多様性ラプソディ   作:夕々@4649

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帰り道

 校門を出ると、坂の下から湿った風が上がってきた。六月の夕方はまだ明るい。古い石垣の向こうで、コンビニの看板だけが昼間より先に夜を始めている。

 

「この道、昔は川だったんだよ」

 

 長いのが、坂の先を指して言った。

 

 いつものことなので、俺は返事を少し遅らせた。彼女の「昔」は、話し相手の寿命を考慮しない。

 

「へえ」

 

「へえ、じゃない。あそこに橋があってね。白い花が咲いて、夏になると小さい精霊が水面を渡った。デフォ族の子どもが裸足で走って、よく転んで泣いてた」

 

「今もデフォ族の子どもは転ぶよ。アスファルトで」

 

「情緒がない」

 

 長いのは不満そうに鼻を鳴らし、それからまたスマホに目を落とした。両手で大事そうに持った画面には、駅前の喫茶店までの地図が表示されている。さっきから五分ほど、青い点が同じ場所で震えていた。

 

「で、その情緒ある川を埋めたのが俺たちって話?」

 

「おおむねそう」

 

「俺が生まれる前の罪で責められても困るんだけど」

 

 俺が言うと、長いのは画面から目を離さないまま肩をすくめた。

 

「デフォ族はすぐ個人単位でものを考える」

 

「寿命が短いからね。責任も小分けにしないと持てないんだよ」

 

 そう返すと、長いのは少しだけ目を細めた。怒ったのかと思ったが、そうでもないらしい。彼女はたまに、知らない菓子を口に入れた時みたいな顔で、こちらの言葉を黙って転がす。

 

 隣で酒呑が立ち止まった。

 

 学生鞄を片方の肩に引っかけたまま、電柱を見上げている。夕方の光を受けた横顔は、やけに深刻だった。

 

「この溶接、誰がやった」

 

「知らないよ」

 

「雑だ」

 

「電柱の溶接に魂を求めるな」

 

 俺が言うと、酒呑はようやくこちらを見た。本気で不愉快そうだった。

 

「魂じゃねえ。最低限の矜持だ」

 

 酒呑は背が低い。けれど腕だけは、なぜか工具箱みたいに重そうだった。制服はちゃんと着ているのに、夕方の逆光に立たせると、どう見ても職員室に鍵を返しに来た設備業者である。

 

「触るなよ」

 

「触らねえよ。今は道具がねえ」

 

「ある時は触るんだな」

 

「直せる物を放っておくのは失礼だろ」

 

「誰に」

 

「物に」

 

 そこで長いのが、ようやくスマホから顔を上げた。

 

「物に礼を尽くすところは好きだよ、酒呑は」

 

「お前に言われると妙に古文っぽいな」

 

 酒呑が眉をひそめる。長いのは心外だという顔をした。

 

「古文じゃない。デフォ族の言葉が勝手に古くなっただけだ」

 

 坂を下りると、道幅が急に広がる。車が途切れるたび、横断歩道の白が夕日に浮いた。昔ここに川があったと言われても、俺には排水溝の匂いと、駅前の唐揚げ屋の油の匂いしかわからない。

 

 けれど長いのは、ビルの隙間を見ながら歩いていた。そこにないものを、いつも少しだけ見ている。

 

「で、喫茶店ってどこだっけ」

 

 長いのがスマホを顔の高さまで持ち上げた。

 

「だからその地図を見てるんだろ」

 

「地図は見てるよ。でも青い点が嘘をつく」

 

 酒呑が、苛立たしげに画面をのぞき込んだ。

 

「嘘じゃねえ。お前が回ってるんだよ」

 

「回ってない」

 

「さっき校門前で三回転してた」

 

「あれは方角を確かめてた」

 

「鳩みたいだったぞ」

 

 長いのは不服そうに唇を曲げた。それから急に、思い出したように目を輝かせる。

 

「その喫茶店、メロンソーダはある?」

 

「たぶんある」

 

 俺が答えると、長いのはほっとしたように息を吐いた。

 

「まだあるのか。よかった。あれはいい文明だ」

 

「流行の最先端みたいな顔で言うなよ」

 

「えっ、違うの?」

 

「違う」

 

「この前までみんな飲んでたじゃないか」

 

「この前って?」

 

「四十年くらい前」

 

「俺、生まれてない」

 

「デフォ族はすぐ生まれてないって言う」

 

「生まれてないものは生まれてないんだよ」

 

 酒呑が鼻で笑った。

 

「メロンソーダは悪くねえ。だが氷が多すぎる店は駄目だ。中身を薄めて量をごまかす根性が気に食わねえ」

 

「お前は飲み物にも喧嘩を売るのか」

 

「作り手の姿勢が出る」

 

「ちなみに今日は酒じゃなくてメロンソーダで我慢しろよ」

 

 俺が釘を刺すと、酒呑は鞄の内ポケットを叩いた。

 

「我慢ってなんだ。放課後だぞ」

 

「放課後でも学校帰りなんだよ」

 

「証明書はある」

 

「この会話、通報されたら俺だけ説明が面倒なんだわ」

 

 あの紙切れ一枚で、保健室の先生と生活指導の教師とコンビニ店員が、同じ種類のため息をつく。本人はそれを、社会が少しだけ賢くなった証拠だと思っているらしい。

 

「デフォの規則は面倒だな」

 

 酒呑が言った。

 

「守らない奴がいるから増えるんだよ」

 

 俺が返すと、長いのがぽつりと口を挟んだ。

 

「増えた規則を守るために、また規則を作る。ずいぶん器用な檻だ」

 

 俺は返す言葉を探して、結局やめた。彼女はこういう時だけ、年寄りみたいなことを言う。いや、実際、年寄りなのかもしれない。けれどコンビニの自動ドアに毎回小さく驚くから、こちらの感覚が追いつかない。

 

 駅前の信号が青に変わった。人の波が動き出す。スーツ姿、買い物袋、ベビーカー、自転車を押す老人。そこに俺たち三人も混ざる。

 

 長いのの髪が風で揺れ、酒呑の靴音がやけに硬く響いた。俺は二人の少し後ろを歩きながら、歩幅をどちらに合わせるべきか迷う。

 

 長いのに合わせると、世界は古すぎる。

 

 酒呑に合わせると、世界は頑固すぎる。

 

 俺に合わせると、たぶん二人には早すぎる。

 

「なあ」

 

 信号を渡りきったところで、長いのが振り返った。

 

「フリック入力って、本当に覚えた方がいい?」

 

「覚えた方がいい」

 

「ガラケーの打ち方、やっと手に馴染んだんだけど」

 

「その努力は歴史になった」

 

「ひどいことを言う」

 

「文明ってそういうものらしいよ」

 

 長いのはしばらく黙り、それからスマホを俺に差し出した。

 

「じゃあ教えて」

 

「今?」

 

「メロンソーダを飲みながら」

 

 すると酒呑が、信号の向こうの喫茶店を顎で示した。

 

「俺はその店の椅子を見る」

 

「座れよ」

 

「必要なら直す」

 

「だから直すな」

 

 喫茶店の看板が光っていた。昔は川だった場所に、今はクリームソーダの食品サンプルが並んでいる。長いのはそれを見て、ほんの少しだけ安心したように笑った。

 

「まだ残ってるものもあるんだな」

 

 その言い方が、妙に静かだった。

 

 俺は何も言わずに、自動ドアの前で二人を追い越した。中から冷房と甘いシロップの匂いが流れてくる。酒呑がさっそく椅子の脚を見て眉をひそめたので、俺は先に釘を刺した。

 

「今日は座るだけ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「そこは言い切れよ」

 

 長いのが笑った。

 

 その声は、駅前のざわめきの中でも、不思議と古くならずに聞こえた。

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