ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい 作:高山 虎
自室のベッドにだらしなく寝転がりながら、奈瀬明日美の姿をした男は、パステルカラーの可愛らしい天井を見つめて深いため息をついた。
「問題は、どうやって進藤ヒカルに会うか……だな」
少女の可憐な声帯から発せられたその独り言は、四十代の疲労困憊したサラリーマンそのものの重苦しい響きを帯びていた。
プロ試験を前代未聞の全勝、それも全対局を百手以内の中押し勝ちという日本囲碁史を揺るがす歴史的な快挙で駆け抜け、明日美は正式にプロ棋士としての切符を手にした。世間からは『歴史を塗り替える天才美少女棋士』『盤上の女神』として連日持てはやされている。
しかし、その圧倒的な強さの源泉は、彼女の脳内に潜む未来の超絶囲碁AI『KataGo』の指示に従って盤面に石を置いているだけであった。男自身は、最近になってようやく「星」や「小目」といった基本的な用語の意味を理解した程度の、正真正銘の素人である。
このままでは、プロ棋士としての重要な業務であるアマチュア向けの『指導碁』を打つことができない。相手に合わせて手加減をするという高度な技術は、最強を目指すAIには備わっていないし、男が自力で打てばルールすら怪しいド下手くそであることが一瞬で露見してしまう。
その致命的な危機を乗り越えるためには、奈瀬明日美の肉体に刻み込まれた十四年分の『囲碁の記憶』を、男自身が引き出して使いこなせる『経験』へと昇華させる必要があった。そして、誰にも秘密が漏れず、確かな実力を持ち、なおかつこの荒唐無稽な事情を受け入れてくれそうな師匠となれば、平安の天才棋士の霊・藤原佐為と、彼を宿す少年・進藤ヒカルをおいて他にいない。
だが、ターゲットは決まったものの、肝心の彼らの居場所や接触方法が全く思い浮かばなかった。
男が漫画『ヒカルの碁』を夢中になって読んでいたのは、十代前半の頃だったのだ。現実の体感時間からすれば、もう三十年近く前の記憶である。
進藤ヒカルの通う小学校の名前こそおぼろげに覚えているものの、平日の昼間に十四歳の女子中学生(しかも世間で顔が売れ始めている天才プロ棋士)が、見ず知らずの小学六年生の少年を待ち伏せして校門前に立っているなど、不審者以外の何者でもない。最悪の場合、通報されて警察沙汰になり、プロデビュー前に新聞の三面記事を飾ることになってしまうだろう。
「うーん……なんかなかったか? もっと自然に、彼らと接触するチャンスが……」
ベッドの上でウンウンと唸りながら、男は脳のシワの奥深くに眠る断片的な映像を必死に繋ぎ合わせようと試みた。
ヒカルが最初に囲碁に関わったイベント。どこかで対局に口を出してトラブルになった場所があった。あれは学校の囲碁部ではなく、もっと人がたくさんいて、ざわざわしていた公共の場所だったはず。
「……あ!」
突然、明日美は弾かれたように上半身を起こした。
「そうだ! 漫画の序盤も序盤に、子供囲碁大会の見学に来ていたはずだ!」
記憶の霧が晴れていく。そうだ、間違いない。ヒカルは佐為が打ちたいと言うのに対して自分で囲碁を打つのは面倒だといっていた。そして妥協案として、佐為の我が儘を黙らせるために、「子供囲碁大会に連れて行くからそれでいいだろ」と言って会場に足を運んだのだ。
「子供囲碁大会……! これだ!」
明日美は歓喜の声を上げた。大会の会場であれば、日本棋院の院生である明日美(正確にはもうすぐプロだが)が出入りしていても何ら不自然ではない。
翌日、明日美はさっそく市ヶ谷の日本棋院へと足を運び、ロビーの掲示板でイベントの開催状況を調べた。
そこには、明るいポップな文字でこう書かれていた。
『第19回全国子供囲碁大会 一月七日開催』
「よし……これだ」
明日美はポスターを食い入るように見つめながら、心の中で固く拳を握りしめた。
そうして一月七日。冬晴れの冷たい空気が肌を刺す朝、日本棋院は、かつてないほどの熱気と喧騒に包まれていた。
全国から集まった腕自慢の小学生たちや、まだ碁石の持ち方も覚束ないような初心者、そして彼らの保護者たちがごった返し、ロビーから上の階の大会会場に至るまで、人の波が途切れることがない。
その人混みの中を、奈瀬明日美はゆっくりと歩いていた。
「ああっ! 奈瀬先生だ!」
「本当だ! テレビで見た天才少女の奈瀬新初段だわ!」
会場に足を踏み入れた途端、明日美の存在は瞬く間に周囲の注目を集めてしまった。
歴史的な全勝合格を果たした十四歳の美少女プロの顔は、すでに囲碁ファンのみならず一般層にまで広く知れ渡っている。「奈瀬先生、サインをお願いします!」と、色紙や扇子を持った子供たちと保護者が、あっという間に明日美の周囲を囲んでしまった。
「あ、はい。ありがとうございます。ええっと、お名前は?」
中身が四十代のおっさんである明日美は、長年の営業職で培った完璧なカスタマーサービス・スマイルを顔に貼り付け、パニックになることもなく丁寧に対応していく。内心では(ヒカルを探さなきゃいけないのに、足止めを食らった!)と焦っていたが、プロとしての自覚と大人としての余裕が、彼女の振る舞いをより一層洗練されたものに見せていた。
そんな明日美の姿を、少し離れた場所から冷徹な視線で観察している男がいた。高級なスーツを隙なく着こなし、金縁の眼鏡の奥で鋭い光を放つ男——緒方精次九段である。
緒方は、群がる子供たちに優しく微笑みかける十四歳の少女を見つめながら、内心で舌打ちをしていた。
(奈瀬明日美……。四月から正式にデビューする、異例中の異例の新人)
彼女がプロ試験で見せた棋譜は、緒方をはじめとするトッププロたちを底知れぬ恐怖に陥れていた。
定石を完全に無視した打ち方。それでいて序盤から中盤にかけての圧倒的な構想力、そして一切の妥協を許さない暴力的なまでの読みの正確さ。一度もヨセ勝負にならずにすべて中押しで勝利するという異常性は、彼女の頭脳が人間のそれを遥かに超越していることを示唆していた。
(あんな小娘が、現代の囲碁の常識をすべてひっくり返そうとしているとはな。……警戒すべき最大の敵だ)
緒方はタバコを取り出そうとして、ここが禁煙の会場であることを思い出し、忌々しげに指を鳴らした。その鋭利な警戒の視線は、明日美の背中にチリチリと突き刺さっていたが、ヒカル探しに必死な明日美はそれに気づく余裕すら持っていなかった。
「さてっ、と。進藤ヒカルはどこにいるのかな、っと」
ようやくファンサービスを終えて人混みから抜け出した明日美は、会場の隅々まで視線を走らせた。
前髪だけが金髪の少年。特徴的な外見であるため、いればすぐに見つかるはずだ。しかし、対局の島をいくつか巡ってみても、それらしき少年の姿は見当たらなかった。
「もしかして、まだ来てないのかな?」
ヒカルは大会の参加者ではないため、いつ会場に現れるか分からない。あるいは何らかのバタフライエフェクトですでに来ない運命に変わってしまったのではないかと、明日美の胸に不安がよぎる。
その時だった。
会場の入り口付近を何気なく見渡した明日美の視界に、奇妙なものが飛び込んできた。
(ん? なんだあれ……なんか浮いてるぞ?)
人混みの頭一つ高い位置、空中にふわりと浮かぶ白い布のようなものが見えた。
(って、まさか!?)
明日美は目を凝らした。
そちらをよく見ると、入り口からキョロキョロと落ち着きなく辺りを見回しながら歩いてくる、前髪だけが金髪の特徴的な少年の姿があった。進藤ヒカルだ。
しかし、明日美が驚愕したのはそこではない。
なんと、ヒカルの背後に寄り添うようにして宙に浮いている、平安時代の狩衣を着た美しい幽霊——藤原佐為の姿が、明日美の目にはハッキリと見えていたのだ。
長い黒髪をなびかせ、手には立派な扇子を持ち、大会の熱気にあてられて目を輝かせている幽霊の姿。周囲の人々は誰一人としてその存在に気づいておらず、佐為の体をすり抜けて歩いている。だが、明日美の目には、その姿が実体を持った人間と変わらないほど鮮明に映っていた。
(えええっ!? 見える! 佐為の姿が完全に見えてるぞ!?)
明日美は内心で度肝を抜かれた。
漫画の知識では、佐為の姿はヒカルにしか見えず、声もヒカルにしか聞こえないはずだった。塔矢アキラや桑原でさえ、ヒカルの背後に幻影を感じ取ることはあっても、明確な姿を見ることはできなかったのだ。
(なんで私には見えるんだ……? 私の魂がおっさんのままで憑依しているイレギュラーな存在だからか? それとも、頭の中にKataGo先生っていう未来のAIの概念が同居しているから、霊的な波長が合っちゃったのか?)
理由は定かではないが、これは明日美にとってこれ以上ないほどの幸運だった。
当然、明日美は「佐為の姿が見えるはずはない」と想定しており、ヒカルに対してどうやって声をかけ、佐為の存在を知っていることを信じ込ませるか、そのシナリオ構築にひどく頭を悩ませていたのだ。
(これなら、『なんか幽霊ついてますよ?』って言えば、会話の糸口くらい簡単に掴めそうだな!)
明日美はほくそ笑み、ヒカルたちに近づこうと足を踏み出した。
そう明日美が思っていた、まさにその瞬間だった。
ヒカルが、ある対局のテーブルの後ろで立ち止まった。そこでは、小学生二人が真剣な表情で盤面に向かっている。
ヒカルの背後で盤面を覗き込んだ佐為が、扇子で口元を隠しながら何事かを囁いた。それを受けたヒカルが、突然、対局中の盤面に向かって大きな声で叫んだのだ。
「おしい! そこじゃだめだ。その上なんだよ!」
会場の喧騒が一瞬にして静まり返り、周囲の視線がヒカルに突き刺さった。
「あ……」
明日美は思わず立ち止まった。原作通りの展開だ。ヒカルは佐為の指示をそのまま口に出してしまい、対局中の助言という重大なルール違反を犯してしまったのである。
「こら! 君! 対局中に口を出しちゃダメじゃないか!」
即座に大会管理者の大人たちが飛んできて、ヒカルの腕をガシッと掴んだ。
「えっ? あ、わりぃ! ごめん!」
事態の深刻さに気づいたヒカルが謝罪するも遅く、彼はそのまま管理者たちによって別室へと連行されてしまった。佐為も慌てた様子でその後を追いかけていく。
「あっ…… 声をかけるのが一歩遅かったか!」
明日美は頭を抱えた。さすがに別室での説教にまで付いていくわけにはいかない。結局、明日美はヒカルが解放されるのを待つため、冷たい風が吹きすさぶ日本棋院の正面玄関前で待機する羽目になるのだった。
「寒い……早く出てきてくれよ……」
マフラーに顔を埋めながら、中身がおっさんの明日美は寒さに震えつつ数十分の時を過ごしていた。そうしていると、自動ドアが開き、一人の少年が姿を現した。
ヒカルだ。
別室で大人たちからこってりと絞られたはずだが、当の本人は怒られたことの重大さを全く理解しておらず、気にしていない様子だった。「あーあ、せっかく見に来てやったのに最悪だぜ」とでも言いたげな、ケロッとした態度で歩道を歩き始めていた。
しかし、明日美の視線はヒカルではなく、その背後に浮かぶ佐為の顔に釘付けになった。
(……ん? 佐為の様子がおかしいぞ)
先ほどまで子供たちの対局を見て目を輝かせていた佐為の美しい顔から、一切の感情が消え去り、尋常ではないほど張り詰めた、鋭く冷たい真剣な色が浮かんでいたのだ。その瞳は、まるで遠くの強敵を射抜くかのように見開かれている。
(そうか……!)
明日美の脳裏で、原作の記憶がパズルのように組み合わさった。
別室から出てきた直後。つまり、原作通りなら彼らはつい先ほど、日本棋院の廊下で「この日本の頂点に立つ男」——塔矢行洋名人とぶつかった直後のはずだ。佐為は、行洋が放つ圧倒的な実力者の気配を肌で感じ取り、勝負師としての本能を極限まで昂ぶらせているのである。
(なんか声がかけにくいけど……って、躊躇してる場合じゃない。よしっ、行くぞ!)
佐為の只事ではない雰囲気に一瞬気圧されそうになったが、明日美は両頬を軽く叩いて気合を入れ直すと、ヒカルの背中を追って足早に歩み寄った。
「ねえ、きみ!」
明日美の高く澄んだ声が、冬の空気に響いた。
「えっ、オレ?」
不意に声をかけられ、ヒカルは驚いたように振り向いた。彼の目に映ったのは、自分より少し年上の、洗練されたショートヘアの美しい少女だった。
「そうそう、君だよ」
明日美は営業マン時代に磨き上げた、相手に警戒心を抱かせない完璧な笑顔を浮かべて見せた。
「私、奈瀬明日美。院生をしてるの」
厳密に言えば明日美は院生は卒業し、四月からプロになるのだが、囲碁界の制度など全く知らないであろう小学六年生のヒカルに「新初段」と名乗ってもピンとこないだろうと思い、分かりやすい肩書きを使った。
「インセイ?」
予想通り、ヒカルはポカンと口を開けてオウム返しをした。
「うーん、囲碁のプロ予備軍ってこと。って、それはいいんだ。君に、話があるの」
明日美がそう言うと、ヒカルは怪訝そうに眉をひそめた。しかし、ヒカルの横で張り詰めた表情をしていた佐為の反応は違った。
『プロの予備軍? なるほど、院生という制度があるのですね。では、この者もそれなりに打つのでしょうか』
塔矢行洋とのすれ違いで昂ぶっていた佐為の意識が、目の前の少女へと向き直る。彼はふむふむと深く頷きながら、明日美の佇まいを観察し始めた。
その透き通るような声が、明日美の脳内に直接響き渡る。
(おおっ……! 姿が見えるだけじゃなくて、佐為の声までハッキリ聞こえるぞ!)
明日美は内心で激しく感動していた。これでコミュニケーションに一切の支障はない。彼女はヒカルの顔から、そのすぐ横でフワフワと浮いている佐為の顔へと視線を移し、まっすぐに彼を見据えて、爆弾を投下した。
「それで、聞きたいんだけど。なんで君……幽霊を連れているの?」
その言葉が落ちた瞬間。周囲の喧騒が、嘘のように消え去った。
ヒカルは一瞬、明日美が何を言ったのか理解できないというように、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
しかし、数秒の遅延ののち、彼女の視線が明確に『自分の横の何もない空間』を捉えていることに気づき、顔から一気に血の気が引いた。
「えっ……!?」
ヒカルの目がこれ以上ないほどに見開かれる。佐為もまた、信じられないというように扇子で口元を隠した。
「もしかして……お前、見えるの!?」
パニックに陥ったヒカルは、周囲の目も気にせず、明日美の両肩にガシッと掴みかかってきた。
天才美少女プロ棋士(中身はおっさん)と、神の一手を目指す幽霊を宿した少年の、奇妙で運命的な邂逅が、冬の空の下でついに果たされたのだった。
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