[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
大ミサを翌日に控えた、遅い午後。
シスターフッド大聖堂の準備室。
「わあ……。今年の葡萄ジュースは、ひときわ香りがいいですね」
「本当ですね。匂いを嗅いでいるだけで、もう気分が良くなってくるみたいです。前回は濃い果実の香りだけでしたけど、今回は妙にハーブや木のような香りも混じっている気がしませんか?」
「あっ、言われてみれば確かにそうですね。まるで葡萄園の真ん中に立っているみたいです! シスター、嗅覚が本当に鋭いんですね!」
トリニティ・シスターフッドの聖餐委員たちが集まり、明日使われる聖餐杯を準備しながら、しきりに感嘆の声を漏らしていた。彼女たちは七十二口の多段式聖餐器に、可愛らしい黄金色の杯を並べたあと、オーク樽から抜き出した赤い液体をスポイトで丁寧に二十ミリリットルずつ注ぎ入れていた。
普段であれば厳粛で静かであるべき準備室だったが、空気中にふわりと漂う濃密でねっとりとした葡萄の甘い香りのせいか、シスターたちの顔には妙な紅潮と浮き立った笑みが広がっていた。
厳格な禁欲と規律の中で、生涯酒とは縁遠く生きてきた純粋なシスターフッドのシスターたちである。葡萄ジュースからは決して漂うはずのない濃い「オークの香り」を嗅いでも、この圧倒的な芳香の正体が葡萄ジュースではなく、「葡萄酒の香り――アルコール」なのだとは、夢にも気づかなかったのである。
そして、翌朝。
トリニティ郊外の平和な葡萄農園。ナホトは溜まっていた契約分を処理するため、鼻歌を口ずさみながら荷降ろし場へ向かっていた。
「今日はスーパーに葡萄酒を納品する日だね。違約金を払わないで済むように、急がないと」
ナホトはトラックの荷台を開けると、右側ではなく左側、赤い屋根の「第二倉庫」の重い鉄扉を大きく開け放った。
「さて、どれどれ……」
しかし次の瞬間、ナホトの口から漏れていた鼻歌は、嘘のようにぴたりと止まった。
ぎっしり積まれているはずのオーク樽と木箱が跡形もなく消え、倉庫の中が空っぽになっていたのである。
「……あれ?」
ナホトは乱暴に目をこすり、倉庫の番号板を確認した。間違いなく第二倉庫だった。背筋を伝って、冷たい感覚がじわじわと這い上がってくる。彼は何かに取り憑かれたように、反対側にある「第一倉庫」へ駆け出し、その扉を荒々しく開け放った。
「あ」
そこには、シスターフッドに納品されて空になっているはずの、葡萄ジュース入りの木箱とオーク樽がいくつか、今なおきちんと積まれたまま彼を出迎えていた。
その瞬間、ナホトの脳裏に、数日前の未明の記憶が稲妻のようによぎった。徹夜の巡回の影響で朦朧としていた意識。一寸先も見えなかった濃い海霧。そして、自分の悪筆で刻まれた倉庫の番号板まで。
「……嘘だろ」
ナホトの顔から血の気がさっと引いた。額から大粒の冷や汗が雨のように噴き出す。
スーパーに納品できず違約金を払うことなど、もはや眼中になかった。自分がトリニティへ、それもシスターフッドの最も神聖な大ミサへ納品してしまった物の正体。それは、発酵によってアルコールを含んだ「普及型の赤葡萄酒」だった。
「ぼ、僕がシスターフッドに酒を流してしまったって……?」
想像するだけで、目の前が真っ暗に明滅した。農園の営業停止や商業活動の制限といった行政処分など、まだ慈悲深い部類だろう。怒り狂った正義実現委員会が今すぐ押しかけ、銃床でナホトの顎を殴り飛ばしたとしても、何も言い返せないほどの大事故だった。
さらに言えば、シスターフッドはトリニティの生徒会であるティーパーティーすら牽制できる、大規模な独自武力を有する集団ではないか。つまり、シスターフッドの神聖な大ミサを欺き、冒涜したとして、今すぐシスターたちが突撃銃を手に押し寄せ、葡萄園を焼き払ったとしてもおかしくない重大犯罪だった。
「あ、駄目だ……! 今すぐ止めないと! 間に合わなくても、せめて謝罪だけでも……!」
ナホトは正気ではない状態でトラックの運転席に飛び乗り、アクセルを踏み潰すように踏み込んだ。トラックのエンジンが悲鳴を上げ、トリニティ本校へ向けて猛然と飛び出していった。
*
同じ頃、トリニティ大聖堂。
荘厳なパイプオルガンの音が礼拝堂を満たす中、厳かな典礼が終わり、ついに大ミサの花である聖餐式が始まった。大聖堂を埋め尽くす数百名の生徒たちは、息を殺して祭壇を見つめていた。
純白の手袋をはめたシスターフッドの聖餐委員たちが、七十二口の多段式聖餐器を手に、まるで毛細血管が広がっていくかのように聖堂の通路のあちこちへ散っていった。長椅子に座っていた生徒たちは、慎重に小さな聖餐杯を一つずつ受け取った。
杯の中で揺れる、濃い赤色の液体。鼻先をくすぐる甘く恍惚とする香りに、生徒たちが唾を飲み込む音が、聖堂のあちこちで小さく響いた。今すぐにでも口へ流し込みたいところだったが、規定上、すべての生徒に杯が配られ、サクラコの祝福の祈りと短い黙祷が終わるまでは、飲むことができなかった。
まして、ミッションスクールであるトリニティの大聖堂、それも数百の視線が集中する場で、先に聖餐杯をあおるという不敬を犯せるような豪胆な者はいない。生徒たちは焦れるような気持ちを必死に押し殺し、忍耐を試されるほかなかった。
やがて祭壇に立ったサクラコが、両腕を広げ、厳かな声で告げた。
「この杯は、私たちのために流された赤き血であり、慈悲と愛の証です。姉妹たちよ、主の恩寵を口に含みなさい」
その言葉が終わるや否や、数百名の生徒たちは、まるで示し合わせたかのように一斉に聖餐杯を唇へ運んだ。
「……!!」
直後、大聖堂のあちこちから、はっと息を呑む音と、押し殺した感嘆の声が噴き出した。
「お、美味しい……!」
「何これ? 前の学期の聖餐式で飲んだ葡萄ジュースと全然違うんだけど? 喉越しが熱いのに、甘い……!」
生徒たちの頬が、瞬く間に桃色へ染まり始めた。喉を伝って落ちていった液体が、腹の底から熱を放っていたが、生徒たちはその熱がもたらす温もりに、妙な安らぎと陶酔感すら覚えていた。
もちろん、一部の生徒はこれが「葡萄酒」だという事実に気づいてもいた。だが、「シスターフッドが今回は正統な方式に従うことにしたのだろう」と早合点して済ませたり、「シスターフッドが直接出してくれた聖物なのだから、きっと深い意味があるに違いない」と、大して気にも留めなかった。
むしろ、聖餐杯に入っていた量がわずか二十ミリリットルほどの微量だったため、物足りなさに舌なめずりしながら、内心惜しむような反応を見せる生徒すらいた。
本式が盛況のうちに終わり、一般生徒たちが全員退出した大聖堂の祭壇裏。
シスターフッドの聖職者と聖餐委員たちが集まり、残った聖餐杯と聖餐器を回収する後片付けの真っ最中だった。キリスト教の長い規律上、聖餐式の後に残った葡萄ジュースは「聖なる聖物」として扱われ、一般の排水口やゴミ箱にむやみに捨てることはできなかった。
したがって、委員たちがその場で残った中身をすべて飲み干すか、量が多い場合には、神の創造物である清らかな土、すなわち自然へ返すという意味で、聖堂の庭にある清潔な花壇や芝生へ注ぐ、あるいは埋めるのが原則だった。
「マリーさん、回収された聖物の一部は、庭の花壇に分けて注いでいただけますか? 私は式典用の礼服から普段着に着替えてまいります」
「はい、サクラコ先輩。行ってらっしゃいませ」
サクラコは聖餐委員長に、まず短い祈りとともに残った葡萄ジュースを飲んでいるよう言い置いてから院長室へ向かった。マリーもまた、残った液体の入ったガラス瓶を手に、花壇へと席を外している状態だった。
二人の首脳部が席を外した、大聖堂の後片付け現場。
「では、院長のお言葉どおり、残った聖物は私たち姉妹で分けていただくことにしましょう。今日は本当にお疲れさまでした」
サクラコの代わりに現場を指揮していたシスターの言葉に、後片付けをしていた幹部と生徒たちは、残った杯を一つずつ手に取り、口の中へ流し込んだ。彼女たちもまた、その圧倒的な味わいに感嘆しながら、次々と杯を空けていった。
ところが、十分も経たないうちのことだった。
「あれ……? おかしいですね。急に世界がぐるぐる回っているみたいです……」
「わ、私もです。急に体が熱くなって、指先がぴりぴりと……」
普通の果汁にしては、あまりにも強すぎる熱。遅れてめまいを訴えるシスターが一人、また一人と増えていき、ようやく生徒たちは少しずつ異変に気づいて、杯を置き始めた。
だが、大聖堂の真の災厄は、すでに制御不能の領域へ入り込んでいた。
「へへ……へへへ……」
祭壇の隅で、残った杯を最も多く飲み干していた長身のシスター。
シスターフッドの動く破壊戦車、ヒナタだった。普段は雪のように白い彼女の顔は、すでに破裂しそうなほど真っ赤に火照っており、焦点の半ばほどけた瞳には、うるうると涙が浮かんでいた。
ヒナタはふらつく足取りで周囲をうろうろと歩き回ったあと、杯を片付けていた二人のシスター生徒へ、がしっと手を伸ばした。
「ううう……うちの姉妹たち……」
「ヒ、ヒナタ先輩? 顔色がすごく悪いですけど、大丈夫で……」
「いつもドジばかりで失敗してばかりの私を……こんなに優しく気にかけてくれて、本当に本当にありがとうございますぅぅー!!」
ぎゅうっ――!
アルコールが入り、感受性が爆発してしまったヒナタは、大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、両腕で二人のシスターを同時に抱きしめてしまった。
シスターたちは最初こそ戸惑いながらも、微笑ましげに笑って彼女の背中を撫でようとした。
その、次の瞬間。
ミシミシッ――!
大聖堂の静けさを引き裂く、鈍くも凄惨な軋み音。
シスターたちの口元に浮かんでいた微笑ましげな笑みが、驚愕へ塗り替わるまで、一秒もかからなかった。ヒナタの容赦ない腕力によって脊椎と肋骨を同時に圧迫された二人のシスターは、悲鳴を上げることすらできず、そのまま白目を剥いてぐったりと力を失った。
「……え?」
床にどさりと倒れた二人の姉妹。そしてその凄惨な光景を目撃した他のシスターたちの間に、重い沈黙が流れた。
「きゃあああああっ!!」
「医、医務室!! 今すぐ救護騎士団に連絡して!!」
聖なる大聖堂は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へ変わった。シスターたちは恐怖に引きつった顔で後ずさった。
自分のフリーハグが生み出した惨事を理解できないヒナタは、ただ目をぱちぱちさせるばかりだった。アルコールにすっかり浸された彼女の思考回路は、シスターたちが自分を避ける理由を、まったく別のものとして解釈してしまった。
「姉妹たち……? どうしてみんな逃げるんですかぁ……! 私が……私が嫌いなんですかぁ?! ふええん!」
自分を避ける姿に深く傷ついたヒナタは、わんわん声を上げて泣きながら近づいていった。恐怖に駆られたシスターたちは悲鳴を上げて散り散りに逃げ出した。
「こ、来ないでください、ヒナタさん!」
涙で視界の滲んだヒナタがふらつきながら前へ進んだ、その瞬間。彼女のつま先が祭壇のカーペットに、こつんと引っかかった。
どたん、がしゃん――!!
「きゃあっ!」
ヒナタは派手な音を立てて転び、テーブルへ突っ込んだ。その上に残っていた聖餐器の赤い葡萄酒がこぼれ、彼女の純白の修道服と体をぐっしょりと濡らした。
赤い葡萄酒を頭から浴びたまま、床に座り込むヒナタ。彼女はもはや完全に悲しみを爆発させ、まるで玩具を取り上げられた幼い子供のように、両の拳で床を叩きながら泣き叫び始めた。
「ふえええん!! みんな本当は、私のことをドジで面倒な女だって嫌ってるんですよねぇ!!」
聖堂全体がびりびりと震えるほど号泣する大柄な後輩の姿に、とうとう見ていられなくなった心優しいシスターが一人、震える手で白いハンカチを握りしめ、恐る恐る近づいた。
「ヒ、ヒナタ様……泣かないで、これで少し拭いてください……」
「ひっく、ぐすっ。シスターぁ……! やっぱりシスターしかいませんん!」
「え? あ、ちょっと待って! 駄目……!」
ぎゅうっ――!
ミシッ――!!
「ぐふっ」
結局、容赦なきフィリア――友人同士の友情、深い仲間意識と信頼――的な愛のフリーハグを真正面から受けた三人目の犠牲者が、床に転がった。
大聖堂は、もはや爆撃でも受けたかのような惨状になっていた。
「こ……これはいったい、何事ですか?!」
まさにその時、大聖堂の重い側面扉が開き、二人の少女が駆け込んできた。
式典用の礼服を脱ぎ、普段着に着替えて戻ってきたサクラコと、花壇へ聖餐酒を無事に――無事に?――注ぎ終え、空の瓶を持って戻ってきたマリーだった。
二人は、信じがたい光景を前に、その場で凍りついてしまった。
赤い液体を浴びたまま獣のように号泣し、周囲をさまようヒナタ。あちこちで気絶して倒れているシスターたち。そして大聖堂を満たす、理性を重く沈める葡萄酒の香り。
平和であるはずだった大聖堂の後片付けの時間は、まさに壊滅的な災害現場へと変わり果てていた。