ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい 作:高山 虎
さらに月日は流れ、翌年の秋。街路樹の葉が鮮やかな赤や黄色に染まり、冷たい風が市ヶ谷のビル群を吹き抜ける季節となっていた。
日本棋院の特別対局室で、奈瀬明日美はパチン、と冷徹な音を立てて白石を盤面に打ち下ろした。
対座するベテラン九段の顔は蒼白になり、握りしめた扇子が小刻みに震えている。彼が数十年の歳月をかけて築き上げてきた囲碁の定石や大局観が、目の前の十六歳の少女によって、まるで無価値な紙屑のように切り裂かれていく。
「……負けました」
枯れた声が対局室に響き、明日美は「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
プロデビュー以来、明日美の公式戦全勝記録は未だに継続中であった。
すべての対局を中押しで勝利し、文字通り相手を盤上で「惨殺」し続ける圧倒的な蹂躙劇。最初の頃こそ、奈瀬明日美の肉体に間借りしている四十二歳のサラリーマンは、自分より一回りも二回りも年上の大先輩たちを容赦なくボコボコにすることに、胃が千切れるほどの罪悪感とストレスを感じていた。
しかし、人間の慣れとは恐ろしいものである。
連日連夜、頭の中にいる『KataGo』の指示通りに石を置き、局後には検討機能とビジネス用語を並べて感想戦を行う。その作業を一年以上も繰り返すうちに、男の心の中にあった「申し訳なさ」は、見事に摩耗しきってしまっていた。
(ふう、今日の業務も無事終了、と。……いやあ、最初は心苦しかったけど、最近はもう『こういう仕事だから仕方ない』って完全に割り切れるようになったな。相手もプロなんだし、圧倒的な力で押し潰すのもまた、プロとしての責務ってやつだろ)
世間では彼女の常識外れな打ち回しは『奈瀬流』と呼び恐れられている。その100%出力のAI流でプロたちをなぎ倒すことに、もはや完全に「心を無にした社畜」の境地へと至っていた明日美は、微塵の罪悪感も抱くことなく、颯爽と対局室を後にした。
そんな彼女の耳に、待ちに待った朗報が飛び込んできたのは、その日の夕方のことであった。
「奈瀬先生! 進藤ヒカルくんが、プロ試験に合格しましたよ!」
棋院の廊下で広報担当者からその報告を受けた瞬間、明日美は「おおっ!」と顔を輝かせた。
「しかも、全勝での突破です! 奈瀬先生が残された『全勝かつ全対局百手以内』という不滅の大記録には及びませんが、それでも一敗もせずにプロ試験を駆け抜けるなんて、とんでもない快挙ですよ!」
当然の結果であった。進藤ヒカルの実力は、すでにプロの高段者にも匹敵するレベルに達していたのだ。
平安時代の天才棋士・藤原佐為という最強の専属コーチが背後に憑いており、さらに未来の超絶AIを脳内に飼う奈瀬明日美からの高次元の特訓を定期的に受けていたのである。人間の限界を超えたAIの効率と、千年の歴史が培った人間の直感。その二つの極致の狭間で揉まれ続けたヒカルが、院生たちとのプロ試験で星を落とす理由など存在しなかった。
しかし、このヒカルの全勝合格という事実は、日本囲碁界に巨大な嵐を巻き起こすことになった。
翌日のスポーツ紙や囲碁専門誌は、ヒカルの合格を一斉に大見出しで報じた。通常であれば、「驚異の大型新人現る!」「全勝合格の快挙!」といった程度の持ち上げ方で終わるはずである。しかし、世間は彼を単なる一人の新人棋士としては見ていなかった。
『あの無敗の怪物・奈瀬明日美が、唯一手元に置く愛弟子がプロ入り!』
『盤上の女神が育てた第二の刺客、進藤ヒカル!』
『奈瀬流の正統後継者、囲碁界の勢力図をさらに塗り替えるか!』
メディアの熱狂は、異常なまでの熱を帯びていた。
囲碁界の重鎮やファンたちは、「あの奈瀬二冠が手塩にかけて育てたのだから、とんでもない碁を打つに違いない」と、ヒカルに対するハードルを大気圏を突破する勢いで爆上げしていたのである。未知の打ち手で先輩たちをなぎ倒してきた奈瀬明日美の「秘蔵っ子」。その肩書きは、ヒカルをただの新人ではなく、「既存の囲碁界を破壊するかもしれない脅威の存在」として世間に強烈に印象付けた。
そして、そのメディアの熱狂を、自宅のリビングでテレビのワイドショーを見ながら眺めていた奈瀬明日美(中身はおっさん)は、口元を手で覆い、ニチャア……と、とても美少女とは思えない邪悪で打算的な笑みを浮かべていた。
(よしよしよし! 計画通りだ!)
明日美は心の中でガッツポーズを取った。
(ヒカルくん、後は任せたぞ! 今まで私一人に集中していたマスコミの異常な注目も、先輩プロたちからの『得体の知れないバケモノ』を見るような恐怖のヘイトも、これからは全部君と半分こ……いや、できれば君が七割くらい背負ってくれ! 私は後ろから『さすが私の弟子ね』って後方腕組みおじさんヅラをして、悠々とタイトル戦だけこなさせてもらうからな!)
これぞ、究極のリスクヘッジであり、完璧なヘイト管理であった。
目立つ後輩を矢面に立たせ、自分は安全圏からその活躍を称賛する。長年のサラリーマン生活で培った処世術が、囲碁界という特殊な村社会で完璧に機能した瞬間であった。
一方で、明日美の思惑通り、メディアの熱狂がヒカルに集中する中、その状況に最も深く思い悩み、混乱の渦中にいる一人の少年がいた。
同世代の天才と謳われ、すでにプロの世界で活躍を始めている塔矢アキラである。
アキラは自室の碁盤の前に端座し、手元の囲碁雑誌に掲載されたヒカルの顔写真を、射抜くような鋭い視線で睨みつけていた。
「進藤ヒカル……。君が院生になり、凄まじい速度で力をつけていることは知っていた。だが、まさか全勝でプロの門を叩くとは……」
アキラの胸の奥で、複雑な感情がぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
かつて、彼が進藤ヒカル(の背後にいる佐為)と出会った時、その底知れぬ実力に強烈な敗北感を味わい、彼を生涯のライバルとして追いかけることを誓った。そしてその後、中学校の囲碁部の三将戦で対局した際には、あまりの不甲斐なさにひどく落胆し、彼への興味を失いかけた。しかし、彼が院生に入ると聞いて、アキラは再び強烈に注目していたのである。
だが、囲碁界に現れた「奈瀬明日美」という存在が、アキラの運命を大きく狂わせた。明日美の放つ未知の『奈瀬流』は、タイトルトーナメントでアキラの父である絶対王者・塔矢行洋すらも手も足も出ないままに打ち倒し、アキラ自身が信じてきた囲碁の理を根底から粉砕したのだ。
アキラにとって、奈瀬明日美は「絶対に越えなければならない、絶望的な壁」となった。
そして今、自分がライバルだと信じていた進藤ヒカルが、あろうことか「自分よりも遥か上の存在になってしまった奈瀬明日美の弟子」として、同じプロの世界へと駆け上がってきたのである。
「僕は……どうすればいいんだ」
アキラは碁石を握りしめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「僕は進藤をライバルとして彼を倒すことを目標とするのか……それとも、彼の師匠である奈瀬さんを倒さねばならないのか……!」
進藤を倒しても、その上には奈瀬明日美がいる。奈瀬明日美を倒すには、彼女の技術を最も近くで吸収している進藤を無視することはできない。
堂々巡りの思考の末、アキラの中で極限まで高められたプライドと闘志が、一つのバグのような結論を弾き出した。
「……いや、迷う必要などない」
アキラの瞳に、狂気すら帯びた強烈な炎が宿る。
「進藤ヒカル。そして、奈瀬明日美。僕の前に立ち塞がるというのなら……僕が、二人ともまとめて倒す!!」
なぜか一人で勝手にハードルを限界まで引き上げ、ラスボスとその愛弟子を両方とも粉砕するという修羅の道を歩むことを決意した塔矢アキラであった。
アキラが勝手に闘志を燃やし、ヒカルがメディアの熱狂の波に揉まれている間も、奈瀬明日美の進撃は止まることを知らなかった。
彼女は現在、囲碁界の頂点たる『全七冠制覇』に向けて猛烈に邁進中であった。名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦、そして棋聖戦。
すべてのリーグ戦、すべてのトーナメントにおいて、彼女は当然のように全勝で勝ち進んでいた。KataGoの演算能力は日増しにその残酷な最適解を盤上に描き出し、かつてトッププロたちが命を削って築き上げた定石たちは、「非効率」の一言で次々と過去のものにされていった。
そして、時は少し飛び、春。プロ入りした新人が、トッププロに指導碁を受ける恒例行事『新初段シリーズ』の季節がやってきた。
進藤ヒカルの対局相手として指名されたのは、他でもない、日本囲碁界の重鎮であり、かつて明日美に敗れたとはいえ未だ強大な影響力を持つ塔矢行洋であった。
この新初段シリーズは、佐為にとって塔矢行洋と対局する絶好の機会となるはずであった。
しかし、この世界線においては、その根底の動機が完全に消滅していた。なぜなら、現在の藤原佐為の興味と執着は、塔矢行洋ではなく、奈瀬明日美の頭の中にいる未来のAI『KataGo』に全振りされていたからだ。
『塔矢行洋……確かに彼は、この現代において類稀なる実力を持つ強者。それは認めましょう』
ヒカルの自室で、佐為は扇子を広げ、極めてあっさりとそう言い放った。
『しかし、彼は神ではありません。私が追い求める「神の一手」、その神は……奈瀬殿の頭の中にこそおわすのです! 私が対局したいのは、塔矢名人ではなく奈瀬殿のみ!』
佐為には対局に対するインセンティブがなく、この世界線ではヒカルは自分自身の実力で塔矢行洋と向き合うことになったのだ。
日本棋院の特別対局室。大勢の記者とプロ棋士たちが見守る中、塔矢行洋は「奈瀬明日美の愛弟子」である進藤ヒカルの底を測ろうと、重厚で隙のない布石を敷いた。
しかし、ヒカルの放つ手は、塔矢の予想を遥かに超えるものであった。
彼自身の手で盤面に描かれるのは、佐為から受け継いだ千年の直感と、明日美のKataGoから叩き込まれた未来の効率的な『奈瀬流』が見事に融合した、全く新しいハイブリッドな打ち筋であった。
ダイレクト三々で実利を稼ぎつつ、中央へのふわりとした肩ツキで相手の模様を消す。一見するとバラバラに見える石たちが、中盤で突如として牙を剥き、塔矢の陣地を内部から食い破っていく。
「なっ……! この打ち回し……奈瀬四段のそれと瓜二つ、いや、さらに人間の泥臭い執念が混じっている……!」
塔矢行洋は、額に脂汗を浮かべながら驚愕していた。
対局は白熱している。ヒカルは塔矢の猛攻に何度か押し潰されそうになりながらも、佐為の幻影の叱咤と、奈瀬流の無慈悲な教えを思い出し、ギリギリのところで凌ぎ切る。
そして、二百十手目。盤面がすべて埋まり、ヨセが終わった後に行われた整地の結果。
「……黒(ヒカル)、四目半勝ち」
立会人の声が響いた瞬間、対局室は信じられないものを見たという沈黙に包まれ、その直後、爆発的なフラッシュの嵐が巻き起こった。
「勝った……! 逆コミとはいえ、新人の進藤初段が、あの塔矢名人を実力で打ち破ったぞ!」
「これが、奈瀬明日美が育て上げた『怪物』の本当の力なのか……!」
騒然とする対局室で、ヒカルは震える手を見つめながら、大きく息を吐き出した。佐為の力を借りず、自分自身の力で、頂点の一角を打ち崩したのだ。
その歴史的快挙のニュースを、自宅のテレビで見ていた奈瀬明日美は、ポテトチップスをかじりながら深く頷いた。
「うんうん、素晴らしい。見事なジャイアントキリングだ。これで世間の目は完全にヒカルくんに釘付けだな。私の目論見は完璧に達成されたぞ」
ヒカルの勝利を純粋に喜ぶというよりは、自分の「ヘイト管理・防波堤計画」が完璧に機能したことを喜ぶ、打算に満ちた四十二歳のおっさんであった。
ヒカルが自らの力で頂点への階段を登り始めたことで、囲碁界の勢力図はさらに混沌と化していく。
全七冠制覇に向けて盤上を物理的な暴力(AI)で制圧し続ける奈瀬明日美。彼女を追いかけ、既存のプロたちを次々と薙ぎ倒していくハイブリッドの怪物、進藤ヒカル。
そして、その二人をまとめて粉砕するために修羅の道を歩み始めた塔矢アキラ。
もはや原型を留めないほどに歴史が改変された世界で、おっさんの魂を宿した盤上の女神は、今日もまた自らの平穏を守るため、無慈悲に石を置き続けるのであった。
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