ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい   作:平平平

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世紀末の院生たちにダイレクト三々をぶち込んだ結果

窓から差し込む爽やかな朝日が、パステルカラーの壁紙を明るく照らし出していた。

 

しかし、ベッドの上に身を起こした奈瀬明日美の顔——その内面に宿る四十二歳のおっさんサラリーマンの精神——は、ひどくどんよりと曇っていた。一晩中、柔らかすぎるベッドの上で何度も寝返りを打ち、今後の身の振り方について思い悩んでいたためだ。

 

「……プロになろう」

 

誰に聞かせるわけでもなく、少女の可憐な唇から、おっさん臭い重いため息とともにそんな言葉が漏れた。

 

一晩考え抜いて、男はある一つの結論に至っていた。それは、この『奈瀬明日美』という少女の肉体を借りている以上、彼女がいつか意識を取り戻した時のために、プロ棋士の座を掴み取っておくという決断である。

 

冷静に考えれば、自分の脳内に鎮座する『KataGo』の力があれば、それは極めて簡単なことに思えた。何しろ、相手は一九九〇年代の、まだAIの洗礼を受けていない人間たちだ。未来の最高峰の演算能力を用いれば、文字通り赤子の手をひねるようなものだろう。

 

しかし、だからこそ男には大きな気がかりな点があった。

 

KataGoは、あまりにも強すぎるのだ。

 

現在の明日美(中身はおっさん)には、二つの選択肢しかない。一つは、初歩的なルールすらおぼつかない素人として、ド下手くそな初心者以下の囲碁を打つこと。もう一つは、KataGoの指示通りに石を置き、人類の常識を凌駕する最強の囲碁を打つことだ。

 

その中間、つまり「今の奈瀬明日美の本来の実力に合わせた、手加減した囲碁」を打つことなど、素人の男には到底不可能である。

 

もしKataGoを使えば、プレースタイルは劇的に変化し、周囲からは異常な目で見られるだろう。最悪の場合、明日美のこれまでの努力や棋風を根本から否定することになるかもしれない。

 

だが、男は首を横に振った。

 

「俺のせいで、この子の夢を奪うことなんてできない」

 

明日美が人生のすべてを懸けて目指しているプロ棋士という夢。素人の自分が打って全戦全敗し、院生にいられなくなるようなことだけは絶対に避けなければならない。

 

本人が後からこの結果を知って喜ぶかどうかはわからない。他人の力(しかも未来のAI)でプロになったと知れば、絶望するかもしれない。それでも、夢への切符を完全に破り捨ててしまうよりはマシなはずだ。

 

「毒食わば皿まで、だ。KataGoの力に、全面的に頼らせてもらうぞ」

 

男は少女の小さな両手で自分の頬をパンッと叩き、気合を入れると、院生の手合が行われる日本棋院へと向かう準備を始めた。

 

市ヶ谷にある日本棋院本院。

 

重厚な建物の前に立った明日美は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。記憶の中にある風景とはいえ、実際に訪れるのは初めてだ。自動ドアを抜け、エレベーターで指定された階へと向かう。

 

手合が行われる対局室のドアを開けると、そこには異様なほどの熱気と、ピリピリとした緊張感が充満していた。まだ十代の少年少女たちが、それぞれの碁盤の前に座り、押し黙って精神を集中させている。

 

(うわぁ……俺が普段出てる営業会議よりよっぽど空気が重いぞ……)

 

内心で震え上がりながらも、明日美は記憶を頼りに自分の席を探した。

 

「おっ、奈瀬。おはよう」

 

「おはよう、奈瀬さん」

 

不意に声をかけられ、明日美はビクッと肩を揺らした。声の主は、見覚えのある顔だった。ツンツンと逆立った髪の少年と、少し大人びた真面目そうな少年。

 

和谷義高と、伊角慎一郎だ。

 

(おおっ、本物だ……!)

 

漫画の読者だった男としてはテンションが上がりそうになったが、ここでボロを出すわけにはいかない。

 

「お、おはよう。和谷、伊角くん」

 

明日美は記憶にある彼女の少しぶっきらぼうなトーンを意識して、無難に挨拶を返した。和谷たちは特に気にした様子もなく、自分の席へと向かっていく。

 

ふう、と息を吐いて着席し、明日美は周囲をさりげなく確認した。原作で見たことのある顔もいれば、全く知らないメンバーも多い。ふと気になって視線を巡らせたが、マッシュルームカットに眼鏡という特徴的な風貌の越智康介の姿はなかった。

 

(そうか、越智はまだ院生になってない時期なのか)

 

そんなことを考えながら、明日美は壁に貼り出されている星取表に目を向けた。そこに記された明日美の現在の順位は『一組二十二番』であった。

 

(……はて? 一組の二十二番って、これはいい順位なのか? 悪い順位なのか? さっぱりわからん)

 

男の囲碁知識はあくまで漫画の読者レベルである。一組が上位クラスであることは何となく知っているが、その中の二十二番という位置づけが、プロに近いのか遠いのか、まったくピンとこない。営業成績で言えば、部署内で下から数えた方が早い微妙な立ち位置のようにも思えた。

 

「時間です。対局を始めてください」

 

幹事の冷徹な声が室内を響き渡り、一斉に「お願いします」という声が上がった。

 

明日美の目の前に座っているのは、漫画では一度も見たことがない、ニキビ面で神経質そうな少年だった。明日美の脳内の記憶データベースが、瞬時に彼の情報を引き出す。名前は斎藤。順位は一組十番。明日美よりもかなり上位の格上相手である。

 

「よろしくお願いします。……握るぞ」

 

斎藤が鋭い視線を向けて、短くそう告げた。

 

「……ニギル?」

 

明日美は一瞬、何のことかわからず素っ頓狂な声を出しそうになった。寿司でも握るのか、と本気で戸惑ったが、斎藤が自分の碁笥から白石を無造作に一掴みして盤の上に隠すように置いたのを見て、ハッと閃いた。

 

(ああ! 先攻後攻——じゃなくて、黒番と白番を決めるやつか! 漫画で見たことあるぞ!)

 

白石を持った相手に対し、黒石を一つ(奇数)か二つ(偶数)置いて当てる儀式。それが『握り』だ。明日美は慌てて黒石を一つ取り出し、盤の隅にそっと置いた。

 

斎藤が手を広げると、白石は四つあった。ハズレである。したがって、斎藤が先手である黒番を持ち、明日美は後手の白番を打つことになった。

 

パチリ、と斎藤が右上隅の星に黒石を打ち下ろした。

 

その瞬間である。

 

明日美の視界に、再びあの近未来的な青白いグリッドがオーバーレイ表示された。

 

『コミ設定:五目半』

 

『勝率:48%』

 

『目数差:-0.3』

 

(出た……! カタゴ先生のUI!)

 

明日美は密かに興奮しながら盤面に目を向けた。斎藤が打った黒石を認識したのか、視界の盤面右下の星(白から見ての左下)と、左上の小目が青くチカチカと点滅を始めた。『推奨手』のサインである。

 

「よし……行くぞ」

 

明日美は美しい所作で白石を摘まみ、青く光る左上の小目に石を放った。

 

ここから院生たちにとって、理解不能の悪夢が始まることとなる。

 

序盤の数手は、互いに星や小目を占め合う穏やかな立ち上がりだった。

 

しかし、斎藤が右辺に黒陣を広げようと大場に石を打った瞬間、明日美の視界で異変が起きた。これまで複数の選択肢を示していた青い光が、突如として盤面の右上、斎藤が最初に打った黒石(星)のすぐ内側——『三々』の位置に、ただ一つだけ強烈に発光したのだ。

 

(えっ? ここ? もう入るの?)

 

漫画の知識しかない男でも、序盤のこんなに早い段階で相手の星の陣地に深く入り込む「ダイレクト三々」が、この時代においては「相手に厚み(外側の勢力)を与えてしまう愚策」として忌み嫌われていることくらいは知っていた。

 

しかし、KataGoが示す勝率は、この手を打つことで数パーセント跳ね上がると表示されている。

 

(……KataGo先生を信じるしかない!)

 

明日美は意を決して、序盤も序盤、わずか手数一桁の段階で、斎藤の星の下に白石を滑り込ませた。ダイレクト三々である。

 

「……はっ?」

 

目の前の斎藤が、思わずといった様子で鼻で笑った。

 

(なんだ今のポンコツな手は? 序盤からこんなところを這いつくばって、俺に外側の広大な勢力をくれようってのか? 奈瀬のやつ、頭がおかしくなったんじゃないのか?)

 

斎藤の顔には、明らかな侮蔑と勝利の確信が浮かんでいた。彼は定石通りに白石を押さえ込み、立派な黒の壁——「厚み」を築き上げた。明日美は隅のわずかな陣地(実利)を得ただけで、盤面全体を見れば黒の圧倒的有利に見えた。

 

だが、KataGoの評価値グラフは、すでに白(明日美)側にじわじわと傾き始めていた。

 

AIの真髄は、ここからだった。

 

斎藤が誇らしげに築き上げた黒の壁。それを活かして盤面中央を支配しようと意気込んだ斎藤の鼻先を折るように、KataGoは常軌を逸した手を連発し始めた。

 

青く光る指示に従い、明日美が石を置く。それは、相手の石に直接ぶつける『ツケ』であったり、全く関係のないように見える空間への『肩ツキ』であったりした。

 

「なっ……なんだその手は!?」

 

斎藤の表情から余裕が消え去っていく。彼が学んできた一九九〇年代の囲碁の常識、定石、形。そのすべてが通用しない。

 

明日美が打つ白石は、まるで水のように形を変え、斎藤が築いたはずの厚みを、あっという間に意味のない無用の長物——ただの石の塊(重い石)へと変えてしまったのだ。

 

(す、すげえ……)

 

打っている明日美(おっさん)自身が一番驚いていた。

 

視界に表示される勝率のパーセンテージが、一手ごとに白の勝利へと爆発的に急上昇していくのだ。60%、75%、88%……。

 

斎藤は必死だった。格下であるはずの奈瀬に、しかも序盤でセオリーを無視したような愚策を打った相手に、盤面を完全に支配されている。顔を真っ赤にして長考に沈み、必死に反撃の糸口を探る。

 

しかし、KataGoの演算能力を前にすれば、人間の思考など止まっているに等しい。

 

斎藤が渾身の勝負手を放つ。だが、明日美はノータイムでその攻撃を完璧に無力化する急所に石を打ち下ろす。まるで自分の思考がすべて筒抜けになっているかのような、絶対的な絶望感。

 

盤上では、白石が黒石を冷酷に包囲し、息の根を止めにかかっていた。もはや陣地を争うような次元ではない。斎藤の大石が、盤面のあちこちで分断され、生きるためのスペース(眼)を完全に奪われていた。

 

対局室の静寂の中、パチリ、パチリという明日美の小気味良い着手音だけが、死刑執行のカウントダウンのように響き渡る。

 

視界のホログラムが、ついに勝率『99.9%』を指し示した。

 

「……あり、ません……」

 

手元の時計が示す手数は、わずか八十五手。

 

斎藤は、握りしめていた黒石を碁笥に力なく戻し、深く頭を下げた。「ありません」——それは、これ以上打つ手がない、つまり投了(ギブアップ)の宣言であった。

 

「あ、ありがとうございました」

 

明日美は内心の動揺を隠しながら、ペコリと頭を下げた。

 

(勝った……? 終わったのか? なんで勝ったんだ? これが中押し勝ちってやつか?)

 

おっさんには、盤面の状況が全く理解できていなかった。ただ画面の指示通りに青い点をポチポチと押していたら、急に相手がギブアップしただけである。

 

「……奈瀬、なんだよ今の碁は」

 

対局が終わり、当然のように『検討(局後の振り返り)』が始まった。斎藤の顔は蒼白で、声はかすかに震えていた。

 

「序盤のあの三々は百歩譲っていい。だが、中盤のあのツケ! あんな手、どこの定石書にも載ってないぞ! どうしてあそこから俺の厚みを突破できたんだ!? 全部読んでたのか!?」

 

斎藤が盤面を指差しながら、食ってかかるように質問してくる。

 

明日美の背筋に冷たい汗が流れた。

 

(ヤバい、ヤバいヤバい! 読んでいるも何も、俺は言われた通りに石を置いただけで、なんであそこに置いたのか一ミリも理解してねぇっつうの!)

 

だが、ここで「わかりません」と言えば、あまりにも不自然すぎる。営業歴二十年のおっさんは、ここで長年培ってきた「会議で話を振られた時の誤魔化しスキル」を発動させることにした。

 

「……あのね、斎藤くん」

 

明日美は、少しアンニュイな表情を作り、盤面全体をぼんやりと見渡すような仕草をした。

 

「囲碁って、部分的な定石や形だけにとらわれちゃダメだと思うの。私はただ……盤面全体の『流れ』を感じて、石が一番輝きたい場所に置いてあげただけ。あのツケは、黒の厚みが『重い』って訴えかけてきたから、そこを少しだけ軽くしてあげようと思ったのよ」

 

「なっ……! 石が、輝きたい場所……!?」

 

斎藤は雷に打たれたように目を見開いた。

 

具体性が一切ない、ビジネス用語の「シナジー」や「パラダイムシフト」のようなフワッとした概念論。しかし、手も足も出ずに圧倒的に叩きのめされた直後の斎藤にとって、その言葉は、常人には到底到達し得ない高次元の囲碁の真理のように響いたのだ。

 

「流派や定石に縛られない……宇宙の真理のような直感……。俺は、なんて狭い世界で囲碁を打っていたんだ……」

 

斎藤はガックリと肩を落とし、完全に敗北を悟った顔で盤面を見つめ続けた。

 

(ふぅ……危なかった。完全に雰囲気だけで乗り切ったぞ……)

 

明日美は内心で冷や汗を拭いながら、小さく息を吐いた。KataGoというチート能力と、おっさんの長年の世渡りスキル。この二つが奇跡的な噛み合いを見せた瞬間だった。

 

こうして、奈瀬明日美(中身は四十二歳)の、院生としての初の手合は、嵐のような衝撃と周囲の困惑を残しつつ、かろうじて乗り切られたのであった。プロへの道は、まだ始まったばかりである。




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