ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい   作:高山 虎

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無敗の一組一位と、必死の女子中学生ムーブ

初めての対局で圧倒的な勝利を収めてから、早くも数ヶ月の月日が流れていた。

 

季節は巡り、道行く人々の服装もすっかりと様変わりしている。しかし、日本棋院の院生たちの間に吹き荒れる嵐は、収まるどころか日を追うごとにその激しさを増していた。

 

奈瀬明日美の肉体に四十二歳の冴えないサラリーマンの魂が宿って以来、彼女の快進撃は誰にも止めることができないものとなっていた。

 

それもそのはずである。盤面に向かい、美しい所作で碁石を打ち下ろしているのは確かに十四歳の少女の体だが、その着手を決定しているのは、彼女の脳内に鎮座する『KataGo』という名の未来の化け物なのだから。

 

二〇二〇年代、AIという言葉が世間に溢れ返り、ディープラーニングが極まった時代においてすら、KataGoは別格の存在だった。

 

人間が数千年かけて築き上げてきた囲碁の定石や理論をあざ笑うかのように超越したそのAIは、世界最強と謳われるプロのタイトルホルダーたちでさえ、二子から三子——目数にして二十目から三十目分にも相当する巨大なハンデキャップ——を置かなければ、勝ちの目すら見えないと言われている。

 

そんな未来の叡智の結晶が、プロの卵とはいえ、まだ成長途上の十代の子供たちに過ぎない院生たちを相手にして、遅れをとるはずがなかった。

 

今日もまた、週末の手合のために日本棋院の重厚なエントランスをくぐる奈瀬明日美の姿があった。彼女が廊下を歩を進めるたび、周囲の院生たちが道を開け、遠巻きにひそひそと囁き合う声が聞こえてくる。

 

「……おい、奈瀬だぞ。今日も勝つのか?」

 

「最近のあいつ、調子良すぎじゃないか? いくらなんでもおかしいよ」

 

「調子いいってレベルじゃないだろ……。あの碁は、もう神がかってる」

 

「ああ……打ってる手の大半が、俺たちの理解を完全に超えてるんだ」

 

かつては気安く声を掛け合っていた仲間たちからの、畏怖と困惑が入り混じった視線。

 

(……言われてる、言われてる。そりゃそうだよなぁ)

 

中身が四十二歳のサラリーマンである明日美は、表情には一切出さないように気をつけながら、内心で深いため息をついていた。

 

彼女の成績は、あの日から今日に至るまで『無敗』である。しかも、ただ勝っているだけではない。すべての対局において、百手以内に相手が絶望して投了する『中押し勝ち』を収めているのだ。

 

終盤の細かい陣地計算であるヨセに持ち込まれることすらなく、序盤から中盤にかけての圧倒的な構想力と、一切の妥協を許さない暴力的なまでの正確な読みで、相手の息の根を完全に止めてしまう。

 

その結果、かつては一組の中位から下位を行き来していた奈瀬明日美の院生順位は、当然のように、そして周囲が戦慄するほどの暴力的な速度で『一組一位』へと駆け上がっていた。

 

対局室に入ると、そこはすでに水を打ったような静けさに包まれていた。かつては対局前に和気あいあいと談笑していた院生たちも、今や絶対王者として君臨する明日美に対して、どう接していいか分からなくなっているようだった。

 

明日美は指定された自分の席——一組の最上位である一番窓際の特等席へと向かい、静かに腰を下ろした。

 

今日の対戦相手は、順位三位の伊角慎一郎である。真面目で温厚、そして院生の中でもトップクラスの実力を持つと目される年上の少年だ。中身のおっさんにとっても、漫画の読者としての記憶から伊角は非常に馴染み深く、好感を持てるキャラクターの一人であった。

 

席についた明日美を見るなり、目の前に座っていた伊角が、思い詰めたような表情で口を開いた。

 

「……なあ、奈瀬」

 

「ん? なに、伊角くん」

 

明日美は極力自然を装って小首を傾げた。

 

「最近、お前……変じゃないか?」

 

伊角の声には、隠しきれない焦燥と戸惑いが滲んでいた。彼の目は、目の前にいる少女が、自分たちの知っている奈瀬明日美ではない別の何かにすり替わってしまったのではないかと疑っているかのようだった。

 

「いや、強くなったと言うか……強すぎると言うか。急激に強くなりすぎた。昔のお前は、もっとこう、迷いながら石を打っていた。人間らしい弱さがあったはずだ。でも今の奈瀬の碁は、まるで血が通っていない機械みたいだ。どこでそんな打ち方を覚えたんだ? 一体、何をどう勉強すれば、そんなに急激に次元が変わるんだ?」

 

伊角からの、まっすぐで逃げ場のない質問攻め。

 

(ヒィッ! きたきたきた、またこれだ!)

 

明日美の中のおっさんは、内心で盛大に冷や汗をかきながら悲鳴を上げた。

 

「え、えーっと……そ、そうかなぁ? 自分じゃあんまり変わった気はしないんだけど……」

 

「そんなわけないだろ! お前の今の碁は、俺たちの常識を完全に破壊してる。あんな序盤での無茶な三々入りや、見たこともないツケ。誰に教わったんだ!?」

 

答えられるわけがない。脳内に未来のAIがインストールされているなどと口走れば、そのまま精神科送りにされるのがオチである。

 

そもそも、おっさん自身、囲碁の理屈など未だに全く理解していないのだ。最近になって、入門書を読んでようやく『星』や『小目』といった用語が盤面のどの位置を指すのかがぼんやりと分かってきた程度の、完全な素人なのである。

 

(ふーっ、焦るぜ……マジで勘弁してくれよ。囲碁のことなんて聞かれても、俺にわかるわけねぇっつうの!)

 

「うーん……なんていうか、ひらめき? 盤面を見ていると、石がここに置いてほしいって囁きかけてくるような気がして……。あとは、マクロな視点で盤面全体を俯瞰して、シナジー効果を生み出すようなダイナミズムを意識してるっていうか……」

 

営業職で二十年以上培ってきた、中身のない横文字と抽象的な言葉を並べ立てた『のらりくらり戦法』で、明日美はなんとかその場をやり過ごそうと試みた。

 

伊角は怪訝そうな顔で眉をひそめ、それ以上は何も言わずに深く息を吐いた。納得はしていないが、これ以上聞いても無駄だと悟ったのだろう。

 

ここのところ、和谷や伊角をはじめとする仲のいい院生仲間からは、常にこのような質問攻めに遭っていた。

 

相手も真剣にプロを目指しているからこそ、圧倒的な強者から少しでも何かを吸収しようと必死なのだ。その気持ちが痛いほどわかるだけに、適当なごまかししかできない男の良心はチクチクと痛み続けていた。

 

そのための苦肉の対策として、最近の明日美は対局が終わると、かつてのように仲間と感想戦(検討)を行うことなく、そそくさと荷物をまとめて即座に帰宅するのが習慣になってしまっていた。

 

それがさらに彼女の『孤高の天才』としてのミステリアスな噂に拍車をかけていることに、男自身は気づいていない。

 

(でも、やるしかないんだよなぁ……明日美ちゃんの夢を守るためには、俺がAIの力を使って勝ち続けるしかないんだ)

 

少し気が重くなりながらも、明日美はスッと姿勢を正した。

 

「時間です。対局を始めてください」

 

幹事の声が対局室に響き渡り、空気が一瞬にして張り詰めた。

 

「お願いします」

 

伊角と明日美の声が重なる。

 

握りの結果、伊角が先手である黒番を持った。パチリ、と伊角が第一手を右上隅の星に打ち下ろす。その瞬間、明日美の網膜に、いつものように近未来的な青白いホログラムグリッドが展開された。

 

『コミ設定:五目半』

 

『勝率:49%』

 

『目数差:-0.4』

 

『KataGo - Ready』

 

見慣れた光景だ。明日美は全く感情の動かない無機質な瞳で、盤面上に点滅する青い光——KataGoの『推奨手』を見つめた。

 

伊角の打ち筋は、彼の生真面目な性格をそのまま表したような、厚みを重視した本格的なものだった。一歩一歩、確実に陣地を築き、相手の隙を伺う重厚な碁。この時代の人間からすれば、お手本のように美しく、隙のない布石である。

 

だが、その程度の常識的な進行が、未来の怪物に通用するはずがない。

 

KataGoは、伊角が丹念に築き上げようとしている陣地の骨格に対して、序盤から信じられないほどの鋭い踏み込みを見せた。

 

三十手目。伊角が右辺に広大な黒の模様(陣地の候補)を築こうとしたその瞬間、明日美の視界で青い点が異常な位置で点滅した。それは、黒の勢力圏のど真ん中、まるで自殺行為にも等しいような空間への『カタツキ』であった。

 

(ええ……いくらなんでも、そこに打つのはヤバくないか?)

 

素人のおっさんですら一瞬躊躇するような手だったが、男は心を無にして、美しい所作で白石をそこに打ち下ろした。

 

パチリ。

 

その音が響いた瞬間、目の前の伊角の肩がビクッと跳ねた。

 

「なっ……!?」

 

伊角は目を剥き、食い入るように盤面を凝視した。常識で考えれば、敵陣の真っ只中にたった一子で飛び込むなど、すぐに包囲されて取られてしまうだけの愚策だ。伊角もそう判断し、怒りに似た感情を覚えながら、白石を飲み込もうと強烈な圧力をかける手を打った。

 

しかし、それこそがAIの描いた残酷なシナリオの始まりだった。

 

明日美が次に放ったのは、伊角の石に直接ぶつける強烈な『ツケ』。さらにその次は、全く関係のない左辺へのシチョウアタリ(別の場所での戦いを利用した囮の手)。

 

盤面のあちこちに散りばめられた白石が、まるで目に見えない糸で繋がっているかのように連動し始めたのだ。

 

伊角が右辺の白石を取ろうと必死に網を絞れば絞るほど、いつの間にか外側には白の鉄壁が築き上げられ、逆に伊角の黒石全体が身動きの取れない状態へと追い込まれていく。

 

視界に表示されるKataGoの勝率ゲージが、狂ったような勢いで白側に傾いていく。

 

『勝率:78%』『勝率:85%』『勝率:96%』

 

たった数手の攻防で、互角だったはずの形勢は絶望的なまでの大差へと開いていた。

 

(……なんだこれは。どうなっている? なぜ俺の石は息をしていない?)

 

伊角の顔から血の気が引き、額から滝のような汗が流れ落ちる。盤面を見つめる彼の瞳には、純粋な恐怖が宿っていた。

 

自分が信じてきた囲碁の理論が、手も足も出ないまま、まるで赤子の遊びであったかのように否定されていく。打つ手打つ手がすべて裏目に出る。

 

奈瀬明日美という少女の向こう側に、底知れぬ深淵、人間ではない何か巨大な化け物が口を開けて笑っているような錯覚すら覚えた。

 

石を持つ伊角の手が、小刻みに震えている。

 

明日美の中のおっさんは、それを見て激しく胸を痛めた。

 

(ごめん、伊角くん。本当にごめん。俺も何が起きてるのかサッパリわかってないんだ……)

 

心の中で土下座しながら、明日美は容赦なく、KataGoが示す『最も勝率の高い、最も残酷な一手』を淡々と打ち下ろし続けた。

 

そして、七十八手目。盤面中央で、伊角の主戦力である黒の大石が、完全に二眼(生きるためのスペース)を奪われ、即死していることが誰の目にも明らかとなった。

 

伊角は数分間、虚空を見つめたまま完全に固まり、やがて絞り出すような枯れた声で呟いた。

 

「……負けました」

 

対局終了。圧倒的な、蹂躙とすら呼べる内容でのKataGoの圧勝であった。

 

「ありがとうございました」

 

明日美は相手への敬意を示すように深々と頭を下げた。伊角はまだ敗北のショックから抜け出せず、呆然と盤面を見つめたまま動こうとしない。

 

周囲の対局もまだほとんど終わっていないというのに、信じられないスピードでの決着だった。他の院生たちが、またしても始まった常軌を逸した虐殺劇に、恐怖の視線を向けてくる。

 

これ以上ここにいては、また「あそこはどういう意図だったんだ」という地獄の検討(感想戦)が始まってしまう。

 

明日美は弾かれたように席を立ち、逃げるように荷物をひったくった。

 

「あ、あの、私ちょっと急用があるから! お疲れ様でした!」

 

伊角が何かを言いかける前に、明日美は嵐のように対局室を飛び出していた。エレベーターに駆け込み、日本棋院の重厚なエントランスを抜けて外の空気を吸い込んだ瞬間、明日美は深く長く、溜め込んでいた息を吐き出した。

 

「ふう……なんとか今日も質問攻めからは逃げられたな……」

 

中身がおっさんであることを隠す必要もない一人の空間で、少女の口から疲労困憊の独り言が漏れる。精神的な疲労で、今すぐガード下の赤提灯に飛び込んで冷えたビールをあおりたい気分だったが、この体では自動販売機のリンゴジュースを買うのが関の山である。

 

そうして日本棋院を出ようと歩道に足を踏み出した、その時だった。

 

背後から、妙な気配を感じた。

 

いや、気配という生易しいものではない。まるで古いカビの匂いと、線香の香りが混ざったような、まとわりつくようなネットリとした重圧感。初夏の陽気にもかかわらず、背筋に冷たい氷を押し当てられたかのような悪寒が走った。

 

すれ違いざまに、声がかけられた。

 

「むっ」

 

低く、しわがれた、しかしどこか底知れぬ威厳を秘めた嗄れ声。

 

「そこの嬢ちゃん」

 

ピタリ、と明日美の足が止まる。

 

恐る恐る振り返った明日美の視界に飛び込んできたのは、まるで時代錯誤な妖怪のような風貌をした小柄な老人の姿だった。

 

古風な和装に身を包み、頭にはツバの広い帽子。深く刻まれた顔の皺の奥から、蛇のように鋭く光る眼光が、明日美を射抜いていた。

 

(……えっ?)

 

明日美の中のサラリーマンの記憶が、瞬時に目の前の人物を特定した。

 

(嘘だろ……漫画で見たまんまだ。あれは……)

 

現在の囲碁界の頂点に君臨するタイトルホルダーの一人。盤上の心理戦において右に出る者はなく、その老獪な打ち回しと不気味な存在感から、多くの棋士に恐れられている生ける伝説。

 

桑原本因坊、その人であった。

 

「ふむ……」

 

桑原は帽子に手を添えながら、杖をつき、じろじろと舐め回すように明日美の全身を観察してきた。その視線は、ただの少女の姿を見ているのではなく、彼女の肉体の奥底、魂の形までをも透かし見ようとしているかのように鋭かった。

 

(ど、どうしよう……! さすがにタイトルホルダー、しかも大御所中の大御所に、無視して逃げるような失礼なことはできないぞ……! 営業マンとしての礼儀作法が、それを許さない!)

 

内心で大パニックに陥りながらも、明日美はなんとか顔を引きつらせて作り笑いを浮かべた。

 

桑原はニヤリと、シワだらけの顔を歪めて笑った。

 

「嬢ちゃん、名はなんという?」

 

「えっ……奈瀬、奈瀬明日美です。日本棋院の院生をやらせてもらってます……」

 

「奈瀬……ふむ、聞いたことがあるな。最近、院生で無敗のバケモノがおるという噂をな。それがお主か」

 

桑原は一歩、明日美に歩み寄った。老人の放つ異様なプレッシャーに、明日美は思わず後ずさる。桑原は目を細め、顔を近づけて、確信に満ちた声で囁いた。

 

「お主……何かついておるな?」

 

ビクンッ!! と、明日美の心臓が早鐘のように跳ね上がった。

 

(そうだ!! 思い出した!!)

 

男の脳内で警報が鳴り響く。

 

(この桑原先生、原作の漫画でもシックスセンスが抜群なキャラクターだったじゃないか!!)

 

見抜かれている。中身が別人の冴えないおっさんであることも、脳内に未来のAIという化け物を飼っていることも、この妖怪のような老人の目には、何らかの異常な気配として察知されているのだ。

 

「なっ、何言ってるんですか桑原先生! ついてるって、幽霊とかそういうの!? やだなぁ、私そういうの全然信じてないし! 怖いこと言わないでくださいよー!」

 

明日美は咄嗟に、過剰なほどに思春期の女子中学生らしいリアクションを作って、両手をブンブンと振って見せた。

 

「私、これから塾の自習室に行って勉強しなきゃいけないんで! それじゃ、失礼しますっ!!」

 

言うが早いか、明日美は脱兎のごとく背を向け、全速力で駅の方向へと駆け出した。これ以上あの老人の前にいれば、魂の底まで見透かされて、すべてを暴かれてしまうという本能的な恐怖があった。

 

逃げ去っていく少女の小さな背中を、桑原は追いかけることもせず、ただその場に立ち尽くして見送っていた。

 

初夏の風が、桑原の和装の裾を小さく揺らす。

 

「……ほう」

 

桑原は帽子を深く被り直し、杖をつきながら、ニチャリと楽しげな笑みをこぼした。

 

「面白そうな嬢ちゃんじゃの……」

 

桑原は目を細め、虚空を見つめるように独り言ちた。

 

「古き良き霊気ではない。もっと無機質で、冷徹で……底なしに深く恐ろしい何か。まるで、意思を持たない冷徹な機械が体にでも宿ったかのような気配じゃ」

 

クックッ、と喉の奥で笑い声を転がしながら、桑原は日本棋院の立派な看板を見上げた。

 

「これからの囲碁界、ますます退屈しなくて済みそうじゃわい」

 

そう低く呟きを残し、妖怪のような老人は、ゆっくりとした足取りで日本棋院の暗いエントランスの中へと消えていった。

 

奈瀬明日美と名乗る少女——その内面に潜む四十二歳の男と未来のAI——が、日本囲碁界の頂点を揺るがす特異点となる日は、そう遠くはない未来に迫っていた。




ご一読ありがとうございます!

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本作は全15話で完結まで執筆済みです。
毎日20:11に更新しますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです!

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