ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい 作:高山 虎
当然ながら、進藤ヒカルの院生試験合格は誰の目にも明らかな既定路線であった。
奈瀬明日美の肉体を間借りする四十二歳の男と、平安の天才棋士・藤原佐為。この二つの極致による苛烈な秘密特訓と指導碁を受け続けたヒカルの実力は、すでに院生の枠を大きく逸脱し、プロ棋士の六段にも匹敵するほどの高みに達していた。
院生となったヒカルは、明日美から受け継いだ『AI流』を遺憾なく発揮し、手合で圧倒的な成績を収め続けている。一見すると奇を衒ったように見えるダイレクト三々や、常識外れのツケヒキ。それら極限まで効率を追求した未来の打ち筋は、同世代の院生たちに手も足も出させないほどの絶望を与えていた。
「なんだよ進藤のあの打ち方! むちゃくちゃなのに、なんで俺が負けてるんだよ!」
和谷義高が頭を抱えて叫び、伊角慎一郎が「信じられない大局観だ……」と戦慄する。
しかし、かつての明日美がそうであったように周囲から「得体の知れない怪物」として孤立しているかといえば、全くそんなことはなかった。
中身が素人のおっさんゆえに局後の検討ができず、抽象的なビジネス用語で煙に巻いて逃げ回るしかなかった明日美とは異なり、ヒカルは特訓で獲得した地力で感想戦を行うことができる。それに加えて、ヒカル自身の持ち前の明るく人懐っこい性格も手伝い、彼は和谷や伊角、そしてフクといった院生仲間たちとすぐに打ち解け、手合の後は賑やかに検討を行うなど、すっかり良好な関係を築いていた。
ヒカルが周囲のヘイトと注目を見事に分散し、なおかつ孤立することなく上手くやっているという報告を聞いて、明日美の中のおっさんは「私が一番欲しかったおいしいポジションを持っていきやがって」と少しばかりの嫉妬を覚えつつも、計画通りの展開に胸を撫で下ろしていた。
さて、そんな日本の喧騒から遠く離れ、奈瀬明日美は海を渡っていた。
「うわっ、さむっ……!」
金浦国際空港の自動ドアを抜けた瞬間、容赦なく吹き付けてきた冷酷な風に、明日美は思わず肩をすくめ、着込んでいた厚手のコートの襟をかき合わせた。
ここは韓国・ソウル。身を切るような大陸性の寒気が、日本のそれとは比べ物にならない厳しさで少女の体を芯から冷やしていく。
彼女が異国の地を踏んでいる理由、それは世界トップクラスの国際棋戦である『三星火災杯』の決勝戦に臨むためであった。
事の始まりは、明日美がプロデビューして間もない頃にオープン参加の予選にエントリーしたことだった。
国内で圧倒的な無双を繰り広げていた彼女にとって、国際棋戦の予選などただの通過点に過ぎなかった。脳内に鎮座する未来の超絶囲碁AI『KataGo』の指示通りに石を置いているだけで、各国の並み居る強豪たちを当然のように全戦中押しで粉砕し、あれよあれよという間に決勝戦の舞台へと上り詰めてしまったのである。
デビューしたばかりの十五歳の少女が、世界最高峰の棋戦で決勝に進出する。この歴史的な快挙に、日中韓の囲碁界は文字通り沸き立っていた。日本のスポーツ紙やテレビのワイドショーは連日彼女の特集を組み、国内の囲碁ブームはさらに爆発的な加速を見せている。
出迎えの黒塗りセダンに乗り込み、用意されたソウル市内の最高級ホテルへと到着した明日美は、豪奢なスイートルームのふかふかのソファに深々と腰を下ろして息をついた。
「ふう、とりあえず無事に着いたな」
通常、これほどメジャーな国際棋戦の決勝の舞台に立つ棋士の心境というものは、「極度の緊張」と「異常な集中(ゾーン)」が同居する、極限の精神状態にある。
母国の威信と期待という重圧がその両肩に重くのしかかり、メディアの熱狂的な報道やファンの過剰な期待、そしてインターネットの掲示板などに書き込まれる容赦のない批判的な意見などをすべて背負い込むため、文字通り胃に穴が空くほどの重圧に苛まれるのだ。
そして、いざ対局が始まれば、そこは誰の助けも借りることのできない孤独な戦場となる。
数時間、あるいはそれ以上にわたり、たった一人で無限に広がる選択肢の海から、自らの思考と直感だけを頼りに正解を選び続けなければならない。一手のミスが命取りとなる恐怖との終わりのない戦いである。
しかし、奈瀬明日美にはそんな悲壮な覚悟やプレッシャーなど、一切無用であった。
なぜなら、囲碁に関する思考のすべてを、脳内に宿る『KataGo』という無敗の神に丸投げしているからだ。
自分で盤面を読まなくていい以上、「読み違えて負けるかもしれない」という恐怖は存在しない。むしろ、国内の公式戦から国際棋戦に至るまで、ただの一度もヨセ勝負にすらならず勝ちすぎているため、「できることなら誰か私を負かして、そろそろこのプレッシャーから解放してほしい」とすら思っているのが、おっさんの偽らざる本音であった。
明日が決勝戦という大一番であっても、彼女の過ごし方は他のプロ棋士たちとは根本的に異なっていた。
通常、決勝前日の棋士は、脳の疲労を極限まで抜き、翌日に最高のパフォーマンスを発揮するための「調整」に徹する。会場となる対局室の照明や空調、碁盤と座布団の具合を確認する「検分」を真剣な面持ちで行い、その後は自室にこもって対局相手の過去の棋譜を最終確認するものだ。
翌日は五時間から七時間にも及ぶ極限の頭脳戦となるため、一局で体重が数キロも落ちると言われる凄まじいカロリー消費に備え、炭水化物や肉など、消化が良くエネルギーに変わる食事を計画的に摂ることを徹底する。
そして夜になれば、外界からの情報を完全に遮断。応援メッセージであれ批判的な意見であれ、感情を揺さぶられることは盤上の冷静な判断を鈍らせるからだ。携帯電話の電源を切り、ホテルのバスタブにゆっくりと浸かって体を温め、副交感神経を優位にして脳を休める。
ここで最大の課題となるのが「睡眠」である。多くのトップ棋士が「タイトル戦の決勝前夜は、興奮と緊張で全く寝付けない」と語るほどだ。睡眠不足のまま朦朧とする頭で対局に臨むケースも珍しくなく、いかにして六時間以上の良質な睡眠を確保するかが、勝敗を分ける最大の死活問題となる。
しかし、明日美はそんな修行僧のようなストイックな姿勢とは完全に無縁であった。
「いやー、それにしても最高だな!」
コートを着たままホテルの部屋を飛び出した明日美は、同行の日本棋院職員の制止を笑顔で振り切り、ソウルの繁華街へと繰り出していた。
屋台が立ち並ぶ活気ある明洞(ミョンドン)の通り。彼女の両手には、アツアツのホットクと、真っ赤なタレが絡んだトッポギの紙コップが握られている。
「はふっ、はふっ……辛っ! でも美味い! この屋台のトッポギ、ジャンクな味がたまらないな! すいません、おばちゃん、このおでんみたいな串も一本ちょうだい!」
十五歳の美少女が、見事な食べっぷりで韓国のB級グルメを次々と平らげていく。その後は高級な焼き肉店に入り、分厚い骨付きカルビを豪快に焼き、サンチュに包んで口いっぱいに頬張った。
「ん〜っ! 柔らかくて最高! 会社の金……じゃなかった、経費で海外旅行ができて、美味いものをお腹いっぱい食べられて、しかも座って石を置いてるだけで勝手にタイトルと名声が増えていく。営業時代のノルマ地獄に比べたら、ホワイト企業どころの騒ぎじゃないぞ、プロ棋士ってやつは!」
中身がおっさんである彼女は、この状況を「海外出張扱いの超絶ご褒美旅行」と完全に割り切って満喫していた。
夕食後は東大門で少しばかりのショッピングを楽しみ、ホテルに戻ってからは大浴場で悠々と足を伸ばし、ふかふかのベッドに潜り込むなり、プレッシャーなど微塵も感じることなく、のび太も顔負けの速度で朝まで爆睡したのであった。
翌日。三星火災杯決勝の舞台となる特設会場には、日中韓の数多くの報道陣が詰めかけ、厳かな緊張感が張り詰めていた。
簡単なインタビューと写真撮影が行われ、フラッシュの雨を浴びながら、明日美は完璧な営業スマイルで「盤上に国境はありません。今日は最高の対局にできるよう、全力を尽くします」と応対していた。
そして、対局室。
磨き抜かれた碁盤を挟み、二人の棋士が向かい合う。
明日美の目の前に座っているのは、現在世界最強と謳われ、「石仏」の異名を持つ韓国の至宝・イ・ミョンホ九段であった。
いかなる局面においても感情を表に出さず、精密機械のように正確なヨセと、深淵のような大局観で相手の希望を静かに削り取っていく絶対王者。彼の存在は、日中の棋士たちにとって越えられない高く分厚い壁である。
「お願いします」
挨拶が交わされ、互いに深く一礼をする。決勝戦の幕が切って落とされた。
握りの結果、明日美が黒番(先手)となる。そして、視界に展開されるKataGoのホログラム。
『コミ設定:六目半』
『勝率:48%』
『目数差:-0.3』
(さあ、カタゴ先生。石仏のお手並み拝見といこうか)
明日美は無表情のまま、青く光る推奨手――盤面の右下、小目へと黒石を打ち下ろした。
序盤は、嵐の前の静けさのような立ち上がりであった。
イ・ミョンホの打ち手は、彼らしく極めて手厚く、堅実なものだ。一切の無理をせず、自身の陣地にわずかな綻びも残さない。相手のミスを待ち、後半のヨセで確実にリードを奪うという彼の必勝パターンへと持ち込むための、完璧な布石。
並のトッププロであれば、この時点で「石仏」の放つ重厚なプレッシャーに絡め取られ、見えない焦りから無理な攻めを仕掛けて自滅していくだろう。
しかし、相対しているのは人間ではない。人間の心理やプレッシャーなど一切介在しない、純粋な演算能力の化け物である。
中盤へと差し掛かろうとする三十手目。明日美の視界で、盤面の中央、イ・ミョンホが丹念に築き上げた強固な白陣のまさにど真ん中が、青く激しく明滅し始めた。
(……えっ。こんなとこに打ち込むの? 普通なら即死するレベルの敵陣のど真ん中だぞ)
プロ六段レベルの実力を持つヒカルを指導する中で、明日美自身の棋力もすでに院生上位クラスに達していた。だからこそ、KataGoが示したその手がいかに常軌を逸した、危険極まりない着手であるかが理解できてしまっていた。
しかし、評価値のグラフはそこが最善であると強く主張している。明日美は小さく息を吐き、黒石をその虚空へと打ち下ろした。
パチン。
その乾いた音が響いた瞬間、モニター越しに観戦していた世界中のプロ棋士たちが、一斉に息を呑んだ。
「なっ……なんだその手は!?」
「あんなところに打ち込んでも、イ・ミョンホ九段の厚みの前にすり潰されるだけだぞ!」
だが、盤面を最も近くで見つめている李昌鎬の反応は違った。
いかなる時も表情を変えないはずの「石仏」の眉間が、わずかにピクリと動いたのだ。
(……なんだ、この手は?)
イ・ミョンホの脳内で、凄まじい速度のシミュレーションが回り始める。一見すれば無謀な飛び込み。しかし、それを咎めようと白石で圧力をかけようとすると、事前に明日美が配置していた一見無意味に思えた遠くの黒石たちが、にわかに連携を持ち始めることに気づいたのである。
(これを厳しく取りに行けば、外側に黒の鉄壁ができあがる。ならばと穏やかに受ければ、この黒石は中央の制空権を完全に握ってしまう……。なんという……なんという効率の良さだ。一つ一つの石が、私の想像の範疇を超えた働きをしている……!)
イ・ミョンホの背筋に、冷たい汗が伝った。
彼が長年培ってきた大局観、そして強固な地盤が、音を立てて崩れ落ちていく感覚。
ここから、KataGoの真の恐ろしさが牙を剥いた。
明日美が放つ手は、ダイレクト三々、星へのツケヒキ、そして信じられない角度からの肩ツキなど、この時代にはまだ存在しない打ち筋のオンパレードであった。
しかし、それらの手は盤面というキャンバスの上で、人間には理解できない高次元の調和を描き出していく。イ・ミョンホが「こう打てば自陣が固まる」と信じて打った手が、数手後には「無駄に重複した、効率の悪い石の塊」へと変貌させられてしまう。
「ば、馬鹿な……李九段の厚みが、完全に無力化されている……!」
「あんな打ち方、囲碁の教科書のどこにも載っていない! 彼女は……彼女は、未来からでも来たというのか!?」
別室でモニターを見つめる日中韓のトッププロたちは、総毛立つような恐怖に戦慄していた。彼らが人生を懸けて探求してきた囲碁というゲームが、全く別の、より冷酷で完璧な何かへと書き換えられていく瞬間を目の当たりにしていたからだ。
盤上では、もはや勝負と呼べるような拮抗は失われていた。
イ・ミョンホは必死だった。己のすべての計算能力を振り絞り、0.1目でも差を縮めようと足掻く。しかし、彼がどれほど緻密なヨセを思い描こうとも、KataGoはそれを上回る冷徹さで、盤面の価値を正確に計量し、最も勝率の高い手をノータイムで返し続ける。
ヨセの達人と呼ばれた石仏が、ヨセに入る前の段階で、盤面のあらゆる可能性を刈り取られ、手足を縛り上げられていた。
百四十八手目。
盤面の中央で、イ・ミョンホの最後の勝負手となる白の大石が、明日美の放った鋭いツケによって完全に分断され、二眼の生きがないことが確定した。
世界最強の男は、しばらくの間、微動だにせず盤面を見つめ続けていた。
やがて、彼はゆっくりと碁笥の上に右手を置き、静かに頭を下げた。
「……負けました」
対局終了。奈瀬明日美の、中押し勝ちであった。
「ありがとうございました」
明日美が深く一礼を返す。
対局室は、水を打ったような静寂に包まれていた。すぐに局後の検討——感想戦が始まった。
これまでの明日美であれば、中身が素人であったため、適当なビジネス用語を並べてフンワリと誤魔化すしかなかった。しかし、今の彼女は違う。佐為との高次元な検討を繰り返し、自身の棋力も確実に向上していた。加えて、視界にはKataGoの『検討モード』が示す無数の変化図と勝率がハッキリと映し出されている。
イ・ミョンホが、中盤の分岐点となったあの中央への打ち込みを指し示した。
「……ここの打ち込み。私は無謀だと判断しましたが、結果としてここから陣形が崩されました。どのような読みがあったのでしょうか」
通訳を介した問いに対し、明日美は盤面を見つめ、的確に石を並べ替えてみせた。
「この局面で白がこちらにノビて反発した場合、黒はここに切りを入れます」
明日美の細い指が、冷徹な手順を紡ぎ出す。
「もし白が抱えて黒石を取ろうとすれば、外側からのアテが先手で利きます。結果として、中央の白数子が完全に重い石——働きのない凝り形になってしまいます。ですから、事前のこの打ち込みは、その変化を未然に防ぐための様子見であり、同時に右辺の黒の模様を立体化するためのシチョウアタリも兼ねていたんです」
「っ……!」
イ・ミョンホの目が驚愕に見開かれた。
「もし白が穏やかに受ければ、黒は軽くサバいて中央を制圧する。反発すれば、隅の味を活用して白を重くする。どちらに転んでも、黒が0.5目から1目、確実に得をする計算でした」
明日美の口から語られる、極めて具体的かつ論理的な解説。それは抽象的な精神論などではない。何十手先までの損得を0.1目単位で正確に計量した、完璧な数式のような手順であった。
イ・ミョンホは深く息を吐き、感嘆の声を漏らした。
「……恐れ入りました。あなたの読みの深さと効率の追求は、私の遥か先を行っている。完敗です」
世界最強の男にそこまで言わしめながら、明日美は表面上は「いえ、李先生の中盤の圧力には冷や汗をかかせられましたよ」と謙虚に微笑んでいた。
しかし、その実、彼女の頭の中では全く別の計算が猛烈な勢いで弾き出されていた。
(よっしゃああああっ! 勝った! ってことは、これで優勝だ! えーっと、三星火災杯の優勝賞金は……二億ウォン! 日本円にして、約二千万円だっけ!?)
盤面を見つめる美少女の瞳の奥で、おっさんの魂が狂喜乱舞していた。
(経費で韓国の美味い焼肉を腹いっぱい食って、観光して、ふかふかのベッドで寝て。で、数時間座って石を置いただけで二千万円……!! サラリーマン時代の俺の年収、何年分だよ!? 囲碁のプロ、ホワイト企業どころか石油王じゃねえか! こんなに楽して稼いでいいのか!?)
打算と俗物根性にまみれた四十代のおっさんの歓喜の叫びが、少女の心の奥底で木霊していた。
こうして、奈瀬明日美はデビューしたその年に公式戦全戦全勝、そしてメジャー国際棋戦である『三星火災杯』を圧倒的な力で制覇するという、前人未到の偉業を成し遂げた。
既存の理論をすべて破壊する彼女の『AI流』は、国内のみならず、中国、韓国を含む世界の囲碁界に計り知れない激震とパラダイムシフトをもたらした。
進藤ヒカルという新たな刺客が着実に育ちつつあることも知らず、世界中の棋士たちが「打倒・奈瀬明日美」を掲げ、AI流の解読という終わりのない迷宮へと足を踏み入れていく。
盤上の女神(中身はおっさん)の快進撃は、留まるところを知らなかった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
おかげさまで日間・週間ともに信じられないような順位をいただき、おっさん共々(?)震え上がっております……!
全十五話、最後まで毎日エタらずに走り抜けるための燃料をいただけると非常に励みになります!
「おっさん頑張れ」「勘違いコメディ面白い」と思っていただけましたら、【評価】欄から、応援の星(☆)をポチッと投票していただけるとめちゃくちゃ嬉しいです!
皆様のワンクリックが、最強AI並みの推進力になります。
よろしくお願いいたします!