[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
数十台の高性能サーバーが吐き出す熱気を冷ますため、エアコンが休むことなく冷気を吐き出している薄暗い部屋の中で、小鈎ハレがぼんやりとした目で空のエナジードリンク缶を弄んでいた。
「ふぁあ……眠い……」
彼女の目の下には、何日も徹夜したかのような濃い隈が沈んでいた。モニターの光に反射した彼女の顔は疲労にまみれていたが、視線だけはホログラムスクリーンに固定されていた。
「こういう時は、高カフェインのエナジードリンクを一杯流し込まないと目が覚めないんだけど……」
「だから普段から少しは寝なさいって言ってるでしょ。毎日ジャンクフードばかり食べて、運動はほとんどしないくせに。いつもあの息苦しい部室に閉じこもってモニターの光ばかり眺めてないで、たまには外にも出て風に当たりながら緑陰を見て、日光浴くらいしなさいよ」
メインサーバーのファイアウォールコードを調整していた各務チヒロが、眼鏡を直しながら小言を言った。
ハレは返事の代わりに軽くため息をつき、キーボードをカタカタと叩いた。すると、宙に浮かんでいたホログラムモニターの上に新しいウィンドウがポップアップし、キヴォトス全域を見下ろす衛星写真が表示された。
なるほど、かつて新年最初の日の出さえ、外ではなくMMORPGゲーム内の平原地帯でモニター越しに鑑賞しようとしたことのある、極めてサイバネティックな「外の景色鑑賞」方式だった。
「……あれ? これ、何?」
画面をぼんやり見つめていたハレの気だるい声に、微かな疑問と困惑が滲んだ。彼女のモニターの片隅で、赤い警告ウィンドウが狂ったように点滅していた。
「チヒロ部長。これ見て。アビドス西区ワディの植生指数、NDVIが完全に崩壊してる」
「砂漠に少し草が生えたって、クロノス報道部が大騒ぎしてたあの地域のこと?」
チヒロが椅子の向きを変え、ハレのモニターの方へ近づいてきた。
「うん。雨が止んで、また炎天下になったから水分が乾いて草が枯れていくのは自然な現象なんだけど……減少速度が物理的にあり得ない。見て」
ハレの指がキーボードの上を素早く滑った。画面に表示されたアビドスの衛星地形図の上で、植物の分布を示す青色と桃色のピクセルが、まるで誰かが消しゴムでごしごし擦って消しているかのように、リアルタイムで削り取られていた。
「光学衛星カメラに切り替える。解像度は最大まで寄せて」
ジィィン――。
画面のノイズが晴れ、鮮明なカラー映像が送出された瞬間、ヴェリタスの部員たちは自分たちの目を疑うしかなかった。
「うわ、あれ全部なに? 砂嵐?」
部室の隅でタブレットに何かを書きつけていた小塗マキも、いつの間にかとことこと走ってきて、画面を見ながら目を丸くした。アビドスの赤い砂漠の上を、巨大で真っ黒な雲のようなものが渦を巻きながら地表を薙いで通り過ぎていた。だがそれは、土埃でできた砂嵐などではなかった。
「違う、あれは……。熱映像カメラでスキャンする」
ハレが淡々とフィルターを切り替えると、真っ黒な雲全体が真っ赤な生物学的熱源、サーマルシグネチャーを放ちながら蠢いた。数千万、いや数億単位の個体が集まって作り出した、凄惨な生物の絨毯だった。
その時、隅で大きなヘッドホンをつけたまま、キヴォトス全域のありとあらゆる雑多な電波とオーディオデータを収集していた音瀬コタマが、恐る恐るヘッドホンを外して口を開いた。
「あの……ハレ先輩、チヒロ部長。さっきハレ先輩が表示した座標付近の環境監視マイクロ波から、ものすごく不吉な音が拾われています」
「コタマ? どんな音なの? メインスピーカーに繋いでみて」
コタマがオーディオチャンネルを切り替え、音量を上げた。
瞬間、ヴェリタスの部室全体に、背筋の凍るようなオーディオが響き渡った。
――チキギギギギギギッ!! ザガッ! パダダダダダッ!
まるで数万個の歯車が無理やり噛み合って回っているかのような不快な摩擦音と、何かを噛み砕く破裂音が混ざった振動音だった。数億枚の昆虫の羽が一斉に擦れ合って出す、大自然が生み出した恐怖の騒音。
「うわあっ! なに、この鳥肌の立つ音は!?」
マキがぞくぞくと身震いしながら耳を塞ぐと、コタマが慌てて音量を下げた。チヒロは額に浮かんだ冷や汗を拭い、眼鏡を直した。
「あれは……イナゴの群れね。環境の急激な変化と個体数の爆発的増加によって臨界点を突破し、群居相へと変態してしまった突然変異体たち」
「砂漠に降った豪雨が生命の奇跡を呼んだんじゃなくて、ああいう怪物たちを孵化させてしまったってことだね」
ハレが顎を乗せたままモニターを見つめ、淡々と呟いた。ミレニアムの天才ハッカーたちでさえ、大自然が見せる凄惨なスケールの前では息を呑むしかなかった。
「待って、部長。もっと変なところがある」
ハレがオーディオスペクトラムを分析し、スクリーンに二つの異なる波形を表示した。
「この高周波の振動音がイナゴの群れの羽ばたきだとしたら、低音域に敷かれている周波数は何? 虫の群れの中心部に、何か別のやつらが混じってる」
コタマが手慣れた動きでオーディオフィルターを調整し、低音域の音だけを分離した。
――ブウウウン。ブン。
「……オオスズメバチですね。それも普通の大きさではありません。データベースを通じて波形をマッチングした結果、『アビドス巨大オオスズメバチ』の羽音と98.88%一致します」
コタマの無機質な報告に、チヒロが首を傾げた。
「草食昆虫のイナゴの群れに、肉食性のアビドス巨大スズメバチが混じっているってこと? 生態学的にあり得ないでしょ。互いに食い合わずに群れを作って一緒に移動しているの? まるで誰かが道案内しているみたいじゃない」
「そう。これは一時的な共同戦線だよ」
ハレが衛星映像を一時停止し、真っ黒なイナゴの群れの最前列部分をピクセル単位で拡大した。そこには濃い赤褐色のイナゴたちの間に、ひときわ巨大で凶悪な大顎を持つ数百匹のスズメバチが、整然と最前方で飛行していた。数億匹のイナゴの群れは、そのスズメバチたちが作り出す巨大な飛行気流、スリップストリームに自然と乗り、体力を温存しながら無思考に空を切り裂いていた。
「あの途方もない昆虫連合軍の予測軌道を見て。アビドス外縁を抜け出して、正確に南……『トリニティ自治区の最外縁の海岸沿い』に向かって一直線に飛んでいる」
ハレが算出した赤い予測経路線が、地図の上を横切った。
その時、マキが突然ぱんと手を打った。
「あ! 私、そこがどこか分かる気がする! トリニティの海岸崖の方にあるブドウ農場!」
「マキ、心当たりがあるの?」
「うん! 数日前にエンジニア部が予算をものすごく持っていったから、どうやってユウカ先輩を丸め込んだのかなって思って、『エンジニア部』の秘密フォルダをちょっとだけ開けてみたんだよね」
マキの口元にいたずらっぽい笑みが広がった。
「エンジニア部のウタハ先輩が、『社会貢献プロジェクト活動』の成果のおかげだったみたい。トリニティ外縁の農場に、多目的迎撃ドローンと死角ゼロのタレット網をずらっと敷く依頼だったんだ! 私、その農場から送られてきたEDR、イベントデータレコーダーの映像をこっそり見たんだけど、あの『アビドス巨大スズメバチ』たちが鉄壁の防衛網を突破して、結局ブドウの粒を食い荒らしたことがあったんだよ!」
「……ちょっと待って。じゃあ今の状況、どういうことになってるの?」
チヒロが呆れたように乾いた笑いを漏らしながら、モニターを指さした。
「あの巨大スズメバチどもが、この前農場を襲いに行ってミレニアム製の機械に叩きのめされた仕返しをするために、今あの5億匹規模の飢えたイナゴの群れを、まるで雇われヤクザか解体業者みたいに前に立たせて、リベンジマッチに向かっているってこと!?」
「私が言ってるのはそれだよ! 賢いスズメバチたちが、あの甘いブドウの匂いと自分たちを叩きのめした機械をはっきり覚えているんだよ。自分たちの力だけじゃ突破できないから、食欲に狂ったイナゴの群れを餌にして、肉の盾か攻城槌みたいに投げ込もうとしている、ものすごく悪辣な魂胆ってわけじゃない!?」
マキが手を叩きながら、楽しそうにそれらしい仮説を立て始めた。大自然の生物たちがこんな複雑な復讐劇を企画するというのは、生物学的にはあり得ない話だったが、モニターに映るあの背筋の凍るような昆虫連合軍の行軍は、マキの突拍子もない仮説以外では到底説明のしようがなかった。
「……その仮説が合ってるか間違ってるかは、あとで時間がある時に昆虫図鑑でも漁って確認するとして」
ハレが小さくため息をつき、特有の気だるくも棘のある声で、マキの浮ついたテンションを沈めた。彼女は椅子に深くもたれた姿勢のまま、モニターを指さした。
「今すぐ重要なのは、あの数億匹規模の災厄が現在トリニティに向かって飛んでいるってことじゃない」
その言葉にチヒロが重く同意するように頷き、指示を出した。
「そうね。これは私たちの部活の範囲で見物だけしていられるスケールじゃない。まずセミナーに報告して、ミレニアム次元の警報を発令してもらって、該当自治区であるトリニティと農場主にも急いで連絡を取った方がいい」
チヒロはすぐに、セミナーの知り合いの後輩に電話をかけた。
「……ノア、私。今、アビドスで発生したイナゴの群れがトリニティ方面へ南下中なのを衛星で確認した。セミナーの立場から、トリニティの『ティーパーティー』側にこの緊急事態を必ず伝えて」
チヒロがセミナー側にトリニティとの外交的連絡を一任している間、マキが自分のタブレットをとんとん叩いて農場に電話をかけながら言った。
「じゃあ私は農場主に連絡してみる!」
トゥルルル――トゥルルル――。
しかしスピーカー越しに長く続いた呼び出し音は、結局留守番電話へと切り替わってしまった。
「あれ? 出ないね。今日は休日だから事務所にいないのかな?」
「……今ごろ外でブドウを摘んでいる最中だろうに、空っぽの事務所の電話を誰が取るの」
ハレが気だるい声で小言を言いながら、椅子をくるりと回してメインコンソールの前へ近づいた。
「ちょっとどいて。農場の番号じゃなくて……キヴォトスの土地台帳を閲覧すれば、所有者の個人携帯番号を確認できるはず」
ハレは躊躇なく突き止めた番号へ、そのまま電話をかけた。
トゥルルル。
――[はい、イズレです]
受話器の向こうから聞こえてきたナホトの声は、実に穏やかだった。ハレの予想通り、ちょうど第3区画から第5区画までのブドウを収穫している最中に電話を受けたらしく、しゃきしゃきとした鋏の音が混じって入ってきた。
「……あ、突然の連絡ですみません。私はミレニアムサイエンススクールのハッカー部、ヴェリタスの小鈎ハレといいます」
――[ヴェリタスですか? ああ、セミナーのノア書記からちらっと聞いたことがあります。情報収集能力がとても優秀な部活だとか……。ところで、ハッカー部が私の農場にどういったご用件でお電話を? ブドウのご注文ですか?]
「……今、衛星で確認したところ、アビドスで発生したイナゴと巨大スズメバチの群れが、ナホトさんの農場へ向かって一直線に飛んでいます。早ければ30時間以内に到着します」
ガシャン――!
受話器の向こうで、グラスなのか籠なのか分からない何かが床に落ちて砕ける音が、けたたましく響いた。事態の深刻さを認識したナホトの息遣いが、一瞬で荒くなった。
――[そ、それで! ま、まさかトリニティ側……ティーパーティーには連絡を取りましたか!?]
ハレはナホトの切迫した反応を、ティーパーティーに早く連絡してほしいという頼みだとばかり思い、淡々と答えた。
「はい。ついさっき、うちの部長がセミナーを通じて、ティーパーティー側に虫の群れが飛来していると緊急連絡を入れました。事務局では現在会議中なので後で伝えるとのことでしたから、近いうちに軍事力が動く……」
――[くそっ、今すぐその連絡を取り消してください!!]
ナホトの口から、普段の優しさを完全に投げ捨てた、まさに切迫して引き裂かれるような悲鳴が飛び出した。
「……え?」
乾いて気だるかったハレでさえ、ぎょっとして目を丸くした。
――[つい声を荒げてしまってすみません。ティーパーティーには……いえ、正確にはナギサには知られてはいけないんです]
「ティーパーティーのホストに、こんな国家的災害状況を伝えないでほしいということですか? ホストが知らないわけにはいかない重要事項のはずですが、なぜです?」
ハレの常識的な問いに、受話器の向こうのナホトが震える声で答えた。
――[あの子たちが、この途方もない規模の昆虫の群れが私の農場を襲うと知ったら、駆除を口実に私の農場一帯へ嬉々としてナパーム爆撃を浴びせるに決まっています! そのうえで補償案を協議すると称して、私を中央自治区の方へ呼び出して――! ……ふう]
ナホトは興奮したまま話していたが、長く息を吐いて無理やり気持ちを鎮めると、やがて沈んだ声で、静かに懇願するように言った。
――[事情があるんです。どうか、トリニティのティーパーティーに伝えた連絡は、何とか取り消してください。私が全部責任を取りますから、ミレニアムのすごい技術力を使っていただけませんか?]
ヴェリタスの部室の中に、重い静寂が降りた。
ハレ、後ろで聞いていたマキとコタマ。先にセミナーへの連絡を終えたあと、ハレの電話を聞いていたチヒロも言葉を失った。
あまりにも骨の奥底から滲み出た、拒絶感の混じった声だった。トリニティ出身であるにもかかわらずティーパーティーに、現在の首脳部とも言えるナギサに強い拒否感を示す姿に、全員が疑問と困惑を覚えるばかりだった。
「……まあ、取り消すのは難しくはなさそうですけど」
ハレがぼんやりした顔で答えると、横で状況を見守っていたチヒロが眼鏡を押し上げ、結論を出した。
「でも、私たちの部活の力だけで、あの数億匹の虫の群れを止めることはできない。この規模の問題を他自治区で武力防衛するには、超法規的に武力を動員できるところに連絡する必要がある」
チヒロの視線が、モモトークPCのアイコンへ向かった。
「……先生しかいないわね」