[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
凍りついていた大地が溶け、トリニティ最外縁の海岸崖にも、例年どおり暖かな春風が吹いてきた。冬の間縮こまっていた命たちが伸びをする季節、伊豆礼ナホトの葡萄農園も、本格的な一年の農作を始める準備を完璧に整えていた。
ナホトの農園は、効率的な管理と徹底した保安のため、巨大な円形の同心円構造で設計されていた。
最も外側を囲む第5地帯には、ジャムやジュース用として大量納品される一般葡萄が広く並んでいた。その内側である第4地帯と第3地帯に移ると、一般庶民でも祝日の贈答品として、あるいは少し思い切って財布を開けば味わえるシャインマスカットやブラックサファイア、そしてシスターフッドの宗教的儀式に使うため特別に管理された葡萄など、中高級ラインナップの品種たちが、瑞々しい粒を実らせる準備をしていた。
そして厳重なフェンスとミレニアムの防衛機械が並ぶ第2地帯からは、各学園を代表する最高級プレミアム品種が育つ、いわば「貴族たちの庭」だった。トリニティの優雅な品格を宿した青葡萄「セイントパール(Saint Pearl)」、山海経農業特区が誇る瑞々しい紫の果実「山海紫玉」、ワイルドハント芸術学院が培養した深く濃厚な甘みの黒葡萄「ブラックベルベット(Black Velvet)」、そしてかつて最奥区画を占めていたゲヘナ学園の傑作「ルビーロマン」まで。
最後に、農園の最中心部であり心臓である第1地帯。そこにはこの春、ミレニアムのオーバーテクノロジーとナホトの骨を削るような資本が投入されて誕生した「究極の新品種」の苗木が、しっかりと根を下ろしていた。その品種専用に設計されたミレニアムの成長促進剤と、ナホトの細やかな管理のおかげで苗木たちは日ごとにすくすくと育ち、葉からは淡いながらも心地よいマンゴスチンの甘い香りが、畑全体へほのかに広がり始めていた。
だが、その濃密で甘い香りが農園の平和を打ち砕く、奇想天外な攻城戦の狼煙になるとは、ナホトでさえ予想していなかった。
「……これはいったい何の跡だ?」
ある晴れた春の朝、鼻歌を口ずさみながら第1地帯の苗木の状態を確認しに向かっていたナホトの足が、第2地帯の前でぴたりと止まった。彼の澄んだ黄緑色の瞳が、かすかに揺れた。
第2地帯に植えられた最高級ラインナップの葡萄の木。その中でも、ようやく芽吹き始めた柔らかな葉の一部が、何者かに無残に食い荒らされており、きれいに整えておいた腐葉土の地面には、大小の獣の足跡が乱雑に刻まれていた。
「あり得ない。」
ナホトは呆れたように額を押さえた。幸い、中心部である第1地帯の新品種には到達していなかったが、この足跡が意味することはかなり衝撃的だった。侵入者たちは外縁の第5地帯を突破し、第4地帯と第3地帯に敷かれている防衛機械に半数以上を迎撃されながらも、ついにこの第2地帯まで食い込んだという意味だったからだ。
常識的に不可能なことだった。その防衛機械は通常水準ではなく、エンジニア部の過剰な情熱によって作られたオーバーテクノロジーの産物だったからである。AIで雑草と害虫を識別するレーザー迎撃ドローンが空中を巡回し、害鳥獣や山の獣を追い払う非殺傷ゴム弾タレットが青い眼光を光らせながら二十四時間の監視網を張っている場所であり、人間どころか虫さえ見かけるのが難しい場所。それがナホトの葡萄農園だった。当然、ナホトは機材の性能低下を疑った。
「もしかして冬の間ずっと吹雪を受けて、機械が凍りつきでもしたのかな? それともセンサー性能が落ちた?」
ナホトはすぐにポケットからスマートフォンを取り出し、ミレニアムのエンジニア部へ電話をかけた。
――「ははは! どうした、トリニティの農場主! もしや我らエンジニア部の傑作に感動して、追加注文でもしようというのか?」
受話器の向こうからスパナを回す軽快な金属音とともに、エンジニア部部長、白石ウタハの自信に満ちた声が聞こえてきた。
「ああ、ウタハさん。こんにちは。相変わらず声が元気だね。それがさ……追加注文じゃなくて、アフターサービスか点検を頼みたいんだ。どうも獣たちが第2地帯まで入ってきたのを見るに、冬の間に機械が仕事をしなくなって、センサー性能が落ちたみたいで。」
ナホトの言葉に、ウタハの声は一瞬で鋭くなった。いや、エンジニアとしての誇りを深く傷つけられたような口調だった。
――「何という寂しいことを言うのだ! 我らミレニアムの粋が込められた傑作たちが、たかだか冬を一度越しただけでセンサーが凍りついたり性能低下したりするなど、論理的矛盾だ! 我々の機械はマイナス四十度でも誤差率〇・〇〇一パーセント未満を誇るのだぞ!」
「でも、獣たちが堂々と第2地帯の葡萄の葉を食べた跡があるんだ。」
――「我々は言葉を信じない! データだ、データを持ってこい!!」
「データ?」
――「そう、データだ! 本当に機械が突破されたと主張したいなら証拠を持ってこい! 該当機械のEDR(Event Data Recorder、事件記録装置)映像と待機中センサー作動ログ、そして虫が来たにもかかわらず機械が適切に迎撃できなかったことを明白に証明できるCCTV録画を、すべてダウンロードして送るのだ。君の目の前にあるその現象を、純粋なデータで証明してみせたまえ!」
潔白を主張するウタハの堂々たる態度に、ナホトは口を鳴らしながら黙って農園管制室へ向かった。彼はウタハが要求したとおり、昨晩のEDR記録と、第3、第4地帯を映す夜間赤外線CCTV映像をダウンロードし、モニターに表示した。そして映像を再生してわずか三分で、ナホトは飲んでいた梅茶をモニターにそのまま吹き出してしまった。
「ごほっ、けほっ! こ、これは何だ!?」
画面の中に映っていた野生の生態系は、自然ドキュメンタリーではなく、スパイアクション大作に近かった。
まずナホトの目を疑わせたのは、ありふれた羽虫と毛虫たちだった。
空中を巡回していたミレニアムの多目的レーザードローンが、地面に生えた雑草を見つけて焼却するために銃口を下へ向けた瞬間。照準補正のためドローンのスキャニングセンサーが地面に固定された、まさにその一・五秒の隙を突き、隠れていた虫たちが悠々と上空の死角を横切って第3地帯の内側へ侵入していた。
ドローンは遅れて空中へ銃口を戻しレーザーを撃ったが、丸々と太った毛虫の一匹が空気抵抗を逆利用して腰をひねり、完璧な回避機動(Barrel Roll)で光線をかわす場面は、まさに驚愕そのものだった。
それだけではなかった。ゴム弾タレットを相手にする獣たちの動きは、戦術教本さながらだった。
狐と狸たちは畑を横切って無謀に突撃する代わりに、葡萄の木の幹と鉄製支柱を盾にし、タレットのセンサーが回るタイミングに合わせて、完璧な「隠蔽と遮蔽」を繰り返していた。まるでタレットの視野角を読み切っているかのように、奴らはタレットが認識できない狭い影だけを踏み、匍匐前進で第2地帯まで到達したのだ。
『病害虫と害鳥獣が、機械のパターンに完全に適応してしまったっていうのか……?』
自然の驚異的な進化と生存本能に鳥肌を立てたナホトは、呆然としたまま該当EDRデータとCCTV映像をそのままエンジニア部へ送信した。
ほどなくして、映像を確認したウタハから慌ただしく通話がかかってきた。
――「ふははははっ!! ナホト! これは本物か? AIで合成した映像ではないだろうな?!」
受話器の向こうでウタハは豪快に笑っていたが、内心では機械工学的な勝負欲で恐ろしいほど燃え上がっていた。
――「驚異的だ! 実に驚異的だ! 獣たちが多目的ドローンのタスクスイッチング(Task Switching)ディレイを計算し、タレットの物理的視野角限界を逆利用して隠蔽・遮蔽するとは! 自然の生存能力とは、感嘆に値するものだな。」
ウタハは興奮を鎮め、エンジニアとしての矜持が宿る声で宣言するように言った。
――「だが心配はいらない! たかが大自然ごときが、我らミレニアムの技術力を相手に進化の速度戦を挑むとはな。エンジニア部の誇りにかけて、この狡猾な連中に圧倒的工学の苦味を味わわせてやろう!」
通話が切れたその日の午後。ナホトの農園上空へ、ミレニアムの大型輸送ドローンが重いコンテナボックスをいくつも運んできた。
ウタハが提示した解決策は、ミレニアムらしく極めて明快で、かつ暴力的だった。
輸送機から降ろされた第一の措置は、「役割の完全分離」だった。従来、雑草除去と害虫迎撃を同時に担っていた多目的ドローンがコンテナボックスへ回収され、その中から、地面だけを焼く「雑草焼却専用モデル」と、空だけを監視する「害虫迎撃専用モデル」が蜂の群れのように飛び出し、各所へ再配置された。
今や隙を狙って侵入しようとしていた羽虫たちは、二十四時間ひたすら対空だけを睨み続ける迎撃ドローンによって、灰になる運命だった。
第二は、葡萄の木の支柱の裏で隠蔽と遮蔽を繰り返していた狡猾な獣たちを捕らえるための、特別な幾何学的措置だった。
『いや、あのタレットに脚も付いていたのか?』
ナホトの農園に根でも下ろしたかのように固定されていたタレットから、突如として蜘蛛のような四対の脚が生え、ぞろぞろと這い回りながら既存配置を変え始めた。さらにコンテナの中からも新たな砲塔が列をなして這い出し、畑の各所へ散っていった。
ナホトは、蜘蛛の群れのように畑を這い回る機械たちの慌ただしい動きを、ただ呆然と眺めるしかなかった。やがてすべてのタレットが申し合わせたように一斉に脚を畳み、配置についた瞬間、タイミングよくナホトのスマートフォンが鳴った。
「もしもし。」
――「はは! 配置は完璧に完了したぞ、ナホト! どうだ?」
受話器の向こうから聞こえるウタハの満足げな声に、ナホトは戸惑いながら答えた。
「ああ……ありがとう。ものすごく早いね。今のあれ、全部機械が自動で勝手に位置取りしたの?」
――「何を言う! 既存設置済みのタレットについては、今、私を含めたエンジニア部員たちが部室で衛星写真から君の農園をリアルタイムで見下ろしながら、ジョイスティックで一つ一つ精密に手動遠隔配置したのだ!」
ミレニアムの過剰な誠意(?)と執着に、ナホトは乾いた笑いを漏らしながら純粋な疑問を投げた。
「いや、わざわざそこまで……? 普通に空いている場所へタレットを多めに追加配置するだけじゃ足りなかったの?」
――「奴らが隠蔽・遮蔽をしたということは、タレットの視界に『死角』が存在したということだ! そこで計算幾何学の古典的難問である『美術館問題(Art Gallery Problem)』のアルゴリズムを畑全体に適用した!」
「美術館問題?」
ナホトが聞き慣れない単語に首をかしげると、突然通信の向こうから、ウタハではない別の幼い声が割り込んできた。
――「説明しますと!」
ミレニアムエンジニア部の部員、豊見コトリの、ひどく高揚した声だった。
――「美術館問題とは、複雑な多角形の形をした美術館の平面図において、最小限の警備員だけで美術館内部の全空間を監視するには、警備員をどこに配置すべきかを解く数学的証明です! ヴィクター・クレーが最初に提案し、ヴァーツラフ・フヴァタルが証明した、非常に美しい定理ですね!」
息継ぎもなく吐き出されるコトリの熱烈な説明が、管制室のスピーカーをびりびりと震わせた。
――「私たちは農園のすべての葡萄の幹と支柱を、多角形の頂点および障害物として計算しました! そこにタレットの認識範囲と弾道を代入し、既存タレットと視界を交差させることで、農園内部の一〇〇パーセントを完璧に監視できる最適な追加座標を算出したのです! 一言で言えば、数学が生み出した完璧な監視網ということです!」
コトリの明快でありながら長大な説明とともに、新たに算出された幾何学的座標へ、自ら歩いていった新型ゴム弾タレットが緻密に配置されていった。障害物の裏に隠れたとしても、必ず反対側か側面に位置する別のタレットの視野に入るようにする、数学的に完璧に制御された交差監視網だった。
――「これで奴らが息を潜められる死角は、一ミリたりとも存在しません!」
役割を完全に分担したドローン編隊が空を隙間なく掌握し、地上ではたった一つの影も許さない数十台のタレットが、機械音を立てながら同時多発的なスキャニングを開始した。
トリニティ郊外の静かだった農園は、まさに息詰まるような難攻不落のハイテク軍事要塞へと変貌していた。この完璧な計算幾何学的防衛線を突破できる獣は、少なくともキヴォトスの常識の範囲内では、もはや存在しないはずだった。
「やりすぎな気もなくはないけど……新品種の初収穫をする今年だけは、過剰に守ってみようか。」
圧倒的な要塞化ぶりに苦笑しながらも深く満足したナホトは、農園管制室の明かりを消した。明日からはミレニアムの鉄壁の保安の中で究極の新品種を世話する、本当に平和な農夫の日常が始まるのだと固く信じて疑わず、彼は頼もしい足取りで宿舎へ向かって歩いていった。