ハクと名乗る少女の生は、己が行なったものも含め裏切りへの怒りと絶望に満ちたものだった。
愛していた家族に与えられた名を忘れたこと、尾や翼が生えてからは家族からも憎まれ蔑まれていたことはもうどうでもいい。生まれ育った村を焼かれたことも、その後己を拾った賊の頭から受けた仕打ちも。
苦しみを共有した仲間達が受けた仕打ちとその末路に関してはどうでもいいとは思えないが、それでも誰かに問われれば「どうでもいいことっすよ」と笑顔を張り付けて答えることはできる。
愛していた家族は全てお前のせいだと恨み言を吐きながら串焼きにされた。生まれ育った村は友達と悪戯をした店も収穫を手伝った畑も手足を縛って閉じ込められた蔵も、何もかもが炎の中に消えた。村を焼いた賊の頭は己の手で酒に溺れさせて殺した。
同じように捕らえられた子供達は大半が頭を殺す前に死んでしまったけれど、残った者は嫌われるようにと振舞ったお陰で己を嫌い見捨ててくれた。どうにか王国から脱した後はどこかで真っ当に生きようとしてくれるだろう。
……ほんの少しでも賊の生き方に惹かれぬようにと、頭の死体を見せしめにした後は無能な跡継ぎを演じたのだ。そうであってくれなければ少し悲しい。
裏切られ、裏切る生を送っている。けれど、それらの全てがハクにとってはどうでもいい事だ。どうでもいい事だと切り捨てることができるものなのだ。
ハクが心の底から求める幸せの為ならば、それを得られずに味わってきた絶望に比べれば。
愛していた家族と生まれ育った村が炎の中で死んだ。確かに己を村という地獄から救ってくれた男をこの手で殺した。その男の手下という同じ地獄を味わった子供達をほとんど救えなかった。これ以上苦しむならばと手に掛けた事もある。
もしかすれば救えたかもしれない人々を、見捨てながら生きている。己がどうしようもない屑であるという自覚がある。
そう、屑だ。救われてはいけない屑なのだ。そう言われ、認めて生きてきた。それでもハクには諦められない幸せがある。他の何もかもを捨ててでも叶えたい願いがある。
『――――ハクメイ。君の瞳は、朝焼けみたいに綺麗だから。君のことをそう呼びたいな。君はきっと、夜明けを迎えて幸せになれる。そう願っても、良いですか』
忘れられないもの、忘れてはいけないものの為に。望まれた幸せを叶える為ならば。何度だって、どれだけだって――
「――君、やっぱりお馬鹿さんなんですね。脆いくせに、無茶するなあ」
目を覚ましてから最初に聞こえた声は、呆れたような少女の声だった。確かにハクが押し倒したはずなのに、押し倒されている。
そういえばこの人、化物みたいな身体能力してたな。納得して、ハクは溜息を飲み込んだ。
「……あの、お怪我は」
「わたし、すごく頑丈なんですよ。あのくらいじゃ痛くもありません」
「…………そっすか。なら、えっと……すんません、ありがとうございます」
嘘吐き。さっき呪いで血を吐いたくせに。今だって血反吐を吐かないように堪えているくせに。音にしてはいけない言葉を必死に呑み込む。甘い血の匂いは濃くなっている。けれどそれは気付いてはいけないことだ。指摘してはいけないことだ。少なくとも、今は。
何か衝撃波のようなものが飛んできたのだろう。領主の館は壁や天井が吹き飛び、五階はハクとトモリのいる部屋がかろうじて形を保っているような状態となっていた。PCやスマートフォンは先の衝撃で壊れてしまったのか、ばちばちと危険な音と火花を発している。
「……アウラアウル。あの子は、もう見ないと思っていました。誰かがあの子を起こしたんですね」
衝撃波が飛んできた方向を睨みながら、トモリが小さく呟いた。ハクの知らない名前だ。
ハクはトモリが何を見ているのか確認しようと身体を起こし、その先に広がっている光景に息を呑んだ。
「なんだよ、これ……」
ハクの目に映ったのは、紛れもなく終末だった。
街が燃えている。空高くに浮かぶ光りの輪から降ってきた翼の生えたトカゲやカエルが人を襲い丸呑みにしている。吐き出された死体がぶくぶくと膨らみ、形を変えて翼の生えた化物へと変わってゆく。
生きている者もそうだ。逃げ惑い、あるいは戦っている内に突然ぴたりと動きを止め、苦しんだ後にトカゲやカエルの形をした化物へと姿を変えてゆく。
これは、終末だ。防げたはず、防いだはずの終末だ。なんで、どうして。疑問がハクの頭を埋め尽くす。
この光景を起こさない為に動いていたはずなのに。もう終わったはずなのに。どこでずれた? どこから直せばいい? いや、そもそも。
――このずれは、己の手が及ぶ範囲で起きたものなのか? どれだけやり直しても修正の効かない、遠い何処かの誰かの仕業なのではないか?
疑問が頭を埋め尽くし、どっと汗が噴き出した。どうしよう、どうすればいい。考えを巡らせる中で、一つ些細な疑問が浮かんだ。
トモリはあれを知っている? 些細な疑問だ。その回答を得たところでどうにかなるものではない。けれど、どうにも気になる。
「…………あの。あれ、知ってるやつ、すか?」
「知ってますね。顔を見て思い出しました。目が良いのが嬉しくない時って、けっこうありますよね」
遠く、遺跡群のある方角を睨みながら低い声でトモリは答えた。怒りを抑えているような声の響きに、ハクは肩を震わせた。
楽園の門を開く者。祈り続けるアウラアウル。そう呼ばれる終末を、トモリは知っている。
それは、誰よりも平和を愛していた。それは、角や翼をもって生まれた子供達が誰も憎まず、誰にも憎まれない楽園を築こうとしていた。それは、旧世界最後の聖女であり魔女であった。
アウラアウルは最期に世界を呪い終末となった。振り撒く呪いは生物を化物に変える。そこに生死の区別無く、悍ましい化物へと変えてしまう。そういう終末だ。
言い終えて、トモリは長く息を吐き出した。それからよし、と小さく声にして、ハクを見て笑顔を浮かべてみせる。
それは、ハクのよく知る笑顔だった。ハクはトモリの笑顔をよく知っている。何度も何度も見てきたものなのだから。トモリは、何も知らないだろうけれど。
「少し眩しくなるので、目を瞑っていてください。難しいなら手か布で覆って。あの光の環は、ごほっ……あんまり見てると、わたしみたいに血を吐いちゃいます」
嘘吐き。血を吐いているのはあの光のせいだけじゃないくせに。言葉を呑み込んでハクは頷く。少しでも手を煩わせてはいけないと、怯えた振りをして両の手で目を覆った。
頭の上に、温かい何かが乗った。ああ、手だ。ずっと忘れていた感触をハクは思い出した。褒められるか、慰められる時。いつもこの感触があった。それが心地好かったことを、思い出した。
「わたしが大丈夫って言うまで、目を瞑っていてください。でも、逃げたいと思ったらすぐに目を開けて逃げてください」
「……意地悪言いますけど。あたいを助ける意味、ありますか? ここであたいが死んだ方が、あなたは楽だったんじゃないっすか」
「そんなこと聞いてくる人は、だいたい恩に感じてくれるでしょ。後で良い感じに返してください」
温かい声だ。きっと今も笑顔を浮かべているのだろう。出会って半日も経っていない、それも己を獲物として襲い掛かった賊に向けるべきではない温かさだ。
敵だと見ればすぐに殺しに掛かるくせに。面倒だと言いながら簡単に全て殺すくせに。そのくせ、殺す必要が無いと考えれば信じていなくとも、後に敵になるとわかっていても今は敵ではないからと助けようとする。ちぐはぐで面倒な人間だ。
トモリノドカは、そういう人間だ。ハクはそれを知っている。トモリノドカよりも、知っている。
「……いつか損するっすよ、その性分」
「損する前に切り替えますから。それに、恩を仇で返す人はきっちり殺すって決めてるので」
問題無いでしょ? そう言って笑う気配がする。嘘吐き。何度も喉から出ようとする言葉を呑み込んで頷いた。
優しく笑う息遣いを感じる。ハクはその感覚を誰よりも知っている。安心させようとする時意識しているよりも少しだけ頭の撫で方が丁寧になることを、それを自覚した途端雑な撫で方に変わることを。頭から手を放した後、少し気不味そうな顔をしていることを。
トモリノドカの知らないトモリノドカを、ハクは幾つも知っている。きっと、伝える事は無いけれど。
じゅうじゅう、甘い匂いを塗り潰すように肉の焼ける臭いがする。トモリの肌と肉が焼ける臭いだ。ごぼごぼ、水の混じった咳音がする。トモリが血反吐を吐く音だ。
ハクは息を深く吸って口を閉じ、四つの耳を塞いだ。見ることは許されていない。声を出すことはきっと望まれていない。それならば。
ハクが耳を塞ぐのとほぼ同時に、トモリは一歩前へ踏み出した。距離は問題無し、館から遺跡群まで目立つ遮蔽物も無い。
これならやれるかな。目を閉じて息を吸い、ゆっくりと吐き出しながら目を開いて。
思い出したのは、この身に燻る怒りと、叶わなかった小さな
必要なのは、ほんの少しの覚悟とありったけの殺意だけ。邪魔臭い首輪がまだ機能を失っていなかった場合、今後が面倒になる。そうなった場合の覚悟と、このくそったれな状況への怒りを殺意に変えたら。
「――星をこの手に」
煌めく星の冠を戴いて。少女は、世界を呪う。