[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
夜明けが訪れる朝6時15分。
トリニティ自治区の最外縁、海岸の断崖に位置するイズレ・ナホトのブドウ農場は、今まさに昇り始めた太陽の光すら呑み込もうとする、巨大な絶望の影に押し潰されていた。海の彼方から空を覆いながら迫ってくるアビドスの飢えたイナゴと巨大オオスズメバチたち。大自然の災厄はその数を半減させられてなお、数億枚の羽が一斉に擦れ合って生み出す奇怪で暴力的な破裂音を吐き出しながら、果てしなく押し寄せていた。
農場第1区画の中心部に設けられた指揮所の中。メインフレームのホログラムミニマップを注視していたシャーレの女先生が、マイクを握り、鋭い眼差しを光らせた。
「アリス、スーパーノヴァの充填はどの程度まで進んだ?」
「現在、マナ充填94%です! もうすぐ臨界点に到達します!」
第1区画最前線で、巨大なレールガン〈光の剣:スーパーノヴァ〉を背負ったアリスが、朗々と答えた。凄まじい砲身の上で青いスパークが激しく走り、莫大な電力を貪るように凝集し始めた。
群れの中心部に潜んでいたイナゴの指揮個体の敏感な触角が、その破滅的な力を宿したエネルギー場を感知した。
「ヒビキ! 奴らを散開させないで! 進軍する群れの左右両側にナパーム弾を浴びせて!」
「うん。逃げ場はない」
海岸の高地にある臨時陣地で、ヒビキが多連装自動迫撃砲の発射ボタンを押した。数十発の特殊ナパーム弾が暗い明け方の空を裂いて飛び、昆虫雲の両側面上空で一斉に起爆した。青い海の上に巨大なオレンジ色の炎の嵐が立ち上り、粘つく超高熱のナパーム溶剤が雨のように降り注いだ。
指揮個体は密集度を下げるために散開せよというフェロモンを撒き散らしたが、慌ててその指揮を撤回した。散開せよという最初の命令と、すぐ後に広がった取り消し命令。しかしフェロモンという化学的信号伝達体系が持つ致命的な遅延時間が足を引っ張った。食い違った二つの命令が群れ全体に届ききる前に、両側へ抜けようとしていた数百万匹の虫たちは、すでに降り注ぐナパームの炎を浴び、灰となって消し飛んでいた。
左右が完全な炎の壁で塞がれると、指揮個体の散開命令は無用のものとなった。生きようとする本能に囚われた昆虫連合軍の本隊は、やむを得ず火網を避けて中央へとぎっしり密集するしかなかった。
「トキ! マイクロミサイルじゃなく、アビ・エシュフの機関銃を最大出力で展開して! 奴らの上下を乱射して、高度変更まで封じて!」
「了解しました」
農場外縁で待機していたトキが、巨大なエクソスーツ、アビ・エシュフを起動して空中へ飛び上がった。スーツから伸びた重厚なガトリング機関銃が激しく回転し、火を噴いた。降り注ぐ銃弾が、群れの頭上と足元を容赦なく引き裂いた。左右はヒビキの炎の壁に、上下はトキの機関銃弾幕に塞がれた昆虫連合軍。もはや彼らに許された逃走路は、前と後ろだけだった。しかし後方へ方向転換するために旋回する空間は、溶剤と弾丸が塞いでいる状況。昆虫たちの道は、ただ前進のみだった。
「チリリリリッ!!」
四方を塞がれた絶望的な状況の中で、指揮個体イナゴはやむなく最悪の手段である「円錐陣形」を命じるしかなかった。先頭の虫の群れ数千万匹が、瞬く間に互いの体を絡め合わせ、巨大な楔形へと陣形を組み替えた。
「先生! マナ充填100%完了しました!」
「よし! ヒビキ、トキ! アリスが撃つ直前、奴らが作った円錐の先端部分に全ミサイルと砲撃を集中して! 陣形そのものを削り取って!」
アリスの砲撃直前、トキのマイクロミサイルとヒビキの榴弾が、円錐陣形を形成しようとしていた昆虫の群れの最前列、その頂点へ無慈悲に突き刺さった。
ドゴォォン!
爆発の衝撃と高熱が、肉の盾となろうとしていた昆虫の塊を粉々に砕き、本来鋭く尖っているべき円錐の先端を鈍く吹き飛ばした。防御の傾斜角が崩れ、陣形が乱れた、まさに完璧なタイミング。
「魔王軍の盾が砕けました! 光よ――!!」
ドゴォォォォン――!!!
鼓膜を消し飛ばすような轟音とともに、スーパーノヴァの砲口を離れた巨大な閃光の粒子ビームが海霧を裂き、一直線に伸びていった。円錐陣形を削られ、平坦になった昆虫連合軍の中心を打ち抜いた光の柱の前でも、虫たちは諦めなかった。数千万匹のイナゴとスズメバチが、継続的に光の軌道へ自らの体を投げ込み、エネルギーを食い止めようと足掻いた。
しかしその凄絶な抵抗も、管制塔の上で引き金を引いた一発の凶弾の前では無意味だった。
タァァン――!!
C&Cのスナイパー、カリンが撃ち放った徹甲弾が、アリスのレールガンが穿った陣形の空白を横切り、群れの中央で最後まで昆虫たちを統制しようとしていたイナゴの指揮個体に正確に直撃した。
「目標沈黙。指揮個体への打撃に成功した」
カリンの冷たい報告とともに、群集知能の連結網が完全に瓦解した。統率力を失った虫の群れは、もはや組織的な防御を行えなかった。アリスのレールガンは、防御力を失った群れの中心を破滅的に貫通していった。当初計画していた8割を超え、実に9割に達する4億5千万匹の昆虫が、たった一度の砲撃で灰に焼き尽くされるという驚異的な戦果がモニターに浮かび上がった。
「海上迎撃チーム、任務完了しました! 奴らの統率力は崩壊しました!」
チヒロが歓声を上げた。迎撃を逃れて生き残った1割、約5千万匹に及ぶ残党は、第1区画から漂ってくるナホトの「新品種ブドウ」が放つ圧倒的な生命の甘い香りに引き寄せられ、ついに海岸線を越えて地上へ上陸していた。
管制塔と外縁で迎撃を担当していたカリン、アリス、トキは、すぐにアスナ、モモイ、ミドリ、ユズ、アカネと合流し、地上へ這い上がってくるおぞましい虫たちへ火力を浴びせながら、本隊への後退を始めた。
「全方位から敵接近! すべてのイナゴの群れが農場内部へ侵入しました!」
管制室の衛星写真を見ていたハレが、切迫した声で叫んだ。
「よし! 迎撃チームおよび護衛チーム8名は、全員本隊へ復帰しながら背後を突いて! クロスファイアを取る!」
先生の命令が下ると同時に、管制室の片隅でウタハが会心の笑みを浮かべ、エンターキーを強く叩いた。
「第5区画、広域エネルギー障壁展開!」
ジィィィン――!!
農場の最外縁である第5区画外周をぐるりと囲んでいたエネルギー発生装置から青い粒子が立ち上ると、巨大な半球状のエネルギードームが農場全体を完全に覆い尽くした。虫たちはもはや、農場の外へ逃げることもできない袋の鼠になった。ウタハが遠隔で手動操作するタレット網と光学迷彩ドローンが四方から火を噴くこの場所は、ミレニアムのオーバーテクノロジーが生み出した完璧な「キルゾーン」だった。
「あはははっ! 袋の中のゴミが山ほどいるじゃねぇか! 全部まとめて挽き潰してやるよ!!」
先に上陸したイナゴの群れを相手にしていたネルが、凶暴な笑い声を上げながらテンポを上げた。
彼女の両手に握られた二丁サブマシンガン、ツイン・ドラゴンが火を噴き、両袖から伸びた無慈悲な鎖が鞭のように空中を薙いだ。
ガァン! ドチャッ!
鎖が触れるたびに、重量級のアビドス巨大スズメバチたちは潰されて地面へ叩きつけられ、ネルはその上を残酷に踏みしめながら、獣じみた舞踏を繰り広げた。
そしてその背後を守る農夫、イズレ・ナホト。
彼の澄んだペリドット色の瞳からは、普段の優しさが完全に削ぎ落とされていた。濃い紫の髪の上で、聖餐杯に絡みつくブドウ蔓のヘイローがパステルトーンの黄緑色の光を眩く放ちながら、激しく脈動していた。
彼は肩にかけていた頼もしいダブルバレルショットガンの銃身を折り開いた。彼が右側の「Salt」銃身の薬室へ押し込んだのは、鋼球のバードショットではなかった。
鋼球の代わりに、銀白色の柔らかな金属片がびっしり詰め込まれた特殊散弾。
それは反応性金属である「ナトリウム、Naの欠片」をぎっしり詰め込んだ、容赦のない化学爆発弾だった。
ナホトは押し寄せるおぞましいイナゴの群れへショットガンを向け、引き金を引いた。
タァァン――!!
鼓膜を裂く破裂音とともに、数百個のナトリウム片が散弾のように空中を裂いて飛び、イナゴたちの気味の悪い外骨格を貫いて突き刺さった。物理的な打撃は、始まりに過ぎなかった。ナトリウム片が昆虫の厚い殻を突き破って体内へ入り、湿った体液に触れた瞬間、凄まじい化学反応が爆発的に起こった。
水分がナトリウムと結合し、莫大な量の水素ガスと沸騰する高熱を発生させ、やがて体内に閉じ込められた水素ガスが熱によって着火し、虫たちの内部から激烈な連鎖爆発を引き起こした。
パァン!! パン! バキィッ!!
イナゴとスズメバチたちの体が異様に膨れ上がったかと思うと、花火が弾けるように青黒い体液と肉片を四方へ撒き散らしながら、空中で粉々に砕け散った。表面を焼くナパームとは一線を画す、血と体液を媒介に内部から引き裂く、背筋の凍る破壊力だった。
目の前で虫たちが風船のように破裂していく凄惨な光景を見たネルが、鎖でスズメバチの頭を叩き潰しかけたまま、呆れたように乾いた笑いを漏らした。
「はっ! 農夫のくせに、ずいぶん物騒な玩具を使うじゃねぇか? 虫の中身を花火みたいに弾けさせてるな。趣味が悪趣味すぎるだろ?」
銃身を折って空薬莢を宙へ弾き出したナホトが、冷たい笑みを保ったままネルへ顔を向けた。
「鎖をぶんぶん振り回して昆虫たちを真っ二つにしている君に言われることじゃないと思うけどね、ちびっ子」
「あぁん?! 誰がちびっ子だ、てめぇ!」
「僕より年下で背が低ければ、ちびっ子でしょ」
ネルが青筋を立てながら唸った。だが彼女の口元には、血飛沫の舞う戦場の中でも奇妙な闘争心が濃く滲んでいた。彼女はツイン・ドラゴンの弾倉を交換しながら、自信満々に叫んだ。
「おい、おっさん! このゴミどもを全部掃除し終えたら、私ときっちり一戦やろうぜ!」
「お、おっさん?! 僕、まだ二十歳にもなってないんだけど?!」
ナホトは再びナトリウム弾を薬室へ押し込みながら言い返した。
「それに『このゴミどもを全部掃除し終えたら』って、今のそれ、典型的な死亡フラグの台詞じゃない?」
「虫じゃなくて私に殺されたいのか? 死にたくなけりゃ、周囲の警戒くらいちゃんとしろ!」
二人の余裕ある掛け合いが続く中、キルゾーン内部のイナゴの残党は、C&Cの無慈悲な暴力とナトリウム爆発弾の連鎖爆発の前に、文字通り削り潰されていった。後方から合流した迎撃チームの十字砲火まで加わり、戦況は完全に勝機を固めるかのように見えた。
その時だった。
地上へ降り、護衛チームと合流して前進していたアリスが、突然足を止め、巨大なレールガンを持ち上げて首を傾げた。彼女の声がインイヤーを通じて、指揮所と第3区画に響き渡った。
「先生! 四匹の指揮個体が『四天王』なら……魔王はいないのですか?」
アリスのその突拍子もないRPG的な疑問が通信網に響き渡った瞬間。
ナホトとネルが立っていた第3区画の空気が、一瞬で背筋が凍るほど冷たく固まった。
ジジジッ……ジジッ……。
周囲を照らしていたタレットのセンサーライトが狂ったように点滅すると、ぷつりと消えた。鼻先を揺らしていた火薬の匂いと血の匂いさえ呑み込もうとするような、深淵の底からしか漂わないような吐き気を催す腐敗臭が、ぶわりと押し寄せてきた。
そして二人の視界の正面、森の濃い影が落ちるブドウの蔓の間から、「それ」がゆっくりと歩み出てきた。
「……!!」
ネルの小さく獰猛な目が一瞬で大きく見開かれ、ショットガンを握っていたナホトの手にぎゅっと力が入った。それは、到底昆虫とは呼べない凄惨な異形の怪物だった。
それは王の形をした醜悪なものにして、欺瞞的な威厳を纏った災厄だった。色褪せた銀髪が奇怪な顔面の上へうねりながら垂れ、その上には錆びた鉄の王冠が重々しく載っていた。しかし王冠の下にあったのは、人間の顔ではなかった。昆虫のそれと酷似した巨大で真っ黒な複眼が、一片の感情もなく宙を見つめていた。奇怪に裂けた口元には、鋭い獣の牙と人間の歯が醜く入り混じって露出しており、その顎を包むように生えた、錆びた刃のような巨大な鋏が凶々しい殺気を放っていた。華麗な甲冑と異形の面貌が混在したその姿は、深淵から這い上がってきた虫たちの君主そのものだった。
奇怪に折れ曲がった強靭な関節と、翅脈のはっきりした羽を持つ巨大なイナゴの胸甲が、彼の下半身を構成していた。何より圧倒的だったのは、獣の背後からそびえ立つ巨大で重厚なサソリの尾だった。致命的な毒針を宿して高く掲げられたその尾は、今にも息の根を止めようとするかのような冷たい威圧を放っていた。
そしてその圧倒的な怪物の傍らには、別働隊を率いていた最後の四天王、「アビドス巨大オオスズメバチ指揮個体」が、まるで主君を補佐する忠実な近衛兵のように羽ばたきを止め、地面に降り立ったまま、獰猛な顎を誇示していた。
グルルッ……グゥゥッ……カァッ。
裂けた大顎の間から、まるで痰が絡むような、人間の聴覚では到底耐えがたい、背筋の凍る破裂音が流れ出した。
「うっ、なんだよあの気色悪いゴミは! 声まで本当に最悪だな。胃の中がひっくり返りそうだぜ!」
ネルが顔をひどく歪め、耳を塞ぎながら悪態を吐いた。
だが、その瞬間、イズレ・ナホトの世界はまったく別のものとして回っていた。
彼のパステルトーンのヘイローが、激しく共鳴して唸りを上げた。ただ農業を助けてくれるものだと信じてきた、平和な生命の力だとばかり思っていたその神秘が、目の前の怪物が吐き出す痰の絡むような騒音を認識した途端、激しく揺らぎ始めた。
[שמי הוא... אֲבַדּוֹן...]
ナホトの神秘は、その奇怪な騒音の中から、明らかに人間の言葉にも似た凄惨な響きを、直訳していた。
[באתִי לאכול מפרי גן עדן]
単なる獣の騒音ではない、燃え上がる貪欲と傲慢に満ちた重々しい声。
その傲慢で悍ましい宣言。ナホトが自らの血と汗と真心をすべて注ぎ込み、第1区画で育て上げた、生きた生命の結実を噛み砕いて呑み込むという、貪欲な布告。
それはナホトの脳裏に、ナホトが理解できる言語へ変換され、はっきりと突き刺さった。
エデンの果実を……食らいに来た、と。