けると、青白く光る原石がごろごろと入っている。ノイは離れた壁際からそれを見て、なるほどと思った。魔鉱石は魔法道具の素材として市場価値が高い。ギルドの報酬より、こちらの取引のほうがよほど儲かるだろう。

 

「ノイ、ちょっと待ってて。細かい交渉があるから」

 

シッカラに言われ、ノイは集会所を出た。

 

---

 

里を歩く。

 

石畳の道は丁寧に敷かれ、排水溝も完備されている。鍛冶場からは規則正しい槌音が響き、機織り場からは大きな機織り機の軋む音が聞こえる。通りすがるオーガ族たちは、ノイを物珍しそうに見るものの、敵意はない。

 

粗野な印象はたしかにある。建物は装飾を排した実用一辺倒の造りで、道ばたには巨大な斧や大槌が無造作に転がっている。だが、この里には王国の都市にも負けない、独自の文明があった。

 

ふと、ノイの足が止まった。

 

牧柵だ。

 

太い丸太で組まれた柵の向こうに、白い生き物が群れている。羊にも似ているが、その大きさが尋常ではない。肩高はノイの目線ほど──つまり180センチ近い。頭からはねじくれた巨大な角が生え、蹄の一撃で岩も砕けそうな迫力だ。

 

鬼山羊。

 

ノイは聞いたことがあった。高地に生息する大型の家畜で、オーガ族が古くから飼育しているという。凶暴だが、乳は濃厚で滋養豊富、肉も美味いらしい。

 

柵の中で、一頭の鬼山羊が乳を絞られていた。オーガの女性が、人間ならば頭ほどの大きな乳房を、手慣れた様子でしぼっている。白い乳が、木桶にぴしゃぴしゃと勢いよく注がれていく。

 

(すごい量だな……)

 

ノイはしばし見入った。あの乳で作るバターやチーズは、さぞかし濃厚だろう。

 

と、そこで彼の腹が、ぎゅう、と鳴った。

 

思い返せば、山に入ってからずっと携帯食だけだ。干し肉と堅パン。それだけを三日間、噛み続けてきた。体は飢えている。

 

「……腹が減った」

 

ぽつり、と本音がもれた。

 

ちょうどそのとき、シッカラが集会所から出てきた。小走りに近づいてくる。

 

「ノイ、決まったわよ。交渉成立!」

「そうか」

「それでね、取引先のオーガの一家が、一晩泊めてくれるって。食事も出してくれるらしいわよ」

 

ノイの目が、ほんの少しだけ輝いた。自分でも気づいていないかもしれない。

 

「食事?」

「そう。鬼山羊の乳を使った粥だって。ここじゃあ日常食だけど、すごく美味しいんだから」

 

鬼山羊の乳。さっき絞られていた、あの白く濃厚そうな乳。それで作る粥とは、どんな味がするのだろう。

 

「その家はどこだ」

 

ノイの声はあくまでも平静だった。しかし、足はもう一歩を踏み出している。シッカラはそれを見て、くすりと笑った。

 

「こっちよ。ついてきて」

 

ノイは期待に胸を膨らませながら、足早に彼女の後を追った。

 

里の夕暮れが迫り、煙突から立ちのぼる煙が、濃厚な乳の香りを運んでくる。

 

空腹の絶頂で嗅ぐ、その匂い。

 

(こう来なくっちゃな)

 

ノイの腹が、もう一度、ぐうと鳴った。今度は遠慮なく、はっきりと。

 

案内されたのは、里の中心部から少し外れた石造りの一軒家だった。

 

人間の基準では二階建てに相当する天井高。扉はノイの背丈の倍近くあり、取っ手は肩より上にある。シッカラは慣れた様子で横の通用口から入っていった。

 

「お邪魔しまーす」

 

中は驚くほど暖かかった。壁際の大きな暖炉で、太い薪がめらめらと燃えている。部屋の中央には、オーガ族の体格に合わせた巨大な木製テーブル。その周りに、これまた巨大な椅子が並ぶ。

 

「よく来た、小さな客人よ!」

 

家長らしきオーガの男が、太い両腕を広げて迎え入れた。年の頃は五十前後だろうか。灰色の肌に刻まれた皺は深く、額の角は年輪のように重なっている。体は筋骨隆々だが、目尻の下がり方がどこか柔和だ。

 

「こちら、ドルガンさん。バンザドで一番の牧場主なんだよ」

 

シッカラの紹介に、ドルガンは低く笑った。

 

「一番かどうかはともかく、鬼山羊だけはわしの誇りだ。さあ、座ってくれ。今、妻が食事の用意をしてる」

 

ノイは黙って一礼し、椅子によじ登るように座った。足が床につかない。人間用の客椅子も用意されていたが、あえてオーガ用の椅子に座ってみたかったのだ。悪くない。視点が変わる。

 

厨房の方から、ぐつぐつという煮える音と、鼻腔をくすぐる濃厚な香りが漂ってくる。乳の香りだ。しかし、ただの乳ではない。もっと深く、甘く、獣の体温を思わせる芳醇さがある。

 

(これが……鬼山羊の乳か)

 

ノイの腹が、またしても鳴りそうになるのを必死でこらえた。

 

---

 

「さあ、待たせたな」

 

ドルガンの妻──やはり大柄なオーガの女性で、名をハルガといった──が、両手に大きな器を抱えて現れた。器は人間ならば鉢と呼ぶべき大きさ。それがふたつ、どんとテーブルに置かれる。

 

「こちら、シッカラ殿。それとノイ殿」

 

器の中身を見て、ノイは思わず息を呑んだ。

 

粥だ。

 

白く濁った乳の中で、大粒の米がとろりと煮込まれている。米は人間の食べるものより一回り大きく、煮えてもなお粒立ちを保ちながら、しかし表面からじんわりととろみを滲ませている。

 

そして表面に、こんがりと焼かれたにんにくの薄切りが散らされていた。ほんのりと焦げ目がつき、油で黄金色に輝いている。その上から、粗く砕かれた岩塩がぱらぱらと振りかけられていた。

 

湯気が、もくもくと立ちのぼる。乳と、にんにくと、塩。単純な構成なのに、なぜだか途方もなく旨そうだ。

 

「ところでドルガンさん、牧場の調子はどうです?」

 

シッカラが何気なく尋ねると、ドルガンは嬉しそうに身を乗り出した。

 

「それがな、シッカラ殿。前にあんたから買った飼料用の穀物が、驚くほど効いてな!」

「ああ、あの耐寒性の飼料ですね」

「そうだ! あれを与えてから鬼山羊の乳の出が格段に良くなった。しかも乳が濃くなったんだ。冬場は特に助かる」

 

ドルガンは大きな手を組み、深くうなずいた。

 

「こんな僻地までわざわざ取引に来てくれるのは、シッカラ殿だけだ。人間の商人はたいてい、山のふもとで引き返す。ここまで来るのは危険だし、儲けも出ないからな」

「あたしは儲けが出るならどこでも行くよ」

 

シッカラはあっけらかんと言った。

 

「それにバンザドの魔鉱石は品質がいい。リスクに見合うだけの価値があるんだよね」

「それでも、だ。来てくれるのはありがたい。さあ、冷めないうちに食べてくれ」

 

ノイは話を聞きながら、内心で小さく感心していた。

 

(へえ……)

 

シッカラはただの図太い女商人だと思っていたが、こうして山奥のオーガ族からも信頼されている。誰もやりたがらない僻地との取引を続け、結果としてオーガ族の生活を支え、自分も利益を出す。商人とはかくあるべきなのかもしれない。

 

もっとも、そんな感心も一瞬のことで、ノイの意識はすぐに器の中の粥へと戻っていった。

 

---

 

木の匙を手に取る。オーガ族サイズなので、ちょっとしたおたまだ。大きくもない、と自分に言い聞かせ、粥をすくう。

 

湯気がふわりと顔にかかり、鬼山羊の乳の香りに包まれる。熟れたミルクの甘さと、動物らしい体温のニュアンス。乳だけでここまで複雑に香るものなのか。

 

ひとくち。

 

口に入れた瞬間、ノイの眉がぴくりと動いた。

 

「…………」

 

まず、乳の濃厚さが想像を超えていた。牛乳とはまるで違う。舌にのしかかるような重量感で、しかし嫌な重さではない。まるで生クリームをそのまま啜っているかのような芳醇さが、口いっぱいに広がる。

 

そして、オーガ米。

 

大粒の米は、乳をたっぷり吸って柔らかく煮えている。噛むと、ぷちんと粒が弾けて、中から米本来の甘みが滲み出す。とろとろの粥でありながら、芯の歯ごたえはしっかり残っている。粥と飯の中間のような、不思議な食感だ。

 

そこに、岩塩。

 

オーガ族が山で採るという天然の岩塩は、精製された白塩とは次元が違う。ほのかに灰色がかり、ミネラルが複雑に絡み合った、深い塩味。尖っていないのに、きちんと味を引き締める。乳の甘さを引き立てながら、ぼんやりしない輪郭を粥に与えている。

 

そして──

 

「……」

 

ノイは思わず、にんにくの一片を噛んだ。

 

ヒューガにんにくだ。この山脈の高地に自生する野生種で、オーガ族が好んで料理に使うと聞く。一片一片が親指の頭ほどもある大きな粒を薄切りにし、じっくりと焼いてある。

 

噛んだ瞬間、ぱりっ、と香ばしい歯ざわり。次いで、鼻腔を突き抜ける強烈な香り。しかし辛くはない。焼かれることで刺激はまろやかになり、代わりに甘みと旨味がぎゅっと凝縮されている。これが粥のまったりした味わいに、ぴりりと一本筋を通す。

 

乳の甘み。米の滋味。岩塩の深み。にんにくの刺激。

 

四つが渾然一体となり、口の中でぶつかり合いながら、最終的にひとつの美味さへと収束していく。単なる乳粥ではない。これはもはや、一個の料理としての完成形だ。

 

「……美味い」

 

ノイの口から、自然に言葉がもれた。

 

無表情は崩れていない。しかし、匙を動かす手が止まらない。それが何よりの証明だった。

 

「気に入ったか、旅の者よ」

 

ドルガンが満足げに唸った。

 

ノイはこくりとうなずき、また一口。二口。三口。黙々と粥をかき込む。腹が空いていたのもある。三日ぶりの温かい食事だということもある。だがそれ以上に、純粋に美味かった。

 

ハルガが微笑ましそうにノイを見守りながら言った。

 

「鬼山羊の乳は、新鮮なうちに飲まないとすぐに濃くなってしまう。だからこそ粥にするのが一番いいんだ。ゆっくり煮込めば、乳の甘みが米に移る」

「それに、ヒューガにんにくは体を温める。山の暮らしには欠かせん」

 

ドルガンが付け加える。

 

ノイは無言で聞きながら、食べる手を休めなかった。気がつくと、器の底が見え始めている。

 

あっという間の完食だった。

 

「……おかわり」

 

ノイは静かに、しかしきっぱりと言った。器を差し出す手に迷いはない。

 

「おかわりを、ください」

 

ドルガンとハルガは顔を見合わせ、それから豪快に笑った。

 

「わっはっは! いいぞ、いいぞ! 遠慮するな!」

「お気に召したようで何よりだよ。さあ、たくさんあるからね」

 

ハルガが器を受け取り、鍋からたっぷりと粥を注ぐ。今度はにんにくを多めに、岩塩もぱらりとひと振り。盛りつけにも、もてなしの心が宿っている。

 

二杯目を食べながら、ノイはふと考えた。

 

(食いもんってのは……)

 

不思議なものだ。王都の絶品通りで食べる洗練された料理も美味い。だが、こうして山奥の里で食べる素朴な粥にも、それに勝るとも劣らない感動がある。土地の食材を、土地のやり方で、土地の人と食べる。それだけで、こんなにも味わいが深まる。

 

「ノイ、すごい顔で食べるねえ」

 

シッカラが横合いから茶化す。彼女もまた、自分の粥を美味そうに啜っていた。

 

「……どんな顔だ」

「なんていうか、幸せそう」

 

ノイは黙った。反論できない。

 

---

 

夕食のあと、ドルガンは酒を出してくれた。鬼山羊の乳で作った乳酒だという。まろやかで甘く、しかし度数は意外と高い。シッカラはぐいぐい飲んで「濃いねえ!」と上機嫌になり、ノイはちびりちびりと舐める程度にした。アルコールはあまり得意ではない。

 

オーガ族の家で迎える夜は、驚くほど静かだった。

 

暖炉の火がゆらめき、壁に大きな影を映し出す。ときおり、遠くから鬼山羊の鳴き声が聞こえる。風が石壁を叩く音も、どこか子守唄のようだ。

 

ノイは客間に用意された寝床に横たわり、天井を見上げた。人間サイズの布団と枕が用意されている。オーガ族にとっても、人間の客人は珍しくないらしい。

 

腹は満たされ、体はぽかぽかと温かい。ヒューガにんにくの効果だろうか。

 

(今日もいい日だった)

 

危険な戦闘はなかった。魔物にも遭わなかった。護衛としてはいささか肩すかしだが、たまにはこんな日があってもいい。

 

ノイは目を閉じた。

 

乳粥の味が、まだ舌の奥に残っている。

 

---

 

翌朝。

 

山の朝は早い。霧が晴れきらぬうちから、里は活気づいていた。鍛冶場の槌音が響き、牧場からは鬼山羊の鳴き声が聞こえる。空気は凛と冷たく、肺がきゅっとなる。

 

ノイとシッカラは、ドルガン一家に見送られて里の出口に立っていた。

 

「また来てくれ。今度は子山羊の肉でも振る舞おう」

「その節はぜひ」

 

シッカラがにこやかに手を振る。

 

「ノイ殿も、達者でな」

 

ドルガンがノイに巨大な手を差し出した。ノイはその手を握り返す。自分の手が子供みたいに見えたが、気にしない。握力は負けていないはずだ。

 

「……世話になった。粥は美味かった」

「わっはっは! 最高の褒め言葉だ!」

 

ふたりは里をあとにした。帰り道は下りだから楽だ。荷馬車には魔鉱石の原石が積まれているが、今度は重力が味方してくれる。

 

しばらく歩いて、雲海が眼下に広がるあたりまで来たとき。

 

「ねえノイ」

 

シッカラが前を歩くノイの背中に声をかけた。

 

「なんだ」

「昨日さ、なんか言いかけてなかった? 私のこと」

 

ノイは歩調を緩めた。そして、振り返らずに言った。

 

「……ああ」

「なに?」

「お前のことを、少し見直した」

 

シッカラの足が止まった。彼女が驚きで目を丸くするのを、ノイは背中で感じた。

 

「え? ノイが? 私を?」

 

「あんたはただの図太い商人だと思ってた。でもオーガ族からあれだけ信頼されてるのは、それだけ誠実に取引してきた証拠だ。見直した」

 

沈黙。

 

それから、ぱたぱたと駆け寄る足音。

 

「ねえねえ! それってさあ、つまりこれからも私の護衛をやってくれるってこと!?」

 

シッカラがノイの横に並び、下から覗き込むように顔を見てきた。目の輝きがうっとうしいほど明るい。

 

「話が飛躍しすぎだ」

「じゃあ飛躍ついでにさ、今度の護衛の予約しとくね!」

「……断るとは言っていない」

「やった! じゃあ決まりね! 次の行き先はね──アンデッド族の里!」

 

ノイの足が、ぴたりと止まった。

 

風がさらさらと雲海を流れていく。鳥が一羽、遥か下方で輪を描いた。

 

「……飯は」

「え?」

「その里の飯は、どうなんだ」

 

シッカラは顎に手を当てて考えた。それから、ぱっと笑顔になる。

 

「いやあ、アンデッド族って基本、食事しないらしいよ。死んでるから」

「…………」

 

ノイは無言で歩き出した。さっきより少し、歩調が速い。

 

「え、ちょっとノイ、なんで早足になるのさ!」

「飯がまずそうだから嫌だ」

「まずそうっていうか、そもそも出てこないんだけど!」

「ならなおさらだ」

 

ノイはきっぱりと答え、どんどん下っていく。

 

後ろからシッカラの抗議の声が追いかけてきた。

 

「なにそれえ! さっき見直したって言ったばっかりじゃんかあ!」

「前言撤回だ」

「はや! 撤回はやすぎでしょ!」

 

ノイは振り返らなかった。ただし──

 

口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、シッカラは見逃さなかった。

 

「もう……わかったよ。次の次は美味しいとこにしとくから」

「……考えとく」

「考えとくって、それ絶対来るやつじゃん!」

 

けらけらと笑うシッカラの声が、ヒューガ山脈の空に吸い込まれていく。雲海は静かに輝き、遠くの峰々が朝日に照らされて黄金に染まっていた。

 

ノイは胸いっぱいに山の空気を吸い込んだ。

 

腹にはまだ、鬼山羊の乳粥の余韻が残っている。体の芯から温かく、滋養が染み渡っている。これはいい朝だ。

 

(次は……何を食えるかな)

 

密かな期待が、また彼を歩かせる。

 

たとえ行き先がアンデッドの里だろうと、どこかに美味いものはあるかもしれない。ないならないで、その後で絶品通りに寄ればいい。

 

孤影のノイは今日も、飯と共に生きている。

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