昨日の朝、自販機の前でヴァンが「酒がない」と深刻そうに言い出したせいで、俺の頭の中から大事な用件がきれいに吹き飛んでいた。
ドラゴンの鱗で作ってもらった栞の、お礼である。
弁当を食べ終えた俺は、机の中から革のケースを取り出した。
何度見てもこれは凄い。鱗を傷つけない留め具。小さな竜の装飾。高級感のある革のケース。昨日から何度も机の中を開けて眺めている。授業中に見るのはさすがに我慢した。俺はまだ人として戻れる場所にいる。
だから、何か返したかった。
大げさなものではない。友達にちょっと奢るくらいの、軽いやつだ。
「ヴァン」
「ん?」
向かいで弁当箱を片づけていたヴァンが顔を上げた。
「この栞のお礼したいから、購買行こう」
「あれは大したものじゃない。それに俺はプロでもないしな」
「いやいや、これは凄く良いものだよ」
俺はケースを開けて、栞を見せた。
昼休みの光を受けて、鱗が青から緑へ変わる。やっぱり良い。やっぱり格好いい。俺の語彙が死ぬくらいには格好いい。
ヴァンは少しだけ目を細めた。
「まあ、そうまで言うなら受け取ろうか」
「よし。好きなの選んでよ。パンでも飲み物でも」
「そうだな、今の気分だとテキー――」
「購買で売ってるものでお願いします」
俺は即座に遮った。
危なかった。
今、確実に学校の購買に存在してはいけない単語が出かけた。
ヴァンは不満そうに眉を寄せる。
「昨日も言ったがな。なぜ酒を売ってないんだ? 自販機はともかく、購買ならいいだろ。店員が管理すれば何も問題ないはずだ」
「学校は勉強するところだからじゃないかな?」
「酔っても勉強はできる」
「えぇ……?」
俺は困って、少し離れた席を見る。
ガラテアとジーンが、机を寄せて昼食後の何かを話していた。たぶんスマホの話だ。二百年生きてスマホの話で盛り上がるの、いまだに少し不思議な光景である。
「ねえ、酔っても勉強ってできるものなの?」
俺が聞くと、ジーンがこちらを向いた。
「できるできないで言えば、できるな」
答えが冷静すぎた。
ガラテアもストローをくわえたまま、軽く肩をすくめる。
「覚えられる忘れるで言えば、忘れるけどね」
「駄目じゃん」
「一樽飲むわけじゃないんだぞ」
ヴァンが机を軽く叩いた。
「喉を潤す程度だ」
「あんた達の酒で潤すは信用ならないのよ」
ガラテアが呆れたように言う。
「そもそも今日も水筒で持ってきてるんでしょ?」
「当然だ」
ヴァンは鞄から水筒を取り出した。
どん、と机に置かれる。
でかい。
俺の知っている水筒より、二回りくらいでかい。遠足に持っていくやつというより、部活動の合宿で顧問が麦茶を入れてくるサイズだった。
「ちゃんとウォッカにしてるぞ」
「人の指摘を聞けて偉いけど!」
俺は水筒を見つめた。
「これ、何リットル?」
「二リットルだ」
「俺、分かんないんだけど、一日にウォッカ二リットルってどうなの?」
「デフォや私達なら死ぬだろうな」
ジーンが淡々と言った。
「致死量級を学校に持ってくるな」
「俺は死なん」
「そういう問題じゃない」
ガラテアが笑い、ジーンは特に表情を変えないままいちごミルクを飲んでいる。慣れているのか、諦めているのか、たぶん両方だ。
俺は栞をケースに戻しながら、改めて購買の方を指さした。
「とにかく、お礼は購買で売ってるもの。酒以外」
「条件が狭いな」
「学校の購買としては普通だよ」
「仕方ない。なら、パンを見る」
ヴァンは立ち上がり、俺たちは購買へ向かった。
「私にはカフェオレお願ーい」
パシリになった覚えはないので背中から聞こえる声は無視した。
購買に着いて商品棚を見始めたらヴァンの目つきが変わった。これは、職人の目だ。
「このパンは駄目だな」
「何が?」
「袋の中で潰れてる。具の重心も片寄ってる」
「購買のパンに重心を求めるなよ」
「食べ物にも見栄えがある」
ヴァンは次に缶コーヒーを見た。
「これは昨日飲んだ。豆の香りが浅い」
「市販の缶コーヒーに深みを求めるなって」
「深みを求めなくなった時、文化は痩せる」
「大袈裟じゃない!?」
結局、ヴァンが選んだのは、普通の炭酸水だった。
「酒ではないが、喉は潤う」
「最初からそれでよかったんじゃない?」
「最初から妥協するな。妥協は選択肢を見尽くした後にするものだ」
「お礼するだけで疲れたんだけど」
俺が炭酸水を買って渡すと、ヴァンはそれを受け取った。
そして少しだけ真面目な顔で言う。
「栞、使えよ」
「使うよ。めちゃくちゃ使う」
「ならいい」
その一言だけで、ヴァンは炭酸水の蓋を開けた。
たぶん、これで十分なのだろう。
総合学校、五日目。
俺は、栞のお礼に炭酸水を奢った。
そして、ウォッカ二リットルは致死量級だと知った。
知れてよかった。よかった??