六日目は、午前授業だった。
本格的な授業が始まる前の、慣らし運転みたいな時間もそろそろ終わる。先生たちは「来週からは通常授業です」と言っていたが、俺としてはもう十分すぎるほど通常ではなかった。
ガラケーは死ぬ。
ドラゴンの騎乗には資格がいる。
思念伝達はWi-Fiに負ける。
学校の自販機には酒がない。
この学校で通常という言葉を使うには、まず通常の定義を疑った方がいい。
最後のホームルームが終わり、教室に昼前の浮いた空気が広がる。午前授業の日は、放課後というより半日得したような気分になる。俺は鞄に教科書を入れながら、今日の予定を確認していた。
予定はある。
騎乗部に行く。
入部はできない。資格がないからだ。
だが、見学はできる。
ドラゴンを眺めることはできる。
それは用事だ。
立派な用事だ。
人によっては祈りと呼ぶかもしれない。
「アキラ、午後暇?」
前の席から、ガラテアが振り返った。
長い髪が肩から流れ、耳の先がこちらを向く。入学初日には十二年前のガラケーを握りしめていた彼女だが、今日はなぜか決意した顔をしていた。
「暇じゃない」
「へえ。何かあるの?」
「騎乗部に行って、ドラゴンを眺めるっていう大事な用がある」
「そう。暇なのね」
「無視された!」
用事の中身を聞いた上で、暇認定された。
ひどい。ドラゴンを眺めることの尊さを何だと思っているのか。
「私、今日スマホ買おうと思うの」
ガラテアは俺の抗議を軽く踏み越えて言った。
「とうとう文明に帰化するんだ」
「もともと文明側よ。ちょっと端末が古かっただけ」
「十二年前はちょっとじゃない」
「細かいわね」
ガラテアは鞄から例の折りたたみ携帯を取り出した。もう通信はできない。けれど捨てる気はないらしく、今も大事そうに持っている。古い道具を大事にする姿勢はいい。いいのだが、連絡手段として使おうとするのは違う。
「だから、一緒に見て欲しいの」
「ジーンさんと行けば?」
俺は自然に言った。
ガラテアは、ぴたりと止まった。
なんだろう。急に空気が重くなった。
いや、重くなったというより、本人だけが勝手に傷ついた顔をしている。
ガラテアは自分を指差した。
「ガラテア?」
俺が言うと、今度は少し離れた席で鞄をまとめているジーンを指差す。
「ジーンさん?」
「なんで!」
ガラテアが机を叩いた。
「何この違い!? 私の方が年上なんだけど!」
「いや、知らないし」
正確には、なんとなく知っている。
ガラテアがジーンより年上らしいことは、会話の端々から分かる。だが見た目は同じ高校生だし、初日にガラケーが使えなくなったことを本気で驚いていたので……敬称の判断材料としてかなり弱い。
「キャラ的に?」
「キャラって何よ!」
「ジーンさんは、なんか落ち着いてるし」
「私だって落ち着いてるでしょ」
「ガラケーが使えない事で叫んでたじゃん」
「それは文明の裏切りよ」
「入学初日に叫んでた人は、落ち着いてる判定から外れると思う」
ガラテアは言い返そうとして、口を開いたまま固まった。
たぶん、自分でも少しだけ心当たりがあったのだろう。
その横を、ジーンが通りかかった。
「何を騒いでいるんだ」
「ジーンさん」
「ほら!」
ガラテアが俺を指差す。
「今もさん付けした!」
ジーンは少しだけこちらを見て、淡々と言った。
「呼びやすい方で構わない」
短い髪が揺れる。彼女はガラテアより若いらしいが、立ち姿だけ見ると先輩と言われた方が納得できる。
「この余裕! そういうところがさん付けされるのよ!」
「自分で答え出してるじゃん」
ガラテアは不満そうに頬を膨らませた。
「私の方が年上なのに」
「年齢と敬称は、必ずしも連動しないんじゃないか」
ジーンが冷静に刺した。
「裏切った!」
「味方をした覚えがない」
強い。
俺がさん付けした理由、だいたいこれである。
「で、スマホ買うんだろ?」
ジーンがガラテアを見る。
「私に聞いても最低限しか分からないぞ。使っているだけだ。詳しいわけじゃない」
「だからアキラも連れて行くのよ」
「俺も詳しいとは言ってないけど」
「ガラケーが使えないことを知ってたじゃない」
「それは詳しいじゃなくて、現代に馴染んでるだけだよ」
「十分よ」
基準が低い。
俺は鞄を肩にかけながら、ちらりと窓の外を見た。校舎裏の空が見える。今頃、竜舎の上をドラゴンが旋回しているかもしれない。翼を広げ、尾を流し、春の光を受けて鱗を輝かせているかもしれない。
スマホ売り場に行っている場合だろうか。
いや、友達が困っている。
友達。たぶん友達。たぶんというには、もうだいぶ巻き込まれている。
ただし、女子二人に囲まれてスマホを見に行くのは嫌だった。
別に変な意味ではない。単純に、俺だけが男で、俺だけがスマホ説明係みたいになる状況が重い。店員に何か勘違いされる未来まで見える。
俺は後ろを向いた。
「ヴァン」
「断る」
まだ何も言っていないのに断られた。
ヴァンは席で鞄をまとめていた。今日も眉間に皺が寄っている。午前授業なのに機嫌が悪そうなのは、購買に酒がない世界への抗議をまだ続けているからかもしれない。
「午後、暇?」
「断る」
「質問に答えてから断ってくれない?」
「暇だ。断る」
「じゃあ来て」
「会話が成立してないぞ」
ヴァンは心底嫌そうな顔をした。
俺はヴァンにだけ聞こえることを祈りながら、声を潜めて懇願する。
「聞こえてただろ? 頼むよ、男一人だとなんか気まずいし」
ヴァンは最後まで聞いて、深いため息をついた。
「……俺を盾にするな」
「盾じゃない。同行者」
「言い方を変えただけだろ」
ガラテアが横からにこにこと言う。
「ヴァンも来たら? どうせ暇なんでしょ」
「暇を理由に人を運ぶな」
「荷物持ちもできるし」
「もっと嫌になった」
「大丈夫。スマホは軽いわよ」
「そういう問題じゃねぇ」
ジーンが腕時計を見た。
「行くなら早くした方がいい。午後は店が混む」
「ジーンさん、詳しいですね」
「混む時間を知っているだけだ」
「ほら、そういうところ」
ガラテアがまた不満そうにこちらを見る。
俺は目を逸らした。敬称とは、理屈ではない。
たぶん、雰囲気だ。
そしてガラテアには、さんを付けると本人が調子に乗りそうな雰囲気がある。
ヴァンはしばらく黙っていたが、やがて鞄を肩にかけた。
「分かった。行くだけ行く」
「助かる」
「ただし、俺もスマホには詳しくない」
「大丈夫。俺もそこまで詳しくない」
「不安しかないな」
「私もよく分からないわ」
ガラテアが堂々と言った。
「私は使うだけなら分かる」
ジーンが続ける。
「でも、選ぶ基準は分からない」
つまり、全員そこまで詳しくない。
これからスマホを買いに行く集団として、かなり不安な布陣だった。
俺はもう一度、窓の外を見た。
ドラゴンは見えなかった。
その代わり、廊下の向こうでガラテアが楽しそうに手を振っている。ジーンは静かに歩き出し、ヴァンは面倒くさそうにその後をついていく。
総合学校、六日目。
俺は午後、ドラゴンを眺める予定だった。
それがなぜか、約二百五十歳のスマホデビューに付き合うことになった。
竜に乗る道は遠い。
文明に付き合う道は、もっと近くて面倒くさい。