苦しい。名も知らぬ大男と対峙している最中、トモリはどうしようもない胸の苦しさと頭痛を感じていた。
問いを受け、殺さなければと感じたその瞬間から胸に重く刺々とした何かを感じて息が苦しい。頭がずきずきと痛んでうるさい。
十時輝夜。その名を知る旧世界人はみな死んだはずだ。生きている者は知ってはいけない名だったはずだ。新世界の者が知るはずもない。憶えている者は、もうトモリ一人のはずなのに。
「どうして――」
どうして知っているの。何を知っているの。問いが幾つも浮かんでは喉に詰まって言葉にならない。何度も問い掛けようとしては、言葉が詰まり思考も止まる。この男の攻め手が苛烈なものでではある事も理由だけれど、それよりも。
『――警告。警告。当個体は極めて不安定な精神状態にあります。周囲の戦闘可能個体は直ちに当個体を鎮圧、封印してください。繰り返します。当個体は極めて不安定な』
「うるっさい、なあ……!」
首輪から発せられる機械音声がトモリの精神を掻き乱す。今まで黙っていたくせに何を今更、そう怒鳴り散らしたい気分だ。戦闘中でなければ首輪を思い切り殴りたい。
旧世界の戦士達に着けられた首輪には、装着者の精神に異常が発生した際それを周囲へ伝える機能がある。
怒りや恐怖による暴走、戦意低下による逃走の兆しなど、人類にとって不利益となる行動を取ろうとすれば即座に首輪から機械音声が流れ周囲へ対応を要請する。そういう機能がある事をトモリは覚えていた。
覚えていたけれど、この新世界で目覚めてから今に至るまで一度も首輪は作動しなかった。トモリだけでなく他の勇者達もそうだ。トモリは己が感情を制御できる人間ではないと自覚しているので、不具合を起こしているか機能を失ったのだと考えていたけれど。
「さっきからなんか変な音してるがよ、その首輪か?」
「……ふれふれ頑張れって応援されてるんですよ」
「そうは見えねェ顔だが」
トモリは言葉を返さず、男の周囲へ意識を集中させた。目には見えない巨大な左手、それが空間ごと男を握り潰す想像をしながら見詰める。瞬間、男の右腕がべきんと音を立て折れた。このまま潰して殺す、そう殺意を込め見詰め続ける。
旧世界では念動力やサイコキネシスと呼ばれていたその力は確かに男の全身を捉え――けれど、握り潰す寸前に折れたはずの右腕がびくんと動き出した。視界の端でぶちっと何かが潰れたような嫌な感触に、左目からじわじわと伝わる鈍痛。
不可視の手、その指を千切られた。目には見えない巨大な指を掴み、千切ったのだ。理解すると同時に、トモリの左目を襲う痛みが鋭いものに変わってゆく。
「づっ……!」
「面白ェ力だが、慣れればどうとでもなるな。おっと、本調子ならとか言い訳は無しだぜ。オレだって脆い器でやってんだ……いや、直したりとズルはするけどよ」
気不味そうに男が言い、そのままトモリへと距離を詰める。繰り出される殴打や蹴撃はどれも雑な動きだ、左目が機能していない状態のトモリでもどうにか避けられる。
疾く力強いものの、経験が足りていないのか動きに無駄が多く狙いもわかりやすい。問題があるとすれば――
『――警告開始から百八十秒経過しました。当個体は鎮圧不可の暴走状態にあると判断し、強制停止処置を開始します。周囲の個体は十分な距離を取り、当個体の機能停止後に拘束してください』
「まずっ……!?」
首輪から感情の無い声が聞こえる。不味いとトモリが考えるよりも速く、トモリの全身を電流が駆け巡った。一瞬、視界と意識が白く染まる。
「ぅ、……隙、突かないんですね」
「いやァ、今の隙を突くのはなァ。感電も怖ェし。つうか、それやっぱ応援してねェよなァ……外せねェのか?」
「どうでしょう、ね」
外せるならとっくに外している、そう返す気力さえ今の電撃で無くなってしまった。会話に応じているのも少しでも身体を動かせるようになるまでの時間稼ぎでしかない。
ただの電撃であれば、雷であろうとトモリの身体にはほとんど意味は無いはずなのだけれど。何か呪術でも仕込まれているの、指先まで痺れて剣を落としてしまいそうだ。
……敵が目の前にいる。殺さなければならない者がまだ立っている。泣き言を言っている場合ではないとわかっている。
わかっているのに、頭が上手く回らない。身体が上手く動かない。首輪から響く声は止む様子が無い。早く終わらせなければ、次は首輪に何をされるかわからない。
一瞬、トモリの左手が背中へ伸びた。ブレザーの下に隠した槍へ指先が触れ、けれど柄を掴む事は無く手は戻される。
背に隠した短槍は、旧世界ではトモリの相棒だったものだ。今のトモリはどのように振るっていたかも思い出せないけれど、ずっと共にあったという愛着だけは忘れていない。
憶えているのは、大切な相棒だったという事と誰かに二度と槍を振るえぬようにと呪われた事。槍を振るおうとすると、血反吐を吐いて立っていられなくなるのだ。少しの間であれば耐えられるけれど、この男を殺し切るまでは保たないだろう。
扱い方を思い出せないだけか元々扱い切れていなかったのか、念動力は不意討ちにしか使えない。剣で斬れはするもののすぐに再生され、熱と硬さのせいかそろそろ折られる気がしている。槍を手に取ったところで殺し切る前に自滅、そもそもこれ以上戦闘を続ければまた首輪が作動する。
呪術の類は詠唱などの条件が要る。頭痛と機能を取り戻した首輪がある現状では男を捉える前に止められるだろう。
「……困ったな。詰んでる」
トモリが不利を自覚すると、理由のわからない怒りと苦しさが少しだけ和らぐのを感じた。今もずきずきと頭は痛むけれど、考える余裕が生まれ始めた。
「すみません、前言撤回したら逃げる時間くれます?」
「逃がしはしねェがやめにするか? オレァ正直物足りねェんだがよ……つっても今のお前さんとこれ以上やっても楽しくはならねェのもわかる」
「わたしは最初から楽しくなかったですけど。なる予定も無いです」
「そいつァ残念。お互いに楽しく遊ぶのが一番なんだがな」
そもそも遊びじゃないんですよ。言い掛けて、やめた。思想の違いはどれだけ言葉を重ね合っても解決しない。トモリはそれを知っている。
今トモリにできるのは、できる限り情報を得ながら離脱する隙を探すか応援を待つ事だ。王都で子供相手にどうにかすると啖呵を切ってしまった手前情けないけれど、今のトモリではもうどうしようもない。距離を取って呪術で狙い撃つ、殺すのであれば今はこれが一番確実のはず。
――あるいは、この命と引き換えであれば。一瞬考え、すぐに否定した。トモリは己の最期を決めている。使命を果たせぬまま死ぬつもりも無い。
「……自己紹介、しましたっけ。わたしはトモリノドカ、旧世界の人間です。貴方は? 魔族なのはわかります」
「そういや名乗ってなかったな……いや悪ィ、はしゃぎ過ぎた。ラスって呼んでくれ。ところで、それ本名か?」
「名乗られてすぐ本名かって聞くのは失礼じゃありません?」
「そいつァ確かに。すまん……」
申し訳無さそうに頭を下げる男、ラスにトモリは戸惑いながらも好都合だと思考を回してゆく。最初からわかっていた事だけれど、この男にはトモリに対して殺意が無い。トモリが冷静になったからか、首輪も静かになった。これならゆっくりと質問をして時間を稼げそうだ。
「どういう目的でこんな事をしたんです?」
「言わなかったか? 探し物だよ。オレは同胞が探し物を終えるまでの陽動と時間稼ぎ、ついでみオレを喚び出して殺そうって連中への挨拶でここに来たわけさ」
挨拶とは要は強襲だろうとトモリは思ったけれど、指摘はしなかった。新世界のあれこれに興味は無い。強いて言うなら、あの老人は確実に殺しておいてほしかったくらいで。
「わたしにした質問の意味、わかってます?」
「オレは知らねェ。言ったろ、殿下の命だ。旧世界人の女を見たら問いを掛けて反応を見ろってな。そんで、お前さんは
「その当たりっていうのは……」
「待った。質問には答えてやるがこの場でとはいかねェな。オレァもう帰る時間だ」
何が言いたいのか問おうとして、トモリは問いを止めた。正しくは、問う事ができなかった。
最初に感じたのは、王都で暮らしている間常に中央から感じていた、トモリには理解のできない力が消失する感覚だった。次いで地が揺れ、ぱきぱきと空の割れる嫌な音を耳にして。それから――
――ずっと、ずっと探し続けていた、懐かしい気配が一つ。王都の中央にあったはずの何もかもを押し退け、塗り潰すようにして。遠く離れた旧市街からでもわかる程の土煙と轟音を上げて、それは姿を顕した。
それは、天を突く程に高い塔であった。それは、悍ましく脈打つ肉の塊であった。それは、一切を焼き滅ぼす人類の最終兵器にして呪いと悪意の極致であった。それは一人の少女の望郷、その成れの果て。旧世界が終末へと歩み出した最初の罪である。
対星兵器試作零号改め、月面砲撃塔かぐや一号。この新世界で目覚めてから、トモリはあれを探し続けていた。他の何もかもを諦めても、あれだけは見付け出さなければならなかった。あれは、トモリの――
「ぉ、」
「――やっと隙ができたな」
目の前で、ラスが拳を構えている。不味い、そう考えると同時にトモリは鳩尾に強い衝撃を感じた。視界が揺れ、息ができない。何かが口から溢れ出る。音が遠くなり、目の前が暗くなってゆく。
「不意討ちで悪ィが、ちィと眠ってくれや。後でゆっくり話そうぜ」
「ふざ、け……」
ふざけるな。そう言葉にする前に、トモリの意識は完全に途切れてしまった。崩れ落ちたトモリの肩を支え、ラスはふうと息を吐く。
「……甘い匂いの血。そんで今の反応、間違い無ェよなァ。どこまで憶えてんだかわからねェが」
トモリに息がある事を確認して、ラスはもう一度息を吐き出した。気の緩んだところにこの器の限界まで力を込めた一撃を叩き込んで、それでようやく気絶だ。頑丈さばかりはどれだけ記憶を失おうと変わらないのだろう、おかげでひどく手古摺ってしまった。
「まァしかし、ディレから聞いていた特徴とは格好と名前以外一致してねェな。化かされてたのか節穴か……あいつ、気に入ると見る目が甘くなるからなァ」
長い付き合いの同胞がこの旧世界人にどのような感情を抱いているのか、ラスはそこまで興味を持っていない。都合の良い道具になると期待しているのか、友になってくれると本気で信じているのか。
あるいは、それ以外の感情を抱いているのか。いずれであれ、ラスは己に他者をどうこう言う資格は無いと考えている。
ラスは己の事で手一杯だ。己の守りたいものを守る為、成したい事を成す為に。この少女を利用するだけなのだから。
ラスにはどうしても手に入れたいものがある。百と三十年求め続け、その為に窮屈で脆い人を模した器に魂を押し込めた。それを手に入れられるのであれば、この命も惜しくはない。最期に触れる事さえできればよい。
それが己には不相応なものであるとは理解している。求める事こそが間違いであると、わかっている。それでも。
「――すまんな、お前さんにはマジで悪ィとは思ってんだ。同情もしているが、最期まで付き合ってもらうぜ」
姿形に話し方。どれだけ真似てもかつて憧れた
最期に笑えればそれでいい。友の代わりに笑って死に――
己を討つ者に、笑える未来があれば。それでよい。
※
異変を感じたのは、大聖堂の外門前へ着いた瞬間だった。
大きな地揺れと共に中央の方で爆発音のような音がして、振り返ると王城がある辺りに巨大な塔が出現していた。いや、塔と呼んでよいのかもわからない。どくどくと脈打つ不気味な肉の塊が、塔のように高く聳え立っていたのだ。
最初に考えたのは、あの魔族の女が喚び出した可能性。転移の寸前に腹は割いたはずだがあれで死ぬとは思えない。
つい最近卵の塔を喚び出す終末信者を見たばかりだ、同じような終末を喚び出したのでは、と考えたわけだがあの塔には光輪が見当たらない。視認できない程高く、あるいは内部等の隠れた場所に光輪があるという可能性もあるが終末を目にした時に感じる特有の気配も感じなかった。
上手く気配を隠せるなど記録に無い未知の終末である可能性はまだあるが、そうであるなら今は対処のしようがない。まずはイザナの無事を確認し、次にトモリを探すべきだ。そう考え外門を叩いたが、近くに人がいないのか呼び掛けに誰も答えない。守衛は何処に行った?
襲撃を受けて……いや、それなら外門も開いているか破られているだろう。籠城している可能性はあるが、それならここに魔族がいないのは妙だ。血の臭いこそするが死体が無いし、今この王都は血の臭いに満ちている。鼻は参考にできない。
「……騎士団の者です! 各地の無事を確認して回っています、誰かいませんか!?」
巡回中の騎士を騙ってみたがやはり反応無し。人の気配はするのだが……ここに着くまでに何人か魔族を見たことを考えれば、大聖堂にも情報が伝わり警戒しているのかもしれない。中に被害が無いのであれば、それ自体はよいことなのだが。
「転移……はまだきついですかね。くそ駄剣、おまえのせいですからね」
大鉈を治めた鞘を軽く小突いてやったがこちらも反応無し。こいつ、散々私の魔力を喰らったくせに禄な戦果も無しにまた眠りやがった。契約が無ければこの場で折ってやりたい。
……仕方がない、行儀は悪いが跳び越えよう。無理に開いて中の者の反感を買ったり暴徒の侵入を許すよりはマシだろう。
そうして外門を越えた先にあったのは、幾つも並べられた死体だった。丁寧に並べられた死体と……これから死体になるのだろう者達に声を掛けたり祈りを捧げている者達がいる。煤や血に汚れて一瞬気付けなかったが、あの服装はここで世話になった際に見た聖職者達だ。
……並べられている者は老若男女様々だ。市民であろう者に見覚えのある制服の者、旧世界人に魔族と思われる者の姿も。この近辺で負傷した者を集めているのだろう。
「あとは、あいつは無事なら……」
「――どなかたお探しですか? ところで門は閉ざしたままなのですが、どのように入ってきたのでしょう」
背後から声。その声が聞こえた瞬間、私は手と足を止めた。いや、動かすことができなかった。今動けば殺される。そう確信させる何かが私の背後に立っている。声の響きは若い女のものだが、あの魔族よりも重い圧力――怒りを感じる声だ。
聖職者達とは距離があり木が視界を遮っている。罠を踏んだ感覚も無い。まだ気付かれるような下手を打った覚えは無い。なにより、私はまだ外門を越えてから数歩も歩いていない。どうして背後に人が立っているんだ。
「申し訳ありません。今は治療と供養で手一杯でして、礼拝も懺悔も、失せ物探しや占いなども受け付けていないのです。お帰り願えますか?」
「……聖職者の仕事とは思えないものも混じってますね。あの、入院中のお友達に会いに来たんですけど」
「商売の手を広げている最中でして。それにしても妙ですね。先程は各地の無事を確認して回る騎士だと名乗っていた気がしますけれど」
聞いていたのなら返事くらいしてほしかった。いや、言っている場合ではないのだが。こいつ、軽い口調に反して全く隙を感じられない。魔術で強行突破も今はできそうにないし、どうにか会話で信用を得るしかないか。本当にイザナに会いに来ただけなのだし。
「さっきのは七割くらい嘘です。でも一応騎士なのとお友達に会いに来たのは本当ですよ」
「そう言って火を放とうとしたり刃物を振り回した方が何人かいるのですよね。病棟にも被害が出たもので」
「……それは、大変でしたね。無事なんですか?」
「さて、侵入者に教える道理があるとお思いで?」
答えろよ。言おうとして、言えなかった。脅したところで決して答えてはくれないだろうし、その中にあいつの名前があったら、私は。
考えるな。今考えてはいけないことだ。それに、話を聞くより会う方が確実だ。
「…………手続きが必要であれば全てします。武具の類は預けても構いませんし、監視や拘束も拒みません。望む全てを受け入れます。だから、一つだけ願いを聞いてもらえませんか」
常に最悪を考えて動くべきとは何度も己に言い聞かせていることだが、今だけは最悪を考えるべきではない。今は――あいつに関わることだけは、最悪などあってはいけないんだ。
何かを企んでいる魔族を取り逃した。王都の中央に現れた異変への対処を先延ばしにしている。今も魔族が王都で人を襲っているはずなのに、それよりも私情を優先している。なにより、監視を命じられているトモリよりもあいつを優先している。あの陰湿爺に知られれば上に伝えられて面倒事になるだろうし、あいつにも知られればきっと叱られる。いい加減にしろと呆れられるかもしれない。ただ、それでも。
「イザナ・オウダインという傭兵が、ここで治療を受けているはずです。お願いします、一目会わせてくれませんか。無事かどうかだけでも教えてください」
あいつがいなくなったら、私はもう歩けない。立てなくなる。だから、お願いだから。私からあいつを奪わないでくれ。
「……お願いです。無断で立ち入った罰も受けますので」
「当然仕置きはしますし、お願いと言われても……ん、いえ。イザナ、イザナ……聞き覚えが。いや、見覚えもあるな。ふむ? ……ははぁ、なるほど」
なるほど。女がそう言うと同時に、死を覚悟する程の圧が弱くなった。それでも息苦しさが変わらないのは、身体が疲れているせいだと思いたい。
「聞き覚えのある声だと思ったら貴女、レッドラムさんですか。解呪以来ですが、またぼろぼろですねぇ」
「……あなたでしたか」
左側から回り込むようにして顔を見せたのは、以前大聖堂で会った癒し手の女だった。名前は覚えていない、というか名乗られていないので知らないが。
「入信希望であれば今は難しい状況でして、日を改めてほしいのですが……まずは怪我を診ましょうか」
「いえ、キユそれより――」
「――おっと、捕まえました」
話しながら私の身体へ手を伸ばしてくるので避けようとすると、困ったような笑顔で右足を踏まれた。痛くはないが全く動かせない。
抜け出そうとすると、骨がみしりと悲鳴を上げた。ゆっくりと力を入れられている。これは、下手に抜け出そうとすると折られるか。
「動かないでくださいね、薬や道具で済むか確認しますので。逃げるのであれば足を砕きますし牢に放ります」
「……別に、治療は必要ありません。それよりっ」
「黙って。ごたごた抜かすと歯も折りますよ。後で生やしてあげますけど、オウダインさんに会うのは三日程遠退きますね。骨の再生って肉より面倒臭いんですよ」
困った笑顔のまま左手で頬を掴まれた瞬間、全身がびくりとも動かなくなった。全身が強張り、背筋を冷たい何かが走ってゆくのを感じる。
……この感覚を私は知っている。どうしようもない格上に命を握られている時のそれだ。歯向かえば死ぬと、身体が勝手に屈してしまった時の感覚だ。癪に障るが、今の私では勝ち目も無ければ逃げられもしない。
「一応ご説明しますと、貴女の怪我は放って置けるようなものではありません。そしてなにより、今の貴女は汚い。どのような事情があったか知りませんが、血と泥と土と煤に汚れた貴女をそのまま病棟へ行かせるわけにはいきません。お湯は今足りませんので、水で洗ってください。着替えは差し上げます」
「あの、それどころじゃ」
「前歯からいきますか? いきなり歯は嫌ならまずは顎から砕いても良いですけれど」
本気の目だった。掴まれている頬からはみしみしと嫌な感覚がして、握られた右拳はぎちぎちと手袋が悲鳴を上げている。ついでに踏まれている右足がものすごく痛い。このままだと骨を砕かれるかもしれない。
本当に急いでいるのだが、この女の主張自体は当然のものだ。あの魔族が私の身体に何かを仕込んでいたりすれば、病や呪いが伝染してゆく可能性だってある。ここは素直に聞くべきなのだろう。
「……すみませんでした。水場に案内してください」
「よろしい。身を清めたら急ぎで傷だけ塞いでしまいましょう。普段は
「…………お願いします」
抵抗もできずに持ち上げられ、肩で担がれてしまった。そのままえっほえっほと運ばれている道中、女は何人かの聖職者から声を掛けられるが全く足を止めずに指示を飛ばしてゆく。やはりかなり上の立場らしい。
「まったく……ナルカサテラに来てから散々です。血塗れの幼い姉弟とかもう手遅れの親を引き摺って来る子供とか、そういうのをしばらく見ないで済むと思ってたのにこれですよ。急場は凌いだと思えば友人会いたさに不法侵入を試みる新たな患者です。ひどくありませんか?」
「あの、揺れると傷に……」
「揺らしています。水は染みるし冷たいでしょうがしっかりと身を清めてくださいね。汚れた傷を無理矢理塞がれる地獄を見たいなら別ですけれど」
言って、水瓶の並べられた倉庫に投げ転がされた。戦闘の緊張が解けたせいか傷が痛い。というか先程からわざと乱暴に扱われている気がする。
「布をどうぞ。着替えを持ってくるのでその服は畳んでおいてください。それと……私が戻る前にここを出たり水瓶に何か悪戯をしたら、少し怒ります」
「……しませんよ。急ぎますのでそっちも急いでください」
もう怒ってるだろと思ったが言わなかった。言えなかったという方が正しくはあるのだが。
冷えた水を頭から被ることで、少し冷静になってきた。あの女の反応を見る限りでは、イザナは死んではいないはずだ。病棟で何かがあったにしても、最悪の事態には陥っていないはず。
大丈夫、すぐに会える。言われていた退院予定日には少し早いが、あいつを連れて……。
連れて、何処へ行けばよいのだろう。王都は、王国はこれからどうなる? トモリは今どうしている。あの爺はこれからどう動く?
任務を放棄している私を、イザナは。いや、それはいい。あいつが無事ならそれでいい。でも、私の不出来の責をあいつまで負ってしまったら。
……何か、手柄を立てる必要がある。爺はどうでもいいが、法国から咎められないだけの何かが要る。魔族の企み、あの肉の塔。何か、何か認められないと。
あいつが生きる未来の為に。やれることを、やらないと。