休日を挟んだ朝というものは、ただでさえ重い。体も心も重すぎる。
一昨日はガラテアのスマホ下見に付き合い、文明の契約構造に精神を削られた。休みの日は何もしないと決めて、本当に何もしなかった。何もしないことにも才能がいる。俺にはその才能があるらしい。
そして今日。
校門をくぐった時点で、俺はすでに帰りたかった。可能なら惰眠を貪り尽くしたい。
だが帰るわけにはいかない。学生には登校という義務がある。あと、騎乗部の竜舎を遠くから眺めるという希望もある。
そんな小さな希望を胸に、昇降口へ向かう。
そこで、妙なものを見た。
昇降口前に、ひとりの男子生徒が立っていた。
背が高い。百八十センチくらいはありそうだ。額には一本の角。肌は紫がかっていて、目つきは鋭い。漆黒の髪が朝の光を吸い込み、笑うと白い歯がやけに目立つ。
細身だが、制服の上からでも鍛えているのが分かる。
ただ立っているだけで、魔王軍の幹部紹介みたいな圧があった。
そして、その圧のある男子生徒は、朝の昇降口前でチラシを配っていた。
「おはよう。よければ一枚、受け取ってくれ」
声は低く、よく通る。
けれど、思ったより丁寧だった。
もっとこう、「受け取るがいい、民よ」みたいな感じで来るのかと思ったが、普通に爽やかな挨拶をされた。見た目と口調の距離感で、こっちの脳が少し戸惑う。
そういえば、先週も見かけた気がする。
タイミングが合わずに通り過ぎただけだったが、同じ場所で何かを配ろうとしていた気がする。俺はその時、総合学校には朝から劇団員みたいな人もいるんだな、くらいに思っていた。
「一年生か?」
「あ、はい」
「なら、まだこの学校のことも分からないだろう。だが生徒会は君たちにも関わる。いずれ立つ者として、我のことを知っておいてほしい」
そう言って、彼はチラシを差し出した。
指が長い。左手の甲に、黒い紋のようなものが見える。刺青ではない。もっと深く、皮膚そのものに刻まれているような印象だった。
圧はある。
しかし、態度はまともだ。
俺は戸惑いながらチラシを受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。朝から足を止めてくれて感謝する」
やっぱり礼儀正しい。
俺はチラシに視線を落とす。
黒と赤を基調にした、やけに禍々しいデザインだった。紙質はしっかりしている。写真も載っている。
写真の中の彼は、左手で顔を半分隠していた。
完全に厨二病のポーズである。
しかも、左手の甲にある紋がきっちり見える角度だった。狙っている。確実に狙っている。目つきも鋭く、背景には黒い炎みたいな加工まで入っていた。
本人は礼儀正しいのに、チラシの自己主張が強すぎる。
中央には、でかでかとこう書かれていた。
『我に投票せよ。第百八十四代魔王候補 総合科二年生 ハーザク』
候補。
そこだけはちゃんとしていた。
ちゃんとしていたが、それ以外が何もちゃんとしていない。
生徒会選挙のチラシらしい。上の方に小さく『生徒会長選挙に向けた政策案』と書いてある。小さい。そこが一番大事ではないのか。
「あの」
「何だろう」
「選挙って、いつなんですか?」
男子生徒は一瞬、目を見開いた。
それから、少しだけ気まずそうに笑った。
「秋頃だな」
「……まだ先なんですね」
「うむ。準備は早い方がいいと思ってな。政策を考えて、意見を聞いて、必要なら直す。生徒会長を目指すなら、それくらいはしておきたい」
言っていることは、かなり真面目だった。
真面目だった。
しかし俺の手元には、『我に投票せよ。第百八十四代魔王候補』と書かれたチラシがある。
この落差をどう処理すればいいのか分からない。
「それで、その……魔王候補なんですか?」
「ああ」
彼は少しだけ背筋を伸ばした。
「我はハーザク。二年だ。魔王候補でもある。とはいえ、今すぐ世界をどうこうするつもりはないから安心してくれ」
「安心していい情報なんですか、それ」
「よく言われる」
ハーザク先輩は、溌剌と笑った。
笑うと、白い歯がよく見える。目つきは鋭いままだが、表情は思ったより柔らかい。見た目だけならラスボス寄りなのに、中身は選挙に真面目な先輩っぽい。
総合学校、まだまだ奥が深い。
俺がチラシの下の方に目を落とすと、政策が並んでいた。
『購買部の品揃え改善』
『昼休みの延長』
『部活動予算の公平なる再分配』
『全生徒に覇気ある挨拶を』
途中までは普通なのに、最後だけ急に魔王感が漏れている。
「購買部の品揃え改善……」
悪くない。
いや、酒は入らないだろうが。
入らないよな?入らないでほしい。
俺が妙な心配をしていると、頭上から鋭い声が飛んだ。
「ハーザク!」
昇降口前の空気が、ぴんと張る。
ハーザク先輩が、ぎくりと肩を震わせた。
「……おはようございます、シグ」
「おはようじゃない!」
二階の窓が大きく開いたと思った瞬間、雷鳴めいた音を引き連れて、ひとりの女性が降ってきた。
女性は着地の勢いを殺さないまま、片手のハリセンをハーザク先輩に叩きつけた。
スバァン!!と乾いた音が昇降口前に響いた。
次の瞬間、ハーザク先輩の下半身が地面に埋まっていた。
「えっ!?」
俺は変な声を出した。
屋外の地面である。ちゃんと地面に埋まっている。腰から上だけが残っていて、手にはまだチラシを持っていた。
チラシを離さないの、地味にすごい。
降り立った彼女はジャージ姿だった。
ただのジャージではない。着古しているのに妙に様になる、戦場帰りの部活顧問みたいなジャージである。背は高く、髪は淡い金色。顔立ちは整っているが、目が笑っていない。年齢は、俺の母より少し若いか同じくらいだろうか。いや、考えない方がいい。人は時に、年齢という地雷原を見ない勇気が必要になる。
「大丈夫だ」
ジャージの女性は、俺を見てさらりと言った。
「こいつはこれくらいじゃダメージにならん」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だ」
そうなのか。
埋まったハーザク先輩は、地面から上半身だけを出したまま咳払いをした。
「シグ、これは朝の挨拶と政策周知を兼ねた――」
「挨拶だけにしとけ!」
「それと生徒の前でハリセンを振るうのは印象として――」
「印象を気にするなら先に規定を守れ!」
またハリセンが鳴った。
「選挙管理委員会もまだ立ってないんだぞ! 勝手に選挙活動を始めるな!」
「しかし、我はまだ投票を強要していない。あくまで政策案を――」
「チラシに『我に投票せよ』と書いてあるだろうが!」
「あれは決意表明のようなもので」
「屁理屈を言うな!」
すぱん。
三発目である。
朝から音がいい。嫌な音ではない。むしろ妙に景気がいい。だからといって、目の前で人が腰まで埋まっている状況が正常になるわけではない。
俺は手元のチラシをもう一度見た。
『我に投票せよ。第百八十四代魔王候補』
候補と書いてある。
やはりかなりのフライングだ。
「すみません」
俺は恐る恐る女性に聞いた。
「このチラシ、返した方がいいですか?」
「持っていていい」
「いいんですか?」
「証拠品だ」
「証拠品!?」
チラシの重みが変わった。
ハーザク先輩は地面に埋まったまま、真面目な顔で俺を見る。
「一年生、もし読んでくれるなら、政策への意見も歓迎する。生徒会は一部の者だけのものではないからな」
やっぱり言っていることはまともだった。
ただし、腰から下は地面に埋まっている。
人間の言葉は、姿勢によって説得力がだいぶ変わるらしい。
「行くぞ。まず生徒会顧問に事情説明だ」
「分かりました。だが、その前にできれば下半身を――」
「引っこ抜く」
「できれば穏便に」
「知るか」
女性はハーザク先輩の襟首を掴んだ。
ずぼっ、という音がした。
ハーザク先輩が地面から引き抜かれる。制服はなぜか汚れていない。不思議だ。魔法か体質か、もう考えるのをやめたい。
去り際、ハーザク先輩は俺に向き直った。
「朝から驚かせてすまなかった」
「あ、いえ」
「だが、よければチラシは読んでほしい。投票するかどうかは、その後で決めてくれればいい」
好青年だった。
見た目とチラシと地面への埋まり方以外は。
「はい。読んでおきます」
「ありがとう」
ハーザク先輩は白い歯を見せて笑った。
その後頭部に、無言のハリセンが入った。
すぱん。
「歩け」
「はい」
二人は朝の校舎の方へ消えていった。
昇降口前に、微妙な沈黙が残る。
そこで、ようやく気づいた。
周囲の生徒たちがこちらを見ていた。
見ないでほしい。
俺は魔王候補の関係者ではない。証拠品を持たされた被害者である。
俺はすでに一日分の情報を浴びた気がした。
まだ休み明けの朝である。
授業は始まっていない。
総合学校、七日目。
俺は、魔王候補から選挙チラシを受け取った。
そしてその魔王候補は、選挙期間前の活動で地面に埋められた。
通常授業は、今日から始まるらしい。
通常とは何か。
もう一度、辞書で調べた方がいいかもしれない。