友守平和には、家族というものがわからない。
母の顔は写真でしか見た事が無く、呼び名も本名ではない事しかわからない。父は母と結ばれてすぐに死んでしまった事しか知らない。
育ての親ともいえる老婆がいたけれど、最期までトモリをクソガキと呼び嫌っていた。トモリは彼女を好ましく思っていたけれど、通じ合う事はできなかった。
兄姉、弟妹は大勢いたらしい。けれど誰の顔もトモリにはわからない。きょうだい達もトモリの顔と名を知らずに産まれ、育ち――
あれ。それからどうなったんだっけ。トモリの頭がずきりと痛んだ。たくさんのきょうだい。どれだけ秘密にされても、何人かは知っていたはず。顔と名前を知って、それから。それから、トモリは。
「――わたし、どうしたんだっけ。どうしたかったんだっけ」
答えの見付からない問いと頭痛が、トモリの意識を現実へと引き戻した。
目を開くと、トモリは暗闇に中にいた。身体の揺れる感覚で運ばれているらしいと気付くと同時に、こちらを見詰める視線に気付く。暗闇の中でも金色に淡く煌めく、蛇を思わせる二つの目がトモリをじっと見詰めている。
背負われているようで顔しか確認できないけれど、顔立ちはトモリとそう歳の変わらない少女のようだ。こうなる前の状況を思い起こせば、ただの少女でない事は明確なのだけれど。
「……どうも、おはようございます」
「あ、ども。おはよす……じゃねぇ! わわ、我が王、にんげん起きました!」
トモリが挨拶をすると、少女は耳の痛くなる声で騒ぎ立てながらどたばたと走り出した。胃の中には何も残っていないはずなのに、吐いてしまいそうだ。
揺れる視界の中でリュレでハクと名乗る少女を担いで走った時のことを思い出し、トモリは彼女に可哀想な事をしてしまっていたのだなと少し反省をした。次があればもう少し丁寧に運ぼう。
「うるせェぞメリル……ここでは静かにしろと言ったろ」
「そ、それは反省します……でもでもっ!」
聞き覚えのある声が聞こえた。意識が落ちる寸前まで聞いていた男の声だ。確かラスと名乗っていたはずだと、トモリは痛む頭から記憶を探ってゆく。
敗れた、とは認めたくないけれど。トモリはこの男の一撃を受け意識が落ちてしまった。親しげに声を掛けに行ったのを考えれば、トモリは捕らわれてしまったのだろうと推測できた。
「絶対起きないって言ったじゃないすか!? 役立たずでもこれくらいできるって言ったじゃん! だからウチに任せたんじゃないすか!?」
「いや言ってねェし普通に信頼からお前さんに任せたが。まずはよく思い出せ、絶対起きないとは言わねェだろ。死んでねェんだからよ」
「そっ、それは確かにそう……!」
敵だと思っていた男とその仲間が間の抜けた会話を繰り広げている。馬鹿らしさと耳の痛さにトモリは溜息を吐きたくなったけれど、なんとか呑み込んだ。今の内にできる限り状況を理解するべきだろう。
まず、こうして目覚める前の最後の記憶。ラスとの戦闘中、トモリは首輪の鎮圧機構により戦闘を継続できなくなった。そして、突如として王都の中心に顕れた肉の塔に気を取られた瞬間ラスの一撃を受け昏倒してしまった。
次いで、今の状況。トモリは暗闇の中に幾つかの気配を感じている。王都や他の街で聞くものとは違う息遣いや足音は、獣人などと呼ばれる魔族のものだろう。どうにも目が闇に慣れないけれど、音と臭いでなんとなくの気配は把握できた。
トモリを背負っている少女はメリルと呼ばれていた。そのメリルと話しているのはラス、トモリと戦った魔族の男だ。それから他に近くが四人、少し離れたところに六人。少なくとも今、トモリが気付ける範囲で十一人の魔族がいるのがわかる。
トモリの身体はメリルに縛り付けられているようだ。布か何かで、痛みは無いけれどきつく縛られている。今の状態では脱せそうにない。脱せたとして、逃げる事は難しいだろう。
戦闘中から、ラスにトモリへの殺意が無い事は気付いていた。けれど、それでもこの状況はトモリには理解のできないものだ。勇者を捕らえるという発想は理解できる。けれどそれをトモリに行うのがまるで理解できない。
「……あの。状況を説明してくれる気ってあったりします?」
「逃げずに話を聞いてくれるならな」
トモリの問いにメリルは肩を跳ねさせ、ラスはそれに苦笑しながら今に至るまでの流れを説明してゆく。大凡は想像通りであった事にトモリは小さく舌を打ち、その音にメリルが再び肩を跳ねさせ悲鳴を上げた。
「し、舌打った……チッていった……怒ってるよぉ……う、ウチここで殺されるんだ……死ぬんだ……」
「まだ殺す気無いですけど。あの、この子大丈夫です?」
「あァ、気にすんな。こいつはそういうやつだ」
泣いてるみたいですけど。トモリはそう言い掛けたけれど、結局言葉にしなかった。敵として戦い、今は捕まっている身だ。心配する義理は無い。
隙を突かれたとはいえ一撃で意識を奪われた。この事実は、トモリにひどく屈辱感を与えるものだった。戦士としての誇りなど持ち合わせていないつもりだったけれど、矜持を傷付けられたように感じられてしまったのだ。
言い訳なら幾らでもできる。旧世界の記憶、装備の大半を失った己は万全の状態ではないという自覚があるのだから。けれど、万全であった己がどうであったかすら思い出せない身でそのような言い訳を述べたところで何の慰めにもならない。それも理解できている。
「……はあ、嫌になるなあ。一応言いますけど、あそこで殺さなかったの後悔しますよ」
「そいつァ陛下、魔王様に言ってくれや。オレからの言葉を返すならまァ、その死んだ方が楽になれるみてェな面はやめとけよって感じかね。折角生きてんだ、楽しめよ」
「…………別に、死にたいなんて思ってませんけど」
「どうだかなァ。似たような面で生き続けてる同胞が多くてよ、生き辛そうでつい心配になっちまう」
言い返す気になれず、トモリは舌を打つ。舌打ちの度にびくりと怯えるメリルを見て一瞬申し訳無く思い、思う必要は無いはずだとメリルから目を逸らした。
魔族と呼ばれる彼らに憎しみは無いけれど、今は敵だ。敵のはずなのだから。
「まァ、諸々の話はまた後にだな。とりあえず、オレらにはお前さんを害する気は無い。いや、こうなる前に手荒な真似はしたが……それはそれとしてくれや」
「できると思います?」
「――必要だったとはいえみぞおちは駄目じゃないすか? それもこんな女の子相手に。お嬢が知ったら怒りますよ」
メリルの意外な援護にトモリが驚いていると、背後からもそうだそうだと幾つもの声が上がった。ラスはメリルと背後の声に何かを言い返そうとしたものの、結局は何も言い返さずに長くを吐き出した。
「それはまァ……そうなんだよなァ……いや、すまねェ」
「謝られても困りますけど……」
トモリは本当に困ってしまった。そもそも殺すつもりで掛かっていた身としては、殴ってすまないと謝罪を受けても何を言えば良いかわからなくなってしまうのだ。
あるいは、もう少し戦士としての矜持を持っていれば。謝罪は侮辱だと憤る事もできたのだけれど。今のトモリには矜持も無ければ怒る気力も無かった。こうして冷静になってしまうと、どうしてラスを殺したかったのかもわからない。
ただ、ひどく胸と頭が痛くて苦しかった。目の前の男を殺せば少しは楽になれるはずだと、囁き声が聞こえた気がした。視界が青色に染められる感覚がして、他に何も考えられなくなっていた。そうして理性を手放した末に敗れているのだから、情けないとしか言えないのだけれど。
「……本当に、なんなんですかこの状況。謝るなら詳しく説明してからにしてほしいんですけど」
「もうちっと待ってくれや。そろそろ目的地に着くからよ」
そう言って、ラス達は変わらぬ歩調で暗闇を進んでゆく。少しずつ目が慣れてゆく中で、トモリは己がどこか見覚えのある景色の中にいると気が付いた。
――コンクリートで築かれた地下道。地を走り、何処までも続く鉄の道。そこから外れて倒れた長大な鉄の蛇。旧世界の遺跡、地下鉄だ。
月獣の侵略が始まって間も無く、機能を失った地下鉄には多くの人が避難して暮らしていた事をトモリは覚えている。ここはその一つだったのだろう、テントや銃火器の残骸が遺っている事にもトモリは気が付いた。メリル達はまるで気にしていないようで、時々不注意で蹴飛ばしたり躓いているけれど。
「……そろそろ目も慣れてきた頃かね。お前さんの時代の遺跡だろ、何か懐かしいもんはあるかよ?」
「どうでしょうね」
「つれないねェ。思い出の場所ってんなら感傷に浸る時間をやろうと思ったんだが」
それは余計なお世話というものだ。思ったけれど、トモリは言葉にしなかった。再び始まったずきずきという頭の痛みを堪えるので精一杯だったのだ。
転がる骨は、今なお残る赤黒い染みは。壁や倒れた電車に刻まれた深い傷は。ここに隠れていた者達は、旧世界の終末を迎えるより早くに。
トモリは何も憶えていない。だというのに、この光景を何度も見たという諦観と絶望だけは残っている。リュレでの一件から何度も味わっているこの感覚が、トモリはどうしようもなく不快で嫌いだった。
トモリが頭痛に苛まれてしばらく、不意にラス達が歩みを止めた。どうしたのかと顔を上げると、崩れた瓦礫が道を塞いでいるようだった。行き止まりだ。
「……問題です?」
「いや、予定通りさ。予定通り、ではあるんだが」
どうするかね。ラスが呟き、トモリへ視線を向ける。ラスだけではない、メリルや他の魔族もトモリを見詰めていた。困ったように、あるいは無感情に。
「本当はよ、この先までお前さんには寝ててもらうつもりだったんだ。後から来る連中と違って、お前さんは説得して連れてきたわけじゃないからな」
困ったように額に手を当て、ラスはメリルへ視線を移した。視線の意味を理解したのか、メリルはこくりと頷きを返す。
「あの、にんげんさん。今からいいって言われるまで目を閉じててほしいす。一応目隠しになる布はあるすけど……残ってるのはみんな汚いんで」
メリルが言い、窺うように横目でトモリを見る。トモリは少し考え、すぐに溜息を吐いて目を閉じた。
拒否すればその汚いらしい布で目を塞がれるのだろう。縛られている今は抵抗できないのだから、従う他無いのだ。
「何をするのか知りませんけど、どうぞ」
「素直で助かるぜ。そんじゃ、メリル」
「あいあい、今日はお仕事多くて嬉しいす……ん、待てよ? もしや、もう用済みだから最後に使い潰そうとしてる?」
「してねェよ。さっさとやってくれ」
この子本当に大丈夫かな。情緒が不安定なメリルにトモリが困惑していると、メリルが何かを唱え始めた。背負われている状態ですら聞き取れない小さな声だというのに、その声に世界が揺らいでいるのをトモリは感じた。
――この揺らぎを、トモリは知っている。身体が覚えている。きっと、旧世界人は忘れる事を許されていない。空に罅が走る時、この世ではない何処かへの門が開く時。世界は揺れ、悲鳴を上げる。トモリはそれを忘れていない。
「開門。安定しました」
「ご苦労。トモリも目を……」
「我が王、恐れ多くも申し上げます。門を通るまではこのにんげんの目は閉ざしたままでいるべきかと」
「お、おォ……そうだな。お前さんどっちかにできねェか?」
「あい? ウチはウチでしかないすけど」
「いや……まァ、そうだな」
ラスとメリルの間の抜けた会話を聞きながら目を閉じていると、トモリの耳に風の音が届いた。次いで、草や土の匂いが風に乗ってやってくる。聞こえてくる会話や覚えのある感覚から予想はできていたけれど、やはり何処かへ転移したようだった。
「よし、今度こそ開けて良いだろ。なァ、メリル?」
「うす! にんげんさん、もう目開いて大丈夫すよ」
ラスとメリルに促され、トモリはゆっくりと目を開く。害意の類はここまで感じなかったけれど、トモリが見抜けていないだけの可能性もある。警戒を捨ててはいけない。
――そう考え、開いたトモリの目に映ったものは。トモリが警戒していたものとはまるで違う、異様な光景であった。
「なに、これ」
最初に見えたのは、星の無い真っ黒な空に浮かぶ幾つもの遺跡であった。
旧世界にはありふれていたコンクリートや木、煉瓦により築かれた遺跡が幾つも空に浮かんでいる。その大半はもうぼろぼろに崩れてしまっているけれど、それでもかろうじて元の姿を想像できる程度の形は保っている。
次いで見えたのは、石や鉄の巨人達。そのどれもが身体の一部が欠けるか奇妙な姿勢をしていて、トモリは少し時間を掛けて彼らが皆死んでいるのだと気が付いた。あるいは、最初から命など無いのかもしれないけれど。
目の前に広がる光景にトモリが呆然としていると、後ろからもどよめきが聞こえるようになった。なんだこれは、というような声が幾つも聞こえる。トモリの他に連れてこられた旧世界人なのだろう、彼らの上げる困惑の声は大半がトモリにも共感できるものだった。
「……随分連れてきたみたいですね」
「まァな。つっても想定の七割ってところだ。そっから首輪か暗示のせいで死んじまったやつらを抜いて……連れてこれたのは四割かね」
感情の読めない声で呟いた後に、ラスとメリルの視線が交差した。メリルが頷くと同時、トモリを縛っていた何かが解けメリルに視線で降りるよう促される。
ゆっくりと降りて土を踏み締めると、奇妙な懐かしさをトモリに感じさせた。忘れているのだろう何かを見た時と違い、全く見覚えの無い景色の中にいるというのに。何かを懐かしく感じてしまっている。
困惑するトモリを観察するように眺めながら、ラスは短く息を吐き出した。面倒事を済ませる前に気合を入れるような、そんな息遣いをしてみせて。
「……こういうのは本来オレの担当じゃねェんだが、その担当が別件に忙しくしちまってるもんでな。オレからの言葉で我慢してもらおうか」
「何の話です?」
「こっちの話さ。まァ、聞いてくれや」
意味のわからないことを言いながら、ラスがゆっくりとトモリへ歩み寄る。逃げる事を許さないように、メリルがトモリの背後へ立った。そうして――
「――――此処は、隣の世界。にんげんを謳う怪物共に棄てられた世界にして、我らが故郷。ようこそ勇者様、魔王イヴリィスに代わって憤怒のラスが歓迎するぜ。まァ、殴って拐ったやつに歓迎されたかないだろうがな」
星の無い夜空の下、トモリへと手を差し伸べながら。魔王の怒りが一柱、憤怒のラスはにっかりと笑ってみせた。