校門を出ると、坂の下から湿った風が上がってきた。六月の夕方はまだ明るい。古い石垣の向こうで、コンビニの看板だけが昼間より先に夜を始めている。
「この道、昔は川だったんだよ」
長いのが、坂の先を指して言った。
いつものことなので、俺は返事を少し遅らせた。彼女の「昔」は、話し相手の寿命を考慮しない。
「へえ」
「へえ、じゃない。あそこに橋があってね。白い花が咲いて、夏になると小さい精霊が水面を渡った。デフォ族の子どもが裸足で走って、よく転んで泣いてた」
「今もデフォ族の子どもは転ぶよ。アスファルトで」
「情緒がない」
長いのは不満そうに鼻を鳴らし、それからまたスマホに目を落とした。両手で大事そうに持った画面には、駅前の喫茶店までの地図が表示されている。さっきから五分ほど、青い点が同じ場所で震えていた。
「で、その情緒ある川を埋めたのが俺たちって話?」
「おおむねそう」
「俺が生まれる前の罪で責められても困るんだけど」
俺が言うと、長いのは画面から目を離さないまま肩をすくめた。
「デフォ族はすぐ個人単位でものを考える」
「寿命が短いからね。責任も小分けにしないと持てないんだよ」
そう返すと、長いのは少しだけ目を細めた。怒ったのかと思ったが、そうでもないらしい。彼女はたまに、知らない菓子を口に入れた時みたいな顔で、こちらの言葉を黙って転がす。
隣で酒呑が立ち止まった。
学生鞄を片方の肩に引っかけたまま、電柱を見上げている。夕方の光を受けた横顔は、やけに深刻だった。
「この溶接、誰がやった」
「知らないよ」
「雑だ」
「電柱の溶接に魂を求めるな」
俺が言うと、酒呑はようやくこちらを見た。本気で不愉快そうだった。
「魂じゃねえ。最低限の矜持だ」
酒呑は背が低い。けれど腕だけは、なぜか工具箱みたいに重そうだった。制服はちゃんと着ているのに、夕方の逆光に立たせると、どう見ても職員室に鍵を返しに来た設備業者である。
「触るなよ」
「触らねえよ。今は道具がねえ」
「ある時は触るんだな」
「直せる物を放っておくのは失礼だろ」
「誰に」
「物に」
そこで長いのが、ようやくスマホから顔を上げた。
「物に礼を尽くすところは好きだよ、酒呑は」
「お前に言われると妙に古文っぽいな」
酒呑が眉をひそめる。長いのは心外だという顔をした。
「古文じゃない。デフォ族の言葉が勝手に古くなっただけだ」
坂を下りると、道幅が急に広がる。車が途切れるたび、横断歩道の白が夕日に浮いた。昔ここに川があったと言われても、俺には排水溝の匂いと、駅前の唐揚げ屋の油の匂いしかわからない。
けれど長いのは、ビルの隙間を見ながら歩いていた。そこにないものを、いつも少しだけ見ている。
「で、喫茶店ってどこだっけ」
長いのがスマホを顔の高さまで持ち上げた。
「だからその地図を見てるんだろ」
「地図は見てるよ。でも青い点が嘘をつく」
酒呑が、苛立たしげに画面をのぞき込んだ。
「嘘じゃねえ。お前が回ってるんだよ」
「回ってない」
「さっき校門前で三回転してた」
「あれは方角を確かめてた」
「鳩みたいだったぞ」
長いのは不服そうに唇を曲げた。それから急に、思い出したように目を輝かせる。
「その喫茶店、メロンソーダはある?」
「たぶんある」
俺が答えると、長いのはほっとしたように息を吐いた。
「まだあるのか。よかった。あれはいい文明だ」
「流行の最先端みたいな顔で言うなよ」
「えっ、違うの?」
「違う」
「この前までみんな飲んでたじゃないか」
「この前って?」
「四十年くらい前」
「俺、生まれてない」
「デフォ族はすぐ生まれてないって言う」
「生まれてないものは生まれてないんだよ」
酒呑が鼻で笑った。
「メロンソーダは悪くねえ。だが氷が多すぎる店は駄目だ。中身を薄めて量をごまかす根性が気に食わねえ」
「お前は飲み物にも喧嘩を売るのか」
「作り手の姿勢が出る」
「ちなみに今日は酒じゃなくてメロンソーダで我慢しろよ」
俺が釘を刺すと、酒呑は鞄の内ポケットを叩いた。
「我慢ってなんだ。放課後だぞ」
「放課後でも学校帰りなんだよ」
「証明書はある」
「この会話、通報されたら俺だけ説明が面倒なんだわ」
あの紙切れ一枚で、保健室の先生と生活指導の教師とコンビニ店員が、同じ種類のため息をつく。本人はそれを、社会が少しだけ賢くなった証拠だと思っているらしい。
「デフォの規則は面倒だな」
酒呑が言った。
「守らない奴がいるから増えるんだよ」
俺が返すと、長いのがぽつりと口を挟んだ。
「増えた規則を守るために、また規則を作る。ずいぶん器用な檻だ」
俺は返す言葉を探して、結局やめた。彼女はこういう時だけ、年寄りみたいなことを言う。いや、実際、年寄りなのかもしれない。けれどコンビニの自動ドアに毎回小さく驚くから、こちらの感覚が追いつかない。
駅前の信号が青に変わった。人の波が動き出す。スーツ姿、買い物袋、ベビーカー、自転車を押す老人。そこに俺たち三人も混ざる。
長いのの髪が風で揺れ、酒呑の靴音がやけに硬く響いた。俺は二人の少し後ろを歩きながら、歩幅をどちらに合わせるべきか迷う。
長いのに合わせると、世界は古すぎる。
酒呑に合わせると、世界は頑固すぎる。
俺に合わせると、たぶん二人には早すぎる。
「なあ」
信号を渡りきったところで、長いのが振り返った。
「フリック入力って、本当に覚えた方がいい?」
「覚えた方がいい」
「ガラケーの打ち方、やっと手に馴染んだんだけど」
「その努力は歴史になった」
「ひどいことを言う」
「文明ってそういうものらしいよ」
長いのはしばらく黙り、それからスマホを俺に差し出した。
「じゃあ教えて」
「今?」
「メロンソーダを飲みながら」
すると酒呑が、信号の向こうの喫茶店を顎で示した。
「俺はその店の椅子を見る」
「座れよ」
「必要なら直す」
「だから直すな」
喫茶店の看板が光っていた。昔は川だった場所に、今はクリームソーダの食品サンプルが並んでいる。長いのはそれを見て、ほんの少しだけ安心したように笑った。
「まだ残ってるものもあるんだな」
その言い方が、妙に静かだった。
俺は何も言わずに、自動ドアの前で二人を追い越した。中から冷房と甘いシロップの匂いが流れてくる。酒呑がさっそく椅子の脚を見て眉をひそめたので、俺は先に釘を刺した。
「今日は座るだけ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切れよ」
長いのが笑った。
その声は、駅前のざわめきの中でも、不思議と古くならずに聞こえた。