駆ける、駆ける。床を、壁、天井を蹴り砕き。時にのろのろと迫る死体の騎士の首を踏み折って、トモリは館の中を駆けてゆく。悲鳴を上げるハクを抱えながら、駆け続ける。
「……そ、そこ、みぎ、かいだ……うえ」
「待ち伏せですか」
「あい。あの、ゆっ」
「ちょっと揺れますよ」
「いやだから、も、おうううううぅぅ……!?」
左脇に抱えた少女の悲鳴を無視して右へ急転換。壁へ向かって跳び、壁に足を着けた瞬間に周囲を確認する。
なるほど、ただ階段を上がっていたのでは見え難い位置に槍を構えた死体の騎士が待ち構えている。未来視も馬鹿にできないなと感心したところで壁を蹴った。
のろのろとした緩慢な動きは、不意討ちさえされなければ簡単に避けられる。こちらが奇襲する側であるなら、素人を相手にするのとほとんど同じだ。
さてどうしようかな、槍を構えていた死体の騎士の頭を兜ごと踏み潰してから。腕の中で吐きそうになっている少女をちらりと見て、トモリは少し悩んだ。
リュレの歴代領主が使っていたらしいこの館は、五階まである。旧世界でビルと呼ばれていた石と鉄の塔を修復、増築して利用しているらしい、というのは吐き気を堪えながらハクが言っていたことだ。
ハクの見立てでは目的地は五階にあり、現在地は三階。一部の階段が塞がれるなど迷路のようになっている館の中をあと二階分走らなければ目的地には辿り着けず、そもそも本当に五階に目当てのものがあるという確証があるわけでもない。あるのはただ、少女の瞳が視た未来だけだ。
「未来視ってやつはどこまで信じていいんですかね」
「今この場に限っては全面的に信じてもらっ……あの、だからぁ! もっとゆっく、……おぷっ」
「吐いたら投げ捨てますよ」
顔を青くして口を押さえるハクを無視して、トモリは速度を上げた。奇襲の頻度と精度が上がってきている、もう少し跳ねた方が良いな。顔の向きを前ではなく後ろにするべきだったかなと少し後悔したけれど、これは声に出さないよう飲み込んで。
斬撃を避け、突きを跳び越え、打撃を受け止め。ありとあらゆるハクの死を回避しトモリは駆ける。四階を駆け抜け、五階へ辿り着き、果て無く伸びる廊下を目にこれは逃げる方法を考えないとかなと溜息を吐き出しそうになったところで。
「――そこ、左に曲がって三つ目の部屋過ぎてから右に真っ直ぐ。そこから数えて五つ目の部屋っす。なんか変な感じするから気を付けて」
ハクが、唐突に声を発した。つい数舜前まで吐き気と戦っていたとは思えない冷たい声で、トモリへ進むべき未来を告げる。
それは、トモリの忘れてしまった誰かとよく似た響きの声だった。これから先の未来を知っている者が持つ、確信と諦めを感じる声だ。
「自信は?」
「命を懸けるっすよ」
話している間に左へ曲がり二つ目の部屋を越えた。三つ目を曲がろうとしたところで思い切り床を踏み砕いて減速、眼前を小さな雷が過ぎていったのを確認してから角を曲がり再び加速。杖を持った死体の首に右手を伸ばし勢いのまま圧し折る。続けて左側の弓を番えた死体に投げつけた。
「ぱそこんとかいう遺物を奪うのが目的だったんす。それがリュレの心臓だって話だったから、結界にも関係あるはず。めちゃくちゃにでかいらしいから動かせずに置いてあるはずっす」
「確信は?」
「けっこうな前払いと情報をくれたらしい依頼主と、一昨日クマに食われて死んだ兄貴分の名誉を懸けるっす」
良い人だったんすよ。ハクの小さな声には応えず、トモリは走る速度を上げた。
駆ける、跳ぶ。廊下を迷宮に変える結界でも張られているのだろう、どこまでも続いている。これ、仕掛けを探した方が早いやつかな。荷物が無ければそうしたんだけど。溜息を飲み込んで、トモリは更に速度を上げた。
ずっと遠くに見えていた一つ目の部屋を走り過ぎた。背後から何かが迫っているのを感じる。捕まる程ではないけれど。
二つ目の部屋を過ぎた……ところで、耳元で知っている誰かの声がした。忘れてはいけなかった誰かの声だ。けれど、思い出す余裕は無いし生きていない事はわかっている。
三つ目の部屋を過ぎた。右の足首を何かに掴まれた。それが何かを気にしてはいけない。そのまま足を動かし続ける。四つ目の部屋を過ぎた。喉が焼けるように痛い。幻覚だ。熱や毒は感じなかった。無視して足を動かせ。五つ目――
「――ここ、入って!」
「はいはい」
ハクが叫ぶのと同時にトモリは踵を床に叩き付け急停止、右手で扉を殴って開いた。
……部屋に入る前の一瞬、先程まで走っていた道に視線を寄越したがそこには何も無かった。灯りの無い真っ暗な闇が広がっている。突破したことで無くなったのか、最初から無かったのか。それはわからないがどうでもいいとしよう。結論付けてハクを投げ入れ、トモリも部屋へ飛び込んだ。
部屋に入ってまずトモリが感じたのは、どうしようもない不快感だった。
最初に見えたのは、机の上に置かれた手鏡のような薄い板だった。それが五つ、丁寧に机の上に並べられている。
次いで視界に映ったのは、床に置かれ布でぐるぐる巻きにされている何か。そして、最後に部屋の奥に置かれた――正確には、部屋の奥を埋め尽くしている――大きな何かに気付いた。ぶんぶん、がたがたと奇妙な音を立てるそれは、トモリには懐かしく、ハクには覚えの無い不快感を与える。
一目でわかった。遺物だ。スマートフォンにPC、それから……床に置かれたそれを見て、トモリは深く溜息を吐いた。本当に、今日は面倒事ばかりだ。
「……はあ。今はどうか知りませんけど。旧世界ではね、呪術というものは限られた者だけが扱える技術だったんです。いろいろと必要なものが多くて、普通の人には扱えなかった。扱うべきではなかった」
適当な棒を引っ掛け扉が開けられないように細工をした後、トモリがぽつぽつと声を漏らす。それは、ハクに聞かせる為のものというよりは、己の記憶を掘り起こそうとしているような痛々しい響きをもったものだった。
「……今でも基本は専門家がやるもんっすけど。でも、ちょっと才能があれば使えるやつとか、悪いもんじゃないおまじないってやつもありますよね」
「そうですね。そういうふうにしたいって思った人がいるんです。全ての人が呪術を扱えれば。全ての人が月から降る獣を殺す術を持っていれば。戦いに往く大切な人に何かしてあげられる自分になれれば。そうすれば、誰も希望を捨てないのではないか。誰も生を諦めないのではないか。誰もが戦士とその友であることを誓えるのではないか。誰も、人を捨てないのではないか。そう考えた、馬鹿な人がいるんです」
小さな声だ。扉の外から聞こえる鎧の音を気にしてか、ただ大きな声にしたくないだけなのか。同じ部屋のハクにかろうじて聞こえる程度の細く小さな声で、トモリは言葉を続ける。その声は、細く小さなまま。けれど、確かな熱をもっていた。
「…………
大きな鉄の箱は、奇妙で重たい音を部屋に響かせ続けている。箱とケーブルで繋がった大きなスマートフォンにトモリが指を当てれば、光が灯りハクには理解のできない文字のような何かが記されてゆく。
五つのそれはそれぞれに地図のような絵や奇怪な文字列など、違うものを映している。ハクが気になって覗き込もうとしたところで、トモリは見ない方が良いですよと声を掛けた。
「何を書かれているのか理解できない生物が内容を理解しようと見ると、狂ったりなんだったりで死ぬ呪いが掛けられてるんです。今も働いてるのかはわかりませんけど」
「こわっ……なんでそんな呪い掛かってるんすか」
「月から降る怪物は人の文化に興味津々だったんですよ。こういう罠がそれなりに効果的だったんです。遺跡の発掘者とか遺物の鑑定士が不審死みたいなの、けっこうあるんじゃないです?」
「まぁ、ありますね……」
「多分ですけど、そういう人はだいたいこういう呪物に触って死んだんだと思いますよ。一応解呪する術はありますけど、基本間に合わないように作ってるから」
無感情に答えて、トモリはスマートフォンの一つを手に取った。しばらく触ってから溜息を吐いて、床に置かれた黒い何かに視線を移す。それからもう一度深く溜息を吐いて、最後にハクへと視線を移した。
「ハクさん。質問と提案があるんですけど」
「はい、聞くっすよ。いっそ命令とか言ってくれてもいいんすけど」
「そういう関係でも趣味でもないので、まずは質問と提案ですね。脅しならいくらでもしてあげられますけど」
扉の外からはがたがた、ごんごんと音が響いている。死体の騎士が集まっているのだろう。トモリの記憶と考えが正しければ彼らがこの部屋に入れるとは思えないけれど、絶対に無いとは言えない。
「魅力的っすね。……ところであの、呼び捨てにしません? いえ、ちゃん付けでもいいんすけど」
「そういう関係じゃないので。それで、もう一度言いますね。質問と提案があるんですけど。聞いてくれます?」
数秒の間。そろそろ急かそうかなとトモリが考え始めたところでハクが深い深い溜息を吐き出した後、不機嫌そうにどうぞと答えた。どうしたのかと少し疑問に思ったが、気付かなかったことにしてトモリは話を続ける。
「君の元お頭さんが狙ってたらしいパソコンって、あの黒いやつだと思うんですけど。どうするつもりだったんです? 誰からの依頼だったんです?」
「なんか、王都の方にいるお偉いさんからの依頼とか言ってたっすよ確か。中にあるめもりい? ってのが欲しいとか、なんならガワは壊していいとか……なんかそんな話でした」
報酬が前払いだったらしく、しばらくは頭の機嫌が良かったのだと続けた後にハクが黙り込んで一度舌打ちをした。これは深堀りすると面倒なやつだなと考え、トモリは質問を続けることにする。
「実物を見たのはこれが初めてです? キーボード、なんかたくさんアルファベット……ええっと、文字っぽい絵の並んだ変な板みたいなのありませんでした? そういう話聞いてないです?」
「初めてだし聞いてないっすね……なんならこの部屋入ったら聞いてないのばっかでびっくりしたっす」
「なるほど」
さて、まず一番楽な手が潰れてしまった。トモリは溜息を吐きそうになったがあまり吐き過ぎてもよくないなと飲み込んだ。大事なのはここからだ。
「ハクさんは呪いの類に耐性あったりします?」
「呪われた経験は無いしあるかどうかもわかんないっす。……あの、呼び捨てにしません?」
「はい、ハクさん。それで、君の悪巧みはここでやれるってことでいいんですよね。これで盗んで逃げますって話ならどうにか脱出した後に痛い目遭わせますけど」
「ここでやれるはずっす。……あの、ちゃん付けでもいいんすよ?」
「はいハクさん。それじゃあ、現状の説明と提案をさせてもらってもいいです?」
「…………聞きます。聞くっすよ。言ってください」
不貞腐れたような態度を取るハクに本当になんなんだこの子と少し疑問に思いつつ、トモリは考えをまとめてゆく。
思っていたよりも早く辿り着けたので時間が無いわけではない。が、そう多いわけでもないだろう。面倒ではあるけれど、確実な手が一つある。
「まず、違ってたら否定してほしいんですけど。あのパソコンを壊すつもりなら無理です。壊せません。正確には、今壊すと事態が悪化します」
「……壊すつもりっしたね。説明もらってもいいっすか」
「この辺り一帯は結界で覆われてるみたいなんですけど、それを構成、維持しているのがこの部屋の機械なんです。結界の目的は、ざっと見た感じ呪いの範囲固定と他に何かの隠匿」
「何かってのは……?」
「結界内での騒動が外に漏れないようにってのはあると思いますけど、それだけじゃなさそうですね。うーん、そうだな……この街ずっと変な感じがするんですけど、それの正体を隠してるとかかな」
トモリは魔力と呼ばれる力の流れを感じるのが苦手で、それを扱う術も原理が理解ができず扱えない。なので確信は持てないけれど、何かしらの魔術が働いていると術の対象者に気付かせない為のものなのではないかと考えている。
「……で、機械を壊すと結界の中で働いている呪術が暴走するようになってます。しばらくすれば動力の供給が切れますけど、その前に結界の中にいる生き物はみんな呪われます。予想としては、今館の中で動いてる死体にたくさんのお友達ができるんじゃないかな」
「墓から出てくるとかっすか……?」
「墓は新鮮じゃないから無いでしょうけど、棺桶の中ならまだあるかな。あとは街で暴動が起きてるらしいからその被害者と、あんまり身体の強くない人なら無理矢理心臓止めて死体にするくらいはできる呪いですよ。わたし達は動力源の真ん前にいるので、ほぼ確実にそうなります」
ハクに説明をしながら表情の変化を観察していると、トモリにとっては意外なことに理解を示している様子だった。頭を呪い殺したというのは嘘でもまぐれでもないらしい。
この子、教えればそれなりに扱えるようになるかもな。一瞬だけ浮かんだ考えを振り払い、トモリは説明を続ける。
「一番楽な手はパソコンにパスワード……合言葉を入力して術式を終了させることだったんですけど、キーボードが無いのでそれは無理になりました。スマホはちょっと触ってみましたけど今動いてる術式を止めないと操作を受け付けません。ので、やりたくなかったけど一番確実な手を使います」
そう言って、トモリは屈んで床に置かれた何かに手を伸ばした。赤黒く汚れた布を雑に剝がしてゆけば、中身が少しずつ明らかになってゆく。
それは、黒電話と呼ばれる物だった。トモリの時代ですらもう使われる事の無くなった、それこそ呪術の類でしか使われなくなった遺物にして呪物。
鋏か何かで雑に切られたのか電話線は何処にも繋がっていないというのに、布を剥がした途端じりりりと嫌に耳に残る音を鳴らし始めた。
「これがこの街に掛かった呪いの大元にして緊急停止装置。術式を強制終了させるならこれを無力化するしかありません。わたしがやってる間、そこのスマホ……薄い板が光ってぶるぶる震えたり音を出したりすると思います。赤い絵と緑の絵が見えると思うので、そしたら片端から赤い絵を押してください。緑を押したら死ぬと思ってくださいね」
「う、うす……いやあの、無視するとか駄目なんすか?」
「今後の為にも教えてあげますけど。こういうのは無視しようとする方が精神汚染を受けやすいのでちゃんと対応した方が後が楽になりますよ。失敗したらどのみち死にますけど」
それじゃあ始めましょうか。ハクの返事は待たずにトモリは黒電話の受話器を耳に当て、ダイヤルを回してゆく。
トモリの記憶が正しければ、ココノエ式で電話を使う術式の強制終了に使われていた番号は五つ。他にもあったかもしれないが、忘れているか教えられていない。トモリはさておき、ハクが呪われる前に終わるだろうかと小さく溜息。
一つ目、外れ。喉が痛くなり咳をすると、口の中で甘い匂いがした。血だ。なるほど、思っていたよりも状態の良い遺物らしい。これは苦労するかもだな、トモリは袖で口元を拭い残り四つの番号を頭に浮かべた。当たりがあれば良いのだけれど。
焦らずダイヤルを指で回す。少しばかり咳は出たが、トモリであれば充分に耐えられる呪いだ。あとは、机の前であわあわとしている少女が死ぬ前に答えを見付けて終わらせるだけ。
ダイヤルを回し、受話器からぷるるると響く音を聞き続ける。二度、三度と外れを引く中で少し嫌な予感がしてきていた。どうにも外れを引いた罰としては弱い気がする。
ココノエ式と呼ばれた呪術は、その殺意の高さから他流派にも恐れられていた。それが少し血を吐く程度で終わるだろうか。当たりを引いたとして、そのまま終わらせてくれるだろうか。疑問に思いながら、トモリはダイヤルを回してゆく。
――例えば。これが化物に対してではなく、人間に対して用意された呪物だったなら。そう考えながら四つ目の番号を入力し終えた瞬間の事だった。
最初に感じたのは違和感だ。外れの番号を引くと腹の内に手を突っ込まれたような不快感に襲われた後、喉が焼けるように痛くなる。その感覚が無かった事に妙だと考ていると、耳元でぷつんっと音がした。
電話が切れたのだ。これはどちらだ? 疑問に思い、一度受話器を置こうと考えた瞬間――
『――――お姉ちゃん』
それは、少女の声だった。トモリのよく知る、もういないはずの少女の声だ。
胸が痛い。喉も痛い。ごほ、と咳き込むと赤黒い血の塊が口から飛び出た。咄嗟にトモリは受話器を耳から離した。
もう離れているというのに、くすくすと少女の笑い声が聞こえる。トモリはそれに一瞬だけ眉を顰めて、受話器をがちゃりと置き強く咳払いをした。
また血が出たが、術式は止めた。これ以上は血を吐かずに済むはずだ。
「これで終わり、です」
「……あの、トモリさん。なんか変な匂いするんすけど」
「…………勇者の血って甘い匂いがするんですよ。これ、君が触ったら死んでたかもしれませんね」
トモリは左手に付いた血を左手の甲で拭い、鞄から取り出した水筒でうがいをして床に吐き出した。行儀は悪いが動く死体だらけの館で行儀を気にしても仕方ないだろう、喉をすっきりとさせた後に溜息を一つ。
「とりあえず、呪いの方は術式の強制終了ができました。あとは結界をどうにかするつもりですけど……はあ。なるほどね」
「ど、どしたんすか?」
「いえ。なるほどねってだけです」
トモリは未来視というものをあまり信じていない。信じていないけれど、少女のそれが本物かつ強力なものであるならば。未来を視るというのが真実であるならば、トモリを思う通りに動かす事もできるのではないか。そうした結果が今なのではないか。
トモリは不快感を示すように溜息を吐き出した。トモリが未来視を持つ者に良い印象が無いのは、これが大きな理由だ。掌の上で踊らされるのは気分が悪い。
「確かに言いましたからね。上手く利用してと。ちょっと気分は悪いですけど」
「な、なんすか……あっ。いやその、利用しようってわけじゃなくてですね……だってトモリさん、普通に頼んでも知りませんって断っちゃう人じゃないっすか」
「わたし、そこまで酷い人じゃありませんけど」
「嘘だ、五回は断られましたもん! あと二回騙してでもってやったらばちぼこに殴られて死んだもん!」
「わたしに嘘か本当かわからない別の未来の話をするのは卑怯じゃないです?」
ああでもない、こうでもないと言い合っていると、ハクは少し嬉しそうに頬を緩めながらトモリにまた言い返す。なんだか楽しそうだな、まだ終わってないんだけど。トモリは水を差そうか少し悩んで、結局やめた。
終わっていないとはいえ、とりあえずの危機を凌いだのだ。少しくらいならふざける時間を与えてても良いだろう。
「ま、その、結果良ければって言うじゃないっすか! あたいも言ったっすよ、悪いようにはしないって。きちんとトモリさんにも得を――」
「今のところ得無いですけど……ん、どうしました?」
言葉を止めたハクが、顔を青くして黙り込む。何か外で聞こえたのかと考えトモリも部屋の外へ意識を向けてみたが、動く死体の騎士達は今も部屋に押し入ることができずどんどんと扉と壁を叩いているだけだ。館中の死体が集まっているのか数は増えているけれど、今のままなら動力切れで術式が止まる方が早いだろう。
館の外で何かあるのかと考え窓を開けようとして、そもそもこの部屋に窓が無いことに気付いた。鼻を鳴らしてみたが妙な臭いはしない。無臭の毒もあるが、トモリに効くものであったとしてそれより早くハクに効果があるはずだ。何があるのかと気にしてみたが、トモリには何もわからなかった。
「ハクさん? 何か視たなら説明してもらえると助かるんですけど。……まあ、いいです。結界とか他の術式も解除できるか試しますけど、ハクさんはスマホ触っちゃ駄目ですからね」
少し気を遣って言葉を掛けたが、ハクは口をぱくぱくとさせながらトモリを見詰めているだけで何も言わない。放っておいて作業を進めるべきだろうと考えスマートフォンを手に取ろうとしたところで、ハクが小さく何か呟くのが聞こえた。
「…………ちがう。違う。変わった。ずれたんだ、何か」
それは、見た目相応に幼い声だった。思考が無意識に漏れてしまったような、何かを演じようという気負いを感じない声だった。だからこそ、その声は無視できない奇妙な重さをもっているように感じられる。
未来を視る者の声には、耳を塞ぐことを許さない力が宿っているものだ。遠くいつか、誰かの言葉をトモリは思い出した。
「いつから、何が……いや。それより、今はっ!」
唐突に叫び、ハクがトモリへ向かって駆け出した。手には何も持っていない、ただ突進し、押し倒そうとしていることは瞬時に察せられた。
トモリは避けようとして、少し躊躇った。ハクは避けないでくれと縋るような目でトモリを睨んでいる。そこに悪意や害意を感じられず、それどころか助けようとしているような懸命さを感じて戸惑ってしまったのだ。
動けずにいた一瞬の間に、ハクはトモリの腹へと頭から飛び込むように突っ込んだ。押された勢いのまま背中から倒れてゆく中、トモリも何かに気付いたように眉を顰めた。
遠く、館から離れて街の中心部から。何か妙な力を感じる。どこかで感じた覚えのある不快感が、遠く離れたこの館の中からでも感じられる程に膨れ上がっている。これは不味いかも。トモリがそう感じるのとほぼ同時に――
「――すんません、目ぇ瞑ってください!」
トモリを押し倒したハクが、顔に向けて手を伸ばしながらそう叫び。塞がれるより、瞑るよりも早く。トモリの視界は、熱く光り輝く真白に染められた。