[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主   作:ancoracor08

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第3章 美食研究会 第2話:Deja Vu!

 

D.U.中央区の繁華街を貫く片側四車線、計八車線の道路の上を、漆黒の防弾セダンが凄まじい排気音を吐き出しながら疾走していた。

 

高級セダン特有の重厚な車体と、その重さを嘲笑うかのように道路を切り裂いていく暴力的な加速。ネオンサインと街灯の光が、黒い車体の上を稲妻のように滑り過ぎていった。道路上の他の車両など、その前では一時的に脇へ退くべき障害物にすぎなかった。

 

だが。

 

その怪物のようなセダンのルームミラーには、いくら振り切ろうとしても決して離れない奇怪な幻影が、まるで蛭のように張りついていた。

 

タイヤが裂けそうな悲鳴とともに、ゲヘナ学園給食部の古びたワゴン車が、車線を曲芸のようにまたぎながら、防弾セダンの尻にぴたりと食らいついていた。助手席後ろの席に座るジュンコは、安全ベルトを命綱のようにぎゅっと握りしめ、ひたすら悲鳴を上げていた。

 

防弾セダンの運転席でハンドルを握っていたカイザー専属の運転手が、バックミラーをちらちらと見ながら、困惑に満ちた声で叫んだ。

 

――いったいいつまで追ってくるつもりだ?!

 

混雑した道路を突き抜け、狂気じみた曲芸運転を処理し続けるうちに、カイザー専属オートマタ運転手の演算回路は、とっくに過負荷状態に陥っていた。限界まで熱を帯びた滑らかなオブジェクトヘッドの上には、外気との温度差で生まれた水蒸気が玉のように浮かび、流れ落ちていく。汗などかくはずのない機械すら噴き出している、紛れもない冷や汗だった。

 

いくらアクセルを床まで踏み抜いても、あの旧式の荷物車は、まるで磁石でもついているかのように正確なラインを取り、距離を詰めてきていた。

 

後部座席で余裕たっぷりに脚を組んで座っていたカイザーコンストラクションの理事の機械義眼が、冷たく光った。彼は冷気を放つ〈プリミティエ・エデン〉のハードケースを隣に置いたまま、神経質にスマートフォンを取り出した。

 

「俺だ。今すぐD.U.外縁部、七番交差点方面へ兵力をすべて集結させろ。雑魚どもが少しまとわりついてきてな」

 

短く乾いた通話を終えた理事は、スマートフォンを放るように置き、運転手に顎で指示した。

 

「市街地で無駄に消耗するな。外縁の山道コースへ入れ」

 

「え? ですが理事、あちらは舗装状態も悪く……」

 

「下りの急カーブが続く区間があるだろう。あんな古びた鉄屑の塊は、速度と荷重に耐えられず、勝手に脱落する。今すぐそちらへ曲がれ」

 

理事の冷酷な命令に、運転手はごくりと唾を飲み込み、荒々しくハンドルを切った。

 

ギギギギッ――!

 

重厚なセダンが急激に車線を変更し、D.U.の華やかなネオンサインの森を抜け、漆黒の闇に包まれた外縁の山道へと吸い込まれていった。

 

同じ頃、給食部のワゴン車内。

 

「うわあああああっ!」

 

普段であれば、鍋の汁を一滴たりともこぼさないよう慎重に運転していた給食部部長の姿は、どこにもなかった。今ハンドルを握っているのは、一か月間の完全なる平和を勝ち取ろうとする、給食部の生存本能そのものだった。

 

市街地を抜け、外縁の山道へ入るや否や、道路の状態は急激に悪化した。アスファルトはあちこちで抉れており、車体は路面を踏むたびに派手に跳ねた。街灯の間隔は広く、うねるワインディングロードは闇の中へ長く伸びていた。

 

ガタガタガタッ――!

 

古びたワゴン車のサスペンションが悲鳴を上げた。

後部座席の美食研究会の部員たちは、安全ベルトを締めているにもかかわらず、ポップコーンのようにあちこち跳ね上がった。

 

「きゃあああっ! フ、フウカちゃん! もっと優しく運転して……! 私、昼におやつで食べたウナギゼリーが胃の中で揺れてる!」

 

「黙っててぇぇぇ!! 私だって今死にそうなんだからね?!」

 

イズミが天井に頭をぶつけて悲鳴を上げたが、ハンドルを握りしめるフウカの耳には何も届いていなかった。彼女の全神経は、ただ「生きるために前の車を見失ってはいけない」という極限の圧迫感に集中していた。

 

「ハ、ハルナ!! お願い! さっきの約束、絶対に忘れないでよ!!」

 

フウカはギアを荒々しく変えながら、首に血管を浮かせて叫んだ。車が跳ねるたびに脳みそまで揺さぶられる中でも、彼女はただ一つの信念に取り憑かれていた。

 

「三十日よ! 二十九日じゃなくて、きっちり三十日間、給食部の近くで火薬の匂いすらさせないって誓ったんだからね!! 約束を破ったら、私、本当にストライキするからあああ!!」

 

涙を滲ませながら前だけを見て運転し、悲鳴を上げるフウカ。

 

しかし、助手席の光景は彼女の切迫感とはずいぶん違っていた。

 

ハルナは揺れる車内でもアシストグリップを掴み、平然と背もたれに身を預けていた。むしろ、窓の外を流れていく夜景と、荒々しく突き進むワゴン車のスリルを、余裕たっぷりに鑑賞しているところだった。

 

「……」

 

ハルナは無言で顔を向け、極限のアドレナリンと一か月間の平和への執着に酔いしれ、鬼神のようなコーナリングを披露しているフウカの横顔を、興味深そうに見つめた。

 

ハンドルを切る手の角度。

ブレーキとアクセルを行き来する鮮やかな足さばき。

美食は最高のタイミングと温度を要求する。

そして追跡劇もまた、ドライバーの最高潮に達したテンションが生み出す芸術なのだ。

 

ハルナは優雅な微笑みを浮かべたまま、給食部の安寧を肩に背負って狂乱の疾走を繰り広げる料理人の芸術的な運転を、静かに鑑賞しながら口を開いた。

 

「うふふ。もちろんです、フウカさん。私の舌に懸けて誓った約束ですもの」

 

「本当でしょうね?!」

 

「もちろんです。あの車に追いついて、葡萄を受け取ることができれば、ですが」

 

「悪魔ああああ!!」

 

車両はいつの間にか山頂付近を越え、本格的な下り区間へと入っていた。

 

急な勾配。

息つく間もなく続くヘアピンカーブ。

タイヤのグリップとブレーキの限界が試される、死のコース。

 

防弾セダンのオートマタ運転手は、熟練した手つきで減速と変速を重ね、車体を整えた。

 

ヒール・アンド・トゥ。

 

減速、シフトダウン、RPM補正の三つを同時にこなす、マニュアルトランスミッションのテクニック。インコースへ潜り込んだ重厚な車体が、滑らかにコーナーを抜け、再び速度を乗せ始めると、ワゴン車との距離をじわじわと広げていった。

 

これで十分だった。

 

もう後ろのワゴン車は耐えきれず、脱落するはずだ。

あんな荷物車では、この下りを絶対に捌ききれない。

 

運転手オートマタはそう確信し、バックミラーを確認した。

 

そして、目玉が飛び出しそうなほど見開かれた。

 

給食部の古びたワゴン車が、ほとんどブレーキを踏まないまま、狂ったような速度でヘアピンカーブへ突っ込んできていたからだ。

 

「な、何だあの狂人は! あの速度でコーナーに入れば、そのままガードレールを突き破って崖下へ落ちるぞ!」

 

その驚愕の叫びとは裏腹に、フウカの両足と両手は、頭の理性を消し飛ばし、本能だけで腕と脚を動かしていた。

 

フウカがギアを一気に落とした。

 

ハンドルをコーナーとは逆方向へ、ごく短く切る。

そしてすぐさま内側へ、稲妻のように切り込んだ。

同時に、サイドブレーキを荒々しく引き、すぐに戻す。

 

キィィィィィィッ――!!!!

 

後輪のグリップを意図的に失わせたワゴン車の重い尻が、下り坂の慣性に抗えず、外側へ荒々しく滑り始めた。車体が道路を完全に塞ぐかのように横向きになった、絶体絶命の瞬間。

 

「フウカちゃん?! 本当に死ぬってばああ!!」

 

「黙ってなさいイズミいいい!!」

 

フウカは歯を食いしばったまま、滑っていく方向へ素早くカウンターを当て、そのままアクセルを踏み込んだ。

 

すると、奇跡のようなことが起こった。

 

崖へ落ちるかに見えたワゴン車の前輪が、道路内側の浅い側溝――ガター――へ正確に引っかかり、恐ろしい遠心力を受け止めたのだ。タイヤから白い煙が爆発するように噴き出し、ワゴン車は道路のインコース限界線を、まるでコンパスで描いたかのように完璧に滑りながら、コーナーを抜けていった。

 

――慣性ドリフト?! あんな鉄屑の荷物車で?!

 

セダンの運転手は、バックミラーの中で起きているその非常識な光景を前に、完全に平常心を失った。

 

古びた給食部のワゴン車が内側の側溝を使って滑り降りてくると、コーナー脱出と同時に信じがたい加速でセダンの横腹をかすめていったのである。

 

「ありえない!」

 

目の前に古びたワゴン車の尻を見た瞬間、運転手は動揺のあまり、ブレーキを踏む足先の力を乱した。

 

「おい! この馬鹿野郎!」

 

後部座席の理事が慌てて怒鳴ったが、すでに遅かった。

 

乱れた制動に、前輪のグリップが耐えきれなかった。運転手が青ざめながら必死にハンドルを切っても、アンダーステアに陥った漆黒の車体は舵を無視し、コーナー外側へ荒々しく押し出されていった。

 

ガガン! ドン! バキィッ――!!

 

そのままガードレールを粉砕し、斜面の下へ無残に転がり落ちるセダンは、木と岩にぶつかりながら何度も横転した末、土埃を巻き上げて山腹の下へ突っ込んだ。

 

ギギギギギッ――!!

 

完璧なラインでコーナーを抜けた給食部のワゴン車が、長いスキッドマークを残しながら、安全に路肩へ停止した。

 

「はあ……はあ……はあ……た、助かった……!」

 

ハンドルに突っ伏したフウカが、荒い息を吐きながら、ぼろぼろと涙を流した。助手席に座っていたハルナは、窓の外に横転した車両を確認すると、満足げな笑みを浮かべ、軽く拍手した。

 

「ブラボー。実に見事な走りでした、フウカさん。あなたの執念、経験、そして才能。その三拍子が揃っていたからこそ生み出せた、芸術的なコーナリングでしたわ」

 

「あんたが一か月分の人質を取ったから、生きようとして踏んだだけでしょおおお!!」

 

美食研究会の部員たちと、腰の抜けたフウカは急いで車を降り、斜面の下へ慎重に足を運んだ。土埃が収まった場所には、無残にひしゃげたカイザーの防弾セダンが、逆さまになって転がっていた。

 

「葡萄! 私の葡萄は無事?!」

 

イズミが真っ先に走り寄り、割れた窓の隙間を覗き込んだ。だが後部座席の扉は荒々しく開け放たれており、カイザーコンストラクションの理事と、彼が持っていた冷たいハードケースは影も形もなかった。奴は車が転がった瞬間、荷物を抱えて素早く森の中へ身を隠したに違いなかった。

 

車内には、エアバッグに埋もれたまま潤滑油を流しているオートマタ運転手だけが、苦しげに息をしていた。

 

「うっ……くっ……い、いったい……ごほっ」

 

運転手は割れた窓越しに、苦しげに顔を向けた。彼の瞳はひしゃげた車体ではなく、先ほど自分を完璧に抜き去った伝説的なレーサーを探していた。

 

「さっき……さっき、あの古びたワゴン車を運転していたドライバーは……いったい誰だ……?」

 

その声には恨みではなく、純粋な畏敬すら混じっていた。

 

その問いに、ハルナをはじめとする美食研究会の部員たちの視線が、一斉に後ろに立っていたフウカへ向かった。フウカは土まみれになったエプロンを握りしめたまま、おずおずと前へ足を踏み出した。

 

「あの……えっと……私ですけど」

 

怯えた表情で様子をうかがう、平凡な料理人。その異質な姿に、運転手は力の抜けたような笑いを漏らした。

 

「こんな幼い生徒だったとはな……負けた……完璧に負けたよ」

 

運転手は口元を引き上げ、最後の力を振り絞って、かすかに呟いた。

 

「いい……レースだった……」

 

その一言を残し、運転手の頭ががくりと落ちて、意識を失った。

 

「うわあん……私の葡萄……葡萄粒の一つでも落ちてないかな……」

 

その間も、イズミは諦めきれず、壊れた車内や周囲の草むらを漁っていた。どこかに転がっているかもしれない葡萄粒を探して、くんくん嗅ぎ回っていたイズミは、高級そうな革の手帳を一冊見つけた。

 

「これ、何だろ?」

 

イズミは手帳を拾い上げ、土をぱんぱんと払った。彼女の呼びかけに、ハルナ、ジュンコ、アカリ、そしてフウカまでが集まり、その手帳を覗き込み始めた。

 

ハルナが手帳のページを慎重にめくった。そこにはカイザーコンストラクション理事のぎっしり詰まった予定とメモが記されていた。

 

「明日……午前十時。トリニティ総合学園自治区、ガウディイホテル・テラスカフェにてミーティング」

 

ハルナは手帳の内容を声に出して読み上げていった。

 

「ミーティング相手の詳細な身上情報も書かれていますね。トリニティのパテル分派の生徒……金髪に碧眼、潔癖症で手袋をしている」

 

「金髪、碧眼、潔癖症……?」

 

ジュンコが何気なく顔を向けた。

 

その視線の先には、華やかに微笑むアカリがいた。

 

「あら、私のドッペルゲンガーみたいですね☆」

 

ハルナの指が、ページの一番下に赤いペンで強調された文言を指した。

 

「『対象は〈セイントパール〉を非常に好む。第一印象で好感を得るため、持参する必要あり』」

 

その一文を読んだアカリの目尻が、興味深そうに半月の形へ細められた。

 

「セイントパールといえば、トリニティの高級葡萄ですよね? でも、理事はさっきオークションで……あら」

 

ハルナが頷き、言葉を続けた。

 

「相手の歓心を買うために、今回出品された〈プリミティエ・エデン〉を差し出すつもりだったのでしょう」

 

ハルナは手帳のページをさらに数枚前へぱらぱらとめくった。そこにはトリニティでのミーティング予定以前に書かれた、かなり深刻なニュアンスのメモが荒々しく走り書きされていた。

 

「見てみましょう……アビドス自治区再開発案件……生徒たちの支持を受けたセイントネフティス社の攻勢的入札……カイザーコンストラクションとのミーティングは不発……」

 

メモは断片的な単語の羅列だったが、カイザーコンストラクションがかなり切迫した状況に置かれていることを窺わせた。とはいえ、その断片化された情報だけでは、正確な前後関係を把握するのは容易ではなかった。

 

「それってどういうこと? カイザーがトリニティに葡萄を献上する話なのに、どうしてアビドスとかセイントネフティスが出てくるの?」

 

ジュンコが首をかしげた、その時だった。

 

ぼとっ。べちゃり。

 

どこからともなくぬめった音とともに、奇怪な紫色の触手が生えたパンケーキの塊が、イズミの頭の上へ正確に着地した。

 

うねうね。

 

イズミがオークション会場で所持品検査を受けた時、警備員たちが発見して仰天したという、あのタコパンケーキ。ジュリが給食部の部室で丹精込めて――作り上げた、「パンちゃん」だった。

 

「うわっ! びっくりした!」

 

「何でパンちゃんがここにいるの?!」

 

頭の上にべちゃっと落ちてきたイズミの驚きの声と、フウカの困惑した声が重なった。フウカがあれほど必死に探し回っていたパンちゃんは、そもそもイズミの鞄の中に無事密輸されていたのである。

 

その最中、イズミの頭上で触手を揺らしていたパンちゃんが、イズミの頭皮へ触手をべちゃりと押しつけた。

 

その瞬間、四次元ゲテモノ食いのイズミの瞳孔がかすかに震えたかと思うと、やがて普段とは百八十度違う、次元の異なる知的で鋭い声で口を開いた。

 

「簡単な論理だよ、ジュンコ」

 

「……え?」

 

「イ、イズミ?」

 

突然のイズミの知的変貌に、全員が凍りついた。イズミは手帳を指差し、プレゼンでもするような明瞭な口調で言った。

 

「最近、アビドス自治区で大規模な気象異変が起こって、砂漠にオアシスが生まれたってニュースは、みんな見たよね? 蝗害の群れがなぜか緑地を一掃せず、真っ直ぐトリニティへ飛んでいったけれど……とにかく緑地が保全されたおかげで、あの一帯のアビドスの土地価値が暴騰し、莫大な資本力を持つアビドス土着の建設企業『セイントネフティス』社が、本格的に再開発へ介入し始めたわけ」

 

「当然、アビドスで違法な採掘と建設を行っていたカイザーコンストラクションの立場は、相対的に壊滅するしかない。アビドスでのカイザーPMCの影響力が弱まり、アビドスが少しずつ借金を返済していくことで巨大な畑を失いつつあるカイザーとしては、選択を迫られる。会社の命運を懸けて新たな巨大市場を開拓するか、それとも身を縮めて機会を待つか」

 

イズミは手帳の「トリニティ」という文字を、指でとんとんと叩いた。

 

「そこでカイザー理事が目を向けたのが、『トリニティ総合学園』ってわけ。現在、セイントネフティス社がトリニティ方面で建物を建てながら、カイザーコンストラクションの勢力を侵食している。だからネフティス社が足場を築く隙もないうちに、トリニティの受注を先に独占しようとしているんだ」

 

「そのために、セイントパールを好む潔癖症で鼻っ柱の高いお嬢様の歓心を買おうと、〈プリミティエ・エデン〉を差し出して、確実に印象づけるというロビー戦略だね」

 

淀みなく溢れ出る、マクロ経済と企業政治への洞察。

 

「……」

 

「……」

 

ジュンコ、アカリ、ハルナ、そして呆然としたフウカまで。四人は、頭の上に触手の生えた生地を載せたまま堂々と立っているイズミへ、口をぽかんと開け、ぼんやりと瞬きをした。普段の食いしん坊の変人から、次元の違うエリート知識人へ覚醒してしまった彼女の姿に、誰もがあまりの困惑で言葉を失っていた。

 

冷たい山風に揺れる虫の音と、斜面の下に突っ込んだセダンのエンジンが冷えていく、チッ、チッという音だけが、奇妙なBGMのように流れていた。

 

その静寂を破って、ハルナが口を開いた。

 

「ビジネスのために素晴らしい晩餐をもてなすことは、教養ある行いです。互いの味覚を分かち合い、信頼を築くことは、食事の席が持つ素晴らしい効能ですから」

 

ハルナは手帳を見下ろし、軽蔑するように小さく嘆息した。

 

「しかし、『エデン』の名を冠する究極の葡萄を、ただ欲深い取引を成立させるための賄賂として投げ与えようとするとは。これは相手を食べ物で容易に懐柔できると見下す傲慢であり、ビジネスの格と美食の崇高な価値を同時に損なう冒涜です」

 

「そして、ここで一番重要なのは――」

 

頭上の触手がうねりながら向きを変えるように、イズミの鋭い視線がまっすぐアカリへ突き刺さった。

 

「対象が具体的に『誰』かではなく、その席に座っているべき人物の『役割と条件』なんだよ」

 

一瞬の静寂。ジュンコが眉間をぐっと寄せて聞き返した。

 

「……は?」

 

イズミは確信に満ちた足取りで一歩近づき、指を一本ずつ立て始めた。

 

「第一に、金髪に碧眼。手帳に書かれたターゲットの外見条件と完全に一致」

 

指が一本。

 

「第二に、特有の余裕と図々しさによって、予期せぬ突発状況にも自然に対応可能」

 

指が二本。

 

「第三に、最も決定的なのは、相手であるカイザー理事がターゲットの顔を直接見たことがないという点。つまり、『本人確認』を行う明確な手段が存在しない」

 

三本目の指が上がると同時に、イズミの口元へ冷ややかな知性の笑みが浮かんだ。

 

「だから、結論は一つしかない」

 

イズミは手帳をぱしんと叩き、決定打を放った。

 

「私たちが明日の朝、カイザーより先にその待ち合わせ場所へ入り、ターゲットのふりをして先手を打てばいいってこと」

 

完璧な論理展開に、アカリの赤い瞳が興味深そうにきらめいた。彼女はゆっくりと口角を引き上げ、頬に手を添えた。

 

「あらまあ」

 

それはまるで面白い玩具を見つけた幼い子供のようでありながら、どこかぞっとするほど優しい微笑みだった。

 

「要するに、私がトリニティのそのお嬢様のふりをして、席に座っていればよろしいということですね☆」

 

「「絶対にやめて!!」」

 

ジュンコとフウカが青ざめた顔で同時に叫んだ。だがイズミは聞く耳を持たず、無味乾燥に事実を付け加えた。

 

「法的、物理的な障害はない。私たちは交流会のようにトリニティの制服を着てカフェでティータイムを楽しんでいるだけで、勝手に勘違いしてやって来た理事が差し出す〈プリミティエ・エデン〉を受け取ればいいだけなんだから。エデン条約以降、トリニティ自治区の出入りの規制はかなり緩くなっているから、特に制裁もなく入れる。ブラックマーケットを漁れば、トリニティの中古制服くらい今夜中に十分手に入るし、衣装の用意も問題にならない」

 

その緻密な犯罪計画らしきものを静かに聞いていたハルナが、ついに小さく笑みをこぼした。

 

「なるほど」

 

彼女の低い声には、深い感嘆が滲んでいた。

 

「とても興味深いご提案ですわ、イズミさん。よろしいでしょう」

 

闇の中で、ハルナの瞳が三日月のように細く鋭く歪んだ。単なる食欲ではない、完璧な美食を勝ち取るための美食家の執念が、再び燃え上がっていた。

 

「土埃を浴びながら人の尻を正面から追いかけるよりも、敵が最も油断している瞬間、その心臓部で美食を掠め取るほうが、ずっと気品があって優雅な方法ですもの」

 

「どこが優雅なのよ……!」

 

フウカが両手で顔を覆い、絶望的に涙声を漏らした。

 

「今あなたたちは、大企業の理事を相手に身分を詐称して、数百万クレジット相当の賄賂をど真ん中でまるごと横取りするっていう犯罪予告をしてるのよ!」

 

しかしアカリは、フウカの悲鳴など意にも介さず、すでにこの目眩のする状況の楽しさに完全に乗っていた。

 

「トリニティの古風なテラスカフェで、大企業の理事が捧げる最高級葡萄を添えた優雅なティータイムだなんて。本当に、美食研究会にふさわしい素敵な予定ですね☆」

 

ぱたん。

 

ハルナは手にしていた高級な革の手帳を、音を立てて閉じた。暗い山道に響いたその小さな破裂音は、まるで新たな作戦の開始を告げる軽やかな銃声のようだった。

 

「では、次の目的地は明確に決まりましたね」

 

彼女は一点の乱れもない優雅な佇まいで微笑み、宣言した。

 

「トリニティ総合学園」

 

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