旧世界より、愛と呪いを込めて   作:にとずみ

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キユとお友達

 夢を見ていた。まだ家族が生きていた頃。今までの人生の中で最も幸せで、何も間違えていなかった頃の夢。

 

 父は銃職人で、兄と姉はどちらが父の跡を継ぐかで毎日腕を競い合っていて。二人の弟は父の作った銃で狩人になりたいなんて夢を見ていて、妹は兄や姉に構ってもらえず拗ねて悪戯ばかりして、それを母が叱って。私は、本を読むのが好きで学校に行きたいと親に言い出せない引っ込み思案な子供で。

 

 幸せだった。幸せだったんだ。あと少しの時間があれば、私は勇気を出して学校に行きたいと親に言えたかもしれない。喧嘩をしたかもしれないけれど、諦めることになったかもしれないけれど。それでも、どうにかこうにか頑張って生きて、大人になってからそういうこともあったと笑い合える。そういう人生を送るはずだったんだ。大好きな家族だったんだ。

 

 あんな、死に方を。殺され方をするような人達じゃ、なかったのに。

 

 私の人生の最初の間違いは。きっと、あの日生き残ってしまったことなんだ。

 

 

 

「――おいおいお昼寝かぁ? こっちは休憩を早めに切り上げて資料の整理に来たってのに。これだから雇われのガキはよぉ」

「こいつ、会議の時も寝てましたよ。話なんも聞いてなかったんじゃないかな」

「はぁ……なんでこんなん雇ってんだかな。力だけが売りってんなら最前線にぶち込めば良いのによぉ」

 

 暫く振りに見た悪夢から覚めてまず聞こえたのは、苛立ちと嘲笑を含んだ男の声だった。他に数人若い男女の声がしている。囲まれている?

 

 さて、どういう状況だったか。まず朝に出勤をして、会議とは名ばかりの爺共の長話を聞き流して、それから昼になったので仮眠を取ったら暫く見ずに済んでいた悪夢を見て……そして今に至る、か。面倒事を起こさないように普段使われない資料室を選んだのだが、今日は間が悪かったか。

 

 どう動くべきか。起きれば面倒な絡み方をされるだろうし、このまま寝たふりを続けるのもよくない事になる気がする。一昨日のトモリの件で感じた疲労がまだ抜けていないし、余計な面倒は避けたいところだが。

 

 

 資料室の外から、聞き慣れた足音が聞こえた。こつこつと、規則的に響く音。それから油と火薬の臭い。近付いている。あと数秒待てば扉が開くだろう。

 

 決めた。このまま寝たふりを続けよう。私がそう考え息を吐き、恐らく目の前に立っているのだろう男が苛立ちの限界に達し舌打ちをし、聞き慣れた足音が扉の前で止まる。ほとんど同時にこれらが起き――

 

「おい、起きろよクソガ……」

「レッドラム、ここにいるんですの?」

 

 資料室の扉が開き、やはり聞き慣れた女の声がするのと同時に男の声が小さくなり、苛立ちが急激に萎むのがわかった。代わりに聞こえたのは、複数の悲鳴に近い息の音。

 

 目を瞑っていてもわかる程の鋭い視線が私に向けられている。私に向く前に他の者達を見ていたのだろう、ひゅっと息を呑む音が何度も近くから響いていた。

 

 彼女は、この騎士団の者から酷く恐れられている。私への怒りと悪意が彼女への恐怖で上書きされる程に。

 

「オウ、ダイン……」

「なるほど、よく寝ていますわね。なるほど、そうですか」

 

 こつこつこつ。規則正しい足音がこちらまで近付いてくるのを感じる。私は嘘の寝息を立て続ける。

 

 足音は私の前で止まり、次いで長い溜息が聞こえた。そして、かちりと重たい音がひとつ。ぎりぎりと、何かが引き絞られてゆくような音がして。

 

「……ま、待て、待ってくれ!」

 

 ぱんっと乾いた音がするより早く、誰かが大きな声を上げた。恐らくは、私を殴り起こそうとした男だ。

 

「な、なにも撃つこたぁねぇだろ!? い、居眠りしてただけじゃねぇか。一応まだ、休憩時間だしよ」

「あら、庇うのですか。妙ですわね。貴方はこれを殴ろうとしているように見えたのですけれど。それに、わたくしはただもっとよく眠れるようにしてあげようと考えただけですわ」

「そ、それでも! 撃ち殺すのは、違うだろ。別に、まだ仕事はできんだ。お、起こすだけでいいだろうがよ!?」

 

 奇妙な図だ。私を殴って起こそうとしていた男が、私を撃ち殺そうとしていた女から庇おうとする。雇われの傭兵だ、別に死のうがどうでもいいはず。本来なら見逃しているはず。

 

 だというのに、どうしてだか気になってしまう。このイザナという女は、機嫌を損ねれば殺されるという圧を感じるというのにこの女の取る行動が間違っていると感じた時にそれを止めなければ見逃した自分達はもっと酷い目に遭うという嫌な確信がある。そういう女だった。

 

 さて、そろそろ起きるか。そう考え頭を起こそうとしたところで後頭部に強い衝撃を感じた。ごんっ、みし。嫌な音が私の頭と叩き付けられた机から響く。

 

 銃床で思い切り殴られたのだ。後頭部と額が熱い。これは割れたか。

 

「いっだぁ……!? なんですか、誰ですか!?」

 

 悲鳴を上げながらきょろきょろと周囲を見回してみれば、やはり予想どおりの光景が広がっていた。顔を青くした制服共に、冷たい目で私を睨む拳銃を手にした女。

 

 金の髪を腰まで伸ばし、翠の瞳で私をじっと睨んでいる女の名前はイザナ・オウダイン。私の同僚だ。つまるところ、同じ雇われの傭兵。

 

「ごきげんよう。良い夢は見れましたか?」

「…………お、オウダイン、さん。おはよう、ございます」

「おはようには遅過ぎる時間ですわね」

「あ、はい……ごめんなさい」

 

 肩を震わせ、怯えた声を出してみせる。ちらちらと視線を合わせては逸らすのを繰り返していると、イザナが下唇を噛むのが見えた。苛立っている時の癖だ。

 

「わたくしの手を煩わせた罰は後で与えます。それより、貴女に用があって探していましたの。今、暇ですわね?」

「え、いやぁ……その……もうちょっとお昼寝」

「暇、してますわね?」

「あっはい。してます」

 

 びくびくと顔色を窺いながら答え、イザナの背を追うように歩き出す。イザナが部屋を出るまで制服共は息すら止めていたようで、私が出たところで苦しそうな息遣いと咳の音が聞こえた。さすがに怖がり過ぎではないか? 殴られ、今まさに怯えながら従っている私が言う事ではないが。

 

 がしゃんっ、ごとごと。扉を閉じる直前、何かが壊れ崩れる音がした。恐らくだが、私の頭を叩き付けられた机が壊れたのだろう。

 

 ……確かに、あの暴力を自分に向けられたらと思うと恐ろしいか。実際痛いしまだ血は止まっていないのだから。

 

「歩くのが遅い」

「えっあっ、ちょっ引き、摺るの、はっ! やめてくだ、さいって!?」

 

 ついでに首根っこを掴まれて引き摺られている姿も見てほしい。手足をばたつかせて全力で抵抗しているのに全く効果がない様を見れば今後は私への態度も柔らかくなるかもしれない。

 

 まぁ、彼らの態度を悪くさせたのも私の言動のせいではあるのだが。

 

 

 

 制服共に同情の多分に含まれた視線を向けられながら館の中を引き摺られること数分、旧館に続く廊下を越えたところでふわりとした浮遊感と悪寒がほぼ同時に背筋を走った。がちゃりと扉の開く音……これは、投げられるな。

 

「受け身」

 

 ぼそりとイザナが呟くのと同時に視界が激しく揺れ、投げられたのだと直感した。背と頭を打たないように受け身を取り、服についた埃を軽く叩いて払った。まぁ、元々薄汚れているので気にしなくてもよいと言えばよいのだが。

 

 

 さて。久々に面倒な演技をしなくてもよい時間だ。ふう、と長い息を吐きながら腕と背筋を上へ伸ばす。ごきりと嫌な音がした。背も顔も鏡を見てもずっと変わっていないというのに、中身はどんどんと老いていっている気がする。

 

「イザナ、よい一撃でしたね。まだじくじくと頭が痛んでいます」

 

 私をこの部屋……空の棚が大量に並んでいるな。元資料室といったところか? に放り込んだ本人に声を掛けたが、俯いたままで返事をしてくれない。

 

「実のところ、おまえは銃や呪いよりも拳で戦った方が強いのではないかと思う時があります。少なくとも人間に対しては。あ、何か要らない布を持っていませんか? ついでに酒か水を」

「…………ですわ」

 

 何かぶつぶつ言っている。嫌な予感がしてきたな、こいつが俯いて私の話を聞いてくれない時は碌な事にならない。

 

「イザナ? とりあえず布だけでもくれませんか。それと、仕事の愚痴はあと六月程我慢しなさい」

「……もう、……ですわ。わたくし、わたくしは」

 

 嫌な予感が確信に変わった。まず耳を塞ぎ、次いで右足を半歩下げ背後と左右に障害物が無いか確認。よし、準備はできた。

 

「イザナ、人払いと結界は――」

「――――わたくしっ! もう耐えられませんわ! 可愛いキユちゃんのお顔を傷付けて、可愛い可愛いキユちゃんにあんな怯えた顔をさせて! わたくし、もうっ!」

 

 それは、大きな声だった。汚い言葉遣いをするなら馬鹿でかい声だった。窓硝子が震え、耳を塞いでなお痛みを与えてくる。これ、何の対策もしてなかったとしたら館中に響いているんじゃないだろうか。さすがにしていると信じたいが。

 

「よい一撃でしたよ。あれがなければ制服共に絡まれて面倒な時間を過ごしていたでしょうから。なのでまず布を。それと対策はしたのですか」

「対策はしましたし手当も今すぐしますがそれはそれこれはこれですわ!」

「……もう何度も言っていますがキユに人を痛めつける趣味はありません。なので、お返しはできません」

「うっ……ぐすっ。昔のキユちゃんは頼んだら何度も蹴って殴ってくれましたのに」

「キユが困惑と恐怖で泣きながらやっていたことは忘れましたか?」

「まさか! あの可愛い可愛い可愛いキユちゃんのお顔とお声を忘れるなんて有り得ませんわ!」

 

 その覚え方は気持ちが悪いのでやめてほしいし言いながら突進を仕掛けるのは怖いので本当にやめてほしい。こいつに思い切り抱き着かれるとものすごく痛いのだ。最悪骨が折れる。

 

「……とりあえず落ち着いてください。はい、息を吸って、吐いて」

 

 突進を躱し落ち着かせつつイザナから鞄を引っ手繰り、自分で手当てすることにした。おや、包帯があるじゃないか。使わせてもらおう。

 

 額と後頭部からの出血……丁寧にやるなら鏡も使うべきなのだが、まぁ自分の傷の手当なんて適当でいいだろう。血さえ止まれば後で勝手に治る。

 

「落ち着きましたか?」

「……はい、落ち着きましたわ。それと、この部屋は三日前から人払いと防音の結界を張ってあるのでキユちゃんも好きにわたくしを殴って罵って良いんですわよ」

「まったくよくありませんが」

 

 結界やら何やらの扱いに関してはこいつの方が長けているのでできているかどうかは疑っていないのだが、やってくれたかどうかが毎回気になる。指摘すると拗ねるが、抜けているところがあるし。

 

 

 …………改めて。イザナ・オウダインは私と同じ王国で仕事をしている傭兵で、今は王都にある騎士団の一つにキユと共に雇われている同僚だ。初対面の時にキユが挑発し、それに乗ったイザナに泣くまで殴られてから逆らえず暴力に怯えながら共に働いている。と、いう設定でやっている。これが中々便利なのだ。イザナが傍若無人に振る舞い騎士団の連中にも恐れられているおかげで、連れ出されて二人になっても怪しまれずに済む。

 

 実際のところはどうかといえば、幼馴染という関係になるのだろうか。私の父は銃工房の職人をやっていたのだが、鍛冶師としても腕がよかった。イザナの父は私の父を贔屓にしていて、その縁で私とイザナは友人になった……と言うと、元の身分を考えれば不敬で首を吊らなければならなくなるか。

 

 

 まぁ、私達の故郷も、イザナの家も。全て、今はもう。身分の差も、本来の関係も。今考えることではない。

 

 

「仕事の話をしましょう。おまえも暇ではないでしょう」

 

 幸せだった昔を思い返すのは、全てが終わった後だ。この新世界からナルカサテラの名が消えた後にすればよい。

 

「わたくしからは一つお耳に入れたい事がありますわ。キユちゃんからは?」

「キユも一つ。一昨日の件です」

「では、お先にキユちゃんからどうぞ」

 

 促されたので私から情報共有を始めることにした。といっても、一昨日トモリと接触した時の話をするだけなのだが。

 

 ヨツバエイスケという勇者が長を務めている班に所属していたトモリノドカは自分を庇った勇者が死亡したことを理由に私刑を受けていた。それを物陰から見ていたら呪術か何かに巻き込まれて死に掛けた話は……死に掛けたことは隠して伝えることにした。そのまま言うとまた面倒臭くなる。さておき、彼らが去った後トモリに声を掛け、友人という関係を利用して監視することにしたところまでの共有をしてゆく。一昨日は説明を省いて頼んだので、少し時間が掛かってしまった。

 

「まだ遠目に見ただけですが、あの班で警戒すべきなのは班長のヨツバエイスケと副班長のイツシロウタノです。特にイツシロはキユが見ていると気付いていたようですから」

「実力の確認はわたくしでしておきましょうか。それでは、わたくしの番ですわね。キユちゃんからのお願いですもの、大急ぎで調べてきましたわ」

「おまえの仕事が早いところは好きですよ」

 

 イザナに頼んでいたのは、トモリノドカの素行と経歴についてだ。私が知っているのは私刑を受けていた惨めな姿だけだが、他でどうなのかはわからない。爺から見せられた写真から受けた印象を考えれば、あの惨めな姿は演技だと思うべきだ。

 

 

 自分の名前が好きなのだと、友達ができて嬉しいと笑っていたあの顔も。嘘を感じられなかった柔らかな声だって。私が見抜けなかっただけで、上手く演じているだけかもしれない。旧い世界を生きた戦士なのだ。きっと心の底では、この新世界を憎んでいる。

 

 そうだ。憎んでいるはずだ。そうでなければならない。故郷が滅びたことなんて、滅ぼされたことなんて。受け入れられるわけがないのだから。理不尽に対して怒りと憎しみを抱かない者なんて、いるはずがないのだから。

 

 

「……トモリノドカ。五月前の旧トウキョウ第三遺跡群に出現、無抵抗だったためそのまま保護。性能試験は三度実施されましたが試験結果は三度ともに不明。結果の載った書類は王城の本部に保管されているか、破棄済みか。試験後は他の勇者が率いる班を転々と。すでにヨツバ班からの脱班願いを提出したそうですが、今までも似たような問題が起こっては追い出されるか自ら脱班。戦績としてはサルを二、イノシシの仔を一、傭兵崩れの山賊を一と魔族の幼体、成体を一ずつ。いずれも瀕死にとどめを刺しただけだそうで、戦績とは呼べないものではありますけれど」

 

 脅されながらやっていたそうで、毎度泣いていたらしい。要らない情報を付け足した後にイザナは長い溜息を吐き出した。

 

「王都滞在中は騎士や他の勇者から暴行や嫌がらせを受けていることが多いですが、時々何処を探しても見付からない事があるそうです。まだ確認できたわけではありませんが、キユちゃんが言っていたように旧市街に行っているのではないかなと。それから……数人の二等騎士に連れられジュウゾの執務室がある館へ入る姿を見た者達がいました。ジュウゾがトモリを気に掛けているのは本当のようですわね」

 

 どういう意味かまではまだ判断できませんけれど。呟きながらイザナが手帳を捲ってゆく。無茶を頼んだ私が言うことではないが、二日でよくここまで調べ上げた……というよりも聞き込んだな。やはり恐れられていると違うのか。

 

「使用武器は長剣ですが、戦闘記録が無いのでどう扱うかは不明。クマに殴られても吹き飛ぶだけで出血も骨折も無かった、イノシシの群れに襲われた時いつの間にか姿を消していたなどの話も聞いたので頑丈さと逃げ足の速さはそれなり以上。呪術などの使用記録は無しですけれど、キユちゃんがジュウゾから見せられた写真では首輪が光っていたのでしたわね。使えなくなった……いえ、隠しているか忘れているか」

「忘れている……ですか」

「脳を洗えば可能ですもの。とはいえ、制御下に置かれているのならわたくし達に監視を命じはしないので……あるとすれば、自己暗示や戦闘の後遺症などですけれど」

 

 旧世界人と呼ばれる者達は、記憶の殆どを失っている。冷凍睡眠装置と呼ばれる遺物の中にいた者は特にそうらしいが、トモリは凍っていたわけではないらしい。

 

 旧世界でどれだけ優れた戦士であったとしても、記憶を失くせばそうもいかない。武器の扱いや身体の動かし方は身体が覚えているかもしれない。だが、それだって記憶を失う前とは比べ物にならないだろう。旧世界から伝わる呪術の類には詠唱や複雑な手順の儀式が要る。これに関しては、記憶を失えば扱うことすらできない。超能力などと呼ばれる力であれば、記憶の無い状態で振るえば暴走した後に自滅する事になるだろう。

 

「……キユ達が命じられた仕事は思い出さないよう見張ることですが、後々逆になるかもしれません」

「旧世界での記憶を思い出させろ、と?」

「あの死ぬ程性格の悪い糞爺なら言い出しかねないでしょう」

「それは……ありますわねぇ」

 

 勇者を使()()()にする為に失われた、あるいは眠っている記憶を呼び覚ます。これは、王国ではそれなりに行われている手段らしい。戦う力であれ知識であれ、記憶を取り戻せば王国の糧になる。数年前にこの話を聞いた時は失敗する方が多いという話だったが、今はどうなのだろう。

 

「こういうのは繊細さが求められそうといいますか、わたくし達余所者にやらせる仕事ではないと思いますけれど」

「……あの爺の考えていることはわかりませんし、理解しようとするだけ無駄でしょう。そもそも、トモリの監視だって何がしたいのかよくわからないのですから」

 

 怖いと感じたら殺してほしい。あれは化物だ、情を持つな。確か、そのようなことを言っていたか。よくよく考えると、あの爺が何かを怖がっているような言動を見せたのはあれが初めてかもしれないな。

 

「そもそもを言えば、ジュウゾはトモリの過去を知っているのでしょうか。王国には旧世界から王族と教会の上層部にのみ使用の許された予言の遺物があるという話もありますけれど」

「それがトモリを脅威であると伝えたと?」

「可能性はありますわよ。七十年前に名を忘れた旧世界人にシチラクサチの名を与えたのも、その旧世界人が混沌喰らいのシチラクとなったのも。当時のナルカサテラが予言に従った結果ですもの」

「……そういえば、そうでしたね」

 

 混沌喰らいのシチラク。あまり聞きたくない名前だ。できるのなら一生耳にしたくない名前と言ってもいい。

 

 

 この新世界には混沌と呼ばれる災害がある。黒い霧や雨、蠢く肉塊の波。様々な形で顕れて触れたものを蝕み呑み込む得体の知れない何か。呑まれた者の大半は帰らず、帰った者は全てが狂っている。誰も知らない何処かの、誰かの話を延々と垂れ流し、存在しないものを探し、己が狂っていることを自覚した途端悍ましい怪物となって仲間を増やそうと暴れだす。それには人間や魔族という区別も無く、全てを蝕む災害だ。あるいは、もう少し規模が大きければ人間と魔族の争いも無くなるのかもしれないけれど。

 

 シチラクは、王国を蝕む混沌の四割を従えているとされる混沌の王だ。この王国で王は二人も要らないので、王国では誰もそうとは呼ばないが。

 

 

 あれは、人が触れてはいけないものだ。少なくとも、混沌が何から生まれたのかを知らない者は触れるべきではない。知る者は決して触れようとしない。そういう存在だ。混沌は二度見た事があるが、私はもうあれらに関わりたくない。

 

 

「……捨て火のラス討伐作戦。わたくし達には何も知らされていませんが、本当の話みたいですわね。その次はシチラクとか言われたら、わたくし怖くて脱走してしまいそうですわ」

「……逃げることができたら、何処か小さな村で料理屋でも開きましょうか。キユが料理をやるので、イザナが接客と狩りを」

「わたくしの負担が大きくありません?」

「内装と品書き、店名はキユが考えますよ。味見もさせてあげます。ついでにキユ達の名前も変えてしまいましょう」

 

 冗談だ。冗談だとわかってくれるから、イザナも何も返さなかった。

 

 捨て火のラス。魔王の怒りが一柱であり、百年以上前から恐れられている竜の王。混沌喰らいのシチラク。混沌の王と呼ばれる強大な混沌の一個体であり、王国を蝕む混沌の四割を従える災厄。どちらか一つを相手にしても生き残れるか怪しいな。

 

 

「…………まぁ、どうであれ。何も見付けられなければ、この冬が終わるまで耐えるしかないのですよ。春を迎える前にこの仕事を終えたいのなら、イザナに探し物を頑張ってもらうしかありません」

「あの、やっぱりわたくしの負担が大きすぎません?」

「頼りにしていると受け取ってください」

「こういう時だけずるいですわねぇ……まぁ、努力はしますけれど!」

 

 おまえを頼りにしているのは本当ですよ。言おうとして、やめた。わかってくれているだろうという甘えと、言葉にすると私が駄目になってしまいそうだったから。

 

 故郷に家族、本当の名前と夢。何もかもを喪ってしまったけれど、友達だけは残ってくれた。今もこうして、私に付き合ってくれている。私のことなんて気にしなければこいつはどうとでも生きられるのに。私がこいつを縛っている。

 

 

 

 ……この冬が終わったら。王国を滅ぼして、この仕事が終わったら、今度こそ。

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