リーガル・ハック─法務省直轄呪霊対策本部─   作:森野夜

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2006年09月 実務修習終了

季節は巡り司法研修所の周囲を包む空気は、長く火照るような夏の終わりを告げる涼やかな秋口へと移り変わっていた。

 

司法研修所。

 

そのコンクリートに囲まれた敷地内に足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる風にはほんの少しの寂しさと、夏の残り香が混じり合っていた。俺の胸を満たしていたのはそんな感傷などでは到底なかった。五臓六腑にべっとりと張り付いたかのような強烈な不条理への憤りと、法律家としての熱い焦燥感。今の俺の全てだった。

 

12ヶ月に及ぶ実務修習。それまで机の上で平然と眺めていた法の条文や美しき法理論は、この修習期間を経て文字通り泥水ですすぐような過酷極まりない現実へと変貌を遂げていた。

 

弁護士、検察官、裁判官。

 

法曹三者と呼ばれるそれぞれの立場からこの国の司法の現場を覗き込んだ結果、俺の胸に残ったのは心地よい達成感などでは決してなかった。

 

裁判所に足を運べば、そこには人生の破綻した人間たちがただ機械的な手続きの歯車として処理されていく光景が広がっていた。法廷の厳粛な空気は裏を返せば、生身の人間が持つ複雑な事情や苦悩を綺麗に削ぎ落とし、冷徹な判決文という記号に変換するための巨大なプレス機のようなものだった。

 

検察庁の取り調べ室に入れば、国家権力という巨大な壁が一個人の尊厳をじわじわと圧殺していくための舞台装置と化していた。可視化も進んでいないその部屋で被疑者たちは威圧され、誘導され、あらかじめ検察側が描き終えている組織の筋書き通りに自白を強要されていく。それを彼らは正義と呼び、自らの実績として積み上げていくのだ。

 

さらに彼らを救うべき立場であるはずの弁護士の現場でさえ、俺が見たものは理想とは程遠いものだった。圧倒的なマンパワーの不足、組織としての脆弱さ、そして何よりも形骸化した刑事調書裁判という巨大な壁の前に最初から戦うことを諦めているかのような諦念を湛えた大先輩たちの背中だった。

 

「誰も、生身の人間を見ていない……」

 

修習中何度も何度も、俺は深夜の自室でそう呟いた。

法とは一体何のためにあるのだろうか。社会的強者が弱者を効率的に、かつ合法的に管理し、排除するための免罪符に過ぎないのではないか。そんな疑問が俺の脳裏を幾度となく過った。

しかし不条理に満ちたその現実を容赦なく突きつけられたからこそ、俺のなかにある法曹としての火は消えるどころか一層強く、静かに燃え上がっていた。

 

こんな泥沼のような実務だからこそ、俺がもっと深く法を学び強くならなければならない。

 

法とは決して強者が弱者を効率的に管理するための道具であってはならないはずだ。混迷を極める現実だからこそ拠り所としての厳格な適正手続きが必要であり、その手続きの正当性を担保することこそが俺たち法律家に課せられた絶対的な義務なのだ。誰かが不当に社会の歯車に噛み潰されそうになった時、その手を絶対に離さないための方策がこの六法全書のどこかに必ずあるはずだ。

 

そんな悔しさと熱量を胸に、俺は朝の洗面台の鏡の前で静かに自分の目を見つめ直していた。鏡に映る自分の顔は春の頃に比べれば幾分か引き締まり、実務の重圧に耐え抜いた者特有の鋭さを宿し始めていた。全国の修習地での過酷な現場を潜り抜け、再びこの和光の地に集まる集合修習の初日。俺の心は現場への憤りと、だからこそ引けないという青い使命感で満ち満ちていた。

 

 

 

 

 

全国から実務修習を終えて戻ってきた修習生たちが一堂に会するこの空間には、独特の熱気と重苦しさが奇妙なバランスで同居していた。

 

「おい、お前どこ行ってたんだよ。東京地裁か?」

 

「俺は地方の検察庁だった。毎日調書の山に埋もれて、本当に死ぬかと思ったぞ」

 

「久しぶりだな。お前、ちょっと痩せたか?」

 

あちこちから再会を喜ぶ同期たちの声が聞こえてくる。その笑い声のトーンはどこか上の空で、誰もが数ヶ月後に控えた二回試験という法曹資格をかけた最後の審判への薄い焦燥感を隠しきれていなかった。

 

二回試験。司法修習生考試。

 

これに落ちればこれまでの努力も、全てが文字通り水の泡となる。一度の不合格が人生に落とす影の大きさを知っているからこそラウンジに集まる修習生たちの顔には、現場の激務による疲労と試験へのプレッシャーが色濃く刻まれていた。机の上に広げられた膨大な起案用紙の束、何千ページもの判例集、マーカーで真っ赤に染まった実務参考書の山。誰もがこれから始まる最後の関門を前に、己の神経を極限まで擦り減らし、互いを牽制し合っていた。

 

俺はそんな喧騒から少し離れた窓際の席に陣取り、完全に冷めきったコーヒーを口に運んでいた。プラスチックのカップに注がれた安物のコーヒーは泥水のように苦く、俺の冷え切った胃壁を不快に刺激した。窓の外を見つめれば茜色に染まり始めた秋の夕暮れの風が街路樹の葉を揺らし、床の上にどこまでも長い影を落としている。

 

その時、背後から近づく聞き慣れた足音に俺の視線が動いた。ザッ、ザッ、と、一定のテンポで刻まれる、無駄のない静かな歩法。周囲の修習生たちが焦燥感から衣服を乱し、すり足で歩いている中で、その足音だけはまるで張り詰めた弦の上を歩くかのように、完全に自立したリズムを保っていた。

 

足音だけで、誰だか分かった。

 

「……実務修習、終わったか、北見」

 

俺はコーヒーカップをテーブルに置き、振り返って彼女――北見遥を真っ直ぐに見据えた。彼女の佇まいは春の出会いの頃と変わらず、凛として隙がなかった。

周囲の誰もがヨレヨレのスーツを纏っている中で、彼女だけはアイロンが完璧に当たった白いシャツに仕立ての良いダークネイビーのジャケットを羽織り、泰然自若としてそこに立っていた。アメリカのロースクールを飛び級で卒業し、13歳で司法試験を突破したというその圧倒的な経歴を、誇るでもなく、隠すでもなく、ただ当然の事実として背負っている風格。

 

だがその漆黒の瞳の奥をじっと見つめると、やはり過酷な日本の司法の現場を検察の内側から見つめてきた者特有の、冷徹な光が沈殿しているように見えた。

 

「久しぶりだね、日車くん」

 

北見は俺の向かいの席に滑り込み、細い指先で自らの美しい黒髪を耳にかけた。その仕草一つをとっても彼女には無駄な動線が一切ない。

 

「君の目に、この国の現場はどう映った?――俺は、最悪だったよ」

 

俺の口から漏れたのは吐き捨てるような言葉だった。自分でも驚くほど声に悔しさと刺が混じっている。理想と現実のあまりの乖離に打ちのめされながらも、だからこそ引き下がれないという執念が言葉の端々から血のように滲んでいた。

 

「検察庁ではあらかじめ描かれた組織の筋書き通りに被疑者を追い込む作業を正義と呼び、裁判所では薄い紙切れ一枚の調書で人の人生を機械的に切り捨てていく。春に君が言っていた剥き出しの魂の殴り合いなんて、この国のどこにも存在しなかった。ただ沈黙と空気が張り付いた、巨大な調和のシステムがあるだけだ」

 

俺は自嘲気味に笑い、椅子の背もたれに深く体を預けた。日本の刑事実務は徹底的に「前例」と「効率」に支配されていた。検察が一度起訴を決めた事件は、99.9%以上の確率で有罪となる。その異常な数字を維持するために、法廷に至る前の密室でどれほど強引なストーリーの押し付けが行われているか。実務修習の現場でそれを目の当たりにするたびに、俺は自らの無力さに歯噛みしたのだ。

 

「だが、君は揺らいでいないな」

 

俺は彼女の顔を覗き込んだ。

 

「その余裕はどこから来るんだ。この絶望的なまでに硬直したシステムの中で、君は一体何を見つけたんだ?君ほどの頭脳があればこの国の司法がいかに機能不全に陥っているか、嫌というほど理解できたはずだろう」

 

俺は彼女の答えを渇望していた。自分がただの泥沼としか思えなかったこの国の実務を、二つの異なる法制度を知る北見遥という怪物がどう解釈し、どう咀嚼したのかを知りたくてたまらなかった。

 

北見は俺の殺気立った鋭い視線を受け流し、楽しげに口角を上げた。その口元から漏れたのは張り詰めたラウンジの空気をかすかに揺らす、不敵な響きだった。

 

「取り調べが完全な密室で最高に閉鎖的だったよ、日車くん。しかも……すべてが自白頼みだ。検察側が有利な証拠を隠し持ち、重要なピースが欠けている状況で、被疑者の口を割らせることだけに特化している。知れば知るほど崩し甲斐のある不思議な制度だ」

 

彼女の言葉には憤りや絶望よりもむしろ、精緻な機械の致命的な欠陥を発見したかのような、純粋な知的好奇心が混じっていた。

 

「崩し甲斐、だと?それはあまりに不穏な表現だな。国家権力が敷いた歪んだレールの上で、人の人生が不当に消費されているんだぞ」

 

俺は身を乗り出し、北見を真っ直ぐに見据えた。手元のぬるいコーヒーが、俺の感情の昂ぶりに連動するように微かに揺れる。

 

「被疑者が密室でどれほど怯え、どんな思いでペンを握らされたか、調書の裏にある生身の呼吸を実務の人間は誰も見ようとしない。ただ前例に沿って効率的に処理していくだけだ。君はそれを、ただの面白い観察対象として片付けるのか。弁護側の反論を最初から封殺するようなその歪みを、面白いの一言で済ませていいはずがない」

 

「じゃあ、日車くん。君ならどうするんだい?」

 

北見は椅子の背にゆったりと体を預け、こちらの本質を試すような鋭い視線を投げてきた。

 

「その巨大な調和のシステムを前にして、新米弁護士が一人で声を荒らげたところで空気は1ミリも変わらない。検察が作ったレールに乗り、裁判所がそれを追認する。君がどれほど正論を吐こうとも、書類の山と組織の論理に押し潰されるだけだ。それがこの国の現実だよ」

 

「変わらなくても、俺は正論を吐き続ける」

 

俺は即座に言い切った。ただただ、静かな怒りがそこにはあった。自分の声に絶対に譲れない頑なな熱が宿るのを感じる。

 

「システムが巨大で誰もが空気に流されるなら、その空気の檻に真っ向から冷や水をぶっかける人間が最低でも一人は必要だ。調書が文学だというなら、俺はその創作の矛盾を法理の刃で引き剥がして見せる。どんなに泥沼のような実務だろうと適正な手続きと法の正義を信じて戦うことを放棄したら、俺たちが何のためにここにいるのか分からなくなるだろう」

 

俺の言葉は熱を帯びていた。実務修習で感じた無数の無力感への反発でもあった。ここで諦めたら俺はただの「賢いだけの歯車」になってしまう。それだけは絶対に御免だった。

 

「法への純粋な信仰、ね」

 

北見は低い笑い声を漏らした。その笑みには熱弁を振るう俺を肯定しながらも、どこか確固たる別の次元の達観が満ちていた。

 

「相変わらず危ういほどに潔癖だ。制度の美しさを本気で信じている。だがその潔癖さが私は好きだよ、日車くん」

 

彼女はそう言うと手元の携帯電話を操作し、液晶画面を俺に向けた。

 

「これだ。交換しよう。まだお互いの連絡先も知らなかったな」

 

「……随分と思いきった提案だな」

 

唐突な言葉に少し戸惑う。俺は少しだけ彼女のペースに気圧されながらも、自分の携帯電話を取り出した。画面を赤外線ポートに合わせデータを転送する。

 

「約束してくれ、日車くん。何かあったら、私に連絡しなさい。君と同じ公判の担当でさえなければ、いつでも、どんな手段を使ってでも、力を貸してやるよ」

 

「どんな手段を使ってでも、か」

 

俺は彼女の連絡先を保存しながら、その言葉を反芻した。

 

「君の手を借りるような事態にならないことを切に願うが……北見、君という人間は、本当に最後まで底が見えないな。検察官を目指す人間が、弁護士に対してそんな台詞を吐くとは」

 

「公判で敵対することになったら、その時は容赦はしない。君が愛するその法の解釈で、どちらが正しいか決着をつけよう」

 

「ああ、望むところだ。その時は俺も全力で君の描いた筋書きを論破してみせる。法の適正な執行がどちらの側にあるか、法廷で白黒つけよう」

 

連絡先を保存する指先。俺はこの瞬間に結ばれた細い糸が、いつか自分が直面するであろう法曹としての決定的な現場の際、唯一の命綱になるかもしれないという、奇妙な予感に静かに胸を震わせていた。

 

北見は自分の携帯電話をポケットにしまい、少し真面目な面持ちで俺を見つめた。ラウンジの窓から差し込む夕陽が、彼女の横顔を赤く染めている。その瞳の奥には先ほどまでの快活な光とは異なる、底知れない深い闇が同居していた。

 

「日車くん、君は気づいているだろう。この国の司法が空気に支配されているのは、単に人間が臆病だからじゃない。もっと根深い、この国のシステムそのものを蝕んでいる『悍ましい何か』が、法の正義を腐らせているんだ」

 

「悍ましい何か……?具体的に何を指しているんだ」

 

俺は眉をひそめ、声を落とした。

 

「組織の事なかれ主義や、官僚的な保身、政治的な圧力。それ以上のものがこの国の裏にあるというのか。俺たちが見てきた実務の歪みは、人間の弱さが生み出したシステムの疲弊ではないのか」

 

「それだけならまだマシさ。人間が作ったシステムなら、人間の理性で修正できるからね」

 

北見の声は響いた。周囲の修習生たちの喧騒がその一瞬だけ遠のくような、世界が彼女の言葉を中心に回っているかのような錯覚を覚える。

 

「だがそうじゃない。制度を愛するなら、その制度の枠組みだけを見ていては駄目だ。現世の法の外側にあるもっと理不尽で巨大な構造そのものを、私たちの管理下に置かなければならないとね。私が日本で検事になるのはそのための第一歩さ」

 

「法の外側にある構造を、管理下に置くだと……?それは検察官一人が背負うには、あまりに傲慢な野心じゃないか」

 

俺は彼女の言葉のスケールに、強烈な違和感を覚えていた。

 

「法を扱う者が法の外側の力に手を伸ばせば、それこそ正義が歪む原因になりかねない。俺たちは法の檻のなかで、そのルールに従って戦うからこそ正当性を主張できるんだ。外側の構造に干渉するなどそれは法律家の領域を超えている」

 

「歪まないさ。そのために、君のような男が必要なんだからね」

 

北見は不敵に笑い、席から立ち上がった。俺の肩を軽く叩いた。その手は驚くほど小さく華奢だったが、確かな重みと微かな熱が伴っていた。

 

「君が弁護士として既存の法規に背きたくなった時……あるいは形骸化した条文を捨ててでも、守りたい人間に取り憑かれたとき。その時は私が検察官として君を公訴してやる。君の魂を私が引き受けてやるよ」

 

その言葉はまるで未来の俺の運命を予見しているかのように、狂おしいほどの確信に満ちていた。彼女の背後にはこの世界の裏側に潜む闇が揺らめいているようだった。

 

「じゃあな。死ぬまで法を愛せよ、日車くん」

 

北見は最後にそう言い残した。

 

「……言われなくとも、俺は俺のやり方でこの国の司法に筋を通してみせる」

 

俺のその言葉を聞いたのか、聞かなかったのか。

彼女は今度こそ一度も振り返らずにラウンジを去っていった。俺は彼女に叩かれた肩にいつまでも消えない微かな熱を感じながら、秋の夕暮れの光の中に消えていくその背中をじっと見つめていた。ラウンジの喧騒が再び俺の耳に戻ってくる。だが俺の心は、彼女が残した言葉で満たされていた。

 

魂を引き受ける、か。

呪いのようであり、この上ない祝福のようでもあった。俺の胸の奥深くへと冷たく熱く突き刺さった。俺は重い足取りで自分の行くべき道へと歩き出した。

 

この9月の再会の後。二回試験の最終日に待ち受ける決定的な悪夢のことも、彼女が語った「法の外側にある構造」の本当の意味も。この時の俺はまだ何も知らなかった。

ただ夕闇が迫る空を見上げ、自分の信じる法のために、これから始まる後期修習の戦いへと静かに闘志を燃やすだけだった。

 

 

 

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