ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい   作:高山 虎

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防波堤計画の破綻:気がつけばスイーツ特集の表紙にいた

「ここに来るまで、結構長かったなぁ」

 

最高級旅館の豪奢な廊下を歩きながら、奈瀬明日美はふと、誰に聞かせるわけでもなくそんな言葉を漏らした。

 

プロの囲碁棋士として華々しいデビューを飾ってから、すでに三年以上の月日が経過していた。少女は、今や十七歳の、どこか大人びた艶やかさと底知れぬ威厳を纏う女性へと成長している。

 

明日美の肉体に間借りしている四十二歳の元サラリーマンの魂にとって、この三年余りは文字通り怒涛の日々であった。プロ入り直後から、彼女は脳内に宿る未来の超絶囲碁AI『KataGo』の指示に従うまま、公式戦でただの一度も土をつけることなく、あらゆる対局を無慈悲に蹂躙し続けてきた。

 

その快進撃は、とうの昔に国内の枠を飛び越えていた。

 

『三星火災杯』を制覇したのを皮切りに、世界最高峰の国際棋戦である『富士通杯』、『LG杯』、そして『春蘭杯』と、名だたる世界のビッグタイトルを次々と総なめにしていったのだ。中国や韓国の誇る世界最強のトッププロたちは、明日美の放つ未知の『奈瀬流(AI流)』の前に為す術もなくひれ伏し、世界の囲碁界は「奈瀬明日美という名の絶対的な絶望」に支配されていた。

 

そして国内においても、名人、本因坊、十段、天元、王座、碁聖と、破竹の勢いで六つのタイトルをストレートで獲得し、名実ともに囲碁界の最高到達点として君臨していた。

 

この時代では囲碁界の厳格なシステム上、どんなにすべての対局を最短手数で全勝し続けようとも、七大タイトルすべてに挑戦するためには、どうしても三年と十ヶ月という物理的な歳月が必要となる。

 

明日美はついに、その長く険しい道のりの最後の頂に手をかけようとしていた。

 

七大タイトルの最後の一つ、『棋聖戦』の挑戦手合である。

 

その前日となる今日、対局の舞台となる由緒正しき高級旅館の大広間では、盛大な前夜祭が執り行われていた。

 

タイトル戦の前夜祭といえば、主催する新聞社の幹部や、地元の有力なスポンサー企業のお偉方、さらには囲碁連盟の重鎮たちが一堂に会する、いわば一大社交場である。

 

通常の十七歳の少女であれば、社会的地位の高い大人たちに囲まれ、プレッシャーと緊張でガチガチになり、部屋の隅で小さくなっているのが関の山だろう。

 

しかし、奈瀬明日美は違う。彼女はすでに国内外の頂点を極めた「六冠王」であり、さらには中身が酸いも甘いも噛み分けた営業歴二十年のベテランおっさんサラリーマンなのだ。

 

「いやあ、奈瀬六冠。明日の対局、我が社を挙げて応援させてもらいますよ! 先日の春蘭杯での圧倒的な勝利、我々もテレビの前で痺れました!」

 

「本当ですよ。あのような芸術的な打ち回し、まさに神業です。明日の七冠達成の歴史的瞬間に立ち会えることを、スポンサーとして誇りに思います」

 

全国紙の社長や、地元の大手企業の重役たちが、こぞって明日美の周りを取り囲み、満面の笑みで揉み手をするようにヨイショしてくる。

 

前世のサラリーマン時代であれば、明日美(おっさん)の方が彼らにペコペコと頭を下げ、靴底を減らして機嫌を取らなければならない雲の上の存在たちである。しかし、今の彼女は囲碁界の絶対君主だ。ここで過剰にへりくだることは、かえって六冠王としての格を下げることになり、不自然極まりない。

 

明日美は、美しい友禅の着物姿のまま、堂々とした態度で彼らの賞賛を正面から受け止めた。

 

「皆様、お褒めの言葉ありがとうございます。社長はお目が高いですね、あの春蘭杯でのシノギは、盤面全体のパラダイムを転換する重要な一手でした。皆様のような素晴らしいスポンサー様のご支援と、盤上のシナジーが結びついたからこその結果です。明日も、皆様の期待に応える最高の碁をお見せすることをお約束しますよ」

 

謙虚さを装いつつも、相手の自尊心をくすぐりながら堂々と場を支配する完璧なトーク。グラスの空き具合を瞬時に察知し、相手に気分良くお酌を「させる」という、洗練された大人の余裕。

 

少し離れた壁際でその様子を見守っていた日本棋院の引率担当者や関係者たちは、信じられないものを見るような目で戦慄していた。

 

(なんだあの異常なまでの堂々とした振る舞いは……! まだ十七歳だぞ!? なんであんなに大企業のトップを相手にした接待……いや、接待の「受け方」が上手いんだ!?)

 

周囲の困惑など知る由もなく、明日美は「接待はされる側が一番気持ちいいな」と内心でほくそ笑みながら、ニコニコと見事な愛想笑いを振り撒き続けた。

 

数時間に及ぶ前夜祭と会食を完璧にこなし、ようやく解放されて用意された自室へと戻った明日美は、重い着物を脱ぎ捨てて備え付けの浴衣に着替えると、ふかふかの座布団の上にドカッと胡座をかいた。

 

見渡せば、そこは一泊数十万円は下らないであろう、日本庭園を見下ろす最高級スイートルームである。床の間には歴史的な名人の掛け軸が飾られ、テーブルの上にはウェルカムフルーツとして高級なメロンや葡萄の盛り合わせが置かれていた。

 

「っかーっ! 最高だな……!」

 

誰もいない部屋で、明日美はだらしなく畳の上に大の字に寝転がった。冷蔵庫から取り出した瓶のサイダー(気分はビールである)をグラスに注ぎ、一気に煽る。

 

「以前だったら接待する側で、胃に穴を開けながら上司と取引先の顔色を窺ってたっていうのに……される側かよ。しかもただ座って飯食ってるだけで、お偉いさんが勝手に持ち上げてくれる。プロ棋士ってマジで最高だわ」

 

炭酸の爽快感を味わいながら、至福の吐息を漏らす。

 

明日は、勝てば日本囲碁界の歴史上誰も成し得なかった「全七冠制覇」という大偉業がかかる、伝説の一日である。プレッシャーで一睡もできないのが普通の人間というものだが、明日美の心には一ミリの緊張感も存在しなかった。

 

なぜなら、明日の対局もまた、KataGo先生が示す青い光に従って石を置くという「究極のルーチンワーク」に過ぎないからだ。勝敗の責任も、読みの疲労も、すべてAIが肩代わりしてくれる。

 

「カタゴ先生、明日もよろしく頼みますよ」

 

虚空に向かって軽く手を合わせると、明日美は最高級の羽毛布団に潜り込み、明日の対局への緊張感などゼロのまま、泥のような深い眠りへと落ちていった。

 

翌朝。張り詰めた静寂が支配する特別対局室。

 

上座に座る男の周囲には、触れれば切れそうなほどの凄まじい剣気が立ち上っていた。日本囲碁界の象徴であり、最後まで明日美の前に立ちはだかった最後のタイトル『棋聖』の保持者、塔矢行洋である。

 

かつて複数のタイトルを誇った彼も、明日美の登場以降、そのタイトルを次々と奪われ、今やこの棋聖位を残すのみとなっていた。彼のプライド、そして囲碁に捧げてきた人生のすべてが、目の前に座る十七歳の少女——否、その奥に潜む得体の知れない神の如き知性を打ち倒すことだけに注がれていた。

 

(奈瀬明日美……。君の打つ『奈瀬流』の棋譜は、すべて擦り切れるほどに研究させてもらった)

 

塔矢行洋は、静かに目を閉じ、これまでの明日美の対局を脳内でフラッシュバックさせた。

 

ダイレクト三々、星へのツケヒキ、序盤からの中央への肩ツキ。人間が「悪手」として忌み嫌ってきたそれらの手が、なぜ最終的に盤面を支配するのか。塔矢はその圧倒的な効率の良さと、部分的な戦いを全体へと波及させる異常なまでの構想力を、血を吐くような思いで解析し続けてきた。

 

そして今日、彼は己の持てるすべての技術と、人間の直感の極致を融合させた「対・奈瀬流」の極秘の作戦を用意してこの場に臨んでいたのだ。

 

「お願いします」

 

両者の声が重なり、運命の対局が幕を開けた。

 

握りの結果、塔矢が先手となる黒番を持った。明日美の視界に、お馴染みのKataGoの青白いホログラムUIが展開される。

 

『コミ設定:五目半』

 

『勝率:48%』

 

『目数差:-0.2』

 

塔矢の初手は、右上星。明日美はKataGoの推奨する左下小目へと白石を打ち下ろす。

 

序盤から、塔矢行洋の気迫は尋常ではなかった。彼は明日美がAI流の布石を展開してくることを前提に、徹底的に厚みを重視しつつも、相手の石の働きを制限するような、重厚かつ精密な打ち回しを見せた。

 

四十手目。塔矢が心血を注いで用意していた「罠」が発動した。

 

右辺から中央にかけて、明日美の白石を大きく包み込むような、見たこともない新手のボウシ(相手の石の上部から被せるように打つ手)が放たれたのだ。それは、人間の大局観の極みとも言える、盤面全体を使った巨大な網であった。

 

(さあ、どう来る。この網を破ろうと無理に動けば、君の石は重くなる。かといって放置すれば、中央は私の巨大な地となるぞ)

 

塔矢は息を殺し、明日美の反応を待った。モニター越しに観戦している全国のプロ棋士たちも、「ついに塔矢名人が奈瀬流を捕らえたか!」と固唾を呑んで見守っていた。

 

しかし。AI研究が一般化し、定石が完全にアップデートされた二〇二〇年代の現代においてすら、世界のトッププロが「二~三子のハンデ(約二十〜三十目の有利)を置いてでも勝負になるかどうか」と言わしめるのが、フルスペックのKataGoである。

 

その神算鬼謀の前に、この時代の人間の知恵の結晶など、児戯に等しかった。

 

明日美の視界に表示された勝率グラフは、塔矢の渾身の罠に対しても、微動だにしていなかった。それどころか、『勝率:68%』へと白側にじわじわと傾き始めている。

 

(カタゴ先生、どこに打つんだ……? ええっ、そこ!?)

 

明日美自身も驚愕するような場所——右辺の攻防とは全く関係のない、左下隅の黒陣のわずかな隙間に、推奨手の青い光が点滅していた。

 

パチン。

 

明日美が無表情のまま白石をそこに置いた瞬間、塔矢行洋の全身に悪寒が走った。

 

(なんだ、今の着手は……。私の問いかけを完全に無視した? いや、違う!)

 

塔矢の脳内で、凄まじい速度のシミュレーションが回り始める。左下の白石。それは一見すると意味のない様子見に思える。しかし、もし塔矢が右辺の網を絞りに行った場合、その戦いの余波が盤面を横断し、数十手後に「シチョウアタリ」や「逃げ道の確保」として、その左下の白石が致命的な働きをしてくることに気づいてしまったのだ。

 

(これを咎めるためには、左下を受けなければならない。しかし受ければ、右辺の網にわずかな綻びが生じる……! 馬鹿な、たった一手で、盤面全体の力関係を完全に計算し尽くしているというのか……!)

 

塔矢の額から、滝のような脂汗が流れ落ちた。

 

ここから、KataGoの冷酷無比な蹂躙が始まった。

 

塔矢がどれほど巧妙なトラップを仕掛けようとも、明日美(KataGo)はそれを力でねじ伏せるのではなく、水が岩を避けて流れるように、最も効率的で被害の少ないルートを選択し続ける。塔矢が「ここを譲る代わりに、あそこを取る」という人間の妥協に基づくフリカワリを要求しても、KataGoは「ここも譲らないし、あそこも取る」という0.1目単位の利益を貪欲に追求する最善手をノータイムで返し続けた。

 

どうにか手を残そうと、塔矢行洋は己の寿命を削るかのような深い読みで食らいついた。複雑怪奇なコウ争いを仕掛け、盤面を泥沼の乱戦に引きずり込もうと試みる。彼が積み上げてきたすべてをぶつけるような、執念の一手一手。

 

しかし、KataGoの前では、いかなる複雑な局面も「ただの計算可能な数式」に過ぎない。

 

百二十手を超える頃には、盤面は誰の目にも明らかなほど、白の圧倒的優位となっていた。塔矢が築き上げたはずの巨大な網は、内側から完璧なサバキで食い破られ、逆に塔矢の黒石たちが盤面のあちこちで分断され、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた。

 

終盤の細かい陣地計算——ヨセ。塔矢行洋が世界に誇るその精密な技術を発揮する場面すら、彼には与えられなかった。ヨセにたどり着く前に、すでに勝敗の天秤は完全に破壊されていたのである。

 

百五十二手目。明日美が中央の黒石の息の根を止めるハネを打った瞬間。

 

塔矢行洋の肩が、ふっと小さく落ちた。

 

長く、重苦しい沈黙が対局室を支配した。日本庭園から聞こえる鹿威しの音だけが、やけに大きく響く。やがて、塔矢はゆっくりと碁笥の上に右手を置き、深く、深く頭を下げた。

 

「……負けました」

 

その言葉が発せられた瞬間、対局室の襖が弾かれたように開き、待機していた膨大な数の報道陣が一斉になだれ込んできた。

 

バシャバシャバシャッ! と、嵐のようなフラッシュが室内を白日のように照らし出し、明日美の視界を白く染め上げる。

 

「奈瀬棋聖、誕生です!」

 

「前人未到! 史上初にして最年少の、全七冠制覇だ!」

 

ざわめきと歓声が渦巻く室内で、明日美はフラッシュの眩しさに目を細めながら、ただ静かに一礼をしていた。

 

その対面で、塔矢行洋は盤面上に描かれた白と黒の軌跡——己の完全なる敗北の形——を見つめながら、静かに思考の海に沈んでいた。

 

(これが、新しい時代か……)

 

彼が信じ、築き上げてきた囲碁という名の巨城が、見事に崩れ去った瞬間であった。しかし、不思議と心に絶望はなかった。あるのは、人智を超えた果てしない高みを見せつけられたことへの、純粋な畏敬の念であった。

 

対局直後に行われた感想戦。無数のカメラが回る中、塔矢行洋は食い入るように盤面を指差した。

 

「……中盤のこの左下へのツケ。私は右辺の網を優先したが、もし私がここで左下をハネて受けていたら、君はどう打つつもりだった?」

 

その質問に対し、明日美は視界に展開されている『検討モード』の変化図を読み上げながら、淀みなく石を並べ替えてみせた。

 

「もし黒がこちらをハネた場合、白は右辺に割り込みます。黒がアテてきた瞬間に、左下の切りを利かし、シチョウアタリとして活用します。そのまま中央へ脱出すれば、黒の網は破れ、逆に下辺の黒数子が孤立する。この変化であれば、白が約三目半有利になると読んでいました」

 

「っ……! そこまで、いや、盤面全体を一つの戦いとして連動させていたというのか……」

 

五十手先までの変化を、目数単位の正確な損得計算とともに即座に提示してのける明日美の驚異的な読みに、塔矢はただただ絶句するほかなかった。周囲のトッププロたちも、そのあまりにも具体的かつ人間離れした解説に、戦慄の表情を浮かべていた。

 

感想戦が終わり、盤上の石がすべて片付けられた後。塔矢行洋は、憑き物が落ちたような、どこか清々しい表情で明日美を見つめた。

 

「負けてよかったとは言わんがね」

 

それは、孤高の絶対王者として君臨し続けてきた男の、偽らざる本音であった。

 

「これで、タイトルの呪縛から離れられる。長年背負ってきた重い荷物を、ようやく下ろすことができた気分だ」

 

塔矢はふっと口角を上げ、わずかに微笑んだ。

 

「これからは私も、君のように自由な碁を打ちたいと思うよ。既存の枠組みに囚われない、真の囲碁の深淵を求めてね」

 

かくして、奈瀬明日美による七大タイトル全制覇という、日本囲碁史における最大の神話が完成したのである。

 

さて、かつて明日美は、進藤ヒカルを自身の「弟子」として育て上げることで、自分に集中する世間のヘイトや異常な注目を彼に押し付けようという打算的な計画を立てていた。

 

確かにヒカルはプロ入り後、凄まじい快進撃を続けてメディアの話題を攫っていた。しかし、明日美自身が「十七歳での全七冠制覇」という、さらにその上を行く途方もない伝説を打ち立ててしまったことで、結局のところ世間の最大の注目は、再び明日美へと逆戻りしてしまっている。

 

だが、その注目のされ方は、かつての「得体の知れないバケモノ」という恐怖の視線からは大きく変容していた。

 

なぜなら、対局前日にもかかわらずヒカルや佐為たちと和気あいあいと遊んでいたり、タイトル戦の遠征先ではご当地グルメ(北海道の蟹や神戸の牛ステーキなど)をこれでもかと満喫し、完全に旅行気分で観光地を巡る明日美のプライベートな姿が、密着番組などで全国に放送されてしまったからだ。

 

『盤上では冷酷無比な鬼神なのに、盤外では指導碁やイベントに積極的で、天真爛漫に地方を楽しむ可愛らしい史上初の無敗女流タイトルホルダー』

 

『絶対王者は、超絶グルメ女子だった!』

 

そんなギャップ萌えの要素が加わり、メディアでの彼女の扱いは「畏怖」や「尊敬」から「熱狂的なアイドル的親しみ」へと変わり、世間では大バズりする事態となっていた。中身が「タダで地方出張できて美味い飯が食えるなんて最高だぜ!」と喜んでいるだけの四十代のおっさんであるとは誰も夢にも思わず、ファンは彼女の一挙手一投足に熱視線を送っている。

 

「ヒカルくんに注目を押し付ける計画だったのに……なんで私がスイーツ特集の雑誌の表紙まで飾らなきゃいけないんだよぉ……!」

 

自室のベッドで一人、アイドルのような衣装を着せられた自身の掲載誌を抱えながら、明日美は歓喜と羞恥が入り混じった悶絶の声を上げていた。

 

盤上では未来の知性で圧倒し、盤外では大人の処世術と俗物根性で世間を魅了する。

 

こうして奈瀬明日美は、国内の全七冠、そして国際棋戦の覇者として、誰にも侵すことのできない囲碁界の絶対王者として、その名を永遠の歴史へと刻み込むことになるのであった。

 

それから数日後。

 

都内にある高級ホテルのラウンジを貸し切った一室で、奈瀬明日美は、強烈なフラッシュの雨を全身に浴びていた。

 

今日は、全国紙の一般紙と、囲碁専門誌『週刊碁』の合同インタビューの日である。

 

「奈瀬七冠! 先日の棋聖戦でのストレート勝利、誠におめでとうございます!」

 

スーツ姿の記者たちが、興奮冷めやらぬ様子でマイクやボイスレコーダーを突き出してくる。

 

「未だ公式戦負けなし。文字通りの無敗記録を現在進行形で更新中ですが、一体なぜ、ベテランのトッププロたちを相手に、これほどまでに圧倒的な勝利を重ねることができるのでしょうか? その強さの秘密を、ぜひお聞かせください!」

 

記者たちの熱を帯びた視線に対し、明日美は深く静かな深呼吸を一つし、まるで悟りを開いた老成な哲学者のような、涼やかな表情を作った。

 

当然彼女には、自分がどうして勝っているのかなど説明のしようがない。ただ視界に浮かぶKataGoの青い点に従って石を置いているだけなのだから。

 

「……強さの秘密、ですか。そうですね……」

 

明日美は視線を少し落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

「私は、盤面というものを、単なる白と黒の陣取り合戦だとは捉えていません。それは、絶えず変化し続けるマクロな『パラダイム』なのです」

 

「パ、パラダイム……!」

 

記者が唾を飲み込む。

 

「はい。多くの棋士の方々は、局地的な戦いというミクロな視点に固執するあまり、盤面全体が求めている『アジェンダ』を見失いがちです。私はただ、石たちが互いにどのような『シナジー』を生み出し、最も効率的な『スキーム』を構築できるか……その最適解を、静かに導き出しているに過ぎません。過去の定石という『レガシー』に囚われず、常に『ゼロベース』で盤面と対話すること。それが、強いて言えば私の強さの理由でしょうか」

 

一切囲碁の具体的な技術には触れていない、横文字だらけのフワッとした回答。

 

普通のプロ棋士が言ったなら「こいつは何を言っているんだ」と眉をひそめるところだが、発言者は連戦連勝の無敗の絶対王者である。

 

「おおお……!」

 

記者たちは感嘆の声を漏らし、猛烈な勢いでメモを取り始めた。

 

「盤面のアジェンダ! 石たちのシナジー! なるほど、既存の囲碁の枠組みを超越した、まるで宇宙の真理を探究するかのような深遠な哲学……! それが、あの常識破りの新手の源泉なのですね!」

 

「抽象的でありながら、核心を突いている……。このミステリアスな魅力こそが、奈瀬七冠が神に愛されている証拠だ!」

 

記者たちが勝手に都合よく解釈し、絶賛してくれるのを見て、明日美は内心で(よし、今日も完璧に煙に巻けたな)とガッツポーズをした。

 

「続いての質問です!」

 

別の全国紙の記者が手を挙げた。

 

「先日、奈瀬七冠は、大手自動車メーカーの『ト日タ』、そして国内最大手の『野木寸證券』と、異例の大型スポンサー契約を締結されました。一七歳のプロ棋士としては前代未聞の快挙ですが、企業側は奈瀬七冠にどのようなイメージを持って契約されたのでしょうか?」

 

明日美は、事前にマネージャーから渡されていた想定問答の資料を思い出しながら、完璧な営業スマイルを浮かべた。

 

「大変光栄なことだと受け止めております。自動車メーカー様におかれましては、私が盤上で見せる『既存の定石に囚われない革新的な打ち手』を、次世代の自動車開発における『最先端』や『先進性』といったアイコンとして重ね合わせてくださったようです。また、証券会社様につきましては、私の碁が常に数十手先を見据えていることから、経済の動向を的確に見極める『先を読む力』の象徴として評価していただきました」

 

明日美はそこでふふっと、一七歳の少女らしい愛らしさを交えて微笑んだ。

 

「どちらの企業様も、私が囲碁という極めて論理的な世界で結果を出し続けていることを、高く評価してくださっています。盤上での一手一手が、社会における『先見の明』に繋がる。囲碁ですからね、常に先を読んでいかなければなりません」

 

「素晴らしい……! まさに新時代の象徴たるコメントです!」

 

カメラのフラッシュがさらに激しく明滅し、明日美の凛とした姿をフィルムに焼き付けていく。

 

その後も、「休日の過ごし方は?」「好きな食べ物は?」「同世代でライバル視している棋士はいますか?」といった、細々とした、しかし世間が求めるアイドル的な質問が次々と飛んできたが、明日美はそれらすべてを、中身の四十二歳のおっさんの経験値をフル稼働させて、無難かつ好感度の高い回答で捌き切った。

 

「——お時間となりました。本日のインタビューは以上とさせていただきます」

 

司会役のスタッフの声が響き、記者たちが一斉に礼をした。

 

「ありがとうございました。皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、感謝申し上げます」

 

明日美も深く一礼をし、颯爽とした足取りでラウンジを後にした。

 

しかし、控室に戻った途端、明日美の足取りは重くなった。

 

「お疲れ様でした、奈瀬先生。休む暇もなくて申し訳ありません。ではこの後は、テレビ局でのバラエティ番組の収録取材がありますので、すぐに移動をお願いします。車は下で待たせてあります」

 

足早に歩み寄ってきた棋院の広報担当者が、分刻みのスケジュール表を突きつけてくる。

 

「……はい。わかりました」

 

明日美は引きつりそうになる頬を必死に抑え、足早に次の現場へと向かう準備を始めた。

 

本来、囲碁界におけるタイトルホルダーのスケジュールというものは、確かに殺人的な忙しさである。しかしその中身は、次々と迫り来るタイトル防衛戦や新たな挑戦に向けた「膨大な棋譜研究」や「対局準備」、そして「トッププロ同士の研究会」がその大半を占めるのが常識である。

 

盤上での実力を維持・向上させるために、一日のほとんどを碁盤の前に座って過ごさなければ、過酷なプロの世界を生き抜くことはできないからだ。

 

しかし、中身がおっさんの明日美の場合、その「本来のプロとしての常識」が完全に欠落していた。

 

彼女は、自分自身で囲碁の勉強や棋譜の研究など、ただの一秒たりとも行っていなかった。対局になれば、頭の中のKataGo先生が示す青い光の通りに石を置くだけだ。「自分で打つわけではなく、AIの言う通りに打つだけの簡単な作業」だと、完全に割り切っていたのである。

 

だからこそ、勉強や研究に充てるべき膨大な時間が、明日美には丸々余っているはずだった。

 

それなのに、なぜこれほどまでに忙殺されているのか。

 

その理由は他でもない、自分自身が引き起こしてしまった「異常な囲碁ブーム」のせいである。

 

歴史的な若き天才七冠という存在は、マスメディアにとってこれ以上ないほどの極上のコンテンツであった。囲碁とは全く関係のない一般のテレビ番組からの出演オファー、雑誌の表紙撮影、大企業のCM撮影、さらには各地方自治体からのイベントのゲスト出演依頼などが、文字通り雪崩のように舞い込んできていたのである。

 

「勉強しなくていいから時間は余ってるけど……その分、慣れない芸能人みたいなメディア関係の仕事ばっかりで、毎日てんてこ舞いじゃないか……! おっさんのメンタルにはキツすぎるぞ……!」

 

移動の送迎車の中で、明日美は深く沈み込むようにシートに背中を預け、重いため息をついた。

 

日本囲碁界の頂点に君臨する天才美少女の実態が、日々のメディア対応に疲弊しきった中年サラリーマンであるなどと、誰が想像できるだろうか。

 

ちなみに——。

 

この空前のブームの中、彼女のその可憐で整ったルックスに目をつけた大手芸能プロダクションから、「囲碁界のアイドルとして、写真集(グラビア)を出さないか」「歌手としてCDデビューしないか」といった、本業を完全に逸脱した熱烈なオファーが水面下でいくつも寄せられていた。

 

しかし、中身が四十二歳のおっさんである明日美にとって、それだけは絶対に受け入れられない一線なのだ。

 

「冗談じゃない! テレビにでて芸能人の真似事をするだけでも胃に穴が開きそうなのに、これ以上、フリフリのアイドル衣装を着て歌って踊ったり、水着になってグラビア撮影なんかさせられたら……俺の精神的ストレスがマッハを超えて完全に崩壊するわ!!」

 

そのオファーだけは、棋院の上層部がどれだけ「囲碁の普及のためになるから」と勧めてきても、頑なに、そして涙目で断り続けているというのは、完全なる蛇足である。

 

彼女の脳内に鎮座する神と、おっさんのドタバタな二重生活は、まだしばらくの間、終わる気配はない。




本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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どうぞよろしくお願いいたします!

本作は全15話で完結まで執筆済みです。
毎日20:11に更新しますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです!

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うす汚ねェクルタ族の血を増やしてやるし!(作者:黒岩)(原作:HUNTER×HUNTER)

なんか~あーしが旅出てたらなんか故郷滅んでてマジヤバイんだけど~……ウケない。とりま故郷再興っしょ!▼クルタ族のギャルでグルメハンターが適当に過ごします。


総合評価:6730/評価:8.37/連載:17話/更新日時:2026年06月01日(月) 18:10 小説情報


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