[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
第2章 ミレニアム・プロローグ:葡萄農場主の依頼
〈ヴィティス・グロリア(Vitis-Gloria)〉という、合法の皮を被った逸脱アイテムがキヴォトス全域に巻き起こした波紋は、実に凄まじいものだった。わずか一か月余りという短い販売期間ではあったが、ナホトの銀行口座には奇跡のような反転が起こり、彼は最も息の根を締めつけていた違約金のための借入から容赦なく返済し、借金の輪から抜け出した。
シャーレの行政命令によって、刺激的だった小心な復讐劇は幕を下ろした。しかしナホトの胸の内には、新たな熱望が燃え上がっていた。それは農夫としての究極の矜持であり、世界を驚かせる完璧な「新品種」の開発だった。
その壮大な夢を抱き、ナホトはトリニティ最外縁の海岸崖に位置する自分の平和な葡萄農園を離れ、キヴォトス最高の科学技術が集約された学園、「ミレニアムサイエンススクール」へ足を踏み入れた。
「うーん……道はいったいどうなってるんだ。」
ゴシック様式の尖塔と古風な赤レンガの建物が主であるトリニティとは異なり、ミレニアムの景観はまさに冷たい未来都市そのものだった。天を突くようにそびえ立つ銀色の摩天楼、幾何学的な形状のガラスドーム、そして空中を横切るモノレールと清掃用ドローンたち。ナホトは道に迷い、巨大なキャンパス広場の真ん中でぽつんと立ち尽くしていた。
キャンベル葡萄を搾ったような濃い紫色の髪、そして頭上で穏やかに輝くパステルトーンの黄緑色の葡萄蔓ヘイローを誇る頑丈な成人男性の存在は、幼さの残るミレニアムの生徒たちの中で、ひときわ目立たざるを得なかった。
彼がスマートフォンの地図を見ながら額を掻いていると、目の前へ小柄な少女が一人、ぶつぶつ不機嫌そうに歩いてきていた。
独特にも、端正な白黒のメイド服の上に、華やかな金色の刺繍が施された赤いスカジャンを羽織った、奇妙なアンバランスの極致。葡萄畑を不法占拠しようと襲ってくるあらゆるスケバンたちの襲撃と、野生動物を追い払うことに慣れていたナホトの目には、メイド服にスカジャンを着たその女子生徒の姿は、ただ疾風怒濤の時期を迎えている、不良っぽいファッションセンスの中学生程度にしか見えなかった。
ナホトは特有の優しく人のよい黄緑色の瞳を細め、ネルへ向かって手を振った。
「あの、そこの子。『農業技術研究部』がどの建物にあるか知らないかな?」
その柔らかな呼びかけが落ちるや否や、道を歩いていたネルの足がぴたりと止まった。彼女の首がぎしりと音を立てるようにナホトへ向いた。小さく険しい目つきに、冷たい殺気が閃いた。
「ああん? 子ぉ? 頭イカれてんのか? 今すぐ蜂の巣にしてぶっ殺すぞ、テメェ!!」
ネルは歯の間から物騒な罵声を噛み吐きながら、懐から真っ白な二挺機関短銃、ツインドラゴンを抜き放とうとする勢いを見せた。
その殺伐とした反応に、ナホトは狼狽するどころか、心の中で深い同情を禁じ得ず、舌を鳴らした。
『反抗期がかなり強く来ているみたいだね。まあ、敏感な年頃だし。』
ナホトは立派な成人であり、自分が何気なく放った言葉が、小柄な体格にコンプレックスを持つ少女の逆鱗に触れたのだと察すると、すぐに柔らかく呼び方を訂正した。
「ああ、ごめん。僕が失言したね。学生さん、農業技術研究部のある建物がどの方向か、教えてもらえるかな? 地図には部室の位置までは表示されていなくて、まったく分からないんだ。」
大人らしく一歩引き、丁寧に尋ねるナホトの態度に、ネルは一気に興が削がれたような表情で舌打ちし、片方の方向を乱暴に指差した。
「ああ、くそ。縁起悪ぃ。あそこの渡り廊下を越えた先に見える、白い丸い建物だ。分かったらさっさと消えろ!」
「教えてくれて本当にありがとう。」
ナホトは満足げに微笑むと、ポケットをまさぐり、自分が育てた葡萄ジュースで作った手作り葡萄ゼリーを二粒取り出し、ネルの小さな手へそっと握らせた。自分を完全に子供扱いしながらゼリーを握らせるその態度に、ついにネルの忍耐は限界点を突破してしまった。
「っあー、マジで!! 外部の奴だろうが何だろうが、普通にぶっ殺す!!」
タタタタタン――!!
耳を裂くようなけたたましい銃声とともに、ネルが持っていた二挺機関短銃、ツインドラゴンが火を噴いた。今すぐ目の前から消えろと言わんばかりに、ナホトの靴先すれすれの大理石の床へ、無慈悲な威嚇射撃を加えたのだ。四方にコンクリート片が跳ね上がり、焦げ臭い土埃が立ち込めた。
しかしナホトは、目ひとつ瞬かせなかった。むしろ自分の身体には毛先ひとつ触れず、正確に靴先の前の床だけを狙って撃ち込むネルの腕前と態度を見て、淡い笑みを浮かべるばかりだった。
『反抗期が強く来て虚勢を張ってはいるけど、心根は本当に優しい学生なんだな。』
彼は全身の毛を逆立てて威嚇する小さなテンを見るような、温かく優しい視線でネルを見下ろした。やがて軽く手を振って別れの挨拶をしたナホトは、元々歩いていた余裕のあるペースのまま、足を進めた。
威嚇射撃をしていたネルは、その非常識なまでの平然さに呆れたように、ぼんやりと銃口を下ろした。遠ざかっていく彼の大きな背中を呆然と眺めていた彼女は、先ほど自分の銃撃で弾け飛んだ大きなコンクリート片をちらりと見下ろした。
「あー、マジでムカつく……!」
口では物騒な文句を吐きながらも、ネルは通行の邪魔にならないよう、その破片を花壇の方へ蹴って片づけた。
ネルが指差した方向に沿ってしばらく歩き、辿り着いた巨大な白色ドーム型の建物。入口には「ミレニアムサイエンススクール農業技術研究部」という銀色の銘板が、誇らしげに輝いていた。
こんこん。
ナホトが丁寧にノックすると、やがて重い自動扉がすっと開き、研究用の白衣を羽織った女子生徒が一人、顔を覗かせた。
「どちら様ですか?」
「あ、こんにちは。私はトリニティ郊外で葡萄農園を営んでいる農場主、伊豆礼ナホトと申します。こちらの部へ、新品種葡萄の開発依頼をお願いしたくて伺いました。」
依頼という言葉に部員の目がぱっと見開かれると、彼女は慌てて扉を大きく開き、ナホトを中へ案内した。
ドーム内部は、ナホトの想像を超えるハイテク農業の産室だった。土の匂いや腐葉土の代わりに、冷たい金属と消毒薬の匂いが空間を満たしていた。天井からは人工太陽光LEDが、作物の生育に最適化された波長の光を降り注がせており、畑の代わりに直径一・五メートルを優に超える巨大な円筒型透明培養管が、何十本も柱のように並んでいた。
ナホトが驚嘆の眼差しで、培養管の中で育つ植物たちを眺めながら歩いていると、ひときわ目立つ鮮やかな黄色い作物が、彼の視線を奪った。
「……あれ?」
培養管の中には、たわわに実ったバナナの房がなっていた。ところがその下に付いているホログラム札の文言が、見事なまでに異様だった。
【品目:右利き用バナナ/特徴:右利きの平均握力と手首の回転トルクデータを基に、皮の繊維結合を再配列。】
ナホトの背筋を、冷たい汗が一筋流れ落ちた。
『……僕は今、間違った場所に来たわけじゃないよね? 種子を開発してほしいと高い金を預けたのに、まさか皮をバナナみたいに剥いて食べる奇怪な葡萄を作ってしまうなんてことはないよね?』
想像するだけで眩暈がするような不安を必死に抑えながら、ナホトは研究部の最奥、各種モニターとホログラムパネルに埋もれた部長席の前へ進んだ。
「トリニティの農場主様と伺っています。ようこそ。私は農業技術研究部部長、天野芽生です。新品種のご依頼とのことですが、具体的にはどのような作物をご希望でしょうか?」
白い実験着をルーズに羽織り、長靴を履いた少女が眼鏡を押し上げ、タブレットを置いてナホトを見つめながら尋ねた。ナホトは手に持っていたハードケースを、テーブルの上へ慎重に置いた。
カチャリ、カチッ――。
ナホトが金属製のロックを外し、ケースの蓋を開け放った。その瞬間、鮮度維持のために詰めておいたドライアイスの冷たい白い冷気が、テーブルの上へするすると流れ出した。
そして白い霧が晴れた場所には、ベルベットのクッションの上に大切そうに鎮座した、巨大で瑞々しい赤葡萄の一房が、玲瓏たる姿を誇っていた。一般的な葡萄粒の三倍はゆうにありそうな、卓球球ほどの大きさ。傷ひとつなく眩く輝くルビー色の果皮。
それはクロノス朝ニュースで、最近オークションにて十五万クレジットで落札されたという、ナホトが自身のあらゆる真心と農業知識を注ぎ込んで育て上げた、最高品質の「ルビーロマン(Ruby Roman)」だった。
「はっ……! こ、これは……完璧な糖度と酸度のバランスを備えているという……!」
農業技術研究部の部員たちが一斉に息を呑み、モニターから目を離してルビーロマンの周囲へ集まってきた。科学とデータを盲信する彼女たちの目にも、自然の摂理と農夫の丹精が生み出したこの赤い宝石は、驚異そのものだった。
ナホトは柔らかく、しかし揺るぎない確信に満ちた声で口を開いた。
「私が皆さんの技術力に依頼したいことは、単純です。」
彼のパステルトーンのヘイローが、柔らかく輝いた。
「このルビーロマンの限界を遥かに超える、世界に存在しなかった圧倒的な『究極の葡萄』を作っていただきたいのです。」