[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
トリニティ総合学園の朝は、いつだって澄み渡り、清々しかった。夜通し海岸沿いの農園を覆っていた湿っぽく重たい海霧は跡形もなく消え去り、青空の下から降り注ぐ眩しい陽光が、学園区域全体をあたたかく包み込んでいた。
ゴシック様式の荘厳な尖塔が、天へ向かって真っ直ぐに伸びる巨大な大聖堂前の広場。聖餐式が執り行われる大ミサをわずか二日後に控えたシスターフッドの朝は、普段よりもずっと慌ただしい活気に満ちていた。修道服をきちんと身にまとった生徒たちが、大きな箒を手に広場の大理石の床を掃いたり、礼拝堂の巨大なステンドグラスを丁寧に拭いたりしながら、来たる聖なる行事の準備を進めていた。
ブロロ、ブルルル――。
その平和で神聖な光景の中へ、やや無骨なエンジン音を立てる一台のトラックが、静かに滑り込んできた。シスターフッドの大聖堂側面、物資を納入するための専用荷降ろし場にトラックを停めると、ナホトは長く息を吐いた。
「ふう、ようやく着いたな」
徹夜の巡回による疲労と、明け方の運転で張り詰めていた緊張感のせいで凝り固まった首筋を揉みながら、ナホトはガチャリと音を立ててトラックの扉を開け、外へ降りた。普段なら、荷降ろし場の周辺を掃除していた一般のシスター生徒が一人か二人ほど近づいてきて挨拶を交わし、納品明細書を確認するのがいつもの流れだった。ナホトもまた、その慣れた手順を思い浮かべながら、運転席の片隅に置いていたクリップボードと、小さな試飲用のグラスセットを手に取った。
「あっ、いらっしゃいましたね! おはようございます!」
しかし、トラックの外へ出たナホトを真っ先に迎えたのは、前回の納品時に見かけた生徒たちの声ではなかった。
ナホトは目を瞬かせながら、声のした方へ顔を向けた。そこには、トリニティの生徒なら――いや、キヴォトスの住民なら知らない者などいない、シスターフッドの幹部二人が並んで立ち、彼を出迎えていた。
端正な漆黒の修道服。その上で敬虔にきらめく銀色の十字架の首飾り。頭上に浮かぶ青い十字架のヘイローの下で、澄んだ優しい笑みを浮かべている小柄な少女、マリーだった。ナホトも直接顔を合わせるのはこれが初めてだったが、彼女の名前だけはよく聞き知っていた。特有の優しく献身的な人柄のおかげで、シスターフッド内部はもちろん、一般生徒たちの間でも称賛の声が絶えない、立派な幹部だったからだ。
その隣には、彼女とは正反対の純白の修道服をまとい、見るだけで涼やかな気分になる青い瞳を輝かせる、マリーよりも比較的背の高い少女が立っていた。両手を合わせ、屈託なく笑っている彼女――ヒナタは、ナホトにとってかなり見覚えのある顔だった。かつてナホトが本校唯一の男子生徒として、あの長く退屈なチャペルの時間を耐え忍んでいた頃、遠く祭壇の近くで、不器用ながらもあちこち忙しなく動き回り、一生懸命礼拝の手伝いをしていた彼女の姿を、しばしば目にしていたからだ。細かな失敗は時折あったものの、その信心深さと誠実さによってシスターフッドでも評判は良く、やがて幹部になったと聞いた時も、当然のことだと思った。
「……あれ」
ナホトは内心、大いに狼狽した。シスターフッドを率いる中核幹部とも言えるこの二人が、葡萄ジュースの納品現場に直接出てくるなど、夢にも思っていなかったからだ。彼は慌てて身なりを整えると、二人に向かって礼儀正しく頭を下げ、黙礼を添えて挨拶した。
「あ、おはようございます! トリニティ郊外で葡萄農園を営んでおります、伊豆令ナホトです。今年も、今回の大ミサにおける聖餐式用葡萄ジュースの納品を担当させていただくことになりました! いつもお会いしているシスターの方ではなく、マリー様とヒナタ様が直接おいでになっているとは思わず、少し驚いてしまいました」
ナホトの丁寧な自己紹介に、マリーは両手を軽く合わせ、柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、ナホトさん。遠いところをお越しいただき、お疲れさまでした。今回の聖餐式は一般の生徒さんたちも多く参加する大きなミサですので、サクラコ先輩もとても気を配っていらっしゃるんです。ですから、私たちが直接、納品のお手伝いに参りました」
「はい〜! 荷物を下ろすのは、私たちにお任せください!」
ヒナタもまた、人の良さそうな笑みを浮かべながら、元気よく頷いた。その声は礼拝堂の鐘の音のように澄んでいて、清涼だった。二人の幹部からの思いがけない歓迎に、ナホトは内心感激しながら、トラックの荷台へと足を向けた。
ガチャリ、ギギギ――。
荷台の重い鉄製の掛け金を外し、後部扉を大きく開け放つと、明け方の海霧の中で彼が自ら積み込んだ重厚なオーク樽と、堅牢に梱包された木箱が姿を現した。実際、今回の納品量はナホトの基準から見てもかなり重い部類だった。
「今回収穫した葡萄は出来がとても良くて、かなり濃度の高いものに仕上がっています。その分、箱やオーク樽の重さも普段よりずっと重いはずです。私が先に荷降ろし場の奥にある専用の台車を持ってきますので、お二人は少しだけ……」
ナホトが二人の少女を気遣い、手を振りながら荷降ろし場の奥へ体を向けようとした、その瞬間だった。
ひょいっ――!
「え? 何かおっしゃいましたか、ナホトさん?」
背後から聞こえてきたヒナタの声に、何気なく振り向いたナホトは、一瞬、自分の目を疑ったまま、その場に固まってしまった。
巨大な木箱二つと、重厚なオーク樽一つ。それらが、まるで中身の空っぽな発泡スチロール箱ででもあるかのように、ヒナタの細い両腕に軽々と抱えられていたのである。しかもヒナタは、その凄まじい重量の荷物の塔を顔色ひとつ変えず安定して支えたまま、無邪気な表情でナホトに向かって小首をかしげていた。
「……あ」
ナホトの口から、間の抜けた声が漏れた。
ナホトは肉体的な力と体力については、それなりに大きな自負を持っていた。だが目の前で起きている非現実的な光景は、彼のささやかな自尊心を粉々に打ち砕くには十分だった。ひらひらと揺れる純白の修道服を身にまとった、見た目にはただひたすら穏やかで幼く見える少女が、自分の限界重量を何でもないことのように持ち上げ、鼻歌まで口ずさんでいる姿だなんて。
――これが……トリニティの心臓部を守るシスターフッド幹部の格、というものなのか……?
しばし認知の不協和に陥っていたナホトは、狼狽の色を笑みで覆い隠すようにして言った。
「あ、あはは……いえ。私の余計な心配でしたね。やはりヒナタ様のお力は素晴らしいです」
「えへへ、褒めてくださってありがとうございます! サクラコ先輩から、聖餐式まで変質しないよう、涼しい地下保管庫に大切にお納めしておくよう言われていますので。マリー、私、先に地下へ降りてますね!」
ナホトは慌てて自分も手伝うと言ったが、ヒナタは大丈夫ですと告げ、そのまま先に歩き出した。自分の体格の二倍はあろうかという荷物の塔を抱え、荷降ろし場の奥にある地下倉庫へと、とことこ歩いていくヒナタの後ろ姿。その平和でありながらも驚異的な姿をぼんやり眺めていたナホトの頭の中に、ふと一つの違和感がよぎった。
――待て。地下保管庫へそのまま入れるのか?
ナホトの視線は自然と、自分の片手に握られている物へ向いた。明細書を挟んだクリップボード、そして納品現場で中身を確認するために持ってきた透明な「試飲用グラス」だった。
ナホトが一度目の納品をした時も、二度目の納品をした時も。これまで聖餐式に用いられる葡萄ジュースの納品は、きわめて厳格で神聖な手続きを踏まなければならないという名目で検品されてきた。シスターフッドの生徒が直接箱を開封し、スポイトや専用の柄杓を使って少量の葡萄ジュースを試飲グラスへ取り分け、色、香り、味に不純物や変質の恐れがないかを丹念にテイスティングしてから、ようやく地下保管庫へ入庫される――それが、これまでの鉄則だった。
ところが今、ヒナタは箱の封印用リボンを解く素振りすら見せず、その荷物を丸ごと地下保管庫へ運んでいってしまったのである。
「あの、マリー様。失礼ですが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
ナホトはクリップボードを胸に抱えたまま、純粋な疑問に満ちた表情でマリーに尋ねた。
「はい? どのようなことが気になりますか、ナホトさん?」
「先ほどヒナタ様が、荷物を持ってそのまま保管庫へ降りていかれたではありませんか。一度目と二度目の納品の時は、いつもこの場ですぐに試飲を行い、入庫の署名をいただいていたのです。もしかして、本日分の試飲は後ほど別途行われるのでしょうか?」
ナホトの問いに、マリーは小さく「あ」と声を漏らし、頷いた。彼女は両手をきちんと揃えたままナホトを見上げ、落ち着いた声で答えた。
「その点についてでしたら、サクラコ先輩から別途、申し付けられていたことがあります」
「申し付け、ですか?」
「はい。今後、ナホトさんの農園から届く葡萄ジュースは、別途の試飲手続きを経ず、そのまま地下保管庫へ運ぶようにとご指示を受けています」
その答えを聞いたナホトの若草色の瞳が、まん丸に見開かれた。
「あ、そうなのですか? 試飲をまったく行わない、と? 聖餐式に用いる聖物である以上、試飲による品質検査は必須の手続きではなかったのでしょうか?」
ナホトは改めて不思議そうに首をかしげた。どれほど忙しくとも三分もあれば終わる試飲を、シスターフッド側が完全に省略するなど、想像もしていなかったからだった。
「そうでしたでしょうか? ですが、サクラコ先輩は試飲せずにそのまま運ぶようにとおっしゃっていましたし……あ! ナホトさんが納品される葡萄ジュースの品質を、完全に信頼していらっしゃるということではないでしょうか?」
「信頼……ですか?」
「はい。もう三度目の納品ですもの。これまでの二度の大ミサでも、ナホトさんの葡萄ジュースは非の打ちどころなく完璧でしたし、シスターフッドだけでなく、チャペルに参加する一般の生徒さんたちの間でも、とても評判が良かったんです。ですからサクラコ先輩は、『試飲という名目で、ナホトさんの真心と品質をその都度こちらが検証する必要はない』とお考えになったのではないでしょうか。ナホトさんを固く信じていらっしゃるからこそ、その信頼の証として、手続きを簡略化してくださったのかもしれません」
マリーのその温かな説明は、ナホトの胸の内に静かな波紋を広げた。
ナホトはふと、本校在学中、あの長く退屈だったチャペルの時間のたびに最後列に座り、こっくりこっくり居眠りしてばかりいた自分の過去を思い出した。神聖な礼拝の時間すら耐えられなかった不真面目な自分に、トリニティの心臓部であり、最も保守的で厳格な団体であるシスターフッドが、微塵の疑いもない全面的な信頼を寄せてくれているだなんて。
ナホトの中で、過去の態度に対する後ろめたさから来るかすかな罪悪感と、自分の真心と誠意を余すところなく認めてもらえたことへの深い感謝が、一つに混ざり合った。その胸を満たす感動は、徹夜の巡回による疲れさえ一瞬で吹き飛ばすには十分だった。
「あ……」
ナホトの澄んだ若草色の瞳に、淡い喜悦と、込み上げるような感動が満ちていった。彼は手にしていたクリップボードを胸元にぎゅっと抱きしめ、真心を一語一語に押し込めるような声で口を開いた。
「そこまで私を信じてくださるとは……本当に、光栄の至りです。シスターフッドのその深い信頼に決して傷をつけることのないよう、これからも私のすべてを尽くして、今後も最高の品だけを納品できるよう努めてまいります」
「ふふっ、はい。今回の聖餐式も無事に執り行えそうで安心しました。いつも優しく気を配ってくださるナホトさんのおかげです」
マリーは両手を合わせたまま、華やかな笑みで応えた。ナホトもまた、世界のすべてを手に入れたかのような満ち足りた表情で丁寧に挨拶すると、すっかり軽くなった足取りで古びたトラックへ乗り込んだ。
自分が聖餐式に用いられる葡萄ジュースを作るために注いできた真心と誠意が、余すことなく認められたという誇らしさ。それは何ものにも代えがたい、最高の報酬だった。
「よし。来年の聖餐式には、もっと美味しい葡萄ジュースを用意してみよう」
シスターフッドから寄せられた信頼に応え、報いるために、ナホトはミレニアムにある農業技術研究部へ連絡を入れてみようかと考えた。より優れた品種の開発を依頼するためだった。
ナホトは鼻歌を口ずさみながら、軽やかにトラックのエンジンをかけた。
その背後で、荘厳なトリニティ大聖堂の鐘の音が、澄み渡るように、平和に鳴り響いていた。
しかし、ナホトの抱いたこの温かな感動とは別に。
完全に省略されてしまったこの「試飲手続き」のおかげで、ナホトが疲労と海霧の中で積み間違えてきた「普及型ワイン」たちは、ありふれた蓋の開封や香りの検査すら一度も受けることなく、聖餐式の最も奥深い保管庫へ直行してしまった。
いかなる安全装置も、中間確認も存在しない、完璧なフリーパス。
アルコールが、トリニティの心臓部のど真ん中へと着地した瞬間だった。