ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい   作:高山 虎

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リスクヘッジとしての弟子育成と、聖母のドス黒い微笑み

実質的に進藤ヒカルが奈瀬明日美の「弟子」となってから、季節は足早に過ぎていった。

 

四月にプロ棋士として正式にデビューを果たした明日美であったが、その日常は彼女の肉体に間借りしている四十二歳のサラリーマンにとって、胃を削るようなストレスの連続である。

 

脳内に宿る未来の超絶囲碁AI『KataGo』。その力を使えば、どんな相手にも勝利することは容易い。しかし、公式戦においては「過去のデータとの整合性を保つため」というシステムの強制により、手加減を可能とする『指導碁モード』の使用が禁じられていたのである。

 

結果として、明日美は手合のたびに、対座する先輩プロたちに対して容赦のない100%出力の「強制無双モード」を叩きつけなければならなかった。相手のプライドを粉々に砕き、何十年と積み上げてきた囲碁の理を根底から否定するような、血も涙もない中押し勝ちの連続。相手が青ざめ、時に震える手で投了を告げる姿を見るたびに、おっさんの良心はチクチクと痛み続けていた。

 

「公式戦で手を抜けない……。大先輩を公開処刑し続けるのは、精神衛生上悪すぎる……」

 

その強烈なストレスの反動から、明日美はプライベートの時間をヒカル、そして彼に憑依する平安の天才・藤原佐為との交流に大きく割くようになっていた。

 

市ヶ谷の日本棋院からほど近いファミリーレストラン。そこが、彼らの秘密の特訓場であった。ここでは公式の記録が残らないため、明日美はKataGoの『指導碁モード』を存分に活用することができる。

 

『おおお……! なんという絶妙な手加減! 私の攻めをいなしつつ、しかし確かなる壁を築いてみせるとは。奈瀬殿の背後にある神の碁は、かくも慈悲深い一面を持っていたのですね!』

 

マグネット碁盤の上で、佐為が歓喜の声を上げる。指導碁モードのKataGoは、ただ相手を蹂躙するのではなく、相手のレベルに合わせて局地的な敗北を許容し、最も学習効果の高い手を打って相手を導いていく。

 

佐為のような千年の経験を持つ天才にとって、それは無限のインスピレーションの源泉であった。

 

対局が終われば、今度は『検討モード』の出番である。明日美の視界には何十手先までの最善の進行ルートと、それぞれの勝率、目数差のパーセンテージがホログラムとして表示される。

 

「佐為、ここのツケは勝率を5パーセント落とす悪手よ。正解はこっちのケイマ。なぜなら、ここからこう進行した時に……」

 

明日美は視界に表示される変化図をマグネット碁盤に並べながら、佐為と高次元の検討(感想戦)を行った。

 

未来のAIの演算結果と、平安の天才の深い洞察。その二つが交わる検討は、現代のトッププロが見れば泡を吹いて倒れかねないほどの、極めて高度で深遠な囲碁の真理の探求であった。

 

そして、そのやり取りを間近で見つめ、時に指導碁の相手を務めていたヒカルもまた、スポンジが水を吸うように急速な成長を遂げていた。未来のAIと平安の天才という二つの極致の狭間で揉まれることで、彼の主人公としての圧倒的なポテンシャルが開花し始めていたのである。

 

しかし、頻繁にファミレスで中学生の少年と碁盤を囲む美少女プロの姿は、当然ながら周囲の目を引いた。

 

「おい、見たか? あの『無敗のバケモノ』奈瀬初段が、最近ファミレスで金髪の子供と碁を打ってるらしいぞ」

 

「なんだって? 相手は誰だ? 院生か?」

 

そんな噂が日本棋院の周辺で囁かれ始めた頃のこと。明日美は先手を打って対外的な言い訳を用意していた。

 

「ああ、彼は進藤ヒカルくんといって、私の秘蔵っ子なの。『弟子』みたいなものかしら。彼の才能は本物よ」

 

明日美は可愛らしい営業スマイルを浮かべてそう答えた。

 

天才美少女の「弟子」。そのパワーワードは瞬く間に囲碁界に広まり、ヒカルに対する注目度を一気に引き上げることになった。明日美からすれば「将来的に自分へのヘイトと注目を分散させるためのリスクヘッジ」であったが、結果としてヒカルの周囲も騒がしくなっていくのだった。

 

ちなみに、このファミレスでの指導碁と検討の繰り返しは、明日美自身にも思わぬ副産物をもたらしていた。

 

KataGoの解説を言葉にして佐為に伝え、盤面に石を並べ続けるうちに、明日美の中に眠っていた「奈瀬明日美の十四年分の記憶」と「現在の経験」がパズルのように結びつき始めたのである。

 

「あれ? なんか私、AIの指示がなくても、院生レベルの碁なら普通に打てるようになってないか……?」

 

おっさんはひそかに自室で己の棋力を確認し、苦笑した。指導碁の代打ちを頼むために始めた関係だったが、結果として自力で指導碁が打てる程度の実力が身についてしまったのは、皮肉な蛇足であった。

 

そうして秋も深まり、街路樹の葉が鮮やかな赤や黄色に色づき始めた十一月のある日の午後。

 

「ふーん。院生試験を受けるんだ」

 

進藤家のリビングに、少し大人びた、しかし可憐な響きを持つ少女の声が落ちた。

 

声の主は、奈瀬明日美。日本囲碁界において、突如として舞い降りた『盤上の女神』にして、既存の囲碁理論をすべて過去のものへと葬り去る無敗の怪物である。

 

彼女の向かいには、少し緊張した面持ちで正座をする金髪の前髪が特徴的な少年、進藤ヒカルが座っており、その後ろには平安時代の狩衣を身にまとった美しい幽霊、藤原佐為がふわりと宙に浮いていた。

 

彼らが顔を合わせている場所が、かつての定位置であったファミリーレストランではなく、ヒカルの自宅であるのには、明確な理由があった。

 

現在の明日美は、ただの「凄腕の中学生」ではない。プロ試験全勝中押し、デビューから無敗、一般紙やテレビも大注目の日本中で知らない者はいないほどの時の人である。彼女の人気は現在も高まり続けており、ファミレスなどにふらりと現れようものなら、あっという間にサインを求める群衆や野次馬、さらには週刊誌の記者たちに囲まれ、まともな会話などできるはずもない状態になってしまっていた。

 

「明日美ちゃん、いつもヒカルがお世話になって。これ、駅前で買ってきたケーキなんだけど、よかったら食べてね」

 

「あ、おばさん、いつもすみません。いただきます」

 

ヒカルの母、美津子が、上品なティーカップと有名店のケーキをテーブルに並べていく。

 

中身が四十二歳のサラリーマンである明日美は、長年の営業職で培った完璧な愛想笑いと礼儀作法で、美津子に深く頭を下げた。

 

本来の歴史——原作の漫画の世界線において、ヒカルの母は「囲碁で食べていく」という息子の途方もない夢に対して、強い懐疑心と不安を抱いていたはずだった。プロになれる保証もなく、なれたとしても一握りの人間しか稼げない厳しい世界。親として反対するのは当然である。

 

しかし、この世界線では状況が全く異なっていた。

 

奈瀬明日美という一人の少女が引き起こした空前の「囲碁ブーム」は、日本社会の囲碁に対する認識を根底から覆していた。

 

連日のようにテレビや新聞で「若き天才」「知性の象徴」として華々しく報じられるプロ棋士の姿を見て、美津子もまた「院生やプロ棋士」という存在に対して、この上ない理解と憧れを抱くようになっていたのである。むしろ、「あのテレビでも大人気の奈瀬先生が、うちの息子に直接囲碁を教えてくれている」という事実に対し、恐縮と感謝の念すら抱いているほどだった。

 

美津子が満足げに部屋から退出すると、ヒカルは身を乗り出して口を開いた。

 

「ああ。オレ、院生試験を受けることにした。奈瀬と佐為のおかげで、最近ようやく自分の碁に自信が持てるようになってきたんだ」

 

ヒカルの瞳には、かつてのような囲碁に対する面倒くさそうな色は微塵もなく、純粋な闘志と向上心が宿っていた。その後ろで、佐為も深く頷いている。

 

『ええ。ヒカルの成長速度は、私の千年の経験から見ても驚嘆に値します。奈瀬殿の背後におられる「神」が示す、一切の無駄を排した究極の効率。それを肌で感じ、吸収し続けているヒカルは、今やかつてのヒカルではありません』

 

佐為の言う通りであった。

 

明日美は、手元のティーカップに口をつけながら、内心で(そりゃそうだろうな)と深い息を吐いた。

 

ヒカルの特訓相手を務めているのは、明日美の脳内に存在する未来の超絶囲碁AI『KataGo』の『指導碁モード』である。相手の癖や弱点を瞬時に見抜き、盤面において最も学習効果の高い手を、絶妙な手加減を交えて打ち下ろしてくる究極のコーチング・アルゴリズム。それに加えて、対局後には『検討モード』による数万回のシミュレーション結果を用いた、佐為という平安の天才との高次元な感想戦が行われるのだ。

 

この時代の常識に縛られない未来のAI流を、天才霊の解説付きで直接脳に叩き込まれ続けているヒカルの実力は、控えめに言っても異常な速度で跳ね上がっていた。

 

(でも……)

 

明日美は、ショートヘアの毛先を指で弄りながら、心の内で冷や汗を流していた。

 

(カタゴ先生の指導碁機能の指標では、今のヒカルの実力は、すでにプロの五段か六段といったレベルだぞ。しかも、打ち回しが完全に私と同じ、ダイレクト三々やツケヒキを多用するえげつないAI流。そんなバケモノが、普通の子供たちが集まる院生試験に行ったら……大丈夫かな? 他の院生たちの心、完全にへし折っちゃうんじゃないか?)

 

自分自身がプロの公式戦で先輩棋士たちを無慈悲に蹂躙し、数々のトラウマを植え付け続けているからこそ、明日美にはヒカルが院生たちにもたらすであろう惨劇の光景が容易に想像できた。

 

「やってやるぜ!」

 

明日美の危惧など露知らず、ヒカルは両拳をギュッと握りしめ、天井を見上げて気勢を上げていた。

 

「院生になって、プロになって……絶対に、塔矢に追いつくんだ! アイツのあの時の目、見返してやる!」

 

ヒカルの脳裏には、中学の囲碁大会で塔矢アキラに向けられた、あの殺気すら帯びた強烈な執着の眼差しが焼き付いているのだろう。

 

しかし、そのヒカルの熱い宣言を聞いた明日美と佐為は、ほぼ同時に、そして全く同じことを心の中でツッコミを入れていた。

 

(いや、もう並んでるというか……多分、今のヒカルなら塔矢くんを余裕で追い越してるぞ……)

 

佐為のAI流に蹂躙されて以来、塔矢アキラの実力も狂気じみた努力によって急成長しているはずだが、常に最新のAIの指導を受け続けているヒカルの成長曲線のほうが、明らかに常軌を逸しているはずだ。

 

(でも、まあいいか)

 

明日美の中の四十二歳のサラリーマンは、心の中で黒い笑みを浮かべた。

 

(ヒカルが強ければ強いほど、都合がいい。今、囲碁界の重鎮たちからの「理解不能なバケモノ」に対する恐怖とヘイトは、私一人に集中している。でも、ヒカルが院生としてデビューし、私と同じAI流で暴れ回ってくれれば、確実に世間の注目とヘイトは彼の方にも分散される。リスクヘッジとしては最高だ。頑張れヒカル、私の盾となってくれ)

 

表面上は「応援してるわ、ヒカルくん」と聖母のような微笑みを浮かべながら、その内側では自身の平穏を守るためのドス黒い打算が渦巻いていた。

 

純粋な少年と平安の幽霊は、目の前の美少女がそんな大人の汚い計算をしているなどとは微塵も疑わず、「おう!」と力強く頷き返していた。




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