[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主   作:ancoracor08

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第3章 美食研究会第4話:逃げる者、追う者、誤解した者

 

 

トリニティ自治区の中心部、古風で華やかな外観を誇る最高級ホテル、ガウディイ。その眩い建物からわずか一ブロックほど離れた、裏寂しく薄暗い路地の奥には、周囲のラグジュアリーな風景とはまるで似つかわしくない古いワゴン車が一台、エンジンをかけたまま息を潜めて待機していた。側面にゲヘナ学園給食部のロゴがうっすらと消えかけているその車両の内部は、普段の香ばしいご飯の匂いではなく、息が詰まりそうな張り詰めた静寂と、奇妙な異質感で満たされていた。

 

「ねえ……イズミ」

 

ハンドルに上体を伏せたまま、来たる災厄を予感して絶望を噛みしめていたフウカが、ついに耐えきれず助手席へ向かって慎重に口を開いた。しかし彼女の呼びかけは、即座に冷たく制止された。

 

「給食部部長、フウカ。貴女にだけは、この肉体の主の名で呼ばれたくはない。私を『パンちゃん』と呼んでくれ」

 

イズミの頭の上にしっかりと鎮座している紫色の触手の塊が、イズミの口を借りて、無味乾燥で冷ややかな声で答えた。

 

「……はぁ」

 

フウカは両手で顔を乱暴にこすり、骨の奥底から湧き出るような、深く悲壮なため息を吐いた。自分が骨身を削って管理している部活の部員が錬成した料理が、自我を持って口答えするだけでも足りず、今こうして自分に知的なエリートのように振る舞いながら命令しているこの状況。まさに、残っていた理性の糸さえばさりと崩れ落ちそうな、強烈な現実感の喪失が押し寄せていた。

 

「分かった、分かったよ。パンちゃん。いったいどうしてそんな知能と能力を持つようになったの? まるで……」

 

まるで人間を「宿主」にして操る寄生生物みたいじゃない。フウカは、そのぞっとする単語だけは舌先で転がしながら、どうにか飲み込んだ。

 

フウカの呆れた問いに、パンちゃんは真剣に顎へ手を添え、流暢な語彙を次々と吐き出し始めた。

 

「私にも、この奇跡のような能力と知性の正確な発現機序は分からない。ただ推測するに、ゲヘナのあの混沌とした環境と、母の神秘が関与した奇跡の産物なのだろう。要するに、生物学的進化の盲点が生んだ突然変異だ」

 

「生物学的進化……」

 

フウカは呆然とした表情で、古いワゴン車の天井を見上げた。小麦粉の生地がフライパンの上で調理工程を経て、ジュリの手に触れただけなのに、生物学的進化とは。そもそも生物ですらない料理に、進化という言葉が妥当なのだろうか。あまりにも荒唐無稽な詭弁に脳が停止しそうになったフウカは、この狂った生物学討論を慌てて頭の中で廃棄処分した。このまま会話を続ければ、自分の正気度が蒸発してしまいそうだったからだ。彼女は無理やり話題を変え、鋭い口調で言い放った。

 

「じゃあ、なんでイズミの頭を操って、美食研究会と一緒にいるのよ? あなたはうちの給食部の厨房で生まれたんでしょ。今、ジュリがどれだけ必死にあなたを探しているか分かってるの?」

 

パンちゃんを頭に乗せたイズミが、ゆっくりと顔を向け、フウカを見つめた。イズミの幼い顔をしていたが、その赤い瞳には、哲学的苦悩に沈む求道者の深い悲しみと使命感が宿っていた。

 

「母の痛切な想いは、私にも分かる。私もまた、あの厨房で、食べ物として生まれたのだから。食べ物が厨房を離れた以上、長くは生きられないだろう。まるで水から上がった魚がすぐに息を止めるように。だが部長、食べ物の究極的な存在意義とは何だと思う?」

 

パンちゃんの声は、妙に厳粛になっていた。

その重みのある問いに、フウカはびくりとして言葉を詰まらせた。

 

自分はいったい何のために料理をしてきたのか。毎日夜明け前から起き、一人で4,000人分の給食を作り出す、あの凄まじい重労働。味が少しでも落ちれば容赦なく残飯桶に放り込まれるのは日常茶飯事で、不満を抱いた美食研究会が給食室を爆破してしまう惨事が日常であるゲヘナで。そのすべての理不尽と疲労に耐えながら、黙々と包丁を握り、火の前を守ってきた理由は何だったのか。単に生徒たちへ生存のための熱量を供給するためだったのか。違う。それは当然……。

 

「幸せと楽しさを与えるため」

 

「その通りだ。食べ物には、人に単なる熱量を供給する以上の価値がある。そして食べ物として生まれた私は、『誰かに食べられること』こそが存在意義だと言える。誰かの舌先で味覚的快楽として酸化し、楽しみを与えること。それが食べ物である私の崇高な宿命であり、使命なのだ」

 

パンちゃんは紫色の触手で、イズミの頭を優しく撫でながら言った。

 

「だが私が生まれた時、ゲヘナで、いや、もしかするとこのキヴォトス全体で、私を『食べ物』として見てくれた者は誰一人いなかった。皆が私を動く怪物、生化学兵器、気味の悪い爆発物扱いし、怯えて捨てようとした。私を創造した母であるジュリでさえ、私を可愛がりはしたものの、食べ物として見てはくれなかった」

 

パンちゃんを乗せたイズミが、自分の胸にそっと手を当てた。

 

「しかし、ただこの肉体の主だけが……私を見て唯一、『おいしそう』だと心から涎を飲み込んだのだ」

 

「……は?」

 

「そうだ。私を忌まわしい怪物ではなく、私本来の存在目的である『食べ物』として価値を認めてくれた、キヴォトス唯一の救い主だった」

 

フウカはついに言葉を失い、口をぽかんと開けた。イズミのあのゲテモノを追求する味覚が、この紫色の怪生命体にとっては自分を完全に肯定してくれる「救い」のように感じられていたという事実が、あまりにも馬鹿馬鹿しかったからだ。

 

「私の価値を見出してくれたこの偉大な救い主と共にいる中で、私は自らの存在の根源に関する哲学的考察を始めた。果たして『美食』とは何か。この救い主が、そして彼女たちが所属する美食研究会が、倫理と法規すら捨ててまで渇望する究極の味とは、いったいどのような形をしているのか」

 

パンちゃんの紫色の触手が、興奮したように微かにうねり、宙を掻いた。

 

「だからこそ、彼女たちが爆破テロを厭わず奪取しようとしている『プリミティエ・エデン』という伝説の果実を、私もまた直接観測し、味わわねばならないと決意したのだ。真なる美食のイデアを理解するために」

 

フウカは黙り込んだ。

 

「……」

 

短くも重い沈黙の末、フウカがようやく口を開いた。

 

「頭おかしくなりそう、本当に……! パンちゃんが美食研究会に完全に染まっちゃってるじゃない!」

 

給食部の管理を離れただけでは飽き足らず、よりにもよって美食研究会のあの狂気じみた哲学に完全に感化されてしまった、自我を持つ料理。もとより四人だけでも手に負えない美食研究会に、実質的に頭脳派の新入部員が一人増えたようなものだった。給食部部長として直面しうる、最も凄惨で奇怪な悪夢を前に、フウカはすべてを諦めたような疲れた声で口を開いた。

 

「それで? そのエデンのブドウだか何だかを手に入れて、美食を知った後はどうするの? その後も美食研究会と一緒にいるつもり?」

 

パンちゃんは、非常に崇高で決然とした、殉教者を思わせる表情で答えた。

 

「その究極のブドウを味わった後……私はエデンの果実に添えられる最も完璧なガルニ、Garnishとなり、この肉体の主に喜んで噛み砕かれるつもりだ。それこそが、食べ物として生まれた者が迎えられる、最も美しく完成された結末であるはずだから」

 

パンケーキの怪物がブドウ一粒を食べ、最終的には自分を救ってくれたイズミの胃袋の中へ喜んで身を投じるという、その奇怪で崇高な殉教宣言。フウカが眩暈を覚えながら、この茶番にどんなツッコミを入れるべきか、口をぱくぱくさせていた、その刹那だった。

 

「……!!」

 

突然、パンちゃんが言葉をぷつりと止めた。イズミの両目が鋭く光り、頭上にべったり張りついていた触手が、高性能アンテナのようにぴんと逆立って、空気中の微細な振動を感知した。

 

「どうしたの?」

 

「部長。エンジンをかけろ」

 

ドゴォォォォン――!!!!

 

フウカの困惑した問いが口から出るより前だった。鼓膜を容赦なく引き裂く轟音とともに、地盤を揺るがす凄まじい爆発の衝撃波が、路地に停められていた給食部ワゴン車の側面を強く叩いた。

 

車体がけたたましく揺れ、窓ガラスが割れそうに震えた。ルームミラー越しに、ガウディイホテルの3階屋外テラスの壁面が粉々に砕け、巨大な破片とともに崩れ落ちる凄惨な光景を、目撃してしまった。

 

濃い土埃と青白い炎がテラスを覆ったホテル内部は、まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 

「きゃあああっ!」

 

今日の本物の建築ミーティング相手だったパテル分派の高位職のお嬢様は、目の前で起きた爆発に愕然とし、白い手袋をはめた手で口を塞いだ。トリニティ自治区の心臓部、それも白昼堂々と起きた恐ろしい爆破テロ。上品にお茶を飲みながら談笑するミーティングなど、爆発音一つで一瞬にして空中へ蒸発してしまい、彼女は護衛生徒たちの必死の防壁の中で取り乱し、非常口へ向かって駆け出した。

 

「こ……この狂ったドブネズミどもが!!」

 

崩れた大理石の瓦礫の中から土埃を被ったカイザーコンストラクションの理事が、機械義眼を真っ赤に光らせ、獣のように咆哮した。彼の視線の先には、ぽっかり空いたテラス壁面の穴へ向かって逃げる、憎たらしい二人の生徒の背中が鮮明に焼きついていた。ブドウを失った惜しさなど、すでに眼中になかった。ただ、自分の完璧な政治的交渉を粉々に砕いた、あの不遜な小娘たちへの真っ黒な殺意だけが、理事の脳裏を支配していた。

 

「よくも大人のビジネスミーティングを台無しにしてくれたな?! 今すぐ追え! どんな手を使ってでも、あのドブネズミどもの息の根を止めろ!!」

 

理事の血走った怒りの命令とともに、殺気を帯びたカイザーの武装オートマタ隊員たちが戦術武器を抜き、慌ただしくホテルの外へ飛び出した。

 

一方、崩れ落ちるホテルのすぐ下にある狭い路地。

 

ドン! ガタン!!

 

給食部ワゴン車の屋根の上へ、何か重いものが立て続けに落ちる鈍い音がけたたましく響いた。テラスの空いた壁面から飛び降り、そのまま車の屋根へダイブしたジュンコとアカリだった。

 

「いたたたっ! ああもう! 結局爆発させたじゃない!」

 

ジュンコは膝をさすりながら呻いたが、その両腕は黒いハードケースを命綱のようにしっかり抱き締めていた。

 

その横へ猫のように軽やかに着地したアカリが、ジュンコの腕に抱かれたハードケースをぽんぽんと叩き、花が咲くように華やかに笑った。

 

「でも、本物が現れてしまったんですから、仕方ないですよね?」

 

最後に路地の曲がり角の影から抜け出したハルナが、悠然と姿を現した。完璧に整えられた優雅な佇まい、舞う髪の一筋まで完全に統制されたその姿は、つい先ほどホテルテラスでC4爆弾を爆発させた最悪の黒幕だとは到底信じられないほど、一分の乱れもない平穏な足取りで近づき、ワゴン車の後部座席のドアを開けた。

 

「お疲れ様でした。テラスでの交渉は、実に爆発的に締めくくられましたわね。さあ、皆さんお乗りください」

 

ハルナの手招きに、屋根の上にいたジュンコとアカリが素早く開いたドアの隙間へ滑り込み、後部座席に座った。パンちゃんを被ったイズミが状況終了を宣言し、冷たく命令を下した。

 

「目標物確保完了、全員の搭乗を確認。ドライバー、全速力で離脱する」

 

「い、いや待って! 私、トリニティのど真ん中で爆破テロの共犯になったの?! 私は行かない! もう自首する! 給食室が無事でも何になるの、私の人生が爆発しそうなんだけどおお!!」

 

フウカがハンドルに額をぶつけ、現実を否定しながらアクセルを踏むのを躊躇した、その短い刹那。

 

路地の角を曲がってホテルの外へ飛び出してきたカイザーの武装オートマタ隊員たちが、給食部ワゴン車を発見し、一斉に銃口を向けた。

 

「いたぞ! ドブネズミどもがあの古い荷車に乗った! まとめて撃ち殺せ!」

 

タタタタン――!!

 

殺気を帯びた銃弾がワゴン車の古い鉄板に鈍く突き刺さり、火花を散らした。

 

「ひいいいっ?! うあああああ!!」

 

自首だ何だと言っている場合ではなく、今すぐ蜂の巣になりかねない絶体絶命の危機。結局フウカの虚脱感は、生存本能に完全に呑み込まれた。彼女の魂の底から絞り出すような絶叫とともに、古い給食部ワゴン車のタイヤが、アスファルトを悲鳴のように掻き鳴らしながら猛烈に飛び出した。

 

ブオォォォン――!!

 

エンジンが爆発しそうな轟音を上げ、ワゴン車は狭い路地を抜け出し、トリニティの開けた大通りへ突入した。しかし安堵の息をつく暇もなく、1分もしないうちにルームミラーの向こうで、漆黒の防弾セダンと重厚なSUVの群れが、けたたましいエンジン音を吐きながら、恐ろしい速度で追いつき始めた。崩れたテラスの土埃を全身に被り、殺意を撒き散らすカイザーコンストラクションの理事と護衛兵力たちだった。

 

「逃がすな! あのポンコツの荷車をそのまま体当たりして潰せ!!」

 

カイザー理事が助手席で窓を荒々しく下ろし、無線機を握り締めて怒鳴った。圧倒的な馬力と無骨な重量を誇るカイザーの重武装車両が、トリニティの平和な大通りを無法者のように横切りながら、給食部ワゴン車の尻を呑み込むようにぴたりと追い上げ始めた。

 

しかし、この無慈悲な大混乱を見ている「第三勢力」が存在した。

 

「あ、アルファ・ワン! こちらブラボー・ツー。ガウディイホテルのテラスで身元不明の爆破テロ発生! 死傷者を確認中です!」

 

ホテル付近を巡回していたトリニティの正義実現委員会の隊員たちが、無線機を握り締め、慌ただしく状況を伝達していた。凄まじい爆発音がトリニティの空を切り裂いた直後、現場へ駆けつけていた彼女たちの視界に最初に飛び込んできたのは、崩れたホテルを背に、狂ったようにアクセルを踏み込み、急いで現場を離脱する「カイザーコンストラクション」の漆黒のSUVの群れだった。

 

路地の影に隠れ、先に大通りへ抜けた美食研究会の古く無骨な給食部ワゴン車は、後から出てきたカイザーの重厚な車体に遮られ、正義実現委員会の視界にはそもそも入っていなかった。

 

加えて、エデン条約事態以降、トリニティ内部へ無許可で侵入する武装勢力に対する正義実現委員会の警戒心は、最高潮に達していた。正義実現委員会の隊員たちの目にはただ一つ。爆破テロが発生した直後、武器を抜いて急いで現場から離脱する巨大企業の重武装車両だけが、明白かつ唯一の「爆破テロ容疑者」に見えていた。

 

「現在、外部武装勢力と推定されるカイザー所属車両が、猛烈な速度で現場を離脱中! 近隣の巡回車両は該当車両をただちに追跡してください!」

 

ウウウウウ――!!

 

正義実現委員会の装甲車の警告灯が点滅し、鋭いサイレンがトリニティの大通りを切り裂いた。

 

究極のブドウを盗んで逃げる、古い給食部ワゴン車。

 

自分たちの計画を粉々に砕いた生徒たちへの猛烈な殺意に目が眩み、前の車へ突っ込もうとして追う、カイザーの最新型防弾SUV。

 

そしてそのカイザーを爆破テロ犯だと完璧に誤認し、武器を向けながら追跡を開始する正義実現委員会の装甲車たちまで。

 

トリニティの繁華街はいつの間にか、食欲と殺意、そして凄まじい誤解が完璧に噛み合った三勢力の猛烈な排気音が入り混じる、阿鼻叫喚のトラックへと成り果てていた。

 

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