[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
さく、さく。
心地よいリズムだった。薄く鋭い刃が、硬い果肉を丸く削り取っていく清らかな音が、耳元をくすぐっていた。
鼻先をかすめる、かすかで冷たい消毒薬の匂い。そしてその上に重なる、爽やかで甘い果物の香り。
ナホトは重く沈んでいた瞼を、ゆっくりと押し上げた。真っ先に網膜に映ったのは、染みひとつない真っ白な、生まれて初めて見る見知らぬ天井だった。
「ううっ……」
体を動かそうとした瞬間、背中と肋骨のあたりから鈍い痛みが押し寄せてきた。まるで無慈悲な油圧プレス機に上半身ごと突っ込まれ、思い切り圧縮されたあとで取り出されたような気分だった。苦しげな呻きとともにナホトが眉をひそめると、傍らから聞こえていた、さくさくという音が一瞬止まった。
ぼやけていた視界が次第にはっきりしていき、ベッド脇の補助椅子に行儀よく座り、果物ナイフを握っている一人の少女の姿が目に入った。
大きな翼が印象的な、救護騎士団の真っ白な制服。きちんと編み下ろされた豊かな髪と、その下で理知的に輝く青い瞳。トリニティ総合学園の救護騎士団団長、蒼森ミネだった。
「……ミネ?」
「あ、ようやく目を覚まされましたね」
ナホトのかすれた声に、ミネは剥いていた林檎から視線を外し、淡く微笑んだ。彼女の整った顔を確認したナホトは、無理やり口角を引き上げて挨拶した。
「久しぶりだね。こんなところでまた会うことになるとは思わなかったけど」
「まったくです。任務を終えて本隊に戻ってみれば、どこかの屈強な成人男性が救護騎士団の特別病棟に運び込まれて寝ていると聞きまして、もしやと思って来てみたのですが……やはり先輩でしたね」
ミネは赤い林檎の最後の皮を長く切り離しながら、少し呆れたような表情で、ナホトの包帯が巻かれた上半身を眺めた。彼女の知る伊豆令ナホトという男は、トリニティ本校時代からどこか規格外の人間だった。辺境にある園芸特化の高等学校へ転校し、卒業後は静かな郊外で葡萄農園を営む民間人の身分ではあるものの、並の不良生徒の襲撃や武力衝突程度では傷ひとつ負わない、硬い岩のような人物だった。
「よほどのことがなければ怪我もしない方が、どうしてこんな姿になったのですか? 農園で作業中に、トラクターにでも轢かれましたか?」
ナホトは、砕けかけた自分の肋骨を撫でながら、自嘲混じりの苦笑をこぼした。
「人間に化けた戦車に轢かれた」
「……はい?」
「いや、そういうことがあったんだ」
ミネはまったく理解できないというように首をかしげたが、ナホトは大聖堂で起きたあの恐ろしい「脊椎粉砕ハグ」について、わざわざ詳しく説明したくはなかった。思い出すだけで息が詰まりそうになるからだ。
「さて、まずは少しお召し上がりください。意識が戻られたなら、まず血糖値を補うのがよいでしょう」
ミネは、兎の形にきれいに剥かれた林檎の切り身が載った、小さなガラス皿を差し出した。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたところだから、助かるよ」
ナホトは腕を伸ばし、林檎の切り身を一つ摘んで齧った。しゃくりとした食感とともに、冷たく甘い果汁が、乾いていた口の中を心地よく潤した。生きているという実感が、果汁に乗って全身へ広がっていくようだった。
「果物を持ってきたのは私ではありません。シスターフッドのヒナタ様が、目が腫れ上がるほど泣きながら『ごめんなさい』と病室の前に置いていかれたものを、私が剥いて差し上げているだけです。後ほど、その方に直接お礼を伝えてください」
「そうなんだ? あとでヒナタにも、ちゃんとありがとうって言わないとね」
ナホトは残った林檎の切り身を口に放り込みながら、持ち前の人の良さそうな柔らかい目元で微笑み、ミネへ言葉を続けた。
「でも、ありがたいのは同じだよ。いくら知り合いが入院したとはいえ、目が回るほど忙しい救護騎士団の団長様が、わざわざ病室まで来て果物の皮まで剥いてくれたんだから。美味しくいただくよ、ミネ」
ナホトは改めて礼を言い、皿の上の林檎へもう一度手を伸ばした。
ミネはそんなナホトの態度に、何か気に入らないものを飲み込んだかのように、眉間をわずかに寄せた。彼女はどこか居心地の悪そうな表情で、包帯を巻いたナホトをじっと見つめると、やがて手にしていた果物ナイフを置き、小さくため息をついた。
「……人を惑わせて歩くところは、相変わらずですね」
「ごほっ! ぼ、僕がいつ人を惑わせて歩いたっていうんだ?」
理不尽さにむせ返るナホトへ、ミネはきっぱりと乾いた口調で告げた。
「ご本人にまったく自覚がないところが、この世で一番たちの悪い部分です」
「いや、僕はただありがとうって言っただけで……!」
ナホトが言い訳を並べようとした、その時だった。
コンコン。
静かな病室の扉を叩く軽い音とともに、黒い修道服をきちんと身にまとったサクラコが中へ入ってきた。大聖堂であの阿鼻叫喚と地獄絵図を経験した直後とは思えないほど、彼女特有の古風で優雅な佇まいは、一切の乱れもなく完璧に保たれていた。彼女はベッドにもたれて座るナホトとミネを交互に見やり、落ち着いた声で口を開いた。
「ナホトさん、意識が戻られたのですね。本当に何よりです。……ミネ団長、看病してくださったことには感謝しています。ですが、申し訳ありません。ナホトさんと二人きりでお話ししなければならない重要な件があります。席を外していただけますか?」
「あ、はい。承知しました、サクラコ様。先輩、それでは私は日課を終えたあと、また改めて伺います。無理に動かないでください」
ミネは丁寧に頭を下げて挨拶し、未練なく病室を出ていった。
扉が閉まる音とともに、病室には重い静寂が降りた。サクラコはミネが座っていた補助椅子に、慎重に腰を下ろした。彼女の背筋の伸びた姿勢と冷ややかな眼差しに、ナホトは無意識に生唾を飲み込んだ。
ついに、自分の愚かな納品ミスが招いた大災害に対する判決が下される時だった。
「結論から申し上げます」
サクラコは両手を膝の上できちんと揃え、ナホトの目をまっすぐに見つめた。
「聖餐式に用いる葡萄ジュースではなく、アルコールを含んだ葡萄酒が納品されたという前代未聞の事故については……シスターフッドとして、今回に限り『不問』に付すことを決定しました」
その言葉に、ナホトの澄んだ若草色の瞳が丸く見開かれた。
不問。つまり、処罰を下したり責任を問うたりはしない、という意味だった。
「意外ですね。神聖な大ミサを台無しにしてしまった、かなり深刻な事案だったはずですが」
「理由はいくつかあります。第一に、聖餐式に参加した生徒たちが酔い潰れるという事態は、幸い発生しませんでした。生徒たちも特に悪い反応はなく、むしろ好意的な雰囲気でした。被害といえば、せいぜい本式がすべて終わったあと、シスターフッド内部で後片付けをしている最中に発生した小規模な騒動に留まりました」
「あ……」
「第二に、ナホトさんがご自身の過ちにいち早く気づき、事態の収拾のため、遅れることなく大聖堂へ駆けつけてくださった点です。そして何より……」
サクラコは少し言葉を濁し、どこか申し訳なさの滲む目で、ナホトの包帯が巻かれた胸元を見つめた。
「ご自身の体を余すところなく犠牲にして、激しく注意を引きつけてくださったおかげで、私たちシスターフッドの他の姉妹たちが傷つくことなく、安全に大聖堂の外へ避難するための『貴重な時間』を、見事に稼いでくださった点を、最も高く評価しました」
サクラコの限りなく真剣で淡々とした説明に、ナホトの頭の中は、複雑な歯車のように絡まり始めた。
ナホトは、少し不服だった。タンクにヘイトを預けておきながら、アタッカーたちは全員逃亡してしまった歪なパーティープレイ。その大混乱のパーティーの真ん中で、ひとりメインタンクとして転がされ、肋骨が砕けたというのに、シスターフッド側から妥当な補償や身体的被害への謝罪もなく、時間を稼いでくれてありがとうという感謝だけを示されるとは。
しかし同時に、葡萄ジュースではなく葡萄酒を提供し、このすべての騒動の原因を作ったのは自分自身である。酒に酔ったヒナタが騒ぎを起こし、それを止める過程で大聖堂の長椅子がいくつか壊れ、シスター数名と院長であるサクラコが負傷した案件。シスターフッドの院長が傷ついたという点において、これは単なるアルコール混入を超え、シスターフッドに対するテロ行為に等しい事案だった。
それが奇跡的に「処分なし」で済まされたという事実に、ナホトの胸には深い安堵と骨身に染みる感謝が入り混じって押し寄せてきた。
不満と安堵。実に複雑で奇妙な感覚だったが、ナホトはベッドシーツを握っていた手から力を抜き、ひとまず首を横に振った。理不尽でありながら助かったというその感情は、一旦脇に置くことにした。今すぐ確認しなければならない、もっと重要なことがあった。
自分のせいでシスターフッドに事故が起き、人が怪我をしたのだから。
「……分かりました。処分の件についてご配慮いただき、心から感謝します。ですが、僕以外に意識を失って倒れていたシスターたちの容体はどうですか? サクラコ様も怪我をされて倒れていたように見えましたが、大丈夫なのですか?」
「あ……」
自分の安否や納品代金、試飲を省略した手続き、あるいは聖餐杯を満たす時にも葡萄ジュースではなく葡萄酒だと気づかなかったのかという責任の所在を問いただすよりも、まず他人の安否を尋ねるナホトの問い。そのまっすぐな優しさに、サクラコの冷たく固まっていた口元へ、ごく淡く柔らかな微笑みが広がった。
「幸い、他の姉妹たちは皆無事です。少し驚きはしましたが、身体的な外傷はありません。私もこちらの救護騎士団で応急処置を受けましたから、大丈夫です。シスターフッドの務めというものは、肉体的に大きな負担のかかる武力任務が主ではありませんので、しばらく無理のない範囲で静かに活動すれば、大きな支障はないでしょう」
「はあ……よかった」
ナホトが胸を撫で下ろし、心から安堵のため息を吐くと、サクラコは深く温かな眼差しで彼を見つめた。
「先ほど、ミネ団長から興味深い話を聞きました。ナホトさんは、かつてトリニティ本校に通っていた頃、なんと『保健委員長』だったとか」
「え? ああ……中等部時代の昔の話です」
「意識を失って倒れ、目を覚ますや否や言い訳を並べたり責任を逃れたりするのではなく、他の姉妹たちの健康状態を真っ先に気にかける、その利他的で優しい心……。さすが、救護の精神を実践していた方らしい、立派な心構えです。なぜヒナタがナホトさんの胸の中で安心して眠ったのか、少し分かる気もします」
「……それは褒め言葉として受け取るには、僕の肋骨があまりにも悲しむと思いますが」
ナホトは気まずそうに笑った。だが、和やかな空気も束の間、サクラコの雰囲気はすぐにまた、トリニティの厳格で隙のない院長シスターのものへと冷たく沈んでいった。
「ただし、本題に戻り、確認しておかなければならないことがあります」
サクラコの眼差しに、鋭い光が宿った。
「聖餐式で誤った聖物が提供されたにもかかわらず、表向き大きな問題がなかったのは、あくまで偶然が良い方向に重なった『結果論』にすぎません。誤って納品された葡萄酒については全量回収の手続きを取ります。そして、ナホトさんの農園側にも、今回の事態に対する相応の補償案を用意していただきます」
「当然の措置です。ご希望の補償案はありますか?」
「まず、納品された葡萄酒は全量回収してください。そして本来契約していた『通常の葡萄ジュース』を、今週中に改めて提供していただきます。また、来たる感謝祭行事にシスターフッド側へ大量納品される葡萄の単価を、大幅に下げてください」
「その程度であれば、僕の明白な過失ですし、当然対応できます」
ナホトは潔く頷いた。商品の再納品と、今後の行事における単価の引き下げ。その程度の金銭的、物質的損害であれば、農園を運営する立場として十分に受け入れられる、常識的なペナルティであり、合理的な取引だった。
しかし、サクラコが用意した請求書は、そこで終わりではなかった。
「円満に同意してくださり、ありがとうございます。そしてそれに加えて……最後の条件が一つあります」
「おっしゃってください」
「来月、トリニティ初等部の生徒たちを対象に、ナホトさんの葡萄園を開放し、一日『自然体験学習』を実施していただきたいのです」
「……はい? 初等部の体験学習、ですか?」
ナホトの顔に、隠しきれない困惑が濃く浮かんだ。葡萄園を開放してほしい、だと? 単なる農園見学や、大人しい葡萄摘み体験のようなものを望んでいるのであれば、開放自体はそれほど難しいことではなかった。
だが、その対象がよりにもよって「初等部」の生徒たちである。
天真爛漫に走り回り、好奇心を抑えられない小さな子供たちの引率から始まり、その体験学習に必要な子供用エプロン、安全ばさみ、小さな籠といった備品を、私費ですべて新しく揃えなければならない。
そのうえ、ナホトの葡萄園は、彼の真心と徹底した自然農法によって維持されている巨大な生態系だった。制御の利かない子供たちが土の上を走り回るうちに、害虫駆除のため高い金を払って農園に放っておいた貴重な益虫を無残に踏み潰したり、これから育つべき柔らかな葡萄の枝を、珍しがって勝手に折ってしまったりしたら?
頭の中で大まかな見積もりが回り始めると、これは単なる金銭的損害を超え、農園の一年の出来を左右しかねない、とんでもない「生態系撹乱」であり、恐るべき厄介事になることは明らかだった。
「あの、サクラコ様。葡萄ジュースの再納品や感謝祭の単価引き下げについては、もちろん文句なくお受けします。ですが、初等部の子供たちの体験学習となりますと、農園の繊細な生態系維持や子供たちの安全面の問題から、少々難しいところが……」
ナホトが慎重に難色を示し、遠回しに断ろうとすると、サクラコはまるで彼の反応を予想していたかのように、茶杯を持っていないほうの空いた手で、優雅に頬杖をついた。そして、限りなく柔らかく、それでいて背筋を凍らせるほど冷たい微笑みを浮かべ、言葉を添えた。
「ナホトさん。先ほども申し上げましたが、本来であれば、神聖な大ミサの聖餐式を冒涜した罪により、正義実現委員会が出動しても、あるいは私たちシスターフッドの武力部隊が直接動き、美しい葡萄園を灰になるまで焼き払ってもおかしくない重大な事案でした」
「……」
「もし、初等部の子供たちが訪れることで大切な葡萄畑が少し荒れるのではないかと躊躇していらっしゃるのなら、いっそ私たちが本来予定されていた『手続き』どおりに動いたほうがよろしいでしょうか?」
ナホトの脳裏に、農園上空へ浮かぶ攻撃ヘリから正義実現委員会が飛び降り、葡萄園をめちゃくちゃにしていく恐ろしい光景が、あまりにも鮮明に再生された。さらに、ガスマスクを着けたシスターフッドのシスターたちが、火炎放射器を噴射している光景まで浮かび上がる。
初等部の小さな子供たちが、無邪気に葡萄の枝を数本折ること。
そして、農園全体が灰燼に帰すこと。
そもそも秤にかけることすら成立しない圧倒的な選択肢を前に、ナホトは心の中で血涙を流しながら、深いため息を飲み込んだ。彼は震える唇をどうにか引き上げ、笑みを作ってみせた。
「……いいえ、院長シスター。成長していくトリニティの子供たちの情操教育と、正しい自然との触れ合いのためにも、初等部の体験学習はトリニティの明るい未来にとって、とても素晴らしく、恵みに満ちたご提案だと思います。子供たちの体格に合った可愛らしい籠と安全ばさみから、十分に注文しておきましょう」
サクラコが満足そうに頷いて席を立つと、ナホトはベッドシーツを強く握りしめたまま、静かに天井を見上げた。
一か月後に解き放たれる生態系撹乱種の甲高いおしゃべり声と、大切に育てた葡萄たちの悲鳴が、早くも頭の中に響き渡っているようだった。