ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい 作:高山 虎
奈瀬明日美の肉体に間借りする四十二歳の男は、ファミリーレストランの喧騒の中、静かな安堵の息を吐いていた。
あの後、懇願する藤原佐為ともう一局だけ対局を行ったが、結果は当然ながらKataGoの圧倒的な勝利に終わった。最新のAIが叩き出す異次元の手に翻弄されながらも、佐為の顔には絶望ではなく、未知の真理を探求する求道者としての歓喜が満ち溢れている。
「今日はこれくらいにしよう。私もそろそろ帰らなきゃいけないから」
明日美がマグネット碁盤を片付けると、進藤ヒカルとはすんなりと連絡先を交換することができた。一九九〇年代後半という時代柄、ヒカルが差し出したのは自宅の固定電話の番号であったが、これでいつでも彼らと接触する手段を得たことになる。
ちなみに——この日、佐為がKataGoによって『未来の碁』を体感してしまったことは、後に日本囲碁界の運命を大きく狂わせる、一つの残酷なバタフライエフェクトを引き起こすことになる。
原作、すなわち本来の歴史において、この後にヒカルと佐為は、同年代の天才少年・塔矢アキラと碁会所で二度目の対局をすることになる。
その際、佐為はヒカルと同年代の子供と侮っていたアキラが想像以上に強いことに驚き、手加減をすることができずに全力で応戦、一刀両断してしまうのだった。その圧倒的な背中を見たアキラは、己のすべてを懸けて進藤ヒカル(の背後にいる佐為)を追いかけるようになる……というのが正しい歴史の流れである。
しかし、この世界線では違った。
KataGoとの対局で「ダイレクト三々」や「ツケヒキのAI定石」など、平安時代から続く常識を根底から覆す未知の新手と、圧倒的な石の効率の概念を目の当たりにしてしまった佐為は、己の中で渦巻く新たな発想を実戦で試したくて試したくて仕方がなくなっていたのである。
その抑えきれない知的好奇心と実験の矛先が、不運にも塔矢アキラに向けられてしまったのだ。
結果として、碁会所でのアキラとの対局は、本来の歴史のような「神業に圧倒される名勝負」にはならなかった。
序盤から佐為が放つ常軌を逸したAI流の新手に対し、現代の本格的で手厚い碁を信奉するアキラは完全にパニックに陥り、何が起きているのか理解すらできないまま、一方的な虐殺を受けることとなった。盤面をズタズタに切り裂かれ、己の信じてきた囲碁の理を根底から否定されたアキラが、どれほどの深いトラウマを抱え、夜な夜なうなされることになったのかは、また別の話である。
そんな塔矢アキラの悲劇など知る由もない明日美(中身は四十二歳のサラリーマン)は、帰宅するなり自室のベッドにドサリと仰向けに倒れ込んでいた。
「はぁ〜、疲れた……」
可憐な少女の口から漏れるのは、完全に疲れ切った中年男性のそれである。しかし、その顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。
「それにしても、まさかカタゴ先生に『指導碁モード』なんていう神機能が隠されていたとはな……」
明日美は虚空を見つめ、ホログラムのUIを呼び出した。
プロ棋士としての正式デビューを四月に控え、明日美の最大の懸念は「公式戦で容赦なく相手をボコボコにし続けてしまうこと」であった。院生の手合やプロ試験ならまだしも、これから対戦するのは酸いも甘いも噛み分けた百戦錬磨のベテランプロたちである。
彼らの顔に泥を塗り、プライドを粉々に砕くような中押し勝ちを連発すれば、組織の中でどれほどのヘイトを集めるか分からない。営業マンとして長年社会の荒波に揉まれてきたおっさんにとって、それは絶対に避けたいリスクであった。
「この指導碁モードを使えば、相手のレベルに合わせて手加減したり、わざと隙を見せて相手を導くような、人間らしくて僅差の勝負を演出できるはずだ。これでプロの対局でも、今までみたいな血も涙もない虐殺をせずに済むぞ……!」
明日美は歓喜に震えながら、視界の端で光る『指導碁モード』のアイコンを意識的にタップした。
これで地獄の無双プレイから解放される。そう安堵した、次の瞬間だった。
ピィッ、という無機質な警告音とともに、青白いホログラム画面の中央に、赤い文字のポップアップメッセージがデカデカと表示された。
『警告:これまでの対局データの整合性を保つため、公式戦および記録に残る手合での【指導碁モード】の使用は強く非推奨とされます』
『詳細:ユーザーの過去の勝率、着手精度、および平均手数等のデータから著しく乖離したパフォーマンスを公式戦で意図的に出力した場合、周囲から「手抜き」「対戦相手への侮辱」、あるいは「八百長行為」を疑われる重大なリスクが存在します。システムの合理性に基づく判断として、公式戦においては通常モード(100%出力)の維持を推奨します』
「…………は?」
明日美は固まった。
ベッドの上で、文字通り石像のように硬直した。
四十二歳のおっさんの脳内で、長年培ってきたコンプライアンス意識と危機管理能力が、システムの警告文を瞬時に咀嚼し、その絶望的な意味を理解していく。
「そ、そうか……っ!」
明日美は頭を抱えてベッドの上を転げ回った。
アマチュア相手の非公式な指導碁であれば、このモードはこれ以上ないほど有用である。しかし、公式戦においては話が全く別なのだ。
明日美はすでに、院生時代からプロ試験に至るまで、すべての対局を「百手以内の中押し勝ち」という、勝率一〇〇パーセントの無慈悲なバケモノとして駆け抜けてしまっている。メディアもこぞって「人間離れした圧倒的構想力」「一切の隙がない完璧な碁」と書き立て、囲碁界全体が彼女を畏怖の対象として見ているのだ。
そんな彼女が、プロデビューした途端に、急に相手に合わせて僅差の勝負をしたり、人間らしいミスを見せたりすればどうなるか。
『奈瀬は手加減をしている』『相手を舐め腐っている』『わざと勝敗をコントロールしているのではないか』——そう疑われるに決まっているのだ。
なにより、プロの世界において、全力を出さずに相手を弄ぶ行為は、圧倒的な実力差を見せつけて惨殺するよりも遥かに相手の尊厳を深く傷つける、最大のタブーである。
「終わった……」
明日美は天井を仰ぎ見て、魂が抜けたようにつぶやいた。
「結局、これからも公式戦では、一生カタゴ先生の100%出力で、大先輩たちを情け容赦なく蹂躙し続けなきゃいけないのか……。手抜き不可の、強制無双モード……なんという地獄の縛りプレイだ……」
美少女の瞳から、ツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。プロとしての輝かしい未来は、血塗られた修羅の道であることが完全に確定してしまったのである。
季節は巡り、四月。中学生となった進藤ヒカルが新しい制服に袖を通す頃、奈瀬明日美もまた、正式にプロ棋士としてデビューを果たした。
そして、懸念された通り——いや、システムの強制によって必然的に——彼女の公式戦は、かつてのプロ試験の光景の完全な再現となった。
対座する中堅プロも、ベテランの九段も、明日美の放つ未知のAI定石と暴力的なまでの読みの深さの前に、誰一人としてまともな勝負の形を作ることができなかった。終盤のヨセに持ち込むことすら許されず、次々と盤面を崩壊させられ、青ざめた顔で投了を告げていく。
「やはり奈瀬は本物のバケモノだ」「あんな碁は見たことがない」と、囲碁界にはさらなる恐怖と衝撃が渦巻いていたが、当の明日美本人は、対局のたびに心の中で(すみません! 本当にすみません! 私の意志じゃないんです!)と平身低頭の土下座を繰り返す、胃の痛い日々を送っていた。
一方で、そんな多忙で憂鬱なプロ生活の合間を縫って、明日美は一つの日課をこなしていた。
それは、佐為がヒカルに泣きついて懇願したことにより設けられた、週に一度の「秘密の対局」である。
六月に入ったある日の午後。雨が窓ガラスを叩くファミリーレストランのボックス席で、明日美はいつものようにメロンソーダを飲みながら、マグネットの碁盤に向かっていた。
佐為が歓喜の声を上げながら、ヒカルの手を介して盤面に石を置いていく。明日美は非公式戦であるため指導碁モードをオンにしており、佐為の鋭い攻めを受け流しつつも、彼が最も深く未来の囲碁の真理を学べるように、絶妙な手加減を交えて対局を進行させていた。
しかし、今日のヒカルはどこか様子が違った。
いつもなら「早く終われよ」「オレはゲームしてぇんだよ」と文句を言いながら適当に石を置いているはずの彼が、今日は一度も文句を言わず、それどころか食い入るように盤面を見つめ、ひどく思い詰めたような真剣な眼差しを向けているのだ。
やがて、その日の対局が終わった直後。
ヒカルはふうっと深く息を吐き出すと、まっすぐに明日美の目を見据え、突然、テーブルに頭がつくほど深く頭を下げた。
「奈瀬! オレに……碁を教えてくれ!」
「……えっ?」
明日美はストローから口を離し、目を丸くした。
「教えてくれって……私が?」
「ああ! お前、佐為よりも強いんだろ!? 頼む、オレを鍛えてくれ!」
ヒカルのその真剣な声には、これまでにはなかった強烈な熱と、隠しきれない焦燥感が混じっていた。
明日美の中のおっさんは、その理由にすぐに思い至った。
(そうか……時期的に考えて、最近あったはずの中学校の囲碁大会だ。そこでヒカルは、塔矢アキラと再戦したんだな)
原作の通りであれば、ヒカルは海王中との団体戦でアキラと対局し、自分の実力不足を痛感する。佐為の代打ちではなく、ヒカル自身の拙い実力で挑んだ結果、アキラの圧倒的な執念と実力の前に手も足も出ずに敗北したのだ。
特にこの世界線のアキラは、佐為(によるAI流)の蹂躙を受け、かつてないほどのトラウマと執着を抱えた「復讐鬼」と化している。そんなアキラから向けられた圧倒的な敵意と気迫に当てられ、ヒカルの中で「自分の力で塔矢に追いつきたい」という物語の主人公としての炎が、本気で燃え上がってしまったのだろう。
「オレじゃ、今のままじゃ絶対にアイツに……塔矢に追いつけないんだ! 頼むよ!」
必死に頭を下げるヒカルの姿を見て、明日美は「うーん」と腕を組んで考え込んだ。
ヒカルに囲碁を教えること自体は、何の問題もない。なんといってもこちらにはKataGoの『指導碁モード』があるのだ。基礎から定石、大局観に至るまで、最強のAIが相手のレベルに合わせた完璧なカリキュラムで彼を導いてくれるだろう。
しかし、問題はその「内容」である。
(この時点で、ヒカルにカタゴ先生のAI流の打ち方を仕込んでしまったら……原作のストーリーラインが根本から崩壊してしまうんじゃないか?)
ダイレクト三々、星へのツケヒキ、人間が忌み嫌うような一手の連続。そんな未来の技術この少年が振り回せば、進藤ヒカルという存在自体が歴史のオーパーツになってしまう。
だが、そこまで考えて、明日美の中のサラリーマンはふと冷静になった。
(……いや、待てよ。私がこの体に入って、プロ試験を全勝で突破した時点で、すでに原作なんて跡形もなく崩壊しているじゃないか)
そもそも、奈瀬明日美というサブキャラクターが絶対王者として君臨し、プロの公式戦でAI無双を繰り広げている時点で、囲碁界の歴史はメチャクチャである。今さらヒカルの成長過程が変わったところで、大した問題ではない。
それどころか——。
明日美の脳内に、ある打算的な、ひどくおっさん臭い狡猾な閃きが舞い降りた。
(今、囲碁界からの『畏怖』と『ヘイト』は、理解不能なAI流を打つ私一人に完全に集中している。もしこのまま勝ち続ければ、私は一生、孤独なバケモノとして恐れられ続けることになる。……でも、もしヒカルが私と同じAI流の碁を打つようになったら?)
そう、ヒカルを鍛え上げ、『明日美二号』にしてしまえばいいのだ。
未知の打ち方をする人間が一人なら「突然変異のバケモノ」だが、二人いればそれは「新しい流派」になる。ヒカルが猛烈な勢いで強くなり、AI流を引っ提げてプロの世界に殴り込んできてくれれば、現在進行形で増え続けている囲碁界からの注目とヘイトは、彼にも分散される。
いわゆる、リスクの分散であり、ヘイトのヘッジングである。自分が背負っている重圧を、この熱血主人公の少年に半分背負わせることができるのだ。
(これだ……! これしかない!)
打算と保身にまみれた完璧な戦略を思いつき、明日美の内面は歓喜に沸き立った。
「……うん、わかったよ」
明日美は、まるで聖母のように優しく、しかしその奥底にはドス黒い計算を隠した笑顔を浮かべた。
「君のその本気、伝わったわ。これからは暇を見て、私が直接、君に指導碁を打ってあげる。私の頭の中にある神様の碁……そのすべてを、君に叩き込んであげるわ」
「ほんとっ!? やったぜ!!」
ヒカルはガッツポーズをし、顔をクシャクシャにして喜んだ。
「ありがとう、奈瀬! オレ、絶対に強くなって、塔矢をぶっ倒してやるからな!」
打算とリスクヘッジの喜びに満ちた四十二歳のおっさんと、純粋な情熱とライバルへの闘志に燃える中学生の少年。ファミレスの窓を打つ雨音をかき消すように、二人は全く異なる理由でありながら、共に輝かんばかりの満面の笑顔を浮かべていた。
日本囲碁界の歴史をさらに大きく狂わせる、未来のAI流を継承する「第二の刺客」の育成が、今ここに静かに幕を開けたのである。
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