ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい 作:平平平
プロ試験という、若き才能たちが自らの人生と存在意義を懸けて血みどろの星の潰し合いを行う地獄のサバイバルレース。それを見事、全勝かつ全対局百手以内の中押し勝ちという日本囲碁史を揺るがす歴史的な快挙で駆け抜け、奈瀬明日美は正式にプロ棋士としての切符を手にした。
しかし、プロ試験に合格したからといって、決して暇になるわけではない。むしろ、本当の戦いと多忙な日々はここから始まるというのが、囲碁界の常識であった。
通常の新人棋士であれば、合格の余韻に浸る間もなく、圧倒的なスケジュールの波に飲み込まれることになる。
まず何よりも優先されるのが、先輩のプロ棋士たちが自主的に開催している『研究会』への参加である。デビュー前から第一線で活躍するプロたちと盤を挟んで実戦感覚を磨き、局後の検討で己の弱点を洗い出すことになる。
そして自宅に帰っては、一人で形勢判断の訓練や最新の布石の研究に没頭する。プロの最先端の手法を学び、自らの棋力を少しでも引き上げるために、文字通り寝る間を惜しんで碁盤に向かい続ける日々が待っているのだ。
それに加えて、プロ活動を始めるにあたって必要な事務手続きも山のように存在する。日本棋院へ提出する膨大な書類の作成、身元保証の手続き、そして翌年四月に控える華々しい『入段式』に向けた準備や、新初段シリーズと呼ばれる記念対局の段取りなど、雑務は尽きない。
さらに、明日美のように「歴史的快挙を成し遂げた美少女天才棋士」として世間の異常なまでの注目を集めている場合、メディアの取材対応という大仕事も加わる。
一般の新聞社からテレビのワイドショー、そして「碁ワールド」や「週刊碁」といった囲碁専門誌からのロングインタビュー。カメラマンの要求に合わせて笑顔を作り、記者からの質問に気の利いたコメントを残すという、盤上の勝負とは全く別のエネルギーを激しく消費する仕事が次々と舞い込んでくるのだ。
だが、それらすべての要素を勘案したとしても、新人棋士の生活の大部分を占めるのは、やはり日常的な勉強と研究会への参加である。実力を磨き続けることこそが、プロ棋士の最大の責務だからだ。
しかし——。
奈瀬明日美の肉体を間借りしている四十二歳のしがないサラリーマンの魂にとって、その常識は全く当てはまらない。
結論から言えば、明日美は現在、圧倒的に時間に余裕があった。いや、暇を持て余していると言っても過言ではない。
なぜなら、彼女(中身はおっさん)は、自分自身で囲碁の研究など一切行う必要がないからである。
盤面での着手は、すべて脳内に潜む『KataGo』という未来の超絶AIが青い光で指示してくれる。どれほど複雑な局面になろうとも、AIが瞬時に数億回のシミュレーションを行い、最も勝率の高い「神に最も近い一手」を提示してくれるのだから、自力で定石を覚えたり、詰碁を解いたりする努力など無意味である。
プロ棋士としての死活問題であった局後の検討(感想戦)も、プロ試験全勝という実績によって解除されたKataGoの『検討モード』のおかげで、完全に解決済みであった。検討モードが提示する何手も先までの変化図を、長年の営業職で培った「イノベーション」や「ボトルネック」、「マイルストーン」といった中身のないビジネス用語を駆使してフンワリと相手を煙に巻くことで、完璧に乗り切る術を身につけてしまっていたのだ。
周囲のプロたちは、その抽象的すぎる言葉の中に「常人には理解できない高次元の真理」を勝手に見出し、勝手に感服してくれるようになっていた。
事務手続きは、大人としての社会経験を活かしてあっという間に終わらせることができた。メディアのインタビューも、得意の営業スマイルと無難なテンプレ回答でサラリとこなしている。
結果として、プロ試験が終わってからというもの、勉強も研究会への参加もしない明日美の日常には、巨大な空白の時間がぽっかりと空いてしまっていたのである。
冷たい木枯らしが市ヶ谷の街路樹を揺らし始めた、十二月に入ったある日のこと。パステルカラーの壁紙に囲まれた自室のベッドで、明日美は天井を見上げながらゴロゴロと寝転がっていた。
「はぁ……憂鬱だ……」
少女の可憐な唇から、深いため息とともにおっさん臭い独り言が漏れる。
プロ入りが決まり、世間からは新時代の天才ともてはやされているというのに、明日美の心は重く沈んでいた。ふと、四月に正式にデビューした後のプロ棋士としての日常をリアルに想像してしまったからだ。
「対局は別にいい。カタゴ先生の言う通りに石を置けば、誰が相手でも無双できる。検討も、もうコツを掴んだから問題ない。……でも、プロになったら『あれ』をやらなきゃいけないんだよな……」
明日美が頭を抱えている問題。それは、プロ棋士に課せられる「対局以外の業務」についてであった。
プロ棋士の収入源は、決して手合(公式戦)の対局料や賞金だけではない。特にデビューしたての新人棋士や、タイトルの手が届かない中堅棋士にとって、普及活動や指導の仕事は非常に重要な資金源であり、囲碁界を支える屋台骨でもある。
例えば、日本棋院が主催するアマチュア大会での審判員や、週末に各地で開催される子供向けの囲碁フェスティバルの指導員。あるいは、棋院が開催している一般向けの入門講座の助手といった仕事である。
そして何より、多くの新人棋士は個人の人脈や棋院からの斡旋で、『指導碁(多面打ち)』の仕事を請け負うことになる。
そう、指導碁である。
街の囲碁サロン(碁会所)や各種イベントに赴き、囲碁を愛するアマチュアファンを相手に対局をする。その際、プロとアマチュアでは実力差がありすぎるため、アマチュア側にハンデとして数個の石をあらかじめ置かせてから(置き碁)対局を始めるのだ。
そして、対局中や局後に「ここはこう打ったほうが良かったですよ」「筋がいいですね」などと優しくアドバイスを伝え、相手の長所を引き出しながら囲碁の楽しさを教えてあげる。それが指導碁という仕事の本来の姿である。
「……無理だろ。どう考えても」
明日美はベッドの上で頭を抱え、身悶えした。
この指導碁という仕事は、現在の明日美にとって到底不可能なミッションであった。
理由は単純明快である。明日美(KataGo)には、相手の実力に合わせて『手加減する』という機能が一切備わっていないのだ。
もし、KataGoの指示通りに指導碁を打てばどうなるか。
相手がどれだけハンデ(置き石)をもらおうと、未来の最高峰AIは一切の慈悲を見せない。
KataGoの思考ルーチンには「相手を楽しませる」とか「良い勝負を演出する」といった概念は存在しない。あるのはただ一つ、「最も効率的かつ残酷な手段で盤面を制圧し、勝利を最大化する」ことだけだ。
アマチュアのささやかな陣地を無慈悲に蹂躙し、隙あらば大石を皆殺しにしてしまうだろう。指導碁を楽しみにやってきたおじいちゃんや囲碁教室の子供たちを、圧倒的な絶望のどん底に叩き落とし、二度と碁石を握りたくなくなるほどの深いトラウマを植え付けることになるのは火を見るより明らかであった。
では、KataGoを使わずに、中身の四十二歳のおっさんが自力で打てばどうなるか。
最近になってようやく『星』や『小目』といった用語を覚えたばかりの、ド下手くそな素人がプロの顔をして石を打つのである。アマチュアの高段者どころか、ちょっと囲碁を齧った程度のおじさんにすらボロ負けし、「なんだこの新段、全然強くないじゃないか。置き石なんていらないぞ」と大恥をかくことになる。それどころか、基本的なルール違反すら犯しかねない。
天才美少女棋士としてのメッキは瞬時に剥がれ落ち、「奈瀬明日美の強さは不正によるものだ」という疑惑が日本中に広まるだろう。
「KataGoでボコボコにしてアマチュアを泣かせるか、俺が自力で打ってボロ負けして天才のメッキを剥がされるか……究極の二択すぎる。どちらを選んでも地獄の結末しか待っていないじゃないか……」
明日美は枕に顔を押し付けて呻いた。
「いっそのこと、棋院から来る普及活動や指導碁の仕事を、全部断り続けるか? ……いや、それは絶対にマズい」
男の脳内で、長年培ってきたサラリーマンとしての危機管理センサーが激しく警鐘を鳴らした。
プロの世界も、結局のところ人と人との繋がりによって構築されている組織社会である。デビューしたての新人——しかも類まれな成績で入段し、将来を嘱望されているスター候補が、ファンサービスや普及活動を「忙しい」とか「気が乗らない」などと理由をつけて片っ端から拒否し続ければ、棋院の上層部や先輩棋士たちからの印象は最悪になるだろう。
「あいつは強さを鼻にかけて天狗になっている」「ファンを大切にしない生意気な小娘だ」「組織の輪を乱す異端児だ」とレッテルを貼られれば、プロとしての居場所がどんどん狭くなってしまう。将来的には干されてしまい、最悪の場合、組織にいづらくなって引退に追い込まれるかもしれない。
営業マンとして長年社会の荒波に揉まれてきたおっさんには、その組織の論理と恐ろしさが痛いほどよく分かっていた。
「……うーん、どうすればいいんだ……」
ベッドの上でゴロゴロと転がりながら、明日美は必死に解決策を模索した。
その時、ふと一つの考えが閃いた。
「あっ、そうだ! 俺の頭の中には、奈瀬明日美ちゃん自身の十四年間の『記憶』があるじゃないか!」
明日美は跳ね起きるように身を起こした。
憑依した当初、激しい頭痛とともに流れ込んできた奈瀬明日美の人生の記録。その中には、彼女が幼い頃から碁盤に向かい、何万局と打ってきた対局の記憶が、膨大な映像データとしてしっかりと保存されている。
「俺自身は素人でも、明日美ちゃんがどうやって石を打っていたか、相手の定石に対してどう返していたかの記憶を引っ張り出して、その通りにトレースすればいいんだ! トッププロ相手には到底通用しなくても、アマチュア相手の指導碁なら、院生レベルの碁が打てれば十分すぎるはずだ!」
天才的な閃き(と本人は思った)に小躍りしながら、明日美は部屋の片隅にある本格的な碁盤の前に座った。
「よし、試しに自力で一局、頭の中の架空の相手を想定して打ってみよう。カタゴ先生、今回はお休みで頼むぜ」
視界の隅に浮かぼうとする青いホログラムを意識的にシャットアウトし、明日美は碁笥から白石を一つ掴んだ。指先が自然と美しいフォームで石を挟み込むのは、少女が持つ肉体の記憶のおかげだ。
「まずは右上星から……」
パチリ、と石を置く。ここまではいい。記憶の中の明日美も、よく星から打ち始めていた。架空の相手が左下に黒石を置いたと想定し、今度は左上に白石を置く。
「うんうん、いいぞ。明日美ちゃんの記憶にある布石通りだ。俺、いけるんじゃないか?」
序盤の十手ほどは、記憶の引き出しから「よく見る形」を引っ張り出して並べることで、なんとなくそれっぽい盤面を作り上げることができた。
しかし、中盤に差し掛かかり、盤面での石同士の接触戦が始まった途端、明日美の手はピタリと止まってしまった。
「えーっと……相手がここにツケてきたら、明日美ちゃんはどうしてたっけ……? ハネるんだっけ? それともノビるのか?」
頭の中の記憶を必死に検索する。確かに、似たような局面の映像はいくつも浮かんでくる。しかし、それぞれの対局で、明日美はハネたり、ノビたり、あるいは全く別の場所に手を抜いたりと、様々な対応をしていた。
「なんでこの時はハネて、あの時はノビたんだ……? その『理由』が全くわからん!」
そう、囲碁は相手の石の配置や盤面全体の状況によって、正解が無限に変化する複雑極まりないゲームである。「この形には絶対にこう打つ」という単純な暗記だけでは、実戦を乗り切ることなど到底不可能なのだ。
「ええい、適当にハネちゃえ!」
エイヤッと石を置いた瞬間、明日美の素人目に見ても、盤面の白石の形が酷く歪で、隙だらけの無様なものになってしまったことが理解できた。これでは、少し腕の立つアマチュアにすぐに弱点を突かれ、あっという間に陣地が崩壊してしまうだろう。
「……ダメだ、全然打てない」
明日美は力なく肩を落とし、盤面から手を離した。
なぜ打てないのか。数日間、暇を見つけては自室の碁盤に向かい、記憶とのすり合わせを試みた明日美だったが、ある時、決定的な事実に気づいてしまった。
「そうか……これはただの『記憶』であって、『経験』じゃないんだ」
明日美の脳内にあるのは、あくまで「奈瀬明日美という少女が囲碁を打っている姿を、後ろからビデオカメラで撮影した映像」を見ているようなものだ。
彼女がその瞬間に盤面から何を感じ取り、何手先までを読み、どのような大局観に基づいてその手を選択したのかという「思考のプロセス」や「血肉となったスキル」、すなわち囲碁打ちとしての『経験』そのものまでは、おっさんの魂には全く共有されていなかったのである。
必要なのは、ただの映像記録ではない。石の強弱を感じ取る感覚、手の意味を理解する読みの力。それらを自らの思考回路として構築しなければならないのだ。
「いくら明日美ちゃんの記憶があっても、俺自身が囲碁の文法を理解していない以上、それを実戦で応用することなんて不可能なんだ……。俺に必要なのは、自力で考えて打つという『経験』を積むことだ」
残酷な真実に直面し、明日美は深い絶望に包まれた。
すでにプロ試験で前代未聞の全勝という偉業を成し遂げ、一般紙やテレビのニュースにまで取り上げられ、全国にその圧倒的な強さを知らしめてしまった奈瀬明日美。
『新時代の天才』『盤上の女神』『歴史を塗り替える神童』とまで持ち上げられている彼女が、街の碁会所でアマチュアのおじさんを相手に、ルールすら怪しいド下手くそな碁を見せるわけには絶対に、絶対にいかない。
「結局、手詰まりかぁ……。指導碁の依頼が来たら、仮病でも使って逃げ回り続けるしかないのか……」
ベッドに突っ伏し、重いため息をつく明日美。
このままプロとして生きていくことの重圧と、誰にも言えない秘密を抱え続ける孤独感に押し潰されそうになっていた、その時だった。
「……いや、待てよ?」
明日美は、弾かれたように顔を上げた。
「指導碁を打てるようになるために、俺が囲碁の『経験』を積めばいい。つまり、誰かに一から囲碁を教えてもらって、秘密裏に特訓できればいいんじゃないか?」
しかし、誰に頼むというのか。
相手は、アマチュア以下の明日美へ指導碁の打ち方を教えられるほどの、確かな棋力と深い理解が必要だ。
そして何より、中身が別人のおっさんであり、普段は未来のAIの指示で打っているという『異常な秘密』を知っても、決して他言せず、受け入れてくれる人物でなければならない。
そんな都合のいい人間が、この世界に存在するはずが……。
「……いや、いる」
明日美の脳裏に、強烈なフラッシュバックのようにある映像が浮かび上がった。
それは、奈瀬明日美の記憶ではない。四十二歳のサラリーマンとして、遠い昔に熱中して読んだ漫画『ヒカルの碁』の記憶の底から引きずり出された、鮮烈なビジュアルだった。
「囲碁が死ぬほど打ちたくて……」
明日美の口角が、ゆっくりと上がり始める。
「俺みたいな『異常な状況』に理解があって、絶対に秘密が漏れず……」
心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。
「そして、人に囲碁を教えられるほどの圧倒的な実力がある奴が……この世界に、たった一人だけいるじゃないか!」
明日美の頭の中で、現在の日付と、漫画のタイムラインが急速に結びついていく。
今は十四歳の明日美が中学二年生の、十二月。
ということは、あの主人公の少年は現在、小学六年生の十二月で間違いない。
祖父の家の蔵に入り、古い碁盤を見つけたばかりの時期。つまり、日本棋院や院生の世界とはまだ何の関係もなく、囲碁界の常識にも染まっていない、完全にまっさらな状態の少年。
明日美の脳裏には、確かな輪郭を持って二つの影が映し出されていた。
前髪だけを明るい金髪に染め、少し生意気そうな瞳をした少年。
そして、その後ろに寄り添うように浮かぶ、この現代日本にはおよそ似つかわしくない、平安時代の狩衣を着て、背丈ほどもある長い髪をなびかせた、烏帽子姿の美しい幽霊。
「進藤ヒカル……そして、藤原佐為……!」
明日美は興奮のあまり、ベッドから飛び起きた。
そうだ。彼らなら、いや、彼らにしか頼めない。
平安の昔から存在し、ただひたすらに囲碁を愛し、神の一手を極めるために現代に蘇った天才棋士の霊。彼ならば、素人に囲碁の基礎を教え込むことなど造作もないことだろう。
何より、佐為自身がヒカルに憑依しているという超常的な存在である以上、明日美の「中身が別のおっさんで、未来のAIの指示で打っている」という荒唐無稽な秘密も、ちょっとごまかして伝えればすんなりと受け入れてくれる可能性が極めて高い。
「ヒカルを見つけ出して、佐為に俺の『師匠』になってくれるよう頼み込む……! これだ、これしかない!」
暗闇の中に一筋の強烈な光明を見出し、明日美は固く拳を握りしめた。
未来の超絶AI『KataGo』を脳内に宿す偽りの天才少女と、平安の天才棋士の霊を宿す少年。
決して交わるはずのなかった二つの特異点が、今、運命の盤上で交差する。明日美は窓の外に広がる冬の夜空を見上げながら、まだ見ぬ少年と幽霊との邂逅に思いを馳せていた。
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