あれは、本物の終末だ。トモリとキユがそう気付くと同時に、シアターに照明が灯された。急な光に視界が焼け付く中、光の輪を戴く少女が立ち上がりトモリからキユへと視線を移した。
何度か瞬きをして、仮面を張り付けたような柔らかな笑顔を浮かべてみせて。手錠で繋がれた両手を持ち上げて。右の人差し指でキユを差し、ゆっくりと口を開く。そうして、舌足らずな声でこう告げるのだ。
「――お邪魔虫は、さようなら」
「なっ」
キユが何かを言い掛ける。けれど、言葉になる前にその姿はふっと消えてしまった。詠唱や仕掛け、力の流れなど何も感じられなかった。何をしたのかトモリにはまるでわからない。
けれど、似た現象を知っている。つい数日前に見て、体験した現象だ。
キユが扱う瞬間移動。あれも、トモリには力の流れや仕組みがまるで理解できないものだ。目の前の終末が同じ事をしたのなら納得はできる……けれど、それはこの状況をどうにかしてくれるものではない。
「……キユさんを、どうしたんですか」
「壁の中。でも、埋まる前に座標を書き換えたみたい。今はお空を落ちてるよ」
舌足らずなあどけない声で少女の姿をした終末が答える。それから、隣の座席をばんばんと翼で叩き始めた。
身構えるトモリに対し、少女はどこまでも柔らかな笑顔でおいでと言う。
「おいでって。もっと近くで話そうよ」
「まず質問に答えてください」
「ええ……そんなにお邪魔虫が心配? んう、転移と転送は得意みたいだから平気だと思うよ。ノドカはあれを死なせたくないのかな? 死んだ方が良いと思うけどなあ、ノドカの為にも」
本当に、死んだ方が良いと思うけど。柔らかい笑顔のまま、冷たい声で少女の姿をした怪物が呟く。どこか友人を心配するような声と態度に、トモリは頭痛を感じ始めた。嫌な予感が確信に変わってしまった。
「……どうして、わたしの名前を知ってるんですか?」
「んふ、どうしてだろうね。友達だったって言ったら信じてくれる? 家族だったって言ったら抱き締めてくれる? 敵だったって言ったら、憎んでくれるかな」
頭が痛い。吐き気がする。憶えていない何かを思い出そうとする度にこれだ、嫌気が差す。トモリは心の中で何度も舌を打ち悪態を吐いた。
表に出さなかったのは相手が終末という怪物であるという警戒と、見た目だけを言えば幼い少女であり、それに怒鳴り散らすのは嫌だという理性が働いたおかげだ。その理性もいずれ無くなってしまいそうだけれど。
溜息。こいつは下手に刺激をするべきではないだろうと冷静に考える余裕ができてきたのを自覚してから、トモリは質問を再開することにした。キユ安否と己の記憶、それに呼び出した目的。確認しなければならない事は多い。
「キユさんを呼び戻せますか」
「向こうが拒絶するよ。今ワタシが此処に転送しようとしても、向こうはまた壁とか土の中に跳ばされるって思っちゃう」
「それ、もうやらないんですよね」
「今日はやらないよ。ノドカ、あれにまだ死んでほしくないんでしょ?」
「できれば助けてほしいんですけど」
「やだよ。殺しはしないけど助けない、それが妥協点。それに、あれがいるとお話するの難しくなっちゃうし……ね、座ってよ。ふかふかだよ、このシート」
追加で溜息を一つ。熱くなるな、冷静になれ。トモリは己に言い聞かせ息を吐き切った。相手の方が格上なのだから、衝動的に動いてはいけない。
今、トモリにはいくつかの選択肢がある。一つはこのまま少女の要求に応える。機嫌を損ねずに情報を引き出し時間を稼ぎ、キユがどうにか戻り次第脱出。あるいは、キユはこのまま死ぬと諦め適当なところで切り上げる。この少女は終末であるにも拘らず、トモリへの悪意や害意を感じない。隙を突けば逃げる事はできるだろう。
もう一つは今から全速で逃走する。これは却下。まず、今は隙が無い。何故かはわからないがトモリに隣に座るよう強く求めている。拒否して逃げようとすれば、どうなるかわからない。
次、最後の一つは単純にして明快なもの。ここで、こいつを――
「――――はあ、やめです。わかりました、座ります。一個席空けても良いですか? その分翼広げて良いですから」
「んむっ……んう、んうん……わかった、認める」
どこか残念そうな声で少女が頷いたのを確認し、トモリは二つ隣の席に腰掛けた。確かにふかふかだ。これも魔法少女の魔法の力なのだろうか。
アンジェリーナ・クラークという少女は、何故かトモリを全く警戒していない。距離を離そうとすると逃げられると感じているのか反応するけれど、距離を詰める分には嬉しそうにするだけでまるで警戒が無い。トモリの殺意に気付かないわけもないというのに、まるで気にしていない。
身体強度が見た目通りとは思っていないけれど、ある程度までであればトモリの膂力で充分に破壊可能なはず。終末は不死に近い存在だけれど、どれだけ頑丈だろうと数秒程度なら行動不能にできるだろう。それだけあれば逃げられる。試す価値はある。
それでもトモリは、攻撃を選ばなかった。罠の可能性や一撃で行動不能にできなかった場合のその後の展開、幼い子供の姿をした者を殺す事への抵抗感。いくつか理由を考えてみたけれど、トモリにはどれが決め手となったのかはわからない。それでも、選べなかった。
「……んふふ。此処ね、友達だった魔法少女さんが死んだ後に貰ったんだ。何処にでも在って、何処にも無い映画館。こういう映画館が存在した場所なら、其処に在る事にできるんだって。結界術の応用なんだけど、ちょっと複雑過ぎてワタシも真似できないの」
魔法少女の魔法は難しいんだよね、クラークはどこか悔しそうに言う。その横顔に、トモリは覚えの無い懐かしさと胸の痛みを感じた。
「その子との約束もあるし、本当はちゃんとした映画を観たいんだけど……今でもたまに状態の良いフィルムとかディスクが見付かるみたいなんだけどね、ああいうの程高いから中々手に入らないんだ。観測所を潰すのはまだ惜しいから、無理矢理買わせるのもできないし」
「……君は、あの人達とどういう関係なんですか。何をしたんですか」
「んう? 外のやつなら駒だよ。答えが欲しい子に望んだ答えを教えてあげて、そのお代にちょっと脳を揺らして弄るの。慎重にやってるけど、三回目くらいで便利な手駒になるよ。まだ我儘はできないんだけどね、代わりに色々試してるの」
何でもない事のようにクラークは言う。きっと、彼女にとっては本当に何でもないのだろう。トモリは僅かな共感と嫌悪感を同時に感じながら、なるほどと答えた。
「ねね、ノドカ。お話、たくさんしよ。答えられる質問なら答えるよ。お代も無しで。特別だよ」
「……じゃあ。君とわたしとはどういう関係だったんですか?」
「んふ、それは内緒。忘れちゃった人には教えてあげない」
「首輪、見えます? これ邪魔なんですけど、外し方知りませんか?」
「んふふ、それも内緒。良いんじゃない、首輪。可愛いよ。リードがあったら握りたいくらい。お散歩しようよ」
仮面を貼り付けているような柔らかな笑顔を少しだけ意地悪く歪めて、クラークがけらけらと笑う。
瞳の中で渦巻く昏い怒りと殺意に気付かなければ、可愛らしいと思う事ができたかもしれないけれど。気付いてしまったトモリには冷や汗を流すくらいしかできない。
今現在、あるいは常に。この少女は何かに怒っている。その理由を知るまでは矛先を向けられぬようにしなければ。
「キユさんをお邪魔虫って呼んでましたけど、わたしは違うんですか?」
「ノドカはお邪魔虫じゃないよ、呼んだのワタシだもん。はあ、ノドカだけ呼んだのに、なんで邪魔がついてくるかな。嫌がらせか、馬鹿なのか」
「……なるほど」
この話題はこれ以上進めると危険だ。あまり突くと矛先がトモリにも向く。直感を信じ、トモリは話題を変えることにした。
情報を引き出しつつ刺激を避けられるものを考えなければと、頭と舌を回してゆく。とはいえ、話題はそう多くない。トモリは己の社交性の無さを少しだけ後悔した。
「映画、好きなんですか?」
「んふ、一回だけテレビで観たんだ。映画館で観る映画はもっとすごいんだよ、平和になったら観に行こうねって約束して楽しみにしてたんだけど。誰と約束したんだと思う?」
「……どれくらい、こうしているんですか?」
「誰かさんが約束を破ってからずっと。んう、これだと一人だけが悪いみたいだね。誰かさん達が、に訂正するね。二千年とちょっとくらいかな、誰もワタシを殺せなかったから一度も眠ってないんだ。ずうっと、約束を破った誰かさんを想い続けてきたの。感動的でしょ?」
「…………えっと、その」
「んふふ。どうしたの? 困ってるみたいだけど」
みたいではなく困っている。思い付く話題が全て少女の地雷な気がしてきたのだ。
トモリは頭を抱えたくなり、下唇を噛んで堪えた。ここで会話を止めるのは話題を変えずに会話を進めるよりもずっと危険だ。
……それにしても。まったく身に覚えが無いけれど、浮気を詰められる恋人というのはこういう気分になるのだろうか。トモリは溜息を呑み込んだ。
言葉を選びつつ質問を重ねてゆく。好きな食べ物はお父さんが焼いてくれたクッキーで苦手な食べ物は骨の多い魚料理。趣味は歌と絵だけれど、もう歌は誰も聴いてくれないし絵は画材を買ってもらえないから退屈。そういった、小さな質問を積み重ねてゆく。
「今日はけっこう無茶をしたんだよ。此処は普段世界の何処にも存在しない状態で固定されてて、ワタシの答えが欲しい時だけ在る事にされるんだ。それで、たまたま使われてる時に懐かしい気配が二つしたからあそこの二匹を使ったの」
「それは……気付かれたら大事になるんじゃ」
「んふ、なっちゃうね。ワタシの封印はより厳重になるだろうし、あの二匹は正気に戻せても殺処分かな。そうそう、ノドカも見付かると面倒かもだよ。終末が気に掛ける旧世界人なんて、観測所としては是が非でも欲しいだろうから。人質にすればワタシを制御できるかもってね」
「……面倒な事に巻き込んでくれましたね」
「んふふ、本音出てるよ。ワタシの機嫌を取るのはもう諦めたのかなあ?」
けらけらと、意地の悪い子供のような笑顔でクラークは笑う。恐らくこちらが素なのだろう、トモリには貼り付けたような柔らかな笑顔よりも余程好ましく思えた。同時に苛立ちと悪寒も感じているけれど。
……終末。彼女は終末であると自称した。やはり、そうなのだろう。これだけ穏やかに言葉を交わせても、悪戯好きな子供のような笑顔を見せていても。この少女は、終末なのだ。
不意に、少女が笑顔を消した。それから瞬きをし、不機嫌そうに息を吐き出す。
「んう。お邪魔虫が戻るまでって思ってたけど、それより邪魔なのが先に来ちゃうかな」
「邪魔って、何が来るんですか?」
「観測所。ワタシが映画館を外に出してるのに気付いたから、何処にいるのか探してる。んふふ、終末観測所なんて名乗ってるくせにすぐ見付けられないのは駄目だよねえ。観測できてないじゃん」
不機嫌そうなまま、ここにいない誰かを煽るようにクラークが笑う。そうして、ひとしきり笑い満足したのかトモリに向かって再び柔らかな笑顔を向けた。
「あんまり時間無いみたいだから、本題済ませちゃおうか。ノドカを呼んだのはね、キミの探し物のヒントをあげたかったからなんだ」
欲しいでしょ。そう言う少女の笑顔は、天使のような愛らしさと怪物のような悍ましさを併せ持つものだった。トモリは直感する。この笑顔と声で、多くの者を狂わせてきたのだろう。
「……どうせなら答えが欲しいんですけど」
「ノドカが一生ワタシのお人形になってくれるなら良いけど。でも、嫌でしょ?」
「……嫌です。対価が釣り合ってません」
「んふふ、そうだよね。ワタシに答えを求める人も、半分くらいはちゃんとそれをわかってる。だのに人という生き物は答えを欲しがるんだ。愚かで面白いよね」
硬く冷たい、全く面白いと思っていないだろう声で少女が笑う。それから、一つ瞬きをして。碧の瞳を、煌めかせて。
「――キミの探し物は王国の地下にある。そして、探し人は今もこの世界で生きている。それが今のキミにとって良い事なのかどうかは、ワタシにはわからないけど」
碧の瞳を煌めかせ、光の輪を白く輝かせて。天使と呼ばれる少女は、トモリにそう告げた。
それと同時に視界の端で何かがばちばちと火花を散らし、目と耳から何かが脳まで侵食しようとしているような不快な感覚がする。トモリはこの感覚に覚えがある。この新世界で目覚めてから、何度か受けた不快感だ。今の感覚はそれよりもずっと優しく悍ましいけれど。
「……洗脳しようとしてますよね?」
「おっと、つい光っちゃった。ごめんごめん、でもノドカにはこれくらいなら効かないでしょ?」
「今の頭と目の光、それと声。あれであそこの人達を手駒にしたんですね」
「ごめんって。ワタシは人を狂わせるのに特化した終末だからねえ、ついやっちゃうんだ。癖とか本能って言ったら許してくれる?」
「許す許さないじゃありませんけど、特化……?」
「んふふ、そう。終末にも色々いるんだよ。探し物のヒントはあげたことだし、後の時間でノドカにはワタシ達のことも知ってほしいな」
そう言って、クラークはトモリの返事を聞かずに話を始めた。終末と呼ばれる怪物。彼らの在り方、アンジェリーナ・クラークの望む終末を。
終末とは、何かに絶望し世界を終わらせたいと望んだ者達だ。言葉を持たぬ大蛇や嵐の姿をした終末もあるそうだけれど、それも始まりは意志を持つ何かの絶望から始まったのだとクラークは言う。
山呑みミョールはこの新世界の小さな村で、神の遣いと崇められる蛇だった。彼女は村を愛していたけれど、邪教を広めている恐ろしい村だと火を放たれ村人は皆審問という名の拷問の末死んだ。最後の信者が神を呪いながら死んだ夜、彼女は山を呑む大蛇となった。
百二の顔、百三の声はとある国で嵐を鎮める贄とされた者達の怨念の嵐だ。核となっているのは、角をもって生まれたせいで存在を消された百三人目。嵐に呑まれ滅んだ国の王子の魂だ。父に毒を盛られ、数えられずに贄とされた彼は怨念の嵐を従える鬼となった。
黒波アルガ、刃毀れミツミ。この新世界で生まれた終末の名とその絶望を幾つか挙げてみせた後、クラークはにっこりとした笑顔を浮かべてみせる。先までの笑みとはどこか違うものだ。
それはどこか、トモリが時々水面を鏡にして練習する笑顔に似たものだった。どうして今そう笑うのかは、トモリにはわからない。
「祈り続けるアウラアウルはずっと疲れてた。人間に絶望しながら楽園を探してた。本当はもう全部嫌になってたのに、必死に呑み込んで皆が望む聖女を演じてたんだ。だから、最期に全部出て終末になっちゃった。ノドカはウルのこと憶えてる? ううん、思い出したかな」
その問いに、トモリはすぐには答えられなかった。どう答えるべきか、わからなかった。
「…………知っている人だというのは、思い出しました」
「んふふ! 知っている人、そうだね。そうではあるよね。でも寂しい言い方だな。ウルが聞いたらうっかり三回はノドカを殺しちゃうかも」
トモリは少しだけ嘘を吐いた。クラークも気付いているのだろう、にこやかな笑顔の奥で瞳が冷たくトモリを睨んでいる。
アウラアウルと呼ばれる終末が人間であった頃、それなり以上に親しかった事はトモリも思い出している。けれど、どうやって親しくなったのかまでは思い出せていない。
友人と呼べる関係だったのか、別の何かだったのか。トモリが憶えているのは、託された願いだけだ。
「まあ、今は良いよ。ワタシは優しいからね。今ノドカに覚えてほしいのは、終末は絶望から生まれるということ。それから、……んう、クイズ! ノドカはさ、水槽の中にいる水と魚をどうにかして空っぽにしてくださいって言われたらどうする?」
唐突な問いだった。意味がわからずトモリが困惑の眼差しを向けると、クラークはにっこりとした笑みを深めてトモリを見詰め返す。
観念したトモリが問いの答えを考え始めると、少女は嬉しそうにんふふと笑った。また、トモリの頭がずきんと痛む。
「……別の容器に移します」
「んふ、そうだね。じゃあ別の容器はありません、あるいはこの水槽以外に移せば魚は絶対に死にますってなったら?」
「なんですそれ……なら、魚が死んでから水槽を空にします」
「んふふ、優しいね。それじゃあ、更に条件を足そうかな。魚はたくさんいて、勝手に繁殖して子供を増やすからいつまで待っても死にません。あとはそうだな、とっても獰猛で餌をあげる時に指を噛まれた、飼っていた別のペットを食べられちゃったなんて恨みも足そうか。さあ、ノドカはどうする?」
なんなんだ。トモリは続けられる悪趣味な問いにここから逃げ出したくなった。どうにも嫌な予感がする。何かに誘導されているような気味の悪さがある。
「別に、どうともしません。どうしても魚を殺さないといけないのなら、餌を抜いて餓死を待ちます。それでも駄目と言うなら、生きたままゴミ袋に放ります。別に恨んでたってこの手でぷちぷち殺す必要は無いでしょ」
「うんうん、そういうやり方もあるよね。じゃあさ、ノドカはどうしたい? どうやって水槽を空にしたい? どうせなら楽しく空にしたいよね」
「そんな趣味は、無いです」
「そうだね。ワタシ達も趣味じゃないよ。いや、趣味のやつもいるだろうけど。……さて、そろそろノドカはクイズの意味がわかったかな?」
クラークの問いにすぐには答えず、トモリは長い溜息を吐いた。本当に嫌になる。
この怪物が何を言いたいのか、理解できる自分になりたくなかったのだ。それでも、今は理解するしかないのだけれど。
「クラークさんは、どうやって世界を終わらせたいんですか」
「寂しい呼び方だね、ワタシはウルより優しいからうっかりで殺さないけどさ。でも、意味は理解できたみたいだね」
にっこりとした笑顔を浮かべたまま、クラークはトモリを見詰め満足気に答えを返す。その笑顔はやはり、トモリが時々練習する笑顔とよく似ていた。気分が悪い。
「ワタシはね、魚に自滅してほしいんだ。共食いは美味しいよ、いじめは楽しいよ。水の色を変えてみたらどうなるかなって魚に囁いて自滅させたいの。ウルは魚を魚じゃなくして、魚じゃない何かだけの水槽にした後で水槽を壊したい。他にも毒で殺したい、一匹ずつ丁寧に殺したい、食べたい、食べさせたい。どうしたいかはそれぞれなんだ」
世界を水槽に喩えたまま、クラークは語る。そうして語り終えると、手錠の繋がれた両手をトモリへ差し伸べるように伸ばしてみせた。
「さあ。ノドカは、どうやってこの水槽を空にしたい? キミが望む終末をワタシは描きたいな。一緒に楽しい終末を過ごそう?」
狂っている。壊れている。トモリは悪態を吐きそうになる口を閉じる為に奥歯を噛み締めた。ぎりぎりと音がする。頑丈でなければ噛み砕いていたかもしれない。
「わたしは……そうは、なりません。この世界を守りたいとは思いませんけど、滅ぼしたいとまでは思いません」
「今はね。いつまでそうでいられるかな?」
「……いつまでも。頑固なんですよ、わたし」
「んふふ、それは知ってる!」
けらけらと笑い、瞬きをした後不機嫌そうに笑顔を消して。少女が溜息を吐くのと同時に、映画館が大きく揺れた。
がたがた、みしみし。空間そのものを揺らされているような不快な揺れだ。トモリが揺れとこの問答に気分を悪くしていると、クラークもまた不機嫌そうに溜息を吐いた。
「残念、時間切れ。もっと昔話とかしたかったんだけどな」
みしみし、ばぎんっ。壁に罅が入った。それは天井まで伸び、このままでは崩れ落ちるだろうと予感させるのに充分なものとなっている。けれど、少女は一歩も動き出そうとしない。
「あの。逃げないんですか……?」
「魔法少女の作った結界ってすごいんだよ、こんなにされても一時間くらいで綺麗に直るの。でも、ノドカは逃げないとね。捕まると探し物ができなくなっちゃう」
それも面白いかもだけどね。意地悪く言って、少女はトモリの前まで歩み寄った。手錠に繋がれた両手を差し出し、柔らかな笑顔でトモリを見詰めている。
「送ってあげる。今もテレポートは苦手?」
「昔はどうか知りませんけど……ぱっと出たり消えたりは苦手ですよ」
「んふふ、変わらないねえ。じゃあ、できるだけ丁寧に送ってあげるから」
トモリが差し出された両手に己の手を乗せると、クラークは嬉しそうに笑い指を絡ませた。抵抗しようにも翼が押さえ付けるようにトモリ包んでいるため、逃げる事ができない。
にぎにぎと、指を絡められることに怖気を感じて。天井の崩れ落ちる音が聞こえた頃に、ようやく翼の力が弱まってゆく。
「あの、そろそろ手を――」
「――ねえ。次会った時は、寂しい呼び方をしないでほしいな。全部思い出せなんて言わないけどさ。またね、ノドカ」
離してほしいんですけど。トモリがそう言い終えるよりも早く、トモリの姿は映画館から消えた。後に残ったのは、天使の姿をした終末が一人だけ。
「んふふ、意地悪しちゃった。でも、なんにも憶えてない薄情者への罰としては優しいんじゃないかな。ねえ、ウル?」
声は誰にも届かない。届いていれば、きっと頷いてくれただろう。いや、私にやらせろと拳骨をもらっていたかもしれない。
アンジェリーナ・クラークの知るアウラアウルは、聖女と呼ぶにはがさつで我儘で独占欲の強い女だった。喧嘩ばかりしていた。トモリノドカはずっと知らないままなのだろうけれど。
「ワタシはウルとは違うから、ノドカが忘れたままでも良いと思ってるつもりだったんだけどね。んう、いざ顔を合わせると欲が出ちゃうな……良くないね」
座席に背と翼を預け、崩落するシアターを眺めながら呟く。随分と焦っているのか、乱雑な組まれ方をした術式が映画館を覆っている。このままいけば、術が起動するよりも先にこの映画館が圧し潰されてしまうだろう。
少しお出掛けしただけなのにこれだもんなあ。クラークは溜息を吐いた。この後は何かどうでもいいことを喚き散らされるのだろう。
観測所の彼らは再び何処にも存在しない空間に閉じ込められたクラークを見て、自分達は終末の一つを封印、管理できているのだと思い込み直すのだろう。そうして自信を取り戻した後にああだこうだと安全だと思っている場所から喚くのだ。人間の愚かさは新旧どちらの世界でも変わらない。
さてさて、これからノドカはどうなるかな。声には出さずクラークは考える。遠く昔の絶望を思い出し終末となるのか、今の世界に絶望し終末となるのか。
どちらであれ、楽しみだ。友守平和はいつか必ず終末となる。それだけは確信できているのだから。
「――――大好きなノドカ。ワタシ達の愛しい
祈りや願いとは形の違う呪いなのだと。呪いの言葉は届かずとも魂を蝕むものなのだと。いつか、あの人はそう言っていたから。
大好きな友達が教えてくれた事を、アンジェリーナ・クラークは今も信じている。