「――お邪魔虫は、さようなら」
翼の生えた終末が私を指差しそう言うのと同時に、私はこの遺跡に入る前に見た空を思い浮かべながら指を鳴らした。
瞬きをした瞬間、視界が青に染められる。空が見える。いや、空から落ちている。想定していたより地面が遠い。座標をずらされたか?
……あの終末が私を指差した瞬間、カビの臭いのようなものを感じて咄嗟に転移の術式を起動した。壁か何かの中に転移させるつもりだったのではないかと考えているが、このままだと答え合わせの前に地面に叩き付けられて死ぬ。
落ち着け。落ち着いて左手の親指と中指を合わせて、力を込めて……これが一番安定するんだ。大丈夫、まだ地面は遠い。
安全な場所……森の樹の枝か、湖の中か。兎も角、落下の衝撃を少しでも軽減できればいい。そう考え、指を鳴らして――
――目を開くと、そこは獣の巣の中だった。六つの脚を持ち、騎兵の持つ円錐槍のような牙を口から無数に生やした化物が突然現れた私を睨み唸り声を上げている。
イノシシだ。いや、イノシシがいるのは構わない。厄介だが一人で狩れないわけでもない。問題は、何故イノシシの巣に跳んでしまったのか。私はこんな光景は思い浮かべていない。なによりこの森にイノシシの巣があるなど知らなかった。
「……嫌な予感がしてきましたね」
ぼやきながらもう一度指を鳴らす。今度はもっと安全な場所、馬車の通った道を思い浮かべながら。
瞬きをすると、目の前に白い何かが見えた。
毛むくじゃらの……そう、毛玉とでも呼ぶべきか。白い毛玉の先から、毛とは別の白い何かが飛び出している。なんとなく、歯のようだなと考えて――今まさに、死が目の前に迫っていることを自覚した。
「こんっ……の!」
咄嗟に屈み、頭上を通り過ぎようとした毛玉を右手で掴み地面に叩き付けた。反撃を許してはいけない。そのまま鉄板の入った靴で思い切り蹴り飛ばす。
ウサギ、鋭い牙を持つ恐ろしい毛玉の化物。あれの牙は鉄の盾も食い破る。それでも一羽であれば大した脅威ではないが、群れると全身に鎧を着込んだ騎士すらものの数分で赤い血溜まりを残して消えてしまう。仲間が集まる前に巣を出なければ。
背後から飛び掛かる毛玉を避け、もう一度指を鳴らす。ごぼごぼ、息苦しさに口を開くと嫌な音と共に泡が出た。
湖の中だ。名前のわからない巨大な魚が私を丸呑みにしようと迫っている。ここまでくると笑えてくるな。そんな余裕は無いので実際には笑わないが。
水中では指を鳴らせず、詠唱もできない。計算だけで座標を決めて術式を……いや、そうだ。計算を間違えているか、違う座標を上書きされている?
知覚できない何かに計算を妨害されている? いや、それならもっと体勢もぶれる。おかしいのは転移した座標だけだ。あとは……私が転移先を決めてから術式を起動するまでの間に、誰かが座標を書き換えているのだとしたら。
いや。そんな芸当できるわけがない。ただの人間であれば不可能だ。だが……あれは、終末という怪物だ。そもそも、私を跳ばしたのはあいつだ。
『――お邪魔虫、ちょっとだけ遊んだげる。迎えが来るまで生き延びたらキミの勝ちだよ。こっちに跳ぼうとしつこかったご褒美に、遊ぶのはキミ達が通った森の中だけにしてあげる』
頭の奥で、声がした。私をお邪魔虫と呼んだあの終末の声だ。幻聴ではないと確信できたのは、つい最近リュレで似たような経験をしたからか。
『溺死したくないなら返事はしなくていいよ。それと、これはちょっとしたアドバイスなんだけど。頭足りないし弱いんだから、今何をされてるとかあんまり考えない方が良いと思うよ。どうせ答え出せないんだから。頭足りない甘ちゃんのくせにうじうじ悩んでるから友達に心配掛けるんじゃない? 自分は馬鹿じゃないって思ってるなら直しなよ。じゃあね』
「――――
汚い言葉が出てしまった。いや、水のせいで声にできていないのでまだよしとしよう。それよりも、今絶対に私に言ってはいけない言葉を頭の中で言われた事が重要だ。あれは許せない。許してはいけない。
何様だあいつは。言いたい放題頭の中で言いやがって。私の何を知っている。何を見てきた。いや、どうでもいい。知っていようと、見ていようと。私とイザナ以外の者が、私の人生を語るな。
決めた。答えなんてどうでもいい、あの手羽女は絶対に殺す。翼を捥いでからっと揚げた後口に突っ込んで殺してやる。
※
記憶の限りでは二度目の浮遊感。思わず目を瞑ったトモリを襲ったのは、胸部と顔面への強い衝撃だった。
歯と鼻の骨が折れていてもおかしくない衝撃に頑丈な身体で良かった、などと考えながら耳を澄ませる。特に妙な音や気配は無し。それならばとトモリは目を開き上体を起こした。
まず視界に入ったのは罅から何かの花が生えたアスファルト。ついで周囲を見回せば朽ちて遺跡となったショッピングモールにそれを囲う森。
恐らくは旧世界の魔法少女が遺したのだろう魔法の結界は、このショッピングモールを今も新世界の侵食と時の流れから守り続けている。魔法を使った少女も、少女が守りたかった何かもとうに失われているというのに。
いや。感傷を抱くべきではない。きっと知らない誰かだ。知っているとして、今は憶えていない。トモリは頭を振り、思考を切り替えようと意識する。今は優先するべき事がある。
まず最初に問題とするべき事は決まっていた。周囲を見回した時にあるべきものが、ここから無くなっているのだ。
「……馬車、何処行ったんだろう」
土の上であれば痕跡を見付けるのは容易であったのだけれど、アスファルトの上ではそうもいかない。さて、どうしたものか。トモリは吐き気を堪えながら考える。
結界の外周を見て回れば何処かで馬の足跡か轍が見付かるはず。トモリはそう結論付け、まずは来た道を戻ってみる事にした。遺跡を囲う森は獣の気配が濃い。待っているよう言われ前払いで賃金も受け取った御者がキユを裏切り逃げたにしても、特別な事情が無ければそのまま来た道を戻るはずだ。
「……よし。キユさあん! 何処にいるんですかあ!?」
トモリは息を吸い、思い切り大声を出してキユへ呼び掛けてみた。けれど、返事は無い。あんまり大きな声を出すのは恥ずかしいし嫌なんだけどな。トモリは溜息を吐き出した。
確かこちらから来たはずだと遺跡群と森の境目に向かうと、馬車の轍を発見する事ができた。随分と焦っていたのか、蹄の跡が乱れている。キユを探しつつ馬車も追ってみるかと考え、トモリは轍と蹄の跡を辿る事にした。
「キユさん! いませんかあ!? ……ううん、どうしよっかな」
森を歩きながら呼び掛けているけれど、今のところ返事は返ってこない。とうにクラークが殺している可能性もあるけれど、それは限り無く低いとトモリは考えていた。
あの子が本当に殺すつもりだったなら、転送なんて面倒な手は取らない。確実に、徹底的に破壊する。嫌な確信がトモリにはあった。失くした記憶が知っているのか、本能的な恐怖からなのか。それはまだ判断はできないけれど。
さて、どうしよう。恥はあるけれどもっと大きな声で呼び掛けてみるか。そう考え、トモリが息を吸い――
馬の嘶きと年老いた男の悲鳴が、トモリの呼び掛けを上書きするように森の中を響き渡った。次いで響くのは、興奮した獣の雄叫び。
「……手遅れっぽいなあ、これ」
何度目かわからない溜息を吐き出して、しかし好都合でもあるかとトモリは思考を回す。キユが生きていてこの森の中にいるのであれば、まず聞き逃すはずの無い音だった。現場に向かえばキユと合流できる可能性はある。
まあ、帰りはこのまま徒歩になってしまいそうでもあるのだけれど。気分が悪くなるので頼りたくないけれど、キユの魔術に頼ればもう少し楽な帰り道になるかもしれない。
やはり、その為にもキユは見付けなければ。そう考え、トモリは音のした方へ歩を進めてゆく。すると、人の話し声のようなものが聞こえ始めた。近付く内にキユのものではないと気付いたけれど、御者の男性と似た声をしていると感じられた。
何か、変だ。トモリは嫌な予感に一度足を止めた。何故、今の声を御者の声だと確信できなかったのだろう。理由のわからない違和感だ。こういった違和感を見逃すと酷い目に遭う。トモリはそれを知っている。
「――助けて! 助けて! 誰かいないのか? 助けて! 誰か、誰か、誰か助けて」
男の声がする。無理矢理絞り出しているように掠れてはいるけれど、確かに聞き覚えのある声。トモリ達を置いて逃げた御者の声だ。
……そのはずだ。そのはずだけれど、これは違う。トモリは嫌な予感を確信に変えた。この状況と似た経験に覚えがある。
旧世界の月から降る怪物には、人や動物を操る事に特化した個体もいた。脳に種を植え、身体中に根を張り人形のように動かすのだ。何種類かは特徴を覚えている。
森や山の中で最も見たのは植物型だ。操られた被害者は助けを求めるような声を上げながら同胞に襲い掛かり、噛み付いて種を植え付け仲間を増やす。御者を襲ったのは、それと似たような何かなのだろう。
「生き残り……じゃないといいなあ。仕事が増える」
植物型は特に厄介だった覚えがある。あれらを根絶やすにはトモリ一人では手間と時間が掛かり過ぎる。根絶やすまでの間に、この新世界が次の旧世界となるだろう。
助けるつもりも罠に掛かるつもりもないが、正体の確認はしなければ。そう考え、トモリは慎重に声のする方へ足を進めてゆく。声が近くなってきた。気付かれているかもしれない。いっそ先に仕掛けるべきかと腰の剣に手を伸ばし――
――トモリの目の前で、
「と、うわっとと……なにこれ?」
まず口から漏れたのは困惑の声だった。次いで血の臭いと腐臭を感じ、魚を見上げようとして空が暗い事に気付く。
ぽつり。何かがトモリの頬に当たった。雨でも降るのかと考えながら頬を拭い、粘ついた感触に雨ではないと直感する。
血だ。手の甲が赤黒く染まっていた。痛みは無い。臭いも違うのでトモリのものではないけれど、確かに何かの血だ。
では、これは何の血だというのか? その答えは、恐らく疑問を感じる前から上空に存在していた。
「……はあ。傘、返してもらえてたらなあ」
毛むくじゃらの腕や脚、ぶよぶよとした眼球、どこかの臓器なのだろう肉塊、それから大量の魚や虫。それらが空を覆い――そのどれもが無理矢理千切られ、あるいは絞られたように血を流しながら――落ちてくる。トモリは空を仰ぎ見て溜息を吐き出した。
いや、これは折り畳み傘じゃどうしようもないか。どうでもよい事を考えながら、血肉の雨から逃れる為に走り出す。
ぽたぽた、ずどん、ばぎんっ。血肉の雨は森を濡らし、時に木々を薙ぎ倒してゆく。トモリにとって幸いだったのは、この雨はトモリを追うように現れているわけではなく、範囲もそう広くない事だ。上に気を付けてさえいれば肉塊の下敷きにはならずに済む。何処まで逃げれば良いかわからないのは困るけれど。
問題は、下だ。先の魚といい、生えてきたとしか言い表せない現象だけれど実際にはそうではないのだろう。元から地中にあったものが飛び出てきたわけではない。恐らくは、そのままの意味で現れている。召喚や転移の類か。
今トモリが知る中でこういった芸当ができるのは、キユとクラークのみだ。旧世界の頃であれば何人か心当たりがあるけれど、今も生きているとは思っていない。
クラークはトモリに殺意が無かった。隠していたにしても、このように回りくどい殺し方はしないだろう。あれは、少なくとも今現在に於いてはトモリよりずっと格上の相手だ。瞬きの間すら必要無く殺せただろうとトモリは確信している。
キユはどうだろう。実力の全てを知っているとまでは言わないけれど、あの新世界人にそこまでの力があるだろうか。あるいは、これはトモリが新世界人を侮り過ぎているだけかもしれないけれど。
どうあれ、まずはこの状況から抜け出すべきだ。そう考えトモリは駈け続ける。どうにか術者を見付けて止めなければ、キユを探す事もできない。
「やねこ……はあ。面倒臭い、なあ!」
殺気を感じて足を止めると、鼻先を何かが掠め土を抉った。獣臭い息の音がする。
クマだ。トモリの知る旧世界のそれより二回り大きく、脚が三本と眼球が二つ多いけれど。それ以外の要素はトモリの知る熊とよく似ているので、きっとそうなのだろう。
「……ねえ、今お互い大変な状況ですよね。見なかった事にしません? ……駄目そうだなあ、そんなに興奮しないでよ煩いから」
旧世界でもそうだったけれど、クマという獣は非常に知能が高いらしい。もしかすれば言葉も通じるかもという期待は正直あまりなかったけれど、立ち上がり獣らしい二本の前脚と人間の腕によく似た三本の脚を持ち上げて威嚇をされると期待する方が間違っているのだと否定されている気分になる。
どうしようかな。キユさんが生きてたら見られると面倒だし。クマを刺激しない為に溜息を呑み込んで、トモリは思考する。
このまま逃げるのが一番面倒が無い。けれど、何処で諦めてくれるかがわからない。王都まで追われればトモリが陰湿な老人の嫌味が増えるし旧市街に行かれれば友人の身に危険が及ぶ。それに、キユを見付けられない。クラークが嘘を吐いて死んでいるにせよ、せめて弔ってやりたいと思う程度の情と付き合いはある。
殺すのは簡単だ。多少形が変わったところで、獣は獣でしかないのだから。けれど、キユに見られた場合が面倒だ。キユとジュウゾの関係がトモリにはわからない。あの老人に僅かでも情報を与えるのは避けたい。
クマの興奮具合はもう見てわかる程限界に達している。これ以上悩んでいればより面倒になる。どちらの面倒がよりマシか、トモリは決断しなければならない。
「……恨まないでくださいね。わたしは恨みますけど」
言って、トモリが剣に手を掛けたその瞬間に。
クマの鼻から先が、ずるりと落ちた。ぽとり。見た目の重さからは想像のできない軽い音を立て、肉塊が落ちる。
きょとんとして視線を落とすクマ。そこに落ちているものが己の身体の一部である事を自覚し、怒りの雄叫びを上げるその前に。喉が裂け、血を噴き出した。
左脚が裂け、姿勢を崩す。同時に人間の腕に似た三本の脚がほぼ同時に切断された。立ち上がろうと血に叩き付けられた右の前脚がふっと姿を消し、クマの腹から血飛沫を上げ獣の脚が生える。
そうして、手足を失い、声を上げる事もできないままクマは逃げ出そうと必死に身を捩る。雄叫びとも悲鳴ともつかない鳴き声の中に、ぱちんっと指を鳴らすような音が混じって聞こえた。
びくんっ。大きく体を震わせ、血の混じった泡を噴き出して。その獣は、ぴくりとも動かなくなった。荒い息の音が聞こえる。これは獣のものでもなければトモリのものでもない。
クマと呼ばれる獣が鼻を落とされてから死ぬまでの間、トモリは一歩も動いていない。次の表的にされる可能性を考えれば、動く事ができなかった。
倒れ伏す獣の背に、小さな人影が立っている。見覚えのある顔が見覚えの無い表情をしているのがトモリにはわかった。
大きな鉈のような剣を杖代わりにして、肩を上下させ荒く息を吐いている。赤い頭巾では返り血から守りきれなかった金の髪の奥からは、殺意と興奮に爛々と煌めく翠の瞳が覗いて、――トモリと、目が合った。
「――――は、ははっ。トモリさん、ですか。お迎え……早かった、ですね」
ふっと、キユの瞳に宿る剣呑な光が弱まった。ははっ、ははは、と乾いた笑い声を何度も上げ、ふらふらとした足取りでトモリの元まで歩み寄りながら笑顔で手を差し伸べてみせた。その手は、赤黒く汚れている。
「は、ははっ! さぁ、さぁ! 行きましょうトモリさん! あのくそったれの手羽女を、……ころ、」
殺しに行きましょう。そう言おうとしたのだろう舌は最後まで回らずに止まった。キユが膝から崩れ落ちたのだ。トモリは咄嗟に支え、べちゃりとした感触に少し後悔した。何をどうしたらここまで汚れるのだと問いたくなる程に汚れている。
「キユさん? あの、キユさん?」
顔を覗き込めば、気を失っているようだった。呼吸に問題は無さそうだけれど、どれだけ揺さ振っても目を覚ましそうにない。
「ええ、どうしよ……いや、ううん……はあ。まあ、いいや。合流はできたんだし」
溜息。本音を言えば、何が御者を殺したのかだけでも確認に戻りたいところだけれど。この状態のキユを置いて、あるいは背負ってまでしたいわけではない。この惨状を見るに、すでにキユが殺しているのなら得られるものも無いだろう。
軽く見た限りで言えば、返り血塗れで汚く臭いも酷いけれど本人に怪我は無さそうだ。あの血肉の雨もキユの仕業なのであれば、相当な数を殺したのだろう。魔術に関してはまるでわからないトモリでも、あれは異常である事くらいは理解できる。
この赤ずきんは、トモリが思っているよりもずっと実力のある戦士なのだろう。それが良い事なのかどうかは、トモリとしては判断に困るけれど。気を失う前の異常な興奮具合に関しても触れて良いのか困るところだ。
「ここから王都までって、徒歩どれくらいかなあ……」
馬車で一日掛けたと考えると、三日は掛かるのではなかろうか。大雑把に計算してトモリは大きな溜息を再び吐き出した。途中で足になる何かを拾えると良いのだけれど。
「それにしても……あんまり人のこと言えないけど、酷い戦い方だったなあ。本当にきったないし」
様々な化物の血と脂の臭いが混じっているのだから当然ではあるけれど、あまりにも臭い。トモリは顔を顰めながらキユを背負い、べちゃりと背の濡れる感覚にうわあと声を漏らした。起きたらまずは服と身体を洗ってもらおう。最悪眠っている状態でも洗ってやる。トモリは一つ決意した。
「これ、貸し一つですからね。聞こえてないでしょうけど」
返してもらうつもりも、ないけれど。