ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい   作:平平平

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孤高の天才少女、コアコンピタンスを語る

妖怪のような凄みを放つタイトルホルダー、桑原本因坊との出会いから、季節は足早に過ぎ去っていった。

 

木々の葉が色づき、やがて冷たい秋の風が市ヶ谷のビル群を吹き抜けるようになる頃、日本囲碁界は年に一度の最も過酷な季節、すなわち「プロ試験」の熱気に包まれていた。

 

プロ棋士になるための狭き門。年齢制限に追われ、人生のすべてを盤上に懸けてきた若者たちが、自らの未来と存在意義を懸けて血みどろの星の潰し合いを行う、地獄のサバイバルレースである。

 

しかし、今年のプロ試験本戦の空気は、例年のようなヒリヒリとした拮抗状態とは全く異なっていた。

対局室に充満していたのは、熱気や闘志ではなく、絶対的な『絶望』と『恐怖』であった。

 

その中心に座しているのは、一人の少女だった。

 

奈瀬明日美。彼女は院生順位堂々の第一位という圧倒的な成績を引っ提げ、予選を免除されてこの本戦リーグから参加していた。

 

だが、周囲の受験者たちが彼女に向ける視線は、もはやライバルに向けるそれですらなかった。理解不能のバケモノ、あるいは盤上に顕現した意思を持たぬ冷酷な神を見るような、畏怖と戦慄の眼差しだった。

 

パチリ、と静寂の対局室に、明日美が白石を打ち下ろす小気味良い音が響く。

 

「なっ……!?」

 

目の前に座る少年——和谷義高が、顔面を蒼白にして息を呑んだ。和谷の持ち味である軽快で攻撃的な打ち回しは、明日美の打ったたった一手の『肩ツキ』によって、完全に分断され、宙に浮いてしまっていた。

 

常識的な定石や、これまでに何万回と打たれてきた手筋が、彼女の前では一切通用しない。和谷が渾身の勝負手を放っても、明日美は表情一つ変えることなく、ノータイムで最も残酷な急所へと石を打ち返してくる。

 

数十分後、和谷は自身の陣地が完全に崩壊していることを悟り、震える手で頭を抱えたまま「負けました」と投了を告げるほかなかった。

 

別の日には、院生トップクラスの実力を持つ伊角慎一郎が彼女の前に座った。

 

伊角は厚みを重視した本格的な碁で、明日美の不可解な動きを封じ込めようと試みた。しかし、明日美の視界には常に未来の超絶AI『KataGo』のホログラムが展開されており、盤面には勝率を極限まで高める青い光がチカチカと点滅している。明日美の体を借りている四十二歳のおっさんサラリーマンは、ただその光の指示に従って、右へ左へと石を運ぶだけだった。

 

伊角が築いた分厚い壁は、明日美の不可解なツケやハネによってあっという間に無力化され、気づけば伊角の大石は盤面の中央で完全に息の根を止められていた。

 

「……ありません」

 

血の気を失った唇から、伊角が投了の言葉を絞り出す。

 

受験者たちは、次々と自分たちの夢を無慈悲に粉砕していく奈瀬明日美を前に、完全に心をへし折られていた。

 

「おかしい……あいつの碁は、人間が打つ碁じゃない……」

 

「どこからあんな手を読んでいるんだ? 最初から最後まで、盤面すべてが奈瀬の掌の上で踊らされているみたいだ……」

 

「理解不能のバケモノだ……今年の合格枠は、実質一つ減ったのと同じだ……」

 

休憩室では、青ざめた顔の受験者たちが、亡霊にでも出会ったかのようにヒソヒソと囁き合っていた。

 

しかし、そんな周囲の恐怖とは裏腹に、明日美の内面にいるおっさんサラリーマンは、対局中ずっと冷や汗を流し、心の底から平謝りし続けていた。

 

(ごめん! 本当にごめん和谷くん! 伊角くん!)

 

おっさんは、彼らがどれだけ真剣にプロを目指し、血の滲むような努力をしてきたかを、漫画の読者としての記憶から痛いほど知っていた。彼らの碁に対する情熱を踏みにじるような真似をしていることに、強烈な罪悪感を抱いていたのだ。

 

(俺だってこんなことしたくないんだ! でも、この KataGo 先生の指示通りに打たないと、俺はルールもろくに分からない素人なんだよ! 明日美ちゃんの体を預かっている以上、全戦全敗でプロの道を閉ざすわけにはいかないんだ……! 許してくれ、本当に申し訳ない!)

 

外見は氷のように冷徹で美しい天才少女。しかしその中身は、未来の若者たちの夢を無慈悲に刈り取っていく自分自身の行為に耐えきれず、目に見えない土下座を繰り返している四十二歳のしがない営業マンであった。

 

かくして、奈瀬明日美はプロ試験本戦リーグにおいて、前代未聞の戦績を叩き出した。

 

全勝。しかも、そのすべての対局が百手以内の『中押し勝ち』。

 

相手に終盤の陣地計算(ヨセ)まで持ち込ませることすら許さず、序盤から中盤の圧倒的な読みの暴力で、すべての対局をねじ伏せたのである。

 

最終戦の相手が力なく頭を下げ、明日美のプロ入りが正式に決定した、まさにその瞬間のことだった。

 

パァン……!

 

明日美の網膜に展開されていたKataGoの青白いホログラムが、突如として眩い光を放ち、画面の中央に新たな文字列が浮かび上がった。

 

『実績解除:プロ試験全勝合格により【検討モード】を解放します』

 

(……ん? なんだこれ?)

 

対局を終え、周囲の畏怖の視線を浴びながらも、明日美(おっさん)の意識はその謎のシステムメッセージに釘付けになっていた。これまではただ『勝率』と『推奨手』が青く光るだけのシンプルなインターフェースだったが、何やら新たな機能がアンロックされたらしい。

 

その日の夕方。逃げるようにして日本棋院から帰宅した明日美は、自室のベッドに鞄を放り投げるなり、部屋の片隅に鎮座する立派な碁盤の前にドカッと座り込んだ。

 

「さて、これがなんだか調べないとかないとな……」

 

少女の可憐な口調とは裏腹に、おっさん臭い独り言を呟きながら、明日美は盤面に視線を落とす。すると、いつものようにKataGoの半透明のホログラムが空間に浮かび上がった。

 

しかし、画面の構成が以前とは少し変わっていた。視界の右下の端に、新しく『検討モード』と書かれた小さなアイコンが追加されているのだ。

 

明日美は空中に指を伸ばし、そのアイコンを軽くタップする動作をした。ピピッ、と電子音が脳内に響き、ホログラムの表示が劇的に変化した。

 

「うおおっ……なんだこりゃ!?」

 

明日美は思わず目を丸くした。

 

検討モードが立ち上がると、盤面上には現在の局面(今は空の盤面だが)から予想される数十手先までの『最善の進行ルート(シミュレーション)』が、半透明の石の幻影として枝分かれしながら表示され始めたのだ。

 

さらに、もし自分が推奨手以外の場所に石を置いた場合、勝率がどれくらい急降下するかを示す『悪手判定(赤いマイナス数値)』や、相手がこう打ってきたらこう返すという『変化図』までが、詳細なパーセンテージとともに可視化されている。

 

つまり、なぜその手が最善なのか、なぜ相手の手が悪かったのかという「理由」と「その後の展開」が、視覚的なデータとして完全に網羅されているのである。

 

「おお……おおおおっ!! これ、すげえぞ!!」

 

明日美の中で、おっさんが歓喜の雄叫びを上げた。

 

「これと、俺の営業マン時代に培った『抽象的なフンワリした受け答え』を合わせれば、今までずっと逃げ回っていた【感想戦】に対応できるじゃないか!!」

 

そう、プロの囲碁界において、対局後に行われる感想戦(検討)は、単なる反省会ではない。互いの読みの深さをぶつけ合い、より高い次元の真理を追求するための神聖な儀式である。

 

プロになることが決まった明日美にとって、囲碁のルールすら怪しい素人のおっさんが、トッププロたちを相手に高度な感想戦を行えるかどうかは、文字通りの『死活問題』であったのだ。

 

「よし……検討モードで表示された『この先の変化図』を見ながら、『私はこう進行する未来が見えていたのよ。だからここが急所だったの』ってドヤ顔で言えばいいんだな! あとはビジネス用語のパラダイムとかアジェンダとか適当な言葉で煙に巻けば、完全に孤高の天才プロフェッショナルとして誤魔化し通せるぞ!」

 

最大の懸念事項がクリアされたことで、おっさんは安堵のあまり畳の上に大の字になって転がった。

 

数日後。

 

『十四歳の少女が、前代未聞の全勝・全中押し勝ちという圧倒的成績を残し、プロ試験に合格した』というニュースは、囲碁界という狭い枠組みを軽々と飛び越え、社会現象として日本中を席巻していた。

 

普段は新聞の片隅の囲碁欄にしか載らないような話題が、一般紙の第一面をデカデカと飾り、朝のワイドショーや夕方のニュース番組でも連日のように大々的に取り上げられた。

 

『新時代の天才少女、歴史を塗り替える全勝合格!』

 

『盤上のシンデレラ、低迷する囲碁界に舞い降りた女神!』

 

世間は、突如として現れた若く美しい天才少女の話題に沸き立っていた。

 

そんな中、ある有名なトッププロ棋士が、大手新聞の単独インタビューに対して、冷や汗を流しながらこう答えたという記事が掲載された。

 

「……信じられないことです。プロ試験を通して、彼女はただの一度も『ヨセ(終盤)』勝負になりませんでした。これは、囲碁というゲームの性質上、理論的にあり得ないことなのです。彼女の中盤までの構想力と読みの正確さは、我々トッププロを含めても、完全に別の次元にいると言わざるを得ません。彼女の残した碁譜は、現代の碁の教科書をすべて書き換えてしまうかもしれない……我々は今、歴史の転換点に立ち会っているのです」

 

さらに、囲碁の歴史に詳しい有識者たちは、テレビ番組で興奮気味にこう語った。

 

「これほどの圧倒的な成績を残したのは、幕末に御城碁で十九戦全勝という不滅の記録を打ち立てた天才『本因坊秀策』や、昭和の初めに新布石を打ち立て大手合で十数連勝を飾った『木谷實』クラスしか存在しません。現代のレベルが上がったこの時代にそれを達成した奈瀬新初段は、間違いなく歴史上の大天才たちと並ぶ、あるいはそれ以上の『神童』であると断言できます!」

 

奈瀬明日美という名は、あっという間に日本中が知る新星となっていた。

 

プロ入り決定から一週間後の朝。自室で目を覚ました明日美は、窓の外から聞こえてくる異様な喧騒に気づき、そっとカーテンの隙間から外をうかがった。

 

「うわぁ……マジかよ」

 

思わず低い声が漏れる。

 

明日美の自宅である一軒家の前には、テレビ局のカメラマンやマイクを持ったリポーター、そして多数の新聞記者が、黒山の人だかりを作って待機していた。家の前の細い路地が、報道陣の熱気で完全に埋め尽くされている。

 

さながら、現代の日本において史上最年少でプロデビューを果たし、連勝記録を打ち立てたあの将棋の若き天才棋士の時のような、異常な報道の過熱ぶりであった。

 

「おいおい、俺はただの中学二年生(外見は)だぞ……どうやって学校に行けばいいんだよ」

 

しかし、ここで怯んで引きこもるような四十二歳ではない。長年、クレーマー対応や飛び込み営業で鍛え上げられた鉄のメンタルと、処世術がある。明日美は洗面所で丁寧に寝癖を直し、中学生らしく清楚で、しかしどこか芯の強さを感じさせる完璧な笑顔を鏡の前で作った。

 

「よし。営業モード、オン」

 

玄関のドアをガチャリと開けた瞬間、待ってましたとばかりに無数のフラッシュが焚かれ、マイクが一斉に突き出された。

 

「奈瀬さん! プロ入りおめでとうございます! 今のお気持ちを一言!」

 

「全勝での合格、歴史的な快挙ですが、ご自身ではどう捉えられていますか!?」

 

矢継ぎ早に飛んでくる質問に対し、明日美は慌てることなく、深々と、そして流れるような美しい動作で一礼した。

 

「本日は朝早くから、皆様ご苦労様です。奈瀬明日美です」

 

その落ち着き払った、十四歳とは思えない堂々たる振る舞いに、報道陣が一瞬静まり返る。

 

「この度のプロ試験合格は、私一人の力ではなく、これまでご指導いただいた棋院の先生方、そして切磋琢磨してきた院生の仲間たちのおかげだと、深く感謝しております」

 

完璧な謙譲の美徳。しかし、その言葉の裏には微塵の隙もない。

 

「全勝という結果には私自身も驚いておりますが、盤上においては常に『最善のシナジー』を追求し、石たちが最も輝ける『ビジョン』を提示し続けた結果だと考えております。まだまだ未熟者ではございますが、これからも囲碁の真理という名の『コアコンピタンス』を開拓していく所存ですので、温かく見守っていただければ幸いです」

 

意味の分からないビジネス用語がいくつか混ざっていたが、その凛とした佇まいと自信に満ちたオーラに呑まれ、記者たちは「ははぁ……なるほど」と感嘆の声を漏らし、熱心にメモを取っていた。

 

「それでは、私はこれから学校がありますので、これで失礼いたします。生徒としての本分も全うしなければなりませんので」

 

見事なスマイルを振り撒きながら、明日美は報道陣が自然と開けた道を優雅に歩き出し、中学校へと登校していった。その堂々たる対応力は、さらなる「大物感」として夕方のニュースで絶賛されることになるのだった。

 

その頃、奈瀬明日美の圧倒的なプロ入りのニュースは、日本囲碁界の頂点に君臨するトッププロたちの間にも、巨大な地震のような揺さぶりをかけていた。

 

高級ホテルのラウンジ。スーツ姿の緒方精次九段は、スポーツ紙に掲載された明日美の棋譜を睨みつけながら、苛立たしげに火のついたタバコを灰皿に強く押し付けた。

 

「……馬鹿な。この中盤のフリカワリ……どう読めばこんな手をノータイムで打てる? あの小娘、いったい何者だ……?」

 

普段の冷静沈着な緒方の額には、脂汗が浮かんでいた。彼の持つ合理的な計算をすべて嘲笑うかのような、次元の違う着手。彼は本能的に、自らの地位を脅かす巨大な天敵の出現を警戒していた。

 

一方で、甘いケーキを山のように抱え込んでいた若手実力派の倉田厚五段は、雑誌に載っていた明日美の碁譜を見た瞬間、フォークを口に運ぶ手をピタリと止めた。

 

「…………」

 

いつもはおどけている倉田の目が、真剣な棋士のそれに変わる。

 

「……見えない。この子の読んでる深さが、俺には全く見えない。これ……本気でバケモノなんじゃないの……?」

 

冷や汗を流しながら、倉田は無意識のうちにケーキの皿をそっと遠ざけた。

 

そして、日本囲碁界の頂点、絶対的な最強のタイトルホルダーである塔矢行洋名人は、自宅の縁側で静かに目を閉じ、深く息を吐いていた。

 

「奈瀬……明日美か」

 

彼の周囲には、研ぎ澄まされた日本刀のような鋭い気迫が満ちていた。歴史的な神童の出現。それは、頂点に立つ者にとっての最大の脅威であり、同時に、停滞していた囲碁界に嵐を巻き起こす最大の期待でもあった。

 

日本棋院の薄暗い廊下では、小柄で妖怪のような風貌の老人——桑原本因坊が、カカカッ、と腹の底から響くような不気味な笑い声を上げていた。

 

「ほっほっほ……やりおったわい、あの嬢ちゃん。プロ試験全勝の中押し勝ちじゃと? 冗談も大概にせえよ」

 

桑原は帽子を深く被り直し、ニヤリとシワだらけの顔を歪める。

 

「囲碁界の勢力図が、根底から覆るかもしれんのう……。早ければ二、三年で、七大タイトルのどれかを奪取しにくるかもしれん。いやはや、年寄りの血が騒ぐというものじゃ」

 

日本囲碁界に突如として舞い降りた、未来の頭脳を持つ美少女。彼女の異常すぎる強さに対する恐怖と、新たな時代への期待が渦巻く中。

 

奈瀬明日美(中身は四十二歳のおっさん)の、波乱と胃痛に満ちたプロ棋士としての生活が、今ここに幕を開けたのであった。




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本作は全15話で完結まで執筆済みです。
毎日20:11に更新しますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです!

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