リーガル・ハック─法務省直轄呪霊対策本部─   作:森野夜

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虚構の法廷という別連載に載せた番外編を少し書き直してます
旧司法試験だと時期や期間違うらしいので慌てて修正しましたが(当初2005年11月設定)、修正漏れあれば教えてください


司法修習生時代
2004年04月 導入実習


 

司法研修所、大教室。

全国から選りすぐられた天才や神童の肩書きを持つ若者たちの熱気が、静寂の中に沈殿していた。机の上に整然と並べられた真新しい白法規のインクの匂いと、独特の重量感を持つ起案用紙。これから始まる長く険しい道が俺たちの前に立ちはだかっているかのような、奇妙な圧迫感がそこにはあった。

 

その最前列に近い席で、俺――日車寛見は、静かに背筋を伸ばして教官の講義を聴いていた。ノートを取るペンの音だけが広い空間に規則正しく響く。教官の一言句を逃さぬよう、神経を極限まで研ぎ澄ます。周囲が自分をどう評価しようが、あるいはこの旧司法試験という狭き門をどれほどの成績で突破しようが、そんなものは俺にとってはただの雑音に過ぎなかった。

 

俺を突き動かしているのは、世界を変えるような大層な野心などではない。誰かが人生の進路を踏み外し暗闇の底から誰かが助けを求めてきた時に、その手を振り払うような真似だけはしたくない。

ただそれだけの法曹として当然とも言える義務感だけを胸に、俺は手に入り得る限りの知識を淡々と貪り続けていた。不条理に抗うための盾。それこそが俺にとっての法のすべてだ。

 

ふと、すぐ背後から微かな音が聞こえた。紙を捲る、迷いのない手つき。衣類が擦れる、どこまでも無駄のない所作。周囲の焦燥に満ちた修習生たちの出す音とは、明らかに異質だった。俺は講義の邪魔にならない程度に、ほんの僅かに視線を後方へ流した。

 

そこに、一人の女性が座っていた。

 

小柄な体躯。しかし、そこから放たれる空気は驚くほど凛としている。彼女の手元には使い込まれてページが膨んだ日本の六法全書や、付箋が幾重にも貼られた英文の法学書、連邦刑事訴訟規則の注釈書が置かれていた。その横顔にはどこか底知れない落ち着きがあった。

 

(熱心な人だな。だが、なぜこの段階で連邦法を……)

 

俺がそんな小さな疑問を胸の奥に抱いたまさにその時だった。休憩を告げるチャイムが鳴り、大教室の張り詰めていた空気が一気に弛緩する。俺が手元の講義資料を整理し始めた拍子に、硬質な音が床を叩いた。一本の黒い万年筆が滑るようにして俺の椅子の足元まで転がってくる。俺はそれを無言で拾い上げ、椅子を半回転させて彼女へ差し出した。

 

「落としたぞ」

 

彼女はその漆黒の瞳をゆっくりと俺に向け、微かに口角を上げた。

 

「ああ、済まない。ありがとう」

 

彼女は万年筆を受け取ると、少し申し訳なさそうに眉を下げて俺の顔を正面から見据えた。

 

「本当に申し訳ないんだが、席を代わってもらえないだろうか。君、背が高いからね」

 

彼女は自分の小柄な体を指し、苦笑混じりに続けた。

 

「私の身長だと、君が前にいるとホワイトボードが何も見えないんだ。後で私から教官に許可を取りに行くよ。全く、事務局も何故こんな座席配置にしたんだか」

 

その物言いはどこか人を惹きつける不思議な説得力と、妙な貫禄があった。俺は前方の教官席に目をやった。確かに彼女には、俺の背中は視界を完全に遮る巨大な壁だろう。

 

「構わない。荷物を移動させよう」

 

俺はすぐに席を立った。そんな俺の対応に北見は少し目を見張ったあと、嬉そうに目を細めた。

 

「助かるよ、恩に切る。私は北見、北見遥だ。よろしく頼むよ」

 

「日車寛見だ。よろしく、北見さん」

 

座席を前後で交換し終えると二人の視界は少しだけ変わった。俺は自分の前に座ることになった北見の背中を眺めながら、先ほどから気になっていた疑問を口にした。

 

「それにしても熱心に英文の資料を読み込んでいたようだが。日本の国内法だけでは足りないような、特別な研究でもしているのだろうか」

 

俺の問いに北見は椅子を少しだけ横に回し、肩越しに俺を振り返った。

 

「ん?まあね。もともと向こうのロースクールにいたから。証拠収集も陪審員制度も、日本とはかなりやり方が違うだろう?それに――」

 

彼女は教官の机を顎で示し、いたずらっぽく笑った。

 

「ここにはガベルがなくて、どうも不思議な感じがするんだ」

 

「確かに、日本の法廷では裁判官が木槌を叩く光景は見られないな。秩序維持のために物理的な音を鳴らす文化がない」

 

俺は椅子に深く腰掛け、彼女の言葉を反芻するように頷いた。

 

「修習が始まったばかりのこの段階であっちの実務の運用に考えが及んでいる同期がいるのは、俺にとっても良い刺激になりそうだ。……だが、アメリカの合理性を肌で知っているなら、この国の刑事手続きは少しじれったく感じられないだろうか」

 

その問いには自分が信じたい法の未来を、同じ地平で語れる仲間を見つけたかもしれないという、俺の静かな期待が含まれていた。

 

「じれったい?まさか」

 

北見は肩の力を抜いた様子でくすくすと笑った。

 

「日本は日本で、わざわざこの非効率に見える制度を採用し続けている。そこには何か意味があるはずだろう?私はね、この学問を愛しているんだよ。何故なのかを歴史的背景も含めてロジカルに突き詰めるのが、たまらなく好きなんだ」

 

「『なぜこれを採用し続けているのか』……」

 

俺はその言葉を喉の奥で噛み締めるように繰り返した。法とは往々にして無機質な条文の集積として扱われる。けれど彼女は、その裏にあるこの国の土壌が生んだ理屈そのものへの愛を語る。

 

「合理的な国から来ておいて、この国の泥臭い慣習のほうを肯定するとは。少し意外だが面白い視点だ」

 

俺がそう答えた時教壇に教官が戻り、午後の講義の開始を告げるチャイムが重々しく鳴り響いた。俺は思考を切り替え筆記用具を手に取った。だが講義が始ろうとする静寂の隙間で近くの席の修習生たちが、抑えきれない興奮を含んだ小声で囁き合っているのが耳に飛び込んできた。

 

「なあ、さっきの名前……北見遥って、間違いない、あのニュースの……」

 

「13歳で司法試験を突破したっていう、アメリカの司法界を震撼させた神童だろ……!?」

 

彼らの視線が一斉に俺の前に座るあの小さな背中に注がれる。俺は一瞬眉をひそめたがすぐに教科書へと視線を戻した。過去に彼女が何者であったか、周囲が彼女をどう定義しているか。そんなことは今の俺にはどうでもいいことだった。

 

(本当に、面白い同期に出会えたな)

 

俺は真っ新なノートの端に、静かにペン先を滑らせた。

 

 

 

 

 

午後の講義が終わり、大教室には一日の緊張から解放された修習生たちの喧騒が戻った。けれど北見は周囲の色めき立つ視線をまるで背景のノイズのように扱い、淡々と鞄に資料を詰め込んでいた。席を立った俺はその雑音を切り裂くようにして、彼女の背中に声をかけた。

 

「北見さん。さっきの講義で教官が言っていた調書の証拠能力について、少し議論をしないか」

 

北見が手を止め椅子を回して俺を見上げる。俺は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。

 

「俺は少々、捜査機関側の便宜に寄りすぎていると感じたな。国家権力が一枚の紙切れで人の人生を左右する重みを、軽視している実務には賛成できない。……君なら、もっと辛辣な意見を持っているのではないだろうか」

 

それは社交辞令などではなかった。俺は彼女の異文化の視点で、日本の司法制度の歪みをどう切り裂くのかを純粋に語り合いたかったのだ。

 

「もし帰り道が同じなら、少し話さないか。君の言う『法への愛』に基づいた、率直な批評を聞いてみたい」

 

北見は一瞬意外そうに目を瞬かせたが、すぐにその口元にどこか楽しげな笑みを浮かべた。

 

「いいよ、日車くん。私も君のその、真っ直ぐすぎるくらいの違和感には興味があったんだ」

 

彼女は鞄を肩にかけ俺と歩調を合わせるように歩き出す。研修所の外に出ると、空はいつの間にか夕闇に染まり始めていた。

 

「日本の検察官が書く供述調書って、もはや文学の域だろう?」

 

並んで歩きながら北見が不意に投げかけてきた言葉は、酷く鋭利だった。

 

「あんなに整合性が取れすぎているのは、不自然を通り越して芸術的ですらある。ガベルがない代わりに沈黙と空気が支配するこの国の法廷で、どうやって愛を貫くか。……面白いテーマだと思わないかい?」

 

北見の声には、冗談めいた響きとは裏腹の冷たさがあった。日本の裁判は法廷での生身のやり取りよりも、警察や検察の密室で作られた「容疑者の発言をまとめた書類」のほうを異常に重んじる傾向がある。北見はそれを文学と呼んだのだ。

俺は僅かに目を見開き、それから低く笑った。

 

「文学、か。皮肉としては最高だな。誰も声を上げないからこそ、不当な歪みが固定化されていくというのは俺も同感だ」

 

俺は一度足を止め、隣を歩く彼女をまっすぐに見つめた。ただ頷くだけではない、自らの足で法曹の門を叩いた男としての揺るぎない視線を込めて、俺は言葉を継いだ。

 

「だが一概にその『文学』を悪だとも言い切れないと俺は思う」

 

「ふぅん?」

 

北見が足を止め、興味深そうに片方の眉を上げた。俺は引き下がらずに自分の持論を彼女にぶつけた。

 

「沈黙と空気に押しつぶされそうな、声の小さな被告人がいたとする。言葉の教育も十分に受けず、自分の無実や情状をどう表現していいか分からないような弱者だ。その人の支離滅裂で弱り切った本当の声を聞き取り、法律の要件に合致するよう裁判官に届く正確な言葉に整形するのもまた、あの調書の役割であるはずだ。すべてをアメリカのように剥き出しのやり方にすればいいというものでもないだろう。……違うだろうか」

 

「なるほど、弱者のための整形、ね」

 

北見は前を見つめたまま、事もなげに笑った。

 

「確かにあっちの法廷は、もはや魂の殴り合いそのものだったよ。日本みたいに隠し事はなしさ。検察も警察も、手持ちの証拠はすべて事前に相手に開示しなければならない。この国だと平気で隠して出さないこともあるだろう?でもね、日車くん。君のその見立ては、少し日本の文学を美化しすぎているよ」

 

北見の瞳が夕闇の中で冷徹な光を帯びた。彼女の反論は遥かに具体的で、容赦がなかった。

 

「君の言う成形が、常に被告人の味方であるならどれほど素晴らしいだろうね。でも現実の日本の調書作成、つまりあの作文は検察側が最初から描いた『有罪の筋書き』にパズルのピースを嵌め込む作業だ。日本の法律には他人の噂話や、法廷の外で書かれた書類をそのまま証拠にしてはいけないという厳格なルールがある。それなのに実務では様々な例外を引っ張り出してきて、法廷での生の証言よりも密室で作られた調書のほうを裁判官が信じてしまう。これがどれほど恐ろしい防御権の侵害か、日車くん、君なら分からないはずがないだろう?」

 

「それは――」

 

一瞬、言葉が詰まる。彼女の指摘は日本の刑事実務が抱える最も醜悪な急所そのものだった。密室の取り調べで一度サインをしてしまえば、後から法廷でいくら「あれは強要された嘘だ」と叫んでも、日本の裁判官は調書のほうを正しいとみなしてしまうことが多い。

しかし、俺もここで引き下がるわけにはいかない。

 

「確かに実務が捜査機関の描いた身勝手な筋書きに悪用されている現状は否定しない。だが、だからといってアメリカ型の完全な当事者主義が、常に弱者を救うわけでもあるまい」

 

俺は一歩踏み出し、彼女の論理の死角を突いた。

 

「あっちの制度は確かに透明だ。だが、透明であることと公平であることは別だろう」

 

「結局、最後に物を言うのは金だ。優秀な弁護士を雇えるかどうかで、生存率そのものが変わる。どれほど証拠が事前に開示されようとも優秀な弁護人を雇う金のない貧困層は、高額な保釈金が払えず、劣悪な拘置所でプレッシャーをかけられ続ける。結果として戦う前に『罪を認めれば刑を軽くしてやる』という司法取引の脅迫に応じるしかない。年間9割以上の刑事事件が、法廷で陪審員の判断を仰ぐことすらなく処理されているのがあっちの現実だろう?」

 

俺は北見の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「お互いの実力だけで殴り合うシステムは強者同士の戦いにはフェアだが、最初から武器を持たない弱者にとっては、ただの効率的な処刑台になり得る。この国の裁判官が時に強い権限を持って弱者を後見的に守り得る檻のほうが、結果として暴走する格差から被告人を守る防波堤になることもあるはずだ」

 

今度は北見が明確に沈黙した。北見の顔色が初めて少しだけ表情を変える。二人の間にただの修習生同士の雑談とは思えない、張り詰めた緊張感が走る。夕陽が差し込む横断歩道の手前。信号が赤に変わる中、北見は俺の顔をじっと見つめ、それから観念したように不敵な笑みを浮かべた。北見はそっと万歳をするように手を軽く挙げる。

 

「降参だ、日車くん。君は日本の制度の不完全さを理解した上でその不完全な檻の使い道を模索しているわけだ。確かにあっちの法廷は、金のない者にとっては地獄さ。検察側が持つ圧倒的な組織力と資金力の前に、国からあてがわれる公選弁護人は完全にパンクしているからね。隠し事はなし、と言ったけれど、それはルール上はという前提だ。現実には開示された膨大な証拠を精査する時間すら実質的には与えられないのが弱者のリアルだよ」

 

彼女は前を見つめ、自らの言葉の重みを噛み締めるように続けた。

 

「でもだからこそ私は、この国の、その空気と沈黙で機能する奇妙な檻の構造を知りたいんだ。システムが違えばハッキングの手法も変わるからね」

 

俺は彼女の横顔を見つめながら、確信めいた問いを投げかけた。

 

「君の話を聞いているとまるで実際にその場に立っていたかのような、奇妙な説得力を感じる。ただの学生の感想にしては言葉の重みが過ぎるな。北見、君は一体どこでそれを見てきたんだ」

 

俺がその核心に触れようとした瞬間、背後でスマートフォンを覗き込んでいた修習生たちが抑えきれない驚愕の声を上げた。

 

「おい、やっぱりそうだ!アーカイブが出てきたぞ!『13歳で司法試験突破、元・米政府特別検察官補、北見遥』……って、今の前の席の……!?」

 

その声が俺の鼓膜を叩いた。

13歳で司法の最前線に。俺の脳が今までの彼女の言動――英文の資料、ガベルへの違和感、および北見が口にした魂の殴り合いという言葉――を一気に一本の線で繋ぎ合わせた。

 

「13歳から24歳の今まで、君は現場にいたというわけだな」

 

俺は驚きを隠さず、けれど確かな敬意を込めて言った。

 

「合点がいった。君の話に混じるあの奇妙な迫力の正体が。それは傍聴席で得られるものではない。実際に経験した者だけが持つものだな。……北見、一つ聞かせてくれ。それほどのキャリアを持つ君が、なぜわざわざこの停滞した日本の司法を一から学ぼうとしているのだろうか」

 

北見は俺の真っ直ぐな視線を逸らさなかった。彼女はふっと、どこか遠い場所を見るような瞳で微笑む。

 

「場所が変わればルールは変わる。だが根底にある真実を求める精神は同じはずだろう?二つの全く異なるシステムを完璧に使いこなして初めて、私は本当の意味で法を理解したと言える気がするんだ。……君という、この国では稀有なほど真っ当な男に出会えたことも、その理解への一歩かもしれないね」

 

俺は彼女の背中を追って歩き出した。

 

「傲慢なまでの純粋さだな。だが、嫌いじゃない」

 

俺は自嘲気味に口元を緩め、今度は北見の隣に並んでしっかりと歩調を合わせた。

 

「もし君がその二つのシステムを手にしてもなお、この国の空気に絶望しなかったなら……。その時は俺に本当の法の救いを教えてくれ。少なくとも今日の講義よりは君との会話の方が、俺には遥かに司法の本質に近いものに感じられたな」

 

北見は俺の重い問いかけを正面から受け止め、ただどこか愛おしそうに静かに微笑んだ。

 

「いいだろう、日車くん。絶望の淵でこそ、愛は試されるものだ。明日また教室で会おう」

 

駅の改札へと続くエスカレーターが二人を別々の階層へと運んでいく。

 

明日から始まる実務修習。そこはもはや研修所の教室のような守られた場所ではない。泥にまみれた事件、理不尽な手続き、組織の論理に押し流される妥協が渦巻く、文字通りの現場だ。しかし俺の胸の奥にある炎は、以前よりも一層静かに、そして確かに燃え上がっていた。

 

「俺も、立ち止まっているわけにはいかないな」

 

彼女が二つのシステムを統括しようとするなら、自分はこの国の歪んだ司法という闇の中で一点の曇りもない鏡となって不条理に抗ってみせる。俺はポケットの中で定期券を握り直し、そのまま改札へ向かった。




二人共24歳設定
司法修習生は下記の流れをやるらしいので、今は一番最初のところのイメージです
導入修習→実務実習→集合修習→二回試験
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