ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい   作:高山 虎

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おっさんの完璧な計画、アプデ一発で瓦解する

日本棋院の近くにある、ごくありふれたファミリーレストラン。

 

昼時のピークを過ぎた店内は、ドリンクバーのグラスが触れ合う音や、学生たちのざわめきが適度なBGMとなって空間を満たしていた。ハンバーグやフライドポテトの匂いが漂う俗っぽい空間の片隅、窓際のボックス席に、ひどくアンバランスな三人——正確には「二人と一体」が向かい合って座っていた。

 

「……ということなの」

 

洗練されたショートヘアの美少女、奈瀬明日美は、グラスの中で溶けかけた氷をストローでカラカラと回しながら、目の前に座る少年と、その背後に浮かぶ異形の存在に向けて静かに告げた。

 

明日美の視線の先には、メロンソーダを前にして完全に硬直している小学六年生の少年、進藤ヒカルの姿があった。そして、そのヒカルの背後には、現代日本にはおよそ似つかわしくない、平安時代の狩衣を身にまとい、背丈ほどもある長い黒髪をなびかせた幽霊——藤原佐為が、宙にふわりと浮遊したまま、信じられないものを見るような目で明日美を見つめ返していた。

 

明日美は、自分にはヒカルに取り憑いている幽霊の姿がはっきりと見えており、その声も聞こえているという事実を、淡々と、しかし順序立てて説明した。

 

最初は半信半疑、いや「一〇〇パーセント疑い」の表情を浮かべていたヒカルだったが、明日美の視線が明らかに自分ではなく、空中の何もない空間(佐為の顔がある位置)にピタリと合っているのを見て、徐々に顔から血の気を引かせていた。

 

その沈黙を破ったのは、幽霊である佐為のほうだった。

 

彼はスッと姿勢を正すと、ファミレスの空中で優雅に扇子を畳み、平安貴族としての気品に満ちた深い礼をした。

 

『……信じ難きことですが、私の姿が見え、声まで届くお方がこの世におられようとは。私は、藤原佐為と申します。平安の昔より、ただ一途に囲碁を愛し、神の一手を極めんとする者』

 

透き通るような、しかし確かな意思を持った声が、明日美の脳内に直接響き渡る。

 

中身が四十二歳のサラリーマンである明日美は、内心で(おおお、本物の佐為だ! 漫画のままだ!)とオタク的な感動に震えつつも、表面上は十四歳の天才美少女プロ棋士としての余裕を崩さなかった。

 

「ええ、はじめまして佐為さん。あなたも碁打ちなのね、よろしく」

 

明日美が極めて自然なトーンで佐為の自己紹介に返答し、ふわりと微笑みかけた瞬間。

 

ヒカルはガタッ! と音を立てて席を立ち上がりかけた。

 

「マ、マジかよ……! ほんとに会話してる! 会話が成立してるぞ!」

 

ヒカルは自分の頭を抱え、パニックに陥ったように叫んだ。

 

「オレ以外に、佐為を見えるヤツなんかいなかったのに……! 母さんにも、あかりにも見えなかったのに、なんでお前には見えるんだよ!」

 

これまで、ヒカルにとって佐為の存在は絶対的な秘密であり、誰にも見えないからこそ、時に「一人でブツブツ喋っている変な小学生」というレッテルを貼られる原因にもなっていた。その孤独な秘密の世界に、突如として見ず知らずの女子中学生が土足で踏み込んできたのだから、無理もない反応であった。

 

ヒカルの混乱をよそに、明日美は小さく息を吐いた。

 

「それは多分……私にも、変なのがついているからだよ」

 

「変なの……?」

 

ヒカルが怪訝そうに眉をひそめる。佐為もまた、興味深そうに目を細めて明日美を見つめた。明日美の肉体に間借りしている男は、どこまで真実を語るべきか思考を巡らせた。

 

「自分は未来から来た四十二歳のおっさんで、頭の中には二〇二〇年代の超絶囲碁AI『KataGo』が入っている」などと正直に言ったところで、一九九〇年代を生きる小学六年生と平安時代の幽霊に『人工知能』や『ディープラーニング』の概念を理解させるのは不可能に近い。

 

ここは、彼らの世界観に合わせた『方便』を使うのが、最も効率的な営業話法である。

 

「実はね、私の頭の中にも、ある存在が棲みついているの。それは幽霊じゃないわ。……囲碁の絶対的な『正解』を教えてくれる、神様みたいなものよ」

 

「神様……!?」

 

ヒカルが素っ頓狂な声を上げた。

 

しかし、その言葉に最も激しい反応を示したのは佐為だった。

 

『囲碁の、正解……!? 神様……!?』

 

佐為の瞳が、突如として烈火のごとく燃え上がり、その霊体がブルブルと激しく震え始めた。神の一手を追い求め、千年の時を彷徨い続けてきた天才棋士の魂にとって、「囲碁の正解を教える神」という言葉は、何よりも強烈な引力を持っていた。

 

『おおお……! なんということでしょう! ヒカル、ヒカル!』

 

佐為は狂乱したように扇子を振り回し、ヒカルの肩をバシバシと叩き始めた。

 

『対局です! 今すぐこのお方と、いや、その内なる神と対局をさせてください! 私は知りたい! その神が示す正解とやらが、いかほどのものか! 私の千年の囲碁が通用するのかどうか!』

 

「いっ、痛ぇよ佐為! 落ち着けって!」

 

ヒカルは佐為の物理的な干渉はないはずなのに、その凄まじい気迫に圧倒されて身をよじった。

 

「めんどくせーな……オレはこれからうちに帰ってゲームがしたいんだよ。碁なんて打ちたくねぇって」

 

ヒカルが面倒そうに口を尖らせると、佐為はポロポロと大粒の涙(霊的なエフェクト)をこぼし始めた。

 

『ヒカルのいけず! 今日は碁を打たせてくれると約束したではありませんか! 子供囲碁大会だって、ヒカルが急に声を出すから、すぐに大人たちに怒られて追い出されちゃったじゃないですか! 私は打ちたいのです! どうしても神の碁が見たいのです!』

 

わあわあと泣き喚く平安の幽霊に、ついにヒカルが根負けした。

 

「あーもうっ! わかった、わかったよ! 打ちゃいいんだろ、打ちゃ!」

 

ヒカルの承諾を得たのを見て、明日美は口角を上げた。

 

(よし、計画通りだ。これで佐為に KataGoの凄さを見せつけて、私の『指導碁対策』のための秘密特訓のコーチになってもらう口実ができる)

 

明日美は自分の鞄から、あらかじめ用意しておいた折りたたみ式のマグネット碁盤と碁石のセットを取り出し、テーブルの上に広げた。喫茶店やファミレスで打つにはぴったりのサイズである。

 

「じゃあ、コミは五目半でいいよね?」

 

明日美が何気なくそう尋ねると、ヒカルと佐為は同時に首を傾げ、はてなマークを浮かべた。

 

「コミ?」

 

ヒカルが聞き返す。

 

「あれ、知らない? 白がもらうハンデのことだよ」

 

明日美は、マグネットの白石を指先で弄りながら説明した。

 

「囲碁って、先に打つ黒がどうしても盤面を広く支配できるから、有利すぎるの。だから、現在のルールでは、最終的な陣地の計算の時に、白に五目半の目数を足してあげることになってるんだ。昔はコミの制度がなかったらしいね」

 

その説明を聞いたヒカルは、ハッとして佐為の方を振り向いた。

 

「なんだよそれ! じゃあ、昔は黒を持った方がズルいくらい有利だったってことじゃねーか! おい佐為、お前、昔は黒を持ったらズルいとか、不公平だとか思わなかったのかよ!?」

 

ヒカルの鋭いツッコミに対し、佐為は扇子を口元に当て、目を細めた。

 

そして、これ以上ないほど自信に満ち溢れた、絵に描いたようなドヤ顔で言い放った。

 

『ふふっ。黒を持ったら、私は負けなしです』

 

「ドヤ顔で言うなよ! 自慢になってねーぞそれ!」

 

ヒカルの呆れたツッコミがファミレスの席に響く。明日美の中のおっさんは、その微笑ましい漫才のようなやり取りに、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

 

「それじゃあ、互先(ハンデなしの対等な勝負)、コミ五目半で。……お願いします」

 

「『お願いします!』」

 

マグネット碁盤を挟み、二人の挨拶が重なった。

 

佐為がヒカルの体を介して石を打つ。ヒカルは佐為の指示通りに、盤面の右上隅、小目の位置に黒石を置いた。

 

パチン、というマグネット特有の軽い音が響く。

 

その瞬間、明日美の視界に、青白い近未来的なホログラムグリッドがオーバーレイ表示された。

 

『KataGo - Ready』

 

『勝率:49%』

 

『目数差:-0.3』

 

(さあ、カタゴ先生。未来の力、見せてやってくれ)

 

明日美は視界に点滅する青い光に従い、白石を打ち下ろした。

 

ここから展開されたのは、この時代の常識、いや、平安時代から連綿と受け継がれてきた囲碁の理を根底から破壊する、異次元の戦いであった。

 

佐為の打つ碁は、本因坊秀策の流儀を汲む、極めて手堅く、かつ隙のない芸術的な布石であった。石たちが互いに連携し、盤面全体に美しい調和を生み出していく。それは千年という気の遠くなるような時間をかけて、人間が到達した一つの究極の形であった。

 

対する明日美——KataGoの碁は、序盤から荒唐無稽としか言いようのないものであった。

 

開始早々、佐為が星に打った石のすぐ懐深く、三々の位置に白石が滑り込んだのだ。

 

『なっ……!? なんだ、この手は……!』

 

佐為は思わず息を呑んだ。

 

序盤のこんなに早い段階で三々に入るなど、相手に外側の広大な勢力(厚み)をタダで与えてしまうだけの、愚策中の愚策。定石を知らない初心者が打つような手である。

 

『私の星に対して、いきなり三々に入るなど……囲碁の理を無視している! 神の碁と聞いて期待しましたが、これはただの素人の……いや、待て……!』

 

佐為は扇子を握りしめ、盤面を凝視した。天才の直感が、彼に強烈な警鐘を鳴らしていた。

 

愚策に見える。しかし、盤面全体を俯瞰した時、その白石が放つ異様なまでの『効率の良さ』に気づいてしまったのだ。

 

KataGoは、佐為に厚みを与えたように見せかけて、実はすでに配置していた別の白石と連携し、その厚みが全く機能しないように完璧な配置を敷いていたのである。

 

一つ一つの石が、人間の限界を超えた効率で盤面に働きかけている。無駄な手が、ただの一手たりとも存在しない。

 

『おおっ……! おおおおっ……!!』

 

佐為の全身から、凄まじい闘気が立ち上った。ファミレスの喧騒が遠のき、彼の意識は完全に盤上の宇宙へと没入していく。

 

『なんという手! なんという構想力! 常識外れに見えて、その実、これ以上ないほど合理的に石が働いている! これが……これが神の正解だというのですか!』

 

佐為は全力で挑んだ。

 

自身の持つ千年の経験、すべての定石、すべての手筋を総動員し、KataGoが築こうとする陣地に斬り込んでいく。ヒカルも、佐為の異常なまでの気迫に当てられ、文句を言うことすら忘れて、ただ佐為の指示する場所へ機械のように石を置き続けていた。

 

しかし、結果は明白であった。

 

パチン、パチンというマグネットの音が響くたびに、佐為の黒石は真綿で首を絞められるように自由を奪われていった。佐為が渾身の勝負手を放っても、KataGoはノータイムで、その攻撃を完全に無力化する急所へと石を打ち返してくる。

 

盤面が中盤に差し掛かる頃には、佐為が誇る黒の大石は分断され、生きるためのスペースを奪われ、完全に息の根を止められていた。

 

圧倒的な、完全なるKataGoの圧勝であった。

 

それもそのはずである。最新の囲碁AIというものは、AIの棋譜を日夜研究し尽くしている二〇二〇年代のトッププロ棋士ですら、二子のハンデをもらっても勝てるかどうかというバケモノなのだ。互先(ハンデなし)での勝率は、一万分の一、あるいは百万分の一以下とまで言われている。

 

いわんや、AIという概念すら知らず、AI特有の打ち回しとの対局経験が一切ない佐為が勝てる道理など、万に一つも存在しなかった。

 

むしろ、佐為の本当の凄さは、勝敗の次元にはなかった。

 

KataGoの放つ一見すると意味不明な手が、『全く無駄のない、遥か先の未来を見据えた神算鬼謀である』ということを、対局中に肌で感じ取り、理解できたこと自体が、彼の恐るべき天才性——実力の証明に他ならなかった。常人であれば、なぜ自分が負けたのかすら理解できず、ただ混乱して終わるだけの手合である。

 

盤面はすべて埋まる前に、戦いは終わっていた。

 

「……ここまで、だね」

 

明日美が静かに告げた。

 

佐為は、扇子を取り落とし、震える両手で盤面を見つめていた。

 

平安時代から続く囲碁の理が、根底から覆された。自分が信じてきた定石が、形が、すべて過去のものとして打ち砕かれたのだ。棋士として、これほどの絶望はないはずだった。

 

しかし。

 

佐為の顔を覆っていたのは、絶望ではなかった。彼の美しい瞳からは大粒の涙が溢れ出し、その表情は、歓喜に打ち震えていた。

 

『素晴らしい……! 素晴らしい!!』

 

佐為は両手を高く天に掲げ、ファミレスの空中で狂喜乱舞した。

 

『なんという美しさ! なんという冷徹で、無駄のない碁! 私が信じてきた理を破壊し、その先にある新たな宇宙を見せてくれた! これが、これこそが……私が追い求め続けた、神の一手に近づくための新たな道標なのですね……!!』

 

自身の敗北など些末なこと。まだ見ぬ高みが存在したこと、囲碁の真理が無限に広がっていることを知った佐為の魂は、千年の呪縛から解き放たれたかのように歓喜に満ちていた。

 

『奈瀬殿! いや、神よ! もう一回! どうか、もう一局お願いします!!』

 

佐為はヒカルの周囲を猛烈な勢いで飛び回りながら懇願した。

 

「うるせー!!」

 

ヒカルはたまらず耳を塞いで叫んだ。

 

「お前、さっきからうるせえんだよ! もう十分だろ! 頭痛くなってきたし、オレは早く帰ってゲームしてぇんだよ!」

 

ヒカルと佐為がギャーギャーと騒ぎ立てる姿を、明日美はストローをくわえながらニコニコと微笑ましい気持ちで眺めていた。

 

(よしよし。これで佐為は完全にカタゴ先生の虜になったな。この分なら、「私に手加減の仕方(指導碁)を教えてくれたら、またカタゴ先生と打たせてあげる」っていう交渉が絶対に通るぞ……)

 

四十二歳のおっさんが、己のプロとしてのキャリアを守るための完璧な計画の成功を確信し、ほくそ笑んでいたその時だった。

 

ピコン。

 

突然、明日美の脳内に、聞き覚えのある電子音が鳴り響いた。

 

(ん?)

 

明日美の網膜に展開されたままになっていたKataGoの青白いホログラムUIが、激しく点滅を始めた。そして、画面の中央に、輝く文字列が浮かび上がった。

 

『実績解除:【指導碁モード】が解放されました』

 

『詳細:圧倒的な実力差を持つ相手に対し、勝率を維持しつつも、相手のレベルに合わせて局地的な敗北を許容し、相手に最も学習効果の高い手を打たせる接待・指導アルゴリズムがアクティブになりました』

 

「…………えっ?」

 

明日美は思わず声を漏らした。

 

指導碁モード。それはつまり、相手に合わせて『手加減』をし、的確に指導を行うための専用アルゴリズム。

 

KataGoという未来のAIは、単なる冷酷な殺戮マシーンではなく、人間を育成するためのコーチング機能までをもフルスペックで搭載していたのである。ただ、これまでは院生手合やプロ試験という「成績を決める、勝たなければならない」対局であったため、その機能がロックされていたに過ぎなかったのだ。

 

「……マジかよ」

 

はからずも、苦労して進藤ヒカルを見つけ出し、佐為に教えを乞うという回りくどい計画を実行する前に、明日美の「指導碁が打てない」という最大の問題は、システムのアプデによって完全かつ自動的に解決してしまったのである。

 

「奈瀬? どうしたんだよ、急に変な顔して」

 

訝しげに見つめてくるヒカルと、背後で「もう一局! もう一局!」と騒ぎ続ける佐為。

 

彼らとの数奇な出会いは、明日美の囲碁人生において全くの無駄だったのか。いや、この平安の天才霊と少年、そして未来のAIを宿す少女の邂逅が、これからの日本囲碁界にどれほどの嵐を巻き起こすことになるのかは、まだ誰も知らない。

 

「……ううん、なんでもない。佐為、またいつでも打ってあげるからね」

 

明日美は、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込みながら、ふわりと完璧な美少女の笑顔を浮かべるのだった。




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本作は全15話で完結まで執筆済みです。
毎日20:11に更新しますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです!

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