[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
冷たい冬の海風が、トリニティ最外縁の海岸崖を激しく撫でていった。吐息が白く砕ける季節、伊豆礼ナホトの葡萄農園も、長い休息期に入っていた。
春から秋まで休む間もなく畑を耕し、収穫していた日常は終わった。丹精込めて育て上げた葡萄たちは、とっくに最高値で競りに出されたり、トリニティの主要取引先へすべて売り払われたりしており、残った果肉は用途と等級に応じて第一倉庫、第二倉庫、あるいはα(アルファ)やβ(ベータ)倉庫などに分けられ、涼しい地下熟成室で深い味わいを醸し出している最中だった。
だがこの冬、農園の倉庫システムには、小さいながらも決定的な変化が一つ生じていた。既存の倉庫とは動線を完全に分離し、農園の最奥に二重ロックを備えて新設された「A倉庫」の存在である。
ここは、シスターフッドへ納品する聖餐式および宗教行事用の物品だけを保管するため、特別に作られた特殊区画だった。前回の大ミサで、第一倉庫にあった一般葡萄ジュースを納品すべきところ、第二倉庫にあった普及型葡萄酒を聖なる大聖堂へ納品してしまった、あの痛恨の失敗を二度と繰り返さないために、ナホトが考案した徹底的な物理隔離措置だった。
そうして過去の失敗を完璧に処理し、農園の内実をしっかり固め終えたところだった。
葉をすべて落とした痩せた葡萄蔓だけが、整然とした姿で来たる春を待っていたある日。暖かい暖炉が燃える宿舎で、溜まっていた帳簿を整理していたナホトのスマートフォンが、短い振動とともに光を放った。
【発信:ミレニアムサイエンススクール農業技術研究部】
【件名:ご依頼の新規種子培養完了および受領案内】
【本文:伊豆礼ナホト様。ご依頼いただいたターゲットスペックの遺伝子組換えおよびシミュレーションテストが最終完了し、培養した苗木の出荷準備が整いました。ご来訪のうえ、残金決済後にお受け取りください。】
「ついに……!」
メッセージを確認したナホトの澄んだ黄緑色の瞳に、込み上げる歓喜がよぎった。彼は上着を羽織る暇もなく席を蹴って立ち上がり、外へ向かった。
ナホトが真っ先に向かったのは、農園のど真ん中、日照量が最も豊富で、海風の角度までも完璧に噛み合う、いわゆる「VIP区画」だった。そこはほんの数か月前まで、最高級ルビーロマンが瑞々しい姿を誇っていた、一等地中の一等地だった。しかしナホトは迷うことなく、倉庫からスコップとつるはしを取り出した。
ざく、ぐさっ――!
凍りついた冬の土を掘り進める音が、軽快に響いた。ナホトは既存のルビーロマンの根を慎重に、しかし断固として掘り起こし、別の区画へ移植した。
彼がこれほどまでに莫大な金を投じ、最高級ルビーロマンを掘り起こしてまで新しい種子に執着したのには、農夫としての純粋な熱望のほかに、もう一つ、長年の渇きがあった。
完璧に見えるあの「ルビーロマン」の原種を最初に開発し、品種特許を握っているのが、ほかならぬトリニティとはどうにも相性の悪い「ゲヘナ学園」だったからだ。たとえ辺境にいるとはいえ、ナホトもまたトリニティで生まれ育ったトリニティの生徒だった。自分の農園の最も深く肥沃なVIP区画で、毎年ゲヘナがロイヤリティを握る作物を、まるで大切に祀るように育てなければならないという事実は、収穫期のたびに彼へ妙な苦々しさをもたらしていた。
『ゲヘナの傑作に感嘆するのは、今日で終わりだ。』
彼は深く掘った穴に、あらかじめ熟成させておいた最高級の腐葉土と有機堆肥を惜しみなく注ぎ込んだ。冷たい冬風の中でも、彼の額には玉の汗が浮かんだ。素手で土を握り、温度と湿度を確かめるナホトの口元からは、柔らかな笑みが消えなかった。
満足のいくまで畑の整備を終えたナホトは、その夜ゆっくり休み、来たる明日に備えた。そして翌朝、彼は確かな手応えを胸にトラックのエンジンをかけ、ミレニアムサイエンススクールへ向かった。
「さあ、完璧なスイートルームは用意しておいた。今度は貴賓をお迎えに行こうか。」
ミレニアムの景観は相変わらず冷たく幾何学的な未来都市の姿をしていたが、農業技術研究部の巨大な白色温室ドームの内側だけは、真夏のように暖かく湿った空気で満ちていた。
「いらっしゃいましたね、ナホトさん。」
ルーズフィットの白い実験着を羽織り、長靴を履いた小柄な部長、天野芽生がタブレットを手にナホトを迎えた。彼女の背後には、特注のインキュベーターカプセルがいくつも整然と並んでいた。
「こちらが、ご依頼いただいた新品種の一次培養苗木です。」
芽生がカプセルのホログラムパネルを操作すると、透明なガラス窓の向こうに、青々とした生命力を放つ苗木たちが姿を現した。まだ成人の膝の高さにも満たない幼い苗木だったが、茎の時点で、どこか神秘的なガーネットの色合いが漂っていた。しかも葉の周辺からは、かすかながら甘いマンゴスチンの香りすら滲み出ているようだった。
ナホトは驚嘆の眼差しで、カプセルに手を添えた。
「すごいね……。正直、こんなに早く作られるとは思わなかった。」
「すごいどころじゃありませんよ! ナホトさんが提示した前提条件からして無茶苦茶だったのに、こんなに早く完成したのは『奇跡』そのものです!」
芽生は眼鏡を押し上げ、タブレット画面をナホトの方へずいっと突き出した。彼女の声には、技術的成果への誇りとともに、悪辣な依頼人へ向けた濃い恨み(?)がそのまま滲んでいた。
「『ルビーロマンを遥かに超えること。ただし、ゲヘナが特許を持つルビーロマンの遺伝子は、ベースに一パーセントたりとも混ぜないこと』。しかも『必ずナホトさんが直接送ってきたトリニティ在来種の葡萄をベースに使用すること』! こんなの、まともな要求だと思いますか? 世界最高峰の品種を使わずに、それを超えろだなんて!」
「あはは、作業するにはかなり厄介だったみたいだね。」
「厄介どころじゃありません! 既存のルビーロマンを改良するだけなら、ずっと簡単だったはずですからね。でも私たちは、そのひどい条件と知的財産権(IP)を完全に回避するため、ナホトさんが提供したトリニティ在来作物を、私たちミレニアムの植物データベースと結合し、ゼロから遺伝子を組み上げなければならなかったんですよ!」
芽生は悔しそうに熱弁を振るった。
「あの真っ白なキャンバスみたいな土着種たちで、完璧な『ルビーロマン・ライク(Like)』ベースを作り上げるだけで、研究部の予算とスーパーコンピューターのサーバートラフィックの半分が吹き飛んだんですから! ともかく、その地獄の苦労の末に基礎を固めてから、ようやくご依頼のターゲットスペックを上乗せできたんです。」
芽生が画面を切り替えると、無数の遺伝子配列表とともに、生育シミュレーション結果がびっしりと表示された。
「結果はご覧の通りです。まず果肉の芳香のため、エステル系化合物であるヘキシルアセテート(Hexyl acetate)とリナロール(Linalool)の生合成経路を限界値まで増幅しました。食感については、細胞壁のペクチン分解酵素(Polygalacturonase)の発現を完全に抑制し、高メトキシルペクチン(High-methoxyl pectin)の密度を高めることで、細胞膨圧を弾性係数の最上位値に固定しました。」
芽生は説明を続けるほど、「この凄まじい設計図を見てください! そして感嘆してください!」と言わんばかりに熱を帯び、堰を切ったように説明を続けた。
「果皮の表皮細胞層(Epidermal layer)を極限まで薄く削り、クチクラワックスの形成を減らしました。ただし脱粒を防ぐため、果梗(Pedicel、茎)がつながる離層部分のエチレン受容体を除去し、リグニン(Lignin)生合成を集中させて枝との結束力を強化しました! そして我が研究部の予算を食い潰した元凶! 細胞呼吸で発生した二酸化炭素(CO₂)が外へ逃げないよう、細胞膜にガス不透過性脂質二重層を適用しました! さらに果肉内部に数百万個のナノ単位の多孔性液胞を培養させる成長設計によって、CO₂を微細気泡の形で捕捉するメカニズムを構築し、炭酸の清涼感を感じられる葡萄を完成させたんです!」
説明を並べ立てる芽生の鼻は、天を衝くほど高くなっていた。興奮して語る芽生のブリーフィングを聞きながら、ナホトの口元には小さな笑みが浮かんだ。芽生の説明の三分の一ほどしか理解できなかったものの、望んだ通りにうまく作られていることは分かったからだった。
「お疲れさま、芽生。本当に期待以上だよ。」
褒められた芽生は、やがて咳払いをし、真剣な表情で付け加えた。
「ただし、肝に銘じておくべきことがあります。私たちが回したのは、あくまで制御された環境下での『シミュレーション』にすぎませんから。気候、土質、微生物、そしてナホトさんの管理方法など、数え切れない変数が存在する実際の自然の中で、この苗木がどう育つのか、実際にシミュレーション通りの実を結ぶのかは、完全にナホトさんの腕にかかっています。実際に土へ植えて育ててみるまでは、成功を保証することはできない、という意味です。」
「それで十分だよ。」
ナホトは人のよい笑みを浮かべ、快く頷いた。いくら科学技術が発達しても、結局、農作物を完成させるのは土の力と農夫の汗である。ナホトには、そう設計された作物なら、その設計通りに完璧に育て上げられるという揺るぎない自信があった。
ナホトは懐からスマートフォンを取り出し、ミレニアムの指定口座へ莫大な依頼残金を一括で振り込んだ。「ピロン」という軽快な入金確認通知音とともに、芽生の顔にも明るさが差した。
「残金決済を確認しました。それでは苗木の積み込みをお手伝い……。」
「あれ、ちょっと待って。」
苗木の入ったインキュベーターカプセルをトラックの荷台へ慎重に運ぼうとしていたナホトの動きが止まった。彼の瞳が、カプセル内の苗木の数を素早く数えた。
五、十、十五、二十、二十五……。
そして二十八。
「芽生さん。確か最初の契約では、培養する苗木の数は三十本だったと思うんだけど。どう数えても二十八本しかない。」
ナホトの問いに、芽生はまったく慌てた様子もなく、むしろ「ああ、それを説明していませんでしたね」とでもいうような顔で肩をすくめた。
「あ、ナホトさんは種子開発依頼が今回初めてでしたよね?」
「初めてだけど、それと数が足りないことに関係があるの?」
「キヴォトスの農業条約に関わる保安規定があるんです。野生で自然発見された種子ではなく、研究機関を通じて遺伝子的に新しく開発された農作物種子は、病害虫抵抗性データのバックアップと生態系保全のため、必ず二つのサンプルを義務的に徴収されることになっています。」
芽生は指を二本立てて、説明を続けた。
「一つは、私たちミレニアムサイエンススクールの地下最深部に位置する『超精密生物資源保管庫』に、アーカイブ目的で永久保存されます。そしてもう一つは……。」
芽生はしばし言葉を止め、舌打ちした。
「連邦生徒会の地下のどこかに極秘で存在すると言われている『キヴォトス・シードボルト(Seed Vault)』へ行くことになります。実際のところ、既存品種と異なる特色ある新品種が開発された場合、生態系保全法に従って義務的に通らなければならない、単なる種子バックアップ手続きです。ナホトさんの名前で、正式な新品種登録が完了したということですね。」
その言葉に、ナホトは小さく笑った。ただ自分の農園で、ゲヘナのルビーロマンを超える最高の果物を育てたかっただけなのに、自分が育てる新しい種子が、あの鼻の高い秘密主義の連邦生徒会地下深くにまで保管されるとは。
「種子アーカイブか……。そういう目的なら、拒む理由はないね。分かった。」
ナホトが素直に受け入れ、カプセルの取っ手を掴んだ時だった。芽生が突然、タブレットを苛立たしげにぱしんと置き、不満をぶちまけ始めた。
「はあ、本当に納得いかないんですよ! 義務登録制とはいっても、まず連邦生徒会と各学園の厳しい審査委員会を通して、『保存するだけの特色』を認められなきゃならないんです。なのにナホトさんの葡萄は、書類を上げた途端に『圧倒的な商品性と特殊性』がどうこう言われて、フリーパスで判を押されたんですよ。」
「いいことじゃない?」
「いいことではありますけど、腹が立つじゃないですか! うちの農業技術研究部の最高傑作である『右利き用バナナ』は、特色が足りないって審査で三回も入口落ちしたんですよ!」
芽生は悔しそうに拳を握り、熱弁した。
「いや、人間工学的回転トルクを計算して、右四十五度に剥いた時に完璧な快感をもたらすこの革新的な生体メカニズムを見抜けないなんて! 『左利きへの差別なのか』『保存に値する実用的特色がない』みたいな古臭い言い訳ばかり並べて差し戻したんですよ? うちのバナナは通してもくれないくせに、ナホトさんの葡萄は当日決裁だなんて、上層部の頭の中にはいったい何が詰まっているんでしょうね、まったく!」
憤慨して息を荒げる芽生の姿を見ながら、ナホトはぎこちない笑みを浮かべ、静かに視線を逸らした。
『常識的に、指定された手でしか皮を剥けないバナナの種子を、わざわざ保存したいとは思わないだろうな……。』
心の中では審査委員会の卓越した判断力に深く共感し、スタンディングオベーションを送りたい気分だったが、わざわざ怒っている芽生の逆鱗に触れる必要はなかった。ナホトは思わず上がりそうになる口角を抑え、無害な声で慰めた。
「そうだね。時代を先取りしすぎたせいで、既得権益側がその革新を理解できなかったんだろうね。それでも、その右利き用バナナもいつか日の目を見る日が来るよ。それじゃ、僕はそろそろ行くね。」
「はあ……はい。お帰りください。来年の春に芽が出たら、生育データは必ず共有してくださいね!」
ぶつぶつ文句を言う芽生を後にして、ナホトは二十八本の貴重な苗木が入ったインキュベーターをトラックに積み込み、ミレニアムを離れた。
窓の外では相変わらず厳しい冬風が吹いていたが、ヒーターが弱く回る荷台の中では、キヴォトス農業の歴史を塗り替える赤い生命たちが、静かに息を整えていた。雪に覆われた道を走るナホトの黄緑色の瞳は、すでに凍りついた土を突き破って芽吹く、暖かな春の奇跡を見据えていた。
その苗木たちが秘めている濃密なフェロモンが、来たる夏の農園にどれほど恐ろしく巨大な災厄(?)を招くのかなど、想像すらしないまま。
※天野芽生は本作品内のオリジナルキャラクターです!