[ブルーアーカイブ] トリニティのブドウ農園主 作:ancoracor08
七月初旬。
陽射しが最も強く照りつける、初夏のトリニティ郊外の葡萄園。
伊豆令ナホトの農園の中でも、早く甘みが乗る「デラウェア(Delaware)葡萄」の露地栽培区画は、普段であれば瑞々しい香りに満ちているはずだった。だが今日に限っては、その平和な葡萄畑は、巨大な戦場、あるいは災害映画のど真ん中へと変貌していた。
「わああ! 葡萄だぁ!」
「お兄さん! 見てください! 私の顔くらい大きいのが取れました!」
サクラコの、慈悲深いようで慈悲のない請求書によって強制的に実現した「トリニティ初等部・自然体験学習」。
ナホトは、無邪気に畑を駆け回る小さな天使たちの姿を見ながら、心の中で血涙を流していた。初等部の子供たちに与えられた割当量は、一人あたり二、三房。傍目には、ただ可愛らしい子供たちが小さな手で果物を摘んでいるだけの平和な光景だった。だが、農園主の鋭い目に映る現実は、生態系破壊そのものだった。
――ああ……腐葉土が……!
ナホトは額を押さえた。葡萄の木の健康のため、微生物を培養し、心を込めて敷き詰めておいたふかふかの腐葉土の地面は、あちこち走り回る数十人の子供たちの足の下で、すでにコンクリートのように固く踏み固められつつあった。
単に土が踏み固められただけで、そんなに大ごとなのかと思うかもしれない。しかしこれは、土中の空気層が押し潰され、根が呼吸できなくなるという、葡萄にとっては恐ろしい打撃だった。しかも、雨水を逃がすために掘っておいた排水路までもが、子供たちの無慈悲な駆け回りによって、なす術もなく崩れ落ちていた。
「おじさん! ハサミがうまく切れません!」
「え? そ、それならおじさんが行って切ってあげるから、ちょっと……!」
「えいっ!」
ビリッ――!
ナホトが止める間もなく、一人の子供が切れ味の鈍い安全ばさみを放り出し、無茶な握力で葡萄の房を引きちぎり始めた。葡萄だけがぽろりと落ちるのではなく、実のついた結果枝そのものが、無残にも裂けるように折れてしまった。
傷ついた木から樹液がだらだらと滲み出る惨状を前に、すでに治っていたはずのナホトの肋骨が、なぜかまたずきりと疼いた。
頭を抱えたくなる事態は、それだけでは終わらなかった。
「みんな、これ見て! 私のヘイローにぴったりでしょ!」
「わあ、綺麗! 私も花冠作りたい!」
一群の子供たちが、まだこれから大きく育つはずだった葡萄の柔らかな新梢の蔓をぽきぽきと折り、自分たちの頭上に浮かぶヘイローを飾る花冠を作っていた。しかも、益虫を誘引するためにわざわざ植えておいたゴールデンロッド(Goldenrod)やヤロウ(Yarrow)の花まで無残に摘み取り、飾りとして添えているではないか。
来年の収穫を担う大切な新芽と、益虫を呼び寄せる貴重な植物たちが、瞬く間に小さなお嬢様たちの使い捨てファッションアイテムへと転落する瞬間だった。
「きゃあっ! 虫!」
「気持ち悪い! えいっ、えいっ!」
ぐしゃ、べしゃ。
無慈悲な子供たちの足蹴りによって、農園の貴重な資産がなす術もなく散っていった。害虫を防除するため、農薬の代わりに高い金を払って放しておいた寄生蜂、ナナホシテントウ、ムシヒキアブ、捕食性アザミウマといった益虫たちが、無残に踏み潰されていく。
それだけではない。土壌の窒素固定のため、根元の周辺に丁寧に植えておいた緑肥作物までもが、不気味な雑草と誤解され、跡形もなく引き抜かれていた。
何よりナホトを発狂寸前に追い込んでいたのは、望むものは何でも手にして育ってきた貴族令嬢たちの「純粋な利己心」と、そのわがままを実力で押し通してしまう「超人的な腕力」が織りなす、恐るべき調和だった。
「あそこの上にあるの、もっと大きく見える!」
「手が届かないよ。この線を引っ張ったら、こっちに来ないかな?」
背が届かないとなると、子供たちは葡萄棚を支える太いワイヤーと鉄製の支柱をがしっと掴み、力いっぱい下へ引っ張り始めた。ナホトが畑に設置していた支柱は、多少の外部衝撃ではびくともしない高張力鋼製だった。だが、神秘によってキヴォトスの生徒たちの筋力は千差万別であり、よりにもよって、あの無邪気にぶら下がっている小さなお嬢様の「神秘」が、腕力強化に特化していたことが災厄の始まりだった。
ギギギギッ――!
太い鋼鉄の支柱が、小さな子供の可愛らしい両手に掴まれ、なす術もなく飴細工のように曲がりながら悲鳴を上げた。
そして支柱が大きく揺らぐと、その振動の余波は、そのまま葡萄の蔓へと伝わった。デラウェアという品種は、もともと皮が薄く、粒が落ちやすい「脱粒現象」がとりわけ激しい葡萄である。支柱を揺さぶる衝撃波によって、葡萄の房から粒がざあざあと雨のように落ち、地面はすぐに一面、紫色の地雷原と化してしまった。
このまま放置すれば、腐敗した葡萄粒が畑全体に致命的なカビ病を広げたり、膨大な数のショウジョウバエの群れを呼び込んだりするのは明白だったため、ナホトは一粒ずつ拾い集めて廃棄しなければならなかった。だが、興奮してあちこち走り回る小さなお嬢様たちの足によって、地面に散らばった葡萄粒は容赦なく踏み潰されていった。
それだけではなかった。子供たちが潰れた葡萄の残骸の上を無慈悲に駆け回る過程で、土の上に細かく敷いておいた点滴灌漑――プラスチックチューブやホースに開けた微細な穴から、作物の根元付近へ少量の水を継続的に供給する節水型の灌漑方式――の黒いチューブが踏みつけられ、あちこちにぱきぱきと亀裂が入ってしまった。
ついには破れた管から水が噴き出し、潰れた果肉と混ざり合った。丁寧に整えておいた腐葉土の地面は、もはや収拾のつかない惨たらしい泥沼へと変わっていった。片付ける気力すら奪われる恐ろしい光景に、ナホトは思わず眩暈で目の前がぐらりと揺れるのを感じた。
さらに、規則上、持ち帰れるのは三房までだったため、子供たちは自分で摘んだ葡萄を持ち歩いているうちに「もっと大きくて綺麗な葡萄」を見つけると、ナホトの様子をちらりとうかがい、それまで持っていた葡萄を枝の間へ適当に引っかけてから、新しい葡萄を切り取っていった。
「はは……ははは……」
ナホトは魂の抜けたような顔で、空っぽの笑いを漏らした。
これは体験学習ではなかった。初等部という名の無慈悲な蝗害が通り過ぎた、自然災害だった。
嵐のような体験学習が終わった、夕暮れ時の葡萄園。
子供たちが残していった痕跡は、凄惨だった。折れた枝、破裂した灌漑チューブ、踏み固められた土と益虫たち。ナホト一人でこれらすべてを原状復旧するのは、不可能に近かった。
ナホトはずきずきと痛む胸を押さえながら、ノートパソコンを開いた。そして、ミレニアムサイエンススクールの農業技術研究部宛てに、緊急メールを作成した。
【見積依頼:露地果樹園管理および復旧用・多目的ロボット/ドローンのレンタルならびに購入について】
ミレニアムの仕事は、驚くほど早かった。数日後、ドローン配送によって、重たいコンテナボックスがいくつか農園の庭先に届いた。中には、車輪付きの土壌管理ロボットと、剪定用マニピュレーターを装備した小型ドローンが入っていた。
「確かに、一般的な作物や大規模スマートファーム基準では、完璧な性能なんだけど……」
起動テストを終えたナホトは、袖をまくり、工具箱を開いた。ミレニアム特有の暗号化された制御ファームウェアやコアアルゴリズムを直接いじることはできなくても、マニピュレーターの張力を細かく調整したり、土壌管理ロボットの車輪に緩衝材を足して土が押し潰されるのを防いだりと、機械を細部までセッティングしていった。
チューニングを終えたミレニアムの機械たちとともに、ナホトの凄絶な復旧作業が始まった。
ドローンたちは空中を飛び回りながら、裂けたワイヤーを再びぴんと張って固定した。ナホトは鋏を手に、子供たちが引きちぎった傷だらけの枝を消毒し、精密に切り落としていった。地上ロボットたちは、亀裂の入った点滴灌漑チューブを見つけ出してシリコンで補修し、地面に落ちて腐りかけていた葡萄粒や落ち葉を真空吸引で吸い取った。
数日間の死闘の末、めちゃくちゃになっていたデラウェア区画は、どうにか元の青々とした生命力を取り戻した。
しかし、ナホトの試練は、土ではなく「帳簿」の中で腐り始めていた。
「赤字だ。完璧な赤字だ……」
農園事務所。ナホトは計算機を叩きながら、深いため息を吐いた。
大聖堂の惨事以降、サクラコの指示どおり、誤って納品してしまった「葡萄酒」は全量回収の措置を取った。だが、チャペルで聖餐式はすでに執り行われていたため、数百名のトリニティ生徒たちが一人二十ミリリットルずつ飲んでしまっていた。さらに、ヒナタがテーブルを破壊しながらぶちまけた分まで合わせると、回収できた量は半分にも満たなかった。
熟成室に残っていた葡萄酒の在庫があまりにも足りなくなったため、普段取引している食堂やスーパーへ期日どおりにワインを供給できず、莫大な違約金を支払わなければならなかった。かといって、無事な葡萄ジュースを売りに出すこともできなかった。その分は本来シスターフッドへ提供する予定の物量だったため、身動きが取れないまま拘束されてしまったのだ。
しかも、来たる秋の感謝祭でシスターフッドに売ることになっている最上級葡萄は、サクラコとの約束どおり「大幅に引き下げた価格」で引き渡さなければならない。
違約金。
葡萄酒の供給停止。
葡萄ジュースの販売不可。
単価引き下げ。
そして、ミレニアム製ロボットのレンタル費用まで。
葡萄酒、葡萄ジュース、葡萄。三つの主力商品すべてが、市場へ正常に出回らないという、最悪の資金繰り悪化が到来したのである。
結局ナホトは、屈辱感を噛み潰しながら銀行を訪れ、融資を受けた。
当面の違約金と農園維持費を補うための、緊急輸血だった。幸い、彼の農園は品質の良さで広く知られていたため、時間をかけて二、三年ほど黙々と栽培を続ければ、借入金を返済する能力は十分にあった。
しかしナホトは、この借金という枷を、一日でも早く外してしまいたかった。
彼は過去、無人島を開拓する癒やし系ゲームをプレイしていた時でさえ、悪徳タヌキに背負わされた住宅ローンをすべて完済するまでは、島の飾りつけに手を出さず、釣りと採集だけを繰り返していたほど、「借金」という概念そのものに拒否感を持つ人間だったのだ。
「何か方法はないかな? 今、外では僕のワインが手に入らなくて大騒ぎなのに……」
皮肉なことに、大聖堂の惨事以降、トリニティ自治区内ではナホトの葡萄酒への需要が爆発的に高まっていた。
神聖な聖餐式に葡萄ジュースではなく葡萄酒を納品してしまったことは、明白な大事故だった。だが結果的に大きな問題は起きず、トリニティ本校の数百名の生徒たちにナホトの作ったワインを強制的に味わわせる「超大型無料試飲会」であり、凄まじい広告効果となってしまったのである。
その日、「聖物」という名目でナホトの葡萄酒を口にした生徒たちは、ナホトの神秘が溶け込み、アルコールの香りすら完璧に覆い隠していた、あの恍惚とするような甘い味を忘れられず、口コミでナホト農園のブランドを探し回っていた。
需要は溢れている。だが、生徒たちに堂々と酒を売るわけにはいかない。通常のワインを流通させる在庫もない。葡萄ジュースもシスターフッドに押さえられており、葡萄もまた、シスターフッドに供給したところで利益は期待できない水準だ。
この膠着状態を打開する方法を考えていたナホトの脳裏に、ふと稲妻のような閃きが走った。
「待てよ。ワインでもなく、ジュースでもない形で売ればいいんじゃないか?」
ナホトの口元に、ゆっくりと濃い笑みが広がり始めた。