[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
第4章 ワイルドハント芸術学院 プロローグ:何してる? 脱いで
冷たい初冬の風が、頬をかすめて通り過ぎた。
ナホトは、丁寧に包装された高級そうな黒いハードケースを片手に提げたまま、ワイルドハント芸術学院の巨大な正門の前で足を止めた。そして、ふうっ、と軽く息を吐き出す。
肌に触れる空気はそれなりに冷たく、白く曇る吐息を期待したのだが、宙には何の痕跡も残らなかった。まだそこまでの寒さではないのか、と妙な物足りなさを飲み込んだナホトは、やがて顔を上げ、ワイルドハント芸術学院の敷地へと足を踏み入れた。
トリニティ自治区の最外縁。潮気を含んだ海風が吹き、土の匂いが濃く立ち込める葡萄農園の、素朴でありながらも熾烈な風景とは、何もかもが正反対の世界が彼を迎えていた。
視界いっぱいに広がるのは、赤煉瓦を精巧に積み上げた外壁と、隅々まで隙間なく噛み合った白い石材の装飾だった。灰色の冬空を刃物で刺し貫くかのようにそびえる巨大なゴシック様式の尖塔。そして城壁を思わせる胸壁飾りの屋根は、まるで巨大な中世の要塞そのものだった。
視線を下ろせば、キャンパスの中央を横切る広大な大理石の広場が広がっている。広場の真ん中では、優雅な曲線を誇る巨大なハープ型のオブジェが据えられた噴水が、冷たい水を噴き上げていた。その周囲を囲むように、丸いアーチ柱が連なるルネサンス風の回廊が並び、古風な気品を添えている。
だが、その精緻で圧倒的な建築美を前にしても、ナホトの澄んだ薄緑色の瞳に最初に広がったのは感嘆ではなかった。
胸の奥が詰まるような、不思議な寂寥感だった。
「さすが芸術学院って言うべきかな。綺麗だな」
ナホトを最初に圧迫したのは、あの鋭いゴシックの尖塔だった。最初は視線を強引に空へと引き上げ、思わず感嘆させられた。しかし次第に、その妙な威圧感が、ナホトをどこまでも小さく、取るに足らない存在として押し潰しているように思えてきた。
それに加えて、開けた地平線も水平線もまったく見えない。視界の果ては必ず赤煉瓦の商店街と丸いアーチの回廊に遮られていた。足元も隙間なく切り揃えられた石材ブロックと大理石で舗装されており、土の匂いを嗅げる芝生も、歩道の隙間から顔を出す雑草も一本として見当たらない。
光を吸い込む濃い赤煉瓦と石の塊がもたらす物理的な重さは、冬の曇天と重なって、視覚的な憂鬱さすら生み出していた。
とりわけ、生命を育て、土とともに呼吸することを生業とする農夫になったからだろうか。地平を遮り、生命の無秩序さを強制的に去勢してしまうこの人工的な幾何学は、背筋を冷たくするような冷えと、息の詰まる窮屈さを与えるには十分だった。
「綺麗ではあるんだけど、なんか……」
ナホトは、妙な違和感を覚えた。
トリニティ総合学園本校の建物だって巨大だったが、こんなふうに押し潰されるような感覚はなかったはずだ。……いや、違うか? 本校の生徒たちの迫力に圧されて、建物に圧されている感覚を覚える暇すらなかっただけなのか?
分からない。
ともかく、トリニティでは感じたことのない息苦しさだった。トリニティは建物同士の間隔が広く、その間に柔らかな芝生や生い茂る木々が敷かれているからだろうか。あるいは、建物が四方をぎっしり囲んでいないからこそ伝わってくる、あの開放感のおかげか。
ガラスと鋼鉄でできた摩天楼が高くそびえるミレニアムやD.U.を訪れたときとも、明らかに違う感覚だった。あちらも冷たく人工的ではあったが、ここまで息の通り道を締めつけられるような窮屈さや、背筋の冷える感覚はなかった。
光を反射し、透過させるガラスと違って、あらゆるものを押し潰し、吸収する古い石の塊だからなのだろうか。
分かるようで、分からない。
確かに感じるのに、言葉にはできない奇妙な違和感に肩をすくめながら、ナホトはついに感想を口にした。
「綺麗ではあるんだけど、なんか……うん、なんというか、なんというかだな」
あるいはただ、生命を育て、土とともに呼吸することを生業とする農夫になったことで、地平を遮り、生命の無秩序さを強制的に去勢したこの統制された幾何学に、本能的な拒絶感と息苦しさを覚えるようになってしまったのかもしれない。
もしそうなのだとしたら――。
「俺もすっかり田舎者になったな」
ナホトは、いかにも農夫らしい感想を小さく呟きながら歩き出した。
自分では田舎者だと冗談を言ったものの、今日の彼が着ている服は、普段畑を転げ回るときに着る土埃まみれの作業着ではなかった。かといって、この華やかで古風なキャンパスに似合う貴族的な正装でもない。
動きやすい、きちんとした白いワイシャツにスラックス。その上に寒さを防ぐキャメル色のVネックニットを重ね、厚手のチャコールグレーのロングコートを羽織っていた。誰が見ても、都会の人間が初冬に着そうな、清潔感のある外出着だった。
彼がこの寒く寂しい石の帝国に足を踏み入れた理由は、ただ一つ。
今日、ワイルドハント芸術学院の大講堂で開かれる『自然美学コンクール(Natural Aesthetics Concours)』に出場するためだった。
普通、農産物の品評会といえば、果物の糖度や大きさ、病害虫の有無など、実用的な価値を評価するものだろう。
だが、芸術を尊ぶワイルドハントが主催するこのコンクールは、まったく別の道を行くものだった。
――自然が生み出した形の美しさ。
つまり、作物が持つ美学的な曲線や色彩、質感そのものを、芸術品として評価するという奇想天外な大会だった。
「参加番号百十四番、イズレ・ナホトさん。受付は完了しております。審査は午後三時から開始予定ですので、待機室でお待ちになるか、キャンパスをご覧になってお過ごしいただいても構いません」
受付のきちんとした生徒が、案内冊子を差し出しながら事務的に告げた。
ナホトはコートの袖を少しだけまくり、腕時計を確認する。現在時刻は午前十一時。審査まで、実に四時間も残っていた。
「四時間か……。ぼんやり待機室の椅子に座ってるには、長すぎるな」
ナホトはハードケースを受付のセーフティボックスに預け、近くの待機室を見回した。
初冬に開かれる特別展だからだろうか。コンクールの主力出品作は、厳しい霜を突き抜けて育った冬の根菜類だった。
会場入口の方では、すでに到着していた他の自治区の農家たちが、ニンジンや長ネギの細かな根を美容用のハサミで繊細に整えたり、ブラシをかけたりしていた。あるいは冬大根やジャガイモの表面をビロードの布でせっせと磨き上げ、艶を出すことに余念がない。
まるで大理石の彫像を磨く職人のような、悲壮なまでに真剣な表情だった。
しかし、ナホトが持ち込んだのはありふれた冬の根菜ではなく、『葡萄』だった。
それも、美術史の巨匠たちに愛されたという、完璧な漆黒の果実。
ワイルドハント芸術学院の種である黒葡萄、『ブラックベルベット(Black Velvet)』。
もともとはすべて納品先へ売り払うつもりだった。しかしクロノス新聞で、このような変わった大会があることを知り、最も形の整った美しい一房だけを、あえて売らずに残しておいたのだ。
ナホトは、この根菜たちの中でも、自分が血と汗を注いで実らせた成果が、糖度だけでなく外見の美しさにおいても頂点へ立てるはずだと考えていた。
すでに農園で十分に手入れと管理を済ませ、大切にハードケースへ収めてきている。そのため、彼は別途手を加える必要もなく、建物の外へ出て残り時間を潰すついでに、ワイルドハントのキャンパスを見物してみることにした。
足の向くままに歩いていると、中央広場を抜けた先に、可愛らしい石畳が敷かれた通りが現れた。
赤煉瓦とアーチ窓が印象的な商店街の一階には、ロマンチックなオープンカフェが軒を連ねている。鋭い冬風が吹く日にもかかわらず、パラソルの下では厚い毛布にくるまった生徒たちが集まり、温かな茶を飲みながら熱のこもった議論を交わしていた。
通りのあちこちには、キャンバスを載せたイーゼルや、散らばった絵の具の缶、パレットが自然に置かれている。三々五々に集まった生徒たちは、かじかんだ手に息を吹きかけながらも、それぞれ筆を握り、芸術的なインスピレーションを画布へ移すことに余念がなかった。
(こうして見ると、第一印象ほどただ寂しいだけってわけでもなさそうだな)
ナホトは物珍しそうに通りを見回しながら歩き、今度はその突き当たりにある巨大なドーム型の美術館へと足を向けた。
美術館の内部は、巨大な大理石の柱が一定の間隔で並ぶ、古典的な神殿のような造りになっていた。温かな暖房の風が、凍えた頬を優しく溶かしてくれる。
展示室の壁には、自然の雄大さを描いた巨大な風景画や油彩画が掛けられていた。柱の間には、水瓶を抱えた少年を描いた古典的な石膏像が、静かな佇まいを見せている。
しかしナホトの目を最初に奪ったのは、インフォメーションデスクの置かれたロビーの中央に、でんと鎮座する巨大な現代抽象彫刻だった。
中空の二つの黒い金属製菱形フレームが、まるで宙空で不可思議に噛み合ったまま交差して立っている。難解極まりない金属彫刻だった。
(あれはいったい、何を表現してるんだ? あんな重い鉄の塊が、狭い鉄製の台座一つでバランスを取って荷重に耐えてるって? 床の奥深くまで支柱を打ち込んでるのか?)
ナホトは腕を組み、オブジェの前へ近づいた。
だが、何か不思議な感覚を覚えるだけで、芸術については無知な彼は、彫刻に込められた美学的メタファーをあっさり脇へ置いた。そして真っ直ぐに、金属の物理的な接合部へと視線を向ける。
(わあ……溶接してるのか? でも、溶接した跡が見えないな……グラインダーで削ったのか?)
澄んだ瞳が、純粋な好奇心と感嘆にきらきらと輝いた。
(ミレニアムの連中が溶接したのを見ると、波みたいな模様が残ってたのに。これは、そんな模様も何も残ってない。最初から一つの塊だったみたいに滑らかじゃないか。溶接が本当に……なんというか……うん、すごく芸術的だな)
作品の哲学的価値など目もくれず、ただ重心を巧みに取って立たせた、積み上げた硬貨のように危うげでありながら不思議な均衡を保つその姿と、溶接工の見事な技術力に一人感動して頷いていたナホト。
彫刻の隙間へ顔を突っ込み、穴が開くほど覗き込んでいた、そのときだった。
「見つけた……!」
「うそ、本当にいたの?」
背後で誰かが、はっ、と息を呑む音とともに、ざわめく囁き声が聞こえた。
ナホトが何気なく振り返ると、いつの間に近づいていたのか、三、四人のワイルドハントの女子生徒たちが、彼をぐるりと囲んでいた。
まるで獲物に飛びかかるかのような目で、彼を見つめている。
一人のエプロンには、まだ乾ききっていない油絵の具がべったりと付いていた。別の生徒の指先には、黒い黒鉛の粉がこびりついている。
彼女たちの瞳は、まるで一生探し続けた伝説の聖杯でも見つけたかのように、猛烈な輝きを放っていた。
(な、何だ? 展示物に近づきすぎたから、注意しに来たのか……?)
ナホトが戸惑い、彫刻から一歩離れようとした、その瞬間。
エプロン姿の生徒が稲妻のように近づき、彼のチャコールグレーのコートの袖をがしりと掴んだ。
「なんてこと……この筋肉の張り! 厚い冬のコートとニットの上からでも隠しきれない、この圧倒的なフレーム!」
「しかも、あの広い肩から腰へと落ちていく完璧な逆三角形の躍動的な比率! 服の下で生きて呼吸している筋肉の起伏! 古びた偽物の筋肉模型だの、教育用データベース映像だの、硬い石膏像だのとは比べものにならない、この生々しさ!」
女子生徒たちはナホトを中心にくるくると回りながら、彼の肩幅、胸郭の厚み、コートの外に浮かぶ前腕の線を、遠慮なく目でなぞり始めた。
まるで最高級の大理石の原石を前にした彫刻家たちのように。
あるいは、競りに出された見事な種牡馬をあからさまに品定めするように。
その熱を帯びた視線に、ナホトは背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。
「あの、生徒たち? これはいったい、どういう……」
「お願いします!!」
ナホトの戸惑いの疑問符が形になる前に、エプロン姿の女子生徒が両手をぎゅっと握りしめ、彼の目の前へ顔を突き出した。
その眼差しは、まさしく芸術的な渇きに飢えた猛獣のようだった。
「私たち、人体ドローイングの実習をしていたんです! それで、偶然窓の外を見た瞬間! 私たちの枯れ果てた芸術的インスピレーションを満たしてくれそうなあなたが、ばっちり目に入ったんですよ!!」
「そうです! どうか私たちの『モデル』になっていただけませんか!?」
生徒たちの切実な叫びが、美術館のロビーに朗々と響き渡った。
いきなり手を掴んだかと思えば、魂まで売り渡しかねない勢いで縋りついてくる少女たちの頼みに、ナホトは戸惑いを隠せなかった。
(モデル?)
実習とはいえ、モデルになれと言われるのは、ナホトにとって馴染みもなく、気恥ずかしいことだった。
ナホトは低く唸りながらコートの袖をまくり、もう一度腕時計を確認した。コンクールの審査時間までは、まだ三時間以上残っている。キャンパス見学も、めぼしい場所はだいたい回り終えたところだった。
それに、芸術へ向けられた彼女たちの切実な目を、冷たく拒絶する理由も特になかった。
断ったあとで、わざわざ風に吹かれながらうろついて時間を潰すよりは、暖かい屋内で生徒たちの実習を手伝う方がずっと生産的ではないか。
そんな余計なお節介が、つい働いてしまった。
「ええ、まあ……二時間くらいなら、手伝えそうですね」
ナホトがぎこちない笑みとともに承諾の意思を示すと、生徒たちは「きゃああああ!」という歓声を上げ、その場でぴょんぴょんと跳ね始めた。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! さっそく私たちのアトリエへ行きましょう! 芸術の魂が冷める前に、すぐ作業を始めなきゃいけません!」
生徒たちは、まるで護衛兵のようにナホトの傍へぴたりと寄り添い、キャンパスの奥にある古風な煉瓦造りの建物へと彼を導いた。
彼らが到着したのは、天井に格子模様の古風な木彫りが施され、壁沿いに大きな黒板とイーゼルがぎっしり並んだ巨大なアトリエだった。
窓の外から降り注ぐ冬の眩い自然光が、教室の中央に置かれた大きな円形のモデル台を神聖なもののように照らしている。
アトリエの中では、二十人あまりの女子生徒たちが待機していた。ナホトが入ってくると、彼女たちは一斉に拍手を送り、熱烈な歓迎を見せた。
「さあ! 時間がありませんので、すぐにセッティングに入ります!」
二人の生徒が、中央の円形台座の上にあった石膏像を持ち上げ、隅へと運び去る。
続いて別の一人がナホトを導き、その台座の上へ立たせた。
そして、最後の一人は――。
ガチャン。
アトリエの重い木の扉に、錠がかかる冷たい音が響いた。
それと同時に、先ほどまで切実に頼み込み、拍手をして歓声を上げていた生徒たちの目から、あどけない『少女』の姿が跡形もなく消えた。
そこにあったのは、ただ被写体を引き裂かんばかりの狂気を宿した、『芸術家』の猛烈な眼光だけだった。
彼女たちは一糸乱れぬ動きでイーゼルの角度を合わせ、キャンバスと椅子を引き寄せ、恐ろしい速度で作業の準備を終えていく。
その殺伐とした雰囲気に圧倒されたナホトが、台座の上でおどおどと中途半端に立っていると、頬に木炭の粉を付けた生徒が腕を組み、断固として、しかも当然のことのように叫んだ。
「はいはい、早く上着を脱いで、シャツとズボンも脱いでください!」
ナホトの澄んだ薄緑色の瞳が、一瞬止まり、焦点を失った。
「……はい?」
自分が聞き間違えたのではないかと、間の抜けた声で聞き返す。
すると、エプロン姿の女子生徒が鉛筆を握ったまま、苛立たしげに急かした。
「躍動的な骨格と、筋肉の細かな動きを捉えないといけないんですよ。服を着ていたら、筋肉の線や起伏をちゃんと活かせないじゃないですか! 人体造形実習の基本中の基本です! だから! 早く! 全部! さっさと脱いでください!」
「下着もです!」
自分をぐるりと囲み、目をぎらつかせる数十人の女子生徒たち。
アトリエの扉は固く施錠され、逃げ場はない。
芸術という名目のもとに浴びせられる、彼女たちの容赦なく、堂々とした要求を前にして。
ナホトの顔から血の気が一気に引き、真っ青になってしまった。
(いや、待て。まさか……)
数十対の飢えた瞳が、自分の襟元へ突き刺さっているのを見ながら、ナホトは背筋に冷たい汗をだらだらと流した。
(頼まれたモデルって、ヌードモデルだったのか!?)